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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
 本神殿から王城までは、王族専用の隠し通路がある。他の貴族たちと違って、外に出なくとも王城へと移動が可能だ。その通路へと向かうためにイジドーラ王妃はディートリヒ王に手を取られ、ゆっくりと神殿の廊下を進んでいた。

「あら、ゲルハルトお兄様」

 向かう先にひとりの貴族が立っているのを認め、王妃は王の手を離れた。そのままその貴族の方へ歩み寄る。
 それを見とがめるような視線を王妃に向けた貴族は、王に向かって貴族の礼を取った。

「王におかれましては、ご健勝けんしょうでなによりでございます」
「よい、顔を上げよ」

 ディートリヒ王が静かな声で言うと、貴族は緊張した面持おももちで顔を上げた。彼はイジドーラの兄で、ザイデル公爵家の当主だ。

「ザイデル公爵、息災そくさいか?」
「はい、おかげさまで万事ばんじ平穏へいおんに……」
「まあ、ゲルハルトお兄様はあいかわらずおかたいこと」

 王妃がさえぎるように言うと、ザイデル公爵は「王妃殿下」と再びとがめるような視線を向けた。

「よい。積もる話もあるだろう。余は先に行っている」
「お心遣い感謝いたします、王」

 イジドーラが優雅に微笑み、ディートリヒ王は青のマントをひるがえして廊下の先に去っていった。

「……イジドーラ……言いたくはないが、もっと王をうやまうことはできんのか」
「まあ、これほどまでに敬愛けいあい申し上げておりますのに……お兄様の目は節穴ふしあなね」
「まったく、お前というやつは……」

 呆れかえったように言った後、ザイデル公爵は至極しごく真面目な顔になった。最近、耳に入ってくる妹の言動は、王の立場を傷つけるようなことばかりだ。最も、噂話は過大に誇張こちょうされているのだろうが。

「あのお方あってこその今の平穏へいおんだ。お前も……ザイデル家も……」
「もちろん心得ておりますわ。セレスティーヌ様と王に救っていただいたこの身ですもの。これまで通り、命をとして王にすべてをささげるつもりですわ」
「……分かっているならいい。あまり王を困らせるなよ」

 くぎを刺すように言うと、話はそれだけだとばかりにザイデル公爵は腰をかがめ、白いレースの長手袋をはめた王妃の手を取った。そっと持ち上げ、唇が触れない絶妙な距離を保って、うやうやしくその甲に口づけるふりをする。

「では、王妃殿下。これにて御前おんまえ失礼いたします」

 ザイデル公爵はきびすを返して、神殿に向かう方向へと去っていった。

「お兄様もわかっていないわね、王はわたくしに困らせられたいと思っておいでなのに。ねぇ、そうでしょう、ルイーズ?」

 後ろに控えていた古参の女官をちらりとみやる。

「恐れながら、わたしには判断いたしかねます」
ままを言う方もたいへんなのよ。でも、そうしないと王がねてしまうもの」

 口元に笑みをくと「行くわよ」とだけ言って王妃は廊下を進み始めた。その後ろを女官のルイーズが続き、数歩離れた距離を保ちながら護衛の女性騎士が後を追う。

 王族専用の隠し通路まであと少しというところで、イジドーラ王妃は眉をひそめた。ほんの一瞬、その歩調がゆるめられたが、すぐさま王妃は何事もなかったように前へと進んだ。

「イジドーラ王妃」

 だらしない体つきの禿げあがった神官が、イジドーラ王妃を呼び止めた。下品な笑いを口元に乗せ、王妃が足を止めて当然とばかりに、行く手を遮るように立ちはだかる。
 本人は優雅に礼を取っているつもりのようだが、大きな腹がその動きを完全に邪魔している。その手につけられた趣味の悪い腕輪が、じゃらじゃらと耳障みみざわりな音を立てた。

「先ほどの洗練せんれんされた儀式といい、ますますご健勝けんしょうのようですな」

 王妃の体を上から下までねめつけるように見る神官に、後ろに控えたルイーズの顔がしかめられる。それを軽く手で制すると、王妃は妖艶ようえんな笑みを口元に浮かべた。

「ミヒャエル司祭枢機卿しさいすうきけい……あなたも変わらずの様子、何よりね」
「ありがたきお言葉……このミヒャエル、感激のあまり涙が出そうです」

 下卑げびた笑いを乗せ、再び王妃の体をじろじろとぶしつけに見ている枢機卿すうきけいに、後ろにいた女性騎士が気色ばんだ。

「控えなさい」

 王妃は静かな声で言うと、司祭枢機卿は大きな体をゆすって勝ち誇ったようにわらい声をあげた。

「先日は、わたしの誕生を祝う会に出席してくださり、誠にありがとうございます。本来なら王太子殿下にご出席いただくはずだったところ、イジドーラ様みずから買って出ていただけたとか。美しいイジドーラ様に心から祝ってもらえるなど、光栄のきわみですな」
「重要な執務を王より任され、王太子は日々忙しい身。些細ささいな公務くらい、引き受けてやるのが親心というものでしょう?」

 イジドーラ王妃が涼しい顔でそう返すと、後ろに控えた女性騎士が、き出したのをごまかすような中途半端な息を漏らした。ミヒャエル司祭枢機卿は引きつった顔を赤くして、その女性騎士をにらみつける。

「さあ、王女が待っているわ。戻りましょう」

 そこをどけとあんににおわせるが、ミヒャエルは不遜ふそんな笑みをたたえ、無理矢理イジドーラ王妃の手を取った。

「美しきイジドーラ様に青龍のご加護があらんことを」

 そう言いながら王妃の手の甲に口づける。レースの手袋越しにかさついた唇を押し付け、周りに分からぬようにねっとりとその甲をめ上げる。

 執拗しつように長すぎる口づけに、後ろにいたルイーズが咳払せきばらいをする。手の甲への口づけは敬愛けいあい忠誠ちゅうせいのしるしだが、常識ある者なら実際に唇を触れさせたりはしない。女性騎士は司祭枢機卿を睨みつけながら、腰に下げたレイピアに手を伸ばして、威嚇いかくするようにきちりと剣のつばを鳴らした。

 それを感じたミヒャエルは、不承不承のていで王妃の手を離した。離す寸前に、王妃の手の甲を親指でで上げる。
 イジドーラ王妃は身じろぎもせずその行為を受けいれると、何事もなかったように真っ直ぐに前を見据みすえて歩き出した。女官と女性騎士たちもその後に続く。

 去っていく王妃の背を眺めながら、ミヒャエル司祭枢機卿は唇の片端かたはしだけを上げて鼻で笑う仕草しぐさをした。

「ふん、裏切り者の一族の小娘が」

 本来なら、あの娘は自分の物になるはずだったのだ。あの手袋に包まれた白い手も、白銀のドレスの下に隠された美しくなまめかしい体も。

(あの時、ディートリヒ王の横やりさえ入らなければ……)

 醜く顔をゆがませた後、ミヒャエルは不遜ふそんな笑みを漏らした。

「まあ、いい。涼しい顔をしていられるのも今のうちだ」

 そう、自分には本物の女神がついているのだから。

(青龍など、まがい物の神など比べ物にもならん)

 自分こそが王にふさわしいうつわなのだ。女神の存在は、そのあかしに他ならない。
「わたしが王になったあかつきには、慈悲じひで一度くらいは抱いてやってもいい」

 イジドーラを自分の下にき白い肌をあばいていく。そんな想像をめぐらせながら、薄ら笑いを浮かべたミヒャエルは、小さくなっていくイジドーラ王妃の背をいつまでも見送った。
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