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第4章 宿命の王女と身代わりの託宣

第9話 移ろいの兆し

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【前回のあらすじ】
 白の夜会出席のために、東宮から一度公爵家に帰されたリーゼロッテ。夜会の準備に忙しく、ジークヴァルトの顔を見る暇もありません。
 会いたいあまり夜のクローゼットから隣を伺っていたリーゼロッテは、そのままジークヴァルトの部屋へと招かれます。そこでアンネマリーがくれた菓子を食べると、それは洋酒入りのチョコで。
 瞬時に酔っぱらった無防備なリーゼロッテを前に、ジークヴァルトの理性は消し飛んでいき……。
エラの声掛けで寸止めに終わり、ジークヴァルトはひとり眠れぬ夜を過ごすのでした。






「それではハインリヒ様。まずは軽く目をつむり、ゆっくりと呼吸をなさってください」

 神官長の言葉に、ハインリヒはあぐらの姿勢で瞳を閉じた。

「ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く……吐く時間は吸う時よりも時間をかけて、細く、長く……そう、全身の力を抜いて、呼吸にだけ意識を向けてください……」

 神官長の声は耳に心地よい。眠りにつく一歩手前のような、そんな状態に引き込まれていく。

 ここはいのりのだ。この国の王は月に一度、この場で青龍に祈りを捧げるしきたりがある。王位を継いだ後に、ハインリヒもその儀式を受け継いでいく。そのための前準備として、瞑想めいそうの指導を受けていた。

(ミヒャエル司祭しさい枢機卿すうきけいは素直に自白を始めたか……)

 瞳を閉じた暗闇の中、カイから受けた報告が頭をよぎった。
 新年を祝う夜会で、ハインリヒとリーゼロッテの命を狙ったこと。この冬にフーゲンベルク家で起きた異形の騒ぎ。十三年前、さきの神官長を殺害したことも、それに伴い罪のない人間を多数あやめたことも、洗いざらいミヒャエルは自供しているとのことだった。

 ミヒャエルが捕まった今、危険は去ったはずだ。
(それなのにリーゼロッテ嬢に神託が降りた――)

 力を貸したという星を堕とす者については、ミヒャエルは曖昧あいまいな供述に終始している。あかけがれをまとった異形の狙いは一体何なのか。

(王城とフーゲンベルク家での騒ぎは、司祭枢機卿の意思で行われたことだ)
 だがグレーデン家とデルプフェルト家に星を堕とす者が現れたことを、ミヒャエルは何も知らなかったらしい。

(やはりくれないの異形が狙っているのは、リーゼロッテ嬢ということか……)

 彼女は今、東宮で保護されている。あそこは姉姫であるクリスティーナがいる場所だ。ハインリヒは行ったことはないが、青龍の加護に厚く守られた聖地だと聞いていた。

 ふとジークヴァルトの不機嫌顔が浮かんだ。リーゼロッテと引き離されて、登城してもここ最近は気もそぞろにしている。だが龍から降りた神託に逆らうことなど、王族であってもできはしない。もし自分がアンネマリーと会えなくなったら。そう思うとぞっとした。

「随分と雑念が混じっておいでのようですね。今日はここまでといたしましょう。そのまま深呼吸を三度みたびしてから目をお開けください」

 神官長の声にはっと我に返る。言われた通りに呼吸をし、ハインリヒはゆっくりと瞳を開いた。

「青龍の御許みもとに行くためには、深い瞑想に入る必要があります。余計な思考を抜かないと、その境地に辿たどり着くことは叶いません」
「ああ、次からは気をつけよう」

 いまだクリアになりきらない状態から醒めるために、ハインリヒは軽く頭を振った。

「何、歴代の王がみなこなされてきたこと。焦らず回を重ねてまいりましょう」

 祈りの間を出て執務室に戻る。王太子用のこの部屋も、いずれ引き払うことになるだろう。
 王位を継ぐ準備は、着実に進んでいる。自分の置かれる立場が否応いやおうなしに変わりつつあるのを、ハインリヒは肌で感じとっていた。

(大丈夫だ。わたしはもうひとりではない)

 重圧に押しつぶされそうになるとき、必ずアンネマリーの存在を近くに感じる。今まで通りやるべきことをやり続けるだけだ。それは王になろうとも変わることはない。

 今夜は王城で白の夜会が開かれる。それまで少しでも多く執務を片付けようと、ハインリヒは書類の山に集中した。

     ◇
(そろそろお嬢様を起こさないと……)

 もっと休ませてやりたかったが、夜会の準備も始めなくてはならない。ギリギリの時間まで待ってから、エラはやさしくリーゼロッテを揺り起こした。

「……エラ?」
「おはようございます、お嬢様。のどが渇いていらっしゃいますでしょう? どうぞこちらを」
「ありがとう、エラ」

 ぼんやりとした様子でリーゼロッテはグラスを受け取った。何口か水を含むと、少しだけはっきりした瞳で不思議そうにエラを見る。

「わたくし、昨日はいつ眠ったのかしら……?」
「夕べは公爵様がお嬢様をこちらへお運びになられました。アンネマリー様からいただいた菓子に、お酒が入っていたそうですね」
「そうよ! わたくし、ヴァルト様のお部屋に行って……! どうしよう、何も覚えていないわ……」

 頬を包み込みながら、リーゼロッテが涙目になった。

「お嬢様はすぐに眠ってしまわれたようですよ。公爵様も承知してくださっています。何も心配はございません」
「そう……粗相そそうをしていないならよかったわ」

 安堵したように笑顔を見せるリーゼロッテを前に、エラは複雑な心境だ。

 昨晩、リーゼロッテの夜着は、胸元まで開いていた。かなりきわどい場所にまでキスマークがいくつもつけられており、公爵に何をされたのかは聞かずとも分かるというものだ。
 首筋の見える場所に残されたあとは、うまくごまかさないとならないだろう。夜会で誰かに気づかれる訳にはいかないため、それも憂鬱ゆううつの種だった。

 もしあのとき、自分が声をかけなかったら。そう考えると今でも身が凍る。

(お嬢様がお酒を禁じられていることを、アンネマリー様はきちんとご存じのはずなのに……)

 いたずら心だったのかもしれないが、ひとつ間違えば大惨事になっていたかもしれない。

 酔ったリーゼロッテはとても無防備だ。誰かれなく抱き着いて、時に頬に口づけてくる。その姿は女のエラでさえメロメロになってしまうほど可愛らしくて、公爵にしてみれば好きに食べてくださいと言われたようなものだったろう。

 アルコールで記憶を失くし、目覚めたら純潔を奪われていた。そんなことが起きたら、リーゼロッテはどうなってしまうのか。

 男にとって、ああいった衝動を抑えることは難しいと聞く。自分の静止など退けられても、おかしくはない状況だった。

(でも初めからそのつもりでお嬢様を連れ込んだのなら、公爵様は部屋に鍵をかけていたはずだわ)

 開け放たれていた扉を見れば、酒が入っていたことを知らなかったという言葉は、嘘ではないと信じられた。危ないところではあったが、最終的にきちんと自制してくれた公爵に、今は感謝しかないエラだった。

「ジークヴァルト様にはきちんと謝らないといけないわね」
「お嬢様の寝顔が見られて、きっと公爵様もおよろこびですよ」

 エラの言葉にリーゼロッテは頬を染めた。こんな愛らしいリーゼロッテを前に、我慢を強いられている公爵に少しばかり同情心が湧いてくる。

(いやいや駄目よ。婚姻前に間違いが起きないようにと、旦那様に何度も言われているんだから)

 どのみちリーゼロッテは白の夜会が終わったら、再び東宮へと行くことが決まっている。今自分がすべきは、リーゼロッテのそばを離れないことだ。

(そのために、なんとしても準女官試験に合格しなくては……!)

 だが今日のところはリーゼロッテの夜会の準備が最優先だ。道中トラブルに見舞われることもあるため、余裕をもって出発しないとならなかった。

「お食事を済ませましたら、さっそくお支度に取りかかりましょう」
「ええ、いつもありがとう、エラ」

 そして夜会に出る一日が、慌ただしく幕を開けたのだった。

     ◇
「あの、ジークヴァルト様……」
「なんだ?」

 走り出してすぐ、リーゼロッテはおずおずと口を開いた。夜会ではずっと一緒にいられるとはいえ、ふたりきりの時間はこの馬車の中だけだ。

 ドレスがしわになるから、行きは抱っこしないでほしい。前にそう言ったからか、今日は膝に乗せられることはなかった。しかし並んで座る椅子の上、いつもより距離を開けられているように感じた。

(やっぱり夕べ、酔っぱらって何かやらかしたのかしら……?)

 エラに聞いてもやさしくかわされて、酔った時に自分がどんな言動をするのかはいつも教えてくれない。だが時間も時間だけにもう少し淑女の自覚を持てと、今回ばかりは叱られてしまった。

 ただ会いたい一心だったが、確かにジークヴァルトも昨夜は戸惑っていた様子だ。今もなんだかちょっぴりよそよそしい。やはり昨日、何か狼藉ろうぜきを働いたに違いない。
 ここは思い切って本人に聞くしかないと、意を決してジークヴァルトの顔を見上げた。

「夕べは申し訳ございませんでした。勝手に押しかけておいて眠ってしまうなんて……」
「いや、いい。問題ない」

 そう言いながらも、ジークヴァルトはすいと顔をそらした。これは何かをごまかしているサインだ。リーゼロッテは途端に涙目になった。

「やっぱりわたくし、酔って何か粗相を働いたのですね……! ヴァルト様、はっきりとおっしゃってくださいませ。わたくしは一体何をしでかしたのですか?」
「いや、別に何もしていない」
「そんなはずございませんわ。義父からも飲酒をきつく止められました。酔うとわたくしはどんな迷惑行為を働くと言うのでしょう。どうぞ本当のことを教えてくださいませ」

 にじり寄るとジークヴァルトはますます顔をそらした。

(そんなに言いづらいことなの!?)

 絶対にこの目を見ようとしないジークヴァルトを前に青ざめた。からざけでくだを巻く自分を想像する。万が一酒乱のDV女などになっていたら、ジークヴァルトも目のひとつもそらしたくなるだろう。
 これからずっと連れ添っていくふたりだ。先のことを思うと、この酒癖さけぐせの悪さをうやむやにしていいはずもない。

「わたくしがお酒を飲んだばかりに、ヴァルト様にとんだご迷惑を……」
「昨日はオレが菓子を食わせたんだ。お前が口にしたのは不可抗力だろう」
「ですが、酔って口に出せないようなことをしたのでしょう? わたくし、今後一切、ヴァルト様の前ではお酒は飲まないと誓いますわ」

 若干取り乱しながら言う。

「いや、むしろオレのいないところで飲むのをやめろ。飲むならオレとふたりきりのときだけだ」
「ですが……」

 泣きそうになって見上げると、ジークヴァルトはものすごく困ったような顔をしていた。

「……わかった。酔うとお前がどうなるのか、婚姻が果たされたら教えてやる。それまでは絶対に酒は口にするな。今はそれでいい」

 何がそれでいいのかよく分からなかったが、リーゼロッテは素直に頷いた。要は酒を飲まなければいいだけの話だ。

「怒ってはいらっしゃいませんか……?」
「怒る? お前に対して何を怒るというんだ?」
「だって夕べはヴァルト様にご迷惑を……」
「お前にされて腹が立つことなどあるわけないだろう」
「え? だってそんな」

 きっぱりと言われて、何と答えればいいのか分からなくなる。

「……そんな甘やかすようなこと、言わないでくださいませ」

 やっとの思いで小さく言うと、ジークヴァルトにふっと笑われた。なんだかちょっぴりくやしくなって、赤くなった頬のまま、唇を尖らせたリーゼロッテだった。

     ◇
 見上げるほど大きな二枚扉から、デビュタントが次々に登場する。緊張した顔で王に挨拶をする様を見やりながら、リーゼロッテは一年前に思いをせていた。

(わたしもフーゴお義父様とあの赤い絨毯じゅうたんの上を歩いたっけ)

 とにかく転ばないようにと、慎重に歩を進めたことを思い出す。自分もこの一年で随分と社交界になじめた気がする。それがなんだかくすぐったく思えて、初々しいデビュタントたちが余計に微笑ましく目に映った。

 白の夜会は社交界デビューを果たす者が主役の舞踏会だ。デビュタントは白を基調とした装いをするのが習わしで、そのため彼らは白の貴族と呼ばれている。白の貴族は父親や後見人と共に、王に成人の挨拶をしに行く。そこで初めて一人前の貴族として認められるのだ。

 王と王妃が並ぶ壇上は去年と同じだ。一年前はその後ろにハインリヒ王子がひとり立っていた。だが今年はその横にアンネマリーがいる。
 仲睦まじげに並び立つふたりを見つめ、リーゼロッテは瞳を潤ませた。悲しい結末に終わると思っていた恋は見事に成就し、今では夫婦となった王子とアンネマリーだ。

 信頼しあう姿を見るたびに、どうしても胸が熱くなってしまう。小さく鼻をすすると、ジークヴァルトが気づかわしげな視線を向けてきた。

「どうした?」
「いえ……ああしてふたりがしあわせそうにしているのが、わたくしうれしくて……」
「お前はいつでもひとのことばかりだな」

 軽く目を細められ、頬に熱が集まった。その表情はアンネマリーを見つめる王子のものとよく似ていて、それが自分に向けられていることに動揺してしまう。

「ヴァルト様だって、今の王子殿下のお姿を見て、本当によかったってお思いになりますでしょう?」
「ああ……そうだな」

 遠い壇上のふたりを見やり、ジークヴァルトは小さく言った。王子とジークヴァルトは子供のころから親しかったと聞いている。龍が決めた相手が見つからない王子の苦悩を、誰よりもそばで見てきたはずだ。

 感慨深そうな横顔を見上げ、ジークヴァルトの託宣の相手が自分だったことに奇跡を感じた。もし龍が選んだ人間が別の誰かだったなら、こんなにもジークヴァルトを好きになることもなかっただろう。

(こうやって隣にいることはおろか、ヴァルト様と知り合うことすらなかったかもしれない……)

 ジークヴァルトが自分以外の誰かを膝に乗せ、あーんをしているところを頭に描く。想像するだけで悲しくなってしまった。

「どうした?」
「あ、いえ、なんでもありませんわ」

 慌てて首を振ると、ジークヴァルトがそっと頬に触れてくる。見つめられ、途端に鼓動が跳ねあがった。

「リーゼロッテ」
「は、はいっ」
「我慢しなくていい。何かあったらちゃんと言ってくれ」
「ヴァルト様……」

 頬を染め瞳を潤ませる。じっと見つめ合い、そこはすっかりふたりだけの世界だ。

(わたし、本当にヴァルト様と両思いになったんだ……)

 今さらながら改めて思う。一年前は自分の気持ちにすら気づいていなかった。いつからジークヴァルトのことが好きだったのだろうか。自分のことなのに、曖昧でよくわからない。

 そうこうしているうちに、デビュタントたちによるファーストダンスが始まった。こなれたダンスを披露する者もいれば、パートナーのリードでなんとか踊っている者もいる。親子でちぐはぐな動きをしているのは、貴族になりたての男爵家の人間かもしれない。

 彼らにとって初めての、そして貴族としての始まりのダンスだ。何もかもが華やいで見えて、リーゼロッテの心は浮足立った。
 ファーストダンスが終わればフロアが開放される。今日もジークヴァルトと踊れるのだ。それがうれしくて仕方がない。

「ヴァルト様、今日もたくさん踊っていただけますか?」
「今夜は二曲だけだ」

 そっけなく言われて、不満顔になってしまう。王女の東宮でばっちりと足腰を鍛えてきたのだ。今なら本当に何曲でも踊れそうだ。

「わたくしなら大丈夫ですわ」
「これから夜会には何度でも出られる。今は無理をするな」

 明後日には再び東宮へと戻らないといけない。いたずらに体力を消耗するなと言いたいのだろう。急にさみしい気持ちになってしまった。一緒にいる今をたのしみたいのに、何だか水を差されてしまった感じだ。

「いくぞ」

 手を引かれダンスフロアへとエスコートされる。ジークヴァルトは長身でよく目立つ。多くの貴族がなだれ込んだフロアで、優先的に中央付近に通された。
 見つめ合い、最初のポジションを取る。そっと腰に回された大きな手にドキドキしてしまう。
 ジークヴァルトは自分のパートナーだ。このひとだけがいればいい。本当にこれからずっと共に歩んでいける。そう思うと満たされすぎて、胸から何かがあふれだしそうだ。

 軽快なワルツと共にステップを踏むと、スカートのすそがあとを追うようにふわりと舞った。今日のドレスはホルターネックの、少し大人びた深い青のドレスだ。

 今朝になって急にエラが、昨日決めたものとは違うドレスにしようと言ってきた。眠っている間に虫に刺されて、首筋の自分では見えない所が赤くれているらしかった。この寒い国で蚊に刺されるなど初めてのことだったので、ちょっと意外に思ったリーゼロッテだ。

(よく見たら胸元もいっぱい刺されていたし……確かにキスマークなんかと勘違いされたら恥ずかしい場所よね)

 幸いかゆくはないが、そんな口に出せないことを思ったのはエラにも内緒だ。

 曲も中盤にさしかかり、ジークヴァルトとの息もぴったりだ。最近は異形の者に意識を取られることもなく、余裕で踊ることができるようになった。力の制御もうまくなったものだと、我ながら感心してしまう。

「――……っ!」

 そんなことを思った矢先に、横に踊る紳士に悲鳴を上げそうになった。貞子さだこ紳士しんしだ。去年の白の夜会で見た、黒髪の女を肩にだれんと引っかけたあの紳士だ。

「大丈夫だ、問題ない」
「ですがあの方、昨年も……」

 一年前と同じように黒髪をひとふさ口にくわえ、異形の女は愛おしそうに紳士の顔をでさすっている。ダンスを踊る紳士はそれに気づいていない。もしかしたらずっとあんなふうに、日常をかれた状態で過ごしているのかもしれない。

「あれは異形ではない。生霊いきりょうだ」
「い、生霊!?」

 そっけなく言われて目を見張った。
(余計にたちが悪そうな気がするんですけど……!)

 動揺したまま曲が終わると、貞子紳士は貴族たちの波に埋もれて見えなくなってしまった。

 二曲続けて踊り、ダンスフロアを後にした。次は挨拶回りだ。と言ってもジークヴァルトはもっぱら挨拶される側なので、特に歩き回らなくても向こうから勝手に来てくれる。見知った者から誰だっけと思う者たちまで、次から次にやってきて、ジークヴァルトと会話をする暇もなかった。

 淑女の笑みを張りつけて黙って横に立っていると、ちょっとおどおどした感じの男が近づいてきた。

「あの……フーゲンベルク公爵様、先日は娘を茶会にお招き頂きまして、誠にありがとうございました」
「へリング子爵、招いたのは彼女だ」
「ダーミッシュ伯爵令嬢様、昨年の白の夜会で娘がご迷惑をおかけしたにもかかわらず、寛大なご対処をありがとうございました。ほら、クラーラもご挨拶しなさい」

 後ろに隠れるようにしていた令嬢が、同様におどおどと顔を出す。

「あ、あの、リリリーゼロッテ様、ごぶごぶご無沙汰しております」
「クラーラ様もお元気そうでなによりですわ」

 クラーラは昨年の白の夜会のファーストダンスで、見事に転んだ令嬢だ。クラーラは異形の者に憑かれやすい体質で、悪意ある異形が彼女を転ばせるところを、あの日リーゼロッテはばっちり目撃していた。

(よかった、クラーラ様にはもう異形の者は取り憑いていないみたい)

 贈った守り石が効いているのだろう。クラーラは異形が起こすさわりのせいで、近づくと不幸が移る令嬢などとしざまに言われているらしい。リーゼロッテを巻き込んでの転倒事故で、その噂に拍車がかかっているとエラが言っていた。

「お茶会にまで招いていただいて、わたし、じゃなかったわたくし、なんとお礼を言ったらよいか……」
「あの日クラーラ様はビョウをお持ちくださいましたでしょう? 冬に大好きなビョウをいただけて、わたくし本当にうれしかったですわ。あのあとパイにして美味しくいただかせて頂きました」

 へリング領はリンゴそっくりな果実、ビョウの産地で有名だ。季節外れのビョウは酸味が強くて、アップルパイにもってこいだった。

「我が領のビョウをそんなにもよろこんでいただけて光栄です。ちょうど今が旬ですので、もっといいものを近いうちにお届けに上がります」
「まあ、わたくし、なんだかへリング子爵様に催促してしまったみたい。お恥ずかしいですわ」

 和やかに笑いあって親密な関係をアピールする。公爵の婚約者である自分と親しいとあれば、クラーラの噂もそのうち、根も葉もないものとなるだろう。

(何気にわたしも社交界慣れしてきた感じね)

 いずれ公爵夫人となって、フーゲンベルクを切り盛りしていかなくてはならない。そんな大役をこなせるか不安だが、ジークヴァルトのパートナーとして横に並び立てることが誇らしかった。

 クラーラたちと別れ、控えの休憩室に向かう。人目を気にしなくてよい場所に来て、ほっと息をついた。

「疲れたか?」
「少しだけ。でもちょっと休めば大丈夫ですわ」

 できればまだ夜会の雰囲気を楽しんでいたかった。あわよくば後でまたジークヴァルトとダンスがしたいと思っていたリーゼロッテだ。

「あーん」
 ソファに座るなり目の前に差し出される。夜会では駄目だと言ったのに、思わず唇を尖らせた。

「なんだ? 誰も見ていないぞ?」

 遠慮するなとばかりに唇に押しつけられた。それにしても小腹がいたことが、なぜ分かったのだろうか。今差し出されているのは、菓子ではなくひと口大のオードブルだ。
 口をつけてしまった以上、もう食べるしかない。仕方なくぱくりとくわえたら、勢いでジークヴァルトの指先まで食べてしまった。その瞬間、びくっとジークヴァルトが手を引っ込めた。なんだか傷つくリアクションだ。

「んん?」
 口の中を広がった香草の風味に、小さく首をかしげた。食べ慣れないその香りは、なのにどこか懐かしい。

紫蘇しそとバジルとパクチーを足して三で割ったような味がするわ)

「また酒か……!?」
 珍しく動揺した声音のジークヴァルトが、同じものを自分の口に放り込んだ。確かめるように噛み砕いたかと思ったら、瞬時に微妙な顔になる。

(あ、コレ、駄目な人の表情だわ)

 この鼻に抜ける感じの香りは、確かに人によって好き嫌いが分かれそうだ。リーゼロッテ的にはクセになる味に思えたが、ジークヴァルトは苦手な部類なのだろう。

「変わった風味のするお料理ですわね」
「これはビンゲンだな。バルテン領の特産だ」

 聞きなれない食材に首をかしげる。グラスの水を、ジークヴァルトは一気にぐいとあおった。

「ヴァルト様は苦手でいらっしゃいますのね」
「食べられないわけではない」

 くすくす笑うと、ジークヴァルトはすいと顔をそらした。新たな一面を見られてうれしくなる。もっと知りたいと思うし、自分のことももっと知ってほしいと思った。

(受け身なだけじゃ駄目なのよね……ちゃんと思ったことを口にしないと)

 言葉に出さずとも、目と目で通じ合う関係には憧れる。だがどれだけ思い合っていようと、ふたりはやはり別々の人間だ。考えすぎて、すれ違ってしまったあの日々を思い出す。それを笑い話にするためにも、これからはきちんと思いを伝えていこう。

「あの、ヴァルト様」
「なんだ?」
「わたくしに言いたいことがあったら、ヴァルト様も隠さずきちんとおっしゃってくださいませね」

 先ほども我慢せずに言えとジークヴァルトに言われた。両思いになった今でも、ジークヴァルトが自分を頼ることはほとんどない。それはやはりさびしくて、そのことだけは知っていてほしかった。

「それなら今まで何度も言ってきただろう」
「え?」
「お前はお前のまま、そのままでいてくれればいい」

 大きな手で頬を包まれる。そっと唇をなぞられて、ぼっと全身が真っ赤になった。

 訴えるたびに幾度も返されたその言葉は、ずっと拒絶のしるしだと思っていた。だが今になって知る。それはありのままの自分を受け入れてくれている、ジークヴァルトの愛情表現だったのだと。

「……ですから、そのように甘やかさないでくださいませ」

 恥ずかしくなってうつむくと、あごをすくい上げられた。ゆっくりと近づいてくる顔に、ぎゅっと目をつぶる。

「フーゲンベルク公爵はここにおいでか?」

 突然扉が叩かれて、びくっと体が跳ねた。この声はキュプカー侯爵だ。ジークヴァルトが扉を開けると、キュプカーは近衛騎士の姿だった。今日は護衛として夜会に参加しているのだろう。

「こんな時にすまない。副隊長に少し確認したいことが」

 警護の関係で近衛騎士隊長として話があるようだ。ジークヴァルトは騎士団ではキュプカーの部下にあたる。眉間にしわを寄せつつも、ジークヴァルトはリーゼロッテを振り返った。

「すぐに戻る。鍵をかけたら誰が来ても絶対に開けるな」
「わかりましたわ。こんなこともあろうかと、今日はこちらも持ってきておりますので」

 忍ばせておいた香水瓶を取り出すと、リーゼロッテはそれをしゅっとひと吹きした。一気に部屋の中に清浄な空気が広がっていく。これはリーゼロッテの涙入りスプレーだ。薄めて振りまけば、異形の者がご機嫌になる謎アイテムだった。

「もちろん原液もありますわ」

 これがあれば大概の異形の者は浄化できる。どや顔で涙の小瓶を掲げたが、ジークヴァルトはいまだに不安顔だ。

「それでも絶対に開けるなよ」
「承知しておりますわ」

 笑顔で頷くとジークヴァルトは部屋を出ていった。すぐさま内鍵をひねる。わざと大きな音を立て、しっかり締めたことをアピールした。しかし外からノブが回され、きちんと鍵がかかっていることを確認されてしまった。

(ヴァルト様って本当に心配性よね……でもあんな神託が降りたんだもの。自分でもちゃんと注意しなくちゃ)

 クリスティーナ王女が言うには、新たに降りた神託は自分を守るためのものらしい。身の危険と言われて真っ先に思い浮かんだのは、くれないのしるしを持つ異形だった。

 グレーデン家の長い廊下。デルプフェルト家の夜会。突然目の前に現れたあの女は、星を堕とす者と呼ばれる禁忌きんきを犯した異形の者だ。
 龍の意思にそむき、その鉄槌てっついを受けた者。それが星を堕とす者だ。龍の烙印らくいんと呼ばれる紅玉のしるしを持ち、紅いけがれをまとっている。

(でもジョンも星を堕とす者だったわ……)

 いつも枯れ木の根元で泣いていたジョンは、繊細でとてもやさしい異形の者だった。愛するオクタヴィアを思うあまり、ジョンは罪を犯してしまった。それを禁忌の異形にしたのは、龍自身に他ならない。

 ジークヴァルトに再会してからというもの、いろんな場面で龍を意識するようになった。星を堕とす者だけではない。ハインリヒ王子にアンネマリー、アデライーデ、そしてジークヴァルトも。みなが龍に縛られているようで――

 守護神としてあがめられている存在が、この国に、そして多くの人間に、重く大きくのしかかっているように思えてならなかった。

(でも、龍の託宣がなかったら……)
 ジークヴァルトとこうして共にいることもなかったはずだ。

 手持ち無沙汰になって、知恵の輪を取り出した。暇つぶし用に持ってきたそれを、不安を振り払うかのようにリーゼロッテは一心不乱に動かした。夢中になってかちゃかちゃといじっていると、次第にごちゃごちゃした考えが消えていく。

 そんなとき、突然ドアノブがガチャリと回った。ジークヴァルトなら声をかけてくるはずだ。だが無言で回され続ける無機質な音に、緊張が走って身が固まった。

(入ってます、とか言った方がいいのかしら……?)
 しかしここはトイレの個室ではない。ジークヴァルトのために用意された専用の控室だ。

 ノブが回されるのは止まったが、今度はかちゃかちゃと小さな音がする。それはまるで泥棒が鍵穴に針金を差し込んでいるような、そんな不穏な音だった。

 次の瞬間扉が開かれ、いきなり背の高い令嬢がひとり飛び込んでくる。驚きのあまりリーゼロッテは、悲鳴を上げかけた。

「しっ、黙って!」

 口をふさがれ、もごもごと声が漏れる。音を立てず扉を閉めた令嬢は、警戒するようにすぐさま内鍵をかけた。扉の外の気配を伺う横顔に、リーゼロッテは思わず息を飲む。


(カイ様がどうして……!?)

 目の前に立つのは、美しく着飾った令嬢姿のカイだった――







【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。令嬢に扮したカイ様に驚きつつも、夜会でのたのしい時間はあっと言う間に過ぎて。すぐに東宮に連れていかれたわたしは、さびしい日々に逆戻りです。そんな中、ハインリヒ王子の王位継承はすぐそこにまで迫っていて……?
 次回4章第10話「龍の思惑おもわく」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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