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第5章 森の魔女と託宣の誓い

第9話 託宣の誓い

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【前回のあらすじ】
 ジークヴァルトとともにシネヴァの森に足を踏み入れたリーゼロッテ。その先で待っていたのは、森の番人を名乗る謎の青年シルヴィで。犬ぞりならぬ狼ぞりに乗せられて、雪道の中、魔女の元へと向かいます。
 高齢の巫女との対面に気負うリーゼロッテ。しかし現れた可愛らしい少女がシネヴァの森の魔女と知り、驚きを隠せません。
 ジークヴァルトが受けた神事は滞りなく終わり、王命で受けた託宣の神事を明日に控えるのみとなるのでした。





 最後にえりのラインを整えると、ラウラと名乗った女性はやさしげに目を細めた。

「とてもお似合いです、美酒の君様」

 最果ての街で三人がかりで着せられた衣裳を、ラウラは手際よく着つけてくれた。
 鏡に映った姿を見やる。唇にはべにが濃く引かれ、赤のアイラインが色鮮やかに目元を強調していた。いつもの自分より格段に大人びて見える。これから特別な舞台に上がるのだ。そう思うといたずらに緊張が高まった。

「では泉に向かいましょう。聖杯様は先にお待ちです。準備が整い次第、託宣の神事が執り行われる段取りとなっております」
「神事ではどんなことをするのかしら? わたくし何も知らなくて」
「その時々で内容は変わると聞いております。どうぞシンシア様のご指示通りに」
「そう……」

 不安げに瞳を伏せると、ラウラは膝をついてリーゼロッテの片手を取った。

「待ちに待った神事でございましょう? 聖杯様もご一緒です。どうぞご安心しておのぞみください」
「そうね。ありがとう、ラウラ」

 笑みを返すと、今度はラウラが真剣な面持おももちで見つめ返してくる。

「最後にひとつだけ大事なことをお伝えしておきます。神事が終わったあと、蜜月の館に入るまでは、はごろもの結びひとつ、決して聖杯様にほどかせないようお気をつけください」
「ジークヴァルト様に、はごろもの結びを……?」
「ええ、そうです」

 神妙に頷いたラウラに、こてんと首を傾けた。ジークヴァルトがそんなことをしてくるとは思えない。だが念のために問うてみた。

「それは狼主おおかみぬしに食べられてしまうから?」
「ありていに言えばそういうことです。前回は聖杯様の我慢がきかず、少々面倒なことになったものですから……」
「前回の聖杯様?」

 シルヴィの話ではそれはイグナーツのはずだ。自分たちと同じように、十八年前父母も神事を受けに来たらしかった。

「そのときは、その、誰も食べられたりはしなかったの?」
「はい、幸い。美酒の君様がたいへん果敢かかんな方でいらっしゃいましたので」
「まあ、母様が……?」

 父イグナーツではなく、母親のマルグリットが狼と戦ったという事だろうか。どのみちふたりが食べられてしまっていたら、自分がこの世に生まれることはなかったはずだ。

「とにかくそのことだけはお気をつけください。もうお時間です。参りましょう」

 ラウラに手を引かれ、リーゼロッテはジークヴァルトの待つ泉へと向かった。

     ◇
 ラウラのあとに続いて、雪のけられた石畳をゆっくり進む。着せられた衣裳の緑が光沢を放ち、動きとともに微細に変化していく。かさばる衣裳に気を使ってか、それは緩慢とも思える足取りだった。

(なんだか異形に転ばされていた頃のようね)

 ジークヴァルトと再会するまでは、異形の者などひとつも視えなかった。その存在すらも知らなくて、どんなに気をつけても日々転びまくる自分は、ドジっ子属性だなどと思っていたくらいだ。
 そんな中でも厳しいマナー教師の夫人のおかげで、随分と転ぶ回数が減ったことを思い出す。

「アルブレヒツベルガー夫人……」

 もしかしたらロッテンマイヤーさんは、異形の者が視えていたのではないだろうか? そんな考えがふと浮かんだ。

「その方がどうかされたのですか?」
「いえ、少し知り合いの方を思い出していただけで」

 うっかり口に出していたことに驚いて、リーゼロッテは慌てて首を振った。

「アルブレヒツベルガーというと侯爵家の方ですね」
「え? 夫人は侯爵家の方だったの……? 幼いころにお世話になったから、わたくし詳しいことは覚えてなくて。ラウラは貴族のことをよく知っているのね」
「以前、託宣の神事でその血筋の方がいらしたことがございましたから」
「神事をこなしてきた方って意外と多いのね」
「昔はもっと頻繁に執り行われていたと聞きました。さあ、泉まではもうすぐです。傾斜がきつくなっておりますので、お足元には十分お気をつけください」

 下り坂をしばらく行くと、雪山の間が一気に開けた。湾曲した湖畔こはんの先にたたえられた大きな湖。その奥に広がっているのは、果てしなく続く森の影だ。

 石畳が途切れ、小粒の白い砂利の上を進んだ。先で待つジークヴァルトがこちらを振り返る。
 ラウラが道を譲るように脇へとそれた。リーゼロッテはそのまま真っすぐと、青い衣装を纏うジークヴァルトを目指していった。

 まだ届かない距離から、ジークヴァルトが手を差し伸べてくる。顔を見て、緊張が和らぐのが自分でも分かった。く気を押さえて慎重に進み、ようやくその元へとたどり着く。

 手を取られたまま、湖に向けて並び立った。風もない湖面が、雪の森を鏡のように映している。逆さに映った木々はグラデーションを描き、目を凝らしても水面と森の境目はよく分からない。

 湖のほとりから細い桟橋がまっすぐに伸びている。橋の根元にいたシンシアが、確認するようにこちらを振り向いた。

「では始めるわ」

 その言葉に頷いた。いよいよ神事が始まるのだ。王からめいを受けた重要な責務に、リーゼロッテの胸は緊張で高鳴った。

 シンシアが湖に向き直ると、白いローブの両手を広げ、ひと呼吸ののち開始の祝詞のりとが告げられる。

「泉に眠りし青龍の御霊みたまよ。いにしえより引き継ぎし宿世すくせの鈴を鳴らす。シネヴァの守人もりびとたる我が言霊ことだまを聞け」

 りぃいん……と涼やかな音が、どこからともなく耳に届いた。近づいては遠のく鈴のは、風に乗るように出所がつかめない。

 途切れることのない音を背に、シンシアは桟橋を渡って湖の中ほどへと歩いていった。橋の先端は水面みなもへと沈んでいて、その水際みずぎわでシンシアは歩みを止める。

「神聖なる我が名において、ザスとメアの契りのゆるしを今ここにこいねがう」

 シンシアは舞うようにさらに一歩を踏み出した。触れた素足の指先が、鏡の湖面に丸い波紋を広げていく。極寒の湖にいくつも波紋を落としながら、シンシアは沈むことなく水上を進んだ。重なる波紋はやがてさざ波となって、まばゆい光を放ち出す。

「綺麗……」

 おとぎ話の世界に迷いこんだ気分だ。幻想的な光景を前に、リーゼロッテはただ目を奪われた。

 水上にひとり立つシンシアを中心に、湖全体が光に飲まれていく。輝きが増していく中、指を重ね合わせた両手をかかげ、天に向かって言葉を紡ぐ。

断鎖だんさを背負う青き者、たてけがれをはらう者、いつか果たすベき託宣のあかしを、改めてここに書き記す。この歌声が届いたならば、そのしるし、青龍の血潮ちしおを我が手の中に分け与えよ」

 広げた腕の手首を大きく返す。その瞬間、左右の湖面がうずを作った。中心を沈ませながら、急激に水は捻じれを増していく。振り下ろされた手の動きと連動するように、ふたつの渦から光る何かが飛び出した。

 またたく星のごとく光を放つそのふた粒は、導かれるようにやがてシンシアの手の内に落ちてくる。握り込まれたその刹那、星は輝きを失った。それと同時に渦巻く水面みなもも、緩徐に勢いを弱めていく。

 桟橋を渡りシンシアはふたりの待つ湖畔へと戻ってきた。背にする湖は、再び沈黙の鏡となっている。

「青龍のゆるしをここに示す。ふたりとも手をお出しなさい」

 右手を差し出したジークヴァルトにならって、リーゼロッテもシンシアに向けて手を差し伸べた。握っていた何かを、シンシアはそれぞれの手のひらに手落としてくる。
 託されたのはひと粒の小さな石だった。くすんだ石を見つめ、リーゼロッテは次の指示を待つ。

「そこに力を籠めなさい」

 そう言われ、これは守り石なのだとようやく気がついた。軽く握り込んだ手の中で、ジークヴァルトの石はすでに青く輝いている。慌ててリーゼロッテも両手で石を包み込んだ。慎重に、緑の力を流し込む。
 そっと開いた手の中で、美しく緑をたたえた石が顔を覗かせた。ほっとするのも束の間、シンシアの声が意識を戻す。

「それを互いの耳にあて、今から言う文言もんごんを復唱なさい」

 戸惑いながら見上げると、ジークヴァルトは手にした石を耳元に近づけてきた。リーゼロッテも腕を伸ばし、向かい合わせでジークヴァルトの耳へと石をかかげ持つ。

「青龍よ、我が言霊を聞け」
「「青龍よ、我が言霊を聞け」」

 見つめ合ったまま、シンシアの言葉を同時に復唱していく。

「ザスとメアの、託宣の誓いの言霊を紡ぐ」
「「ザスとメアの、託宣の誓いの言霊を紡ぐ」」

「約束の定めし時を刻み」
「「約束の定めし時を刻み」」

「今ここに、あかしを確かに示さん」
「「今ここに、証を確かに示さん」」

 その瞬間、手にした守り石が強い光を放った。同時に耳たぶに小さく痛みが走る。

「あ……」

 握っていたはずの石が、ジークヴァルトの耳でピアスのように輝いていた。自分の耳たぶにも、青の波動を強く感じる。ジークヴァルトの手が空っぽなのを見て、耳にあるだろう石を無意識に指で確かめた。

 その耳にジークヴァルトが指を伸ばしてくる。耳朶じだに触れられ、さらに青の波動が強まった。見つめ合い、リーゼロッテもジークヴァルトの耳へと手を伸ばす。

 自分の耳にジークヴァルトの青が輝き、ジークヴァルトの耳に自分の緑が輝いている。まるで誓いの指輪の交換のようだ。リーゼロッテの心の奥が、ジークヴァルトへの思いで満ち溢れる。

「無事に受け入れられたようね」

 はっと意識を戻す。神事のまっ最中に、ふたりの世界に浸ってしまっていた。慌ててジークヴァルトから手を引っ込めて、リーゼロッテは羞恥で顔を赤らめた。

「神事は以上よ。あとはふたりで好きになさい」

 シンシアの目配せで、遠くにいたラウラが近寄ってきた。

「あの道を行けば館へとたどり着きます。わたしはひと足先に行って待っておりますので、お気をつけてお越しください」

 頷いて、リーゼロッテはシンシアに向けて礼を取った。ジークヴァルトに連れられて、湖のほとりをあとにする。

「シンシア様、久方ぶりの神事でお疲れでしょう。満月期とはいえ、狼主が来たら厄介です。お早めにお戻りになった方がよろしいかと」
「そうするわ。明日からはまた吹雪きそうね。ラウラ、しばらくはあのふたりのこと、よろしく頼むわ」
「お任せください。とはいえ、託宣のつがい様たちです。わたしの出番はそう多くないでしょう」
「ほどほどに任せるわ」

 ラウラが去っていくと、シンシアは静かに湖畔に視線を向けた。神事を終えたばかりのこの場所は、青龍の気配に満ちている。

「盾のつがいに星読みの末裔を選び取るなんて……それほどまで龍の血脈は、血が薄くなっているということね……」
「自分に呪いを背負わせた国を、いまだ憂いているんですか? シンシアも人がいいですね」

 音もなく現れたシルヴィを、シンシアは一瞬だけ見やった。何も聞こえなかったように、すぐに背を向ける。

「待っていてください。いつか必ず、シンシアを自由にしてあげますから」
「必要ないわ」

 冷たく言って、シンシアは歩き出した。

「さて、次に声が聞けるのはいつになるでしょうね」

 その背中を見送って、残されたシルヴィはひとりたのしげに笑みをつくった。

     ◇
 ラウラに言われた小路を進む。来た石畳とは違う方向だ。それでもジークヴァルトといれば不安はなかった。無事に神事を終えた安堵もあって、足取りはとても軽やかだ。

「夢のような光景でしたわね。神事があんなにも美しいものだったなんて」
「そうだな」

 あの幻想的な神事の様子は、一生忘れられないと思う。一部とはいえ自分も役割をになったのだ。今も互いの耳に輝く守り石に、なんだかくすぐったい気持ちになった。

「ザスとメアの託宣の誓い……もしかして、ザスとはヴァルト様のミドルネームなのですか?」
「ああ。龍から託宣を受けた者は、みな託宣名を持っている」
「託宣名……そうだったのですね」

 貴族ならば全員が、ミドルネームを持つものだと思っていた。小さいころに自分のミドルネームはメアだとリーゼロッテは教わった。それは誰彼なく知られてはいけない大切なものだと、そう教えてくれたのは誰だったろうか。

 ふと視線を感じて笑顔を返す。せっかくジークヴァルトとふたりきりなのだ。束の間のこの時間を、もっと有効に過ごさなくては。

「ジークヴァルト様のお供とは言え、神事にたずさわれてわたくし本当にうれしいです」
「そうか」
「王命を受けなければ、こうしてヴァルト様と旅に出ることもなかったでしょうから、ハインリヒ王には本当に感謝ですわ」

 弾んだ声で見上げると、ジークヴァルトはちょっとむっとした顔をした。移動中、ジークヴァルトはずっと書類仕事を続けていた。やはり自分は旅のお荷物となっているのかもしれない。

「ヴァルト様……帰りの道中はお仕事の邪魔をしないよう、わたくし気をつけますわ」
「そんなことを気にする必要はない」
「ですがわたくしのせいで、気が散ってしまいますでしょう?」

 心配性のジークヴァルトは、いつだって自分を最優先にしてくれる。大切にしてくれるのはうれしいが、寄りかかり切りなのは頂けない。

「いい。帰りは執務をするつもりはない。余計な気は回すな」
「でも大丈夫なのですか?」
「ああ、急ぎの仕事などそうはないからな」

 その割に今までの道中の仕事ぶりは、精力的だったように思う。だが帰りは旅を楽しむ気でいるのだ。神事を無事にこなした今、ジークヴァルトも重圧から解放されたのかもしれない。
 そう思うとリーゼロッテの心は大きく弾んだ。今度こそ、ふたりで旅を満喫できるのだ。

 小路を行く中、木々の向こう、遠くに屋根が見えてくる。時間を気にせずゆったり歩いているせいか、なかなか建物に近づかない。ふと歩く両脇に積もる新雪が目が入った。

「ヴァルト様……わたくし、昔からやってみたいことがありましたの」

 足を止め、ふんわりとした雪の絨毯じゅうたんをしげしげと見やる。ジークヴァルトの手を離れ、リーゼロッテはその新雪の上に、背中から勢いよくダイブした。

「何のつもりだ」

 驚いたジークヴァルトが寸でのところで抱きとめる。踏み込んだふたり分の足跡で、美しい雪化粧は台無しとなっていた。

「もう、ヴァルト様。手を出したらいけませんわ」

 ぷくと頬を膨らませ、リーゼロッテは新たによさげな新雪の場所まで移動する。

「大丈夫ですから、そのまま見ていてくださいませ」

 リーゼロッテは雪の布団の上に、再びえいっと大の字で背を沈ませた。今度はうまくいったようだ。満足げな顔のまま広げた両の手と足を、何度も大きくスライドさせていく。
 手足の雪がかき分けられると、リーゼロッテはゆっくりと身を起こした。つけた跡を乱さないように、そうっと慎重に立ち上がる。

 ジークヴァルトに手を取られ、リーゼロッテはぴょんと雪の中から脱出した。振り返ると綺麗に人型ができている。リーゼロッテひとり分の大きさだ。

「ふふふ、雪の妖精ですわ。子どものころから、ずっとやってみたかったんですの」

 どや顔でジークヴァルトを見やるも、困惑顔で反応はいまいちだ。いたずら心が湧いてきて、リーゼロッテは大きな手を引っ張っていく。少し離れた新雪の前で、ジークヴァルトを向かい合わせで立ち止まらせる。

「ヴァルト様もやってみてくださいませ」

 背伸びをして軽く両肩を押す。なんの抵抗もなくジークヴァルトは、雪の絨毯に真っすぐぼすんと倒れていった。

「そのまま手と足をこうですわ」

 広げた手をばたばたして見せて、動かすように促した。言われるがままジークヴァルトは、長い手足で雪をかき分けていく。

「そうしたら起き上がってくださいませ。あっ、つけた跡を崩してはいけませんわよ。そうっと、そうっとですわ」

 前のめりに指示を出す。リーゼロッテの指令通りに、ジークヴァルトはうまいこと雪から立ち上がった。

 リーゼロッテが作った妖精の横に、大きな妖精ができ上がる。雪男のような跡を見て、おかしくて思わず吹き出した。並ぶふたりの妖精は、まるで仲良く手をつないでいるようだ。

「ヴァルト様は随分とのっぽの妖精ですわね」
「ああ」

 やさしい手つきで髪の雪をはらわれて、リーゼロッテははっと我に返った。ジークヴァルトも雪まみれになっている。とても淑女の行いでないことに、今さらながらに気がついた。

「わたくしったら、子どもみたいにはしゃいでしまって……」
「問題ない。お前がたのしければそれでいい」

 慈しむように言われ、ぼっと頬が赤く染まった。口下手な癖に物言いはいつもストレートだ。不意打ちをくらってばかりのリーゼロッテは、動揺を悟られないように熱い頬を手のひらで覆った。

「このままでは風邪を引く」

 言うなり子供抱きに抱え上げられる。無言のまま進むジークヴァルトの腕の中、リーゼロッテはおとなしくしあわせを噛みしめた。

     ◇
「ではごゆっくり」

 湯あみの世話をすると、ラウラは建物を出ていった。向こうの部屋でジークヴァルトが待っている。そう言われ、ウキウキ顔で廊下を進む。
 扉を開けると、大きな暖炉が目に飛び込んできた。窓の外は雪が降り始め、窓ガラスに水滴が落ちている。

 ジークヴァルトは何をするでもなく待っていた。こういうときは大概書類に目を通しているのに。不思議に思いつつ、待たせただろうとリーゼロッテは謝罪の言葉を口にした。

「お待たせして申し訳ございません」
「いい。問題ない」

 そっけなく返されて、膝の上に乗せられる。目の前のテーブルには、ひと口サイズの料理やデザートが所狭しと並べられていた。

「腹は減ってないか?」
「そうですわね……」

 美味しそうな食事を前にして、急にお腹が空いてきた。神事を終えた解放感からか、今ならたくさん食べられそうだ。視線をさまよわせていると、ジークヴァルトが料理をひとつ差し出してくる。
 あーんとされて、迷いなくそれを口にした。ちょうど食べたいかもと思ったオードブルだ。もくもくと頬張る間に、並んだ料理に目を落とす。

 飲み込んで落ち着いたタイミングで、別の料理が差し出された。今度もあれがいいと思った一品だ。そんなことが三度四度と続いていく。
 ジークヴァルトはどれだけ自分をよく観察しているのだろうか。それをまざまざと見せつけられて、感激を通りこして半ば呆れてしまった。

(そろそろお腹いっぱいかも……)

 そうなったところで、ジークヴァルトの手も止まる。実は心の中を読まれているのでは。そう思うほどの絶妙な対応ぶりだ。

「満足したか?」
「はい、とっても美味しかったですわ。ヴァルト様はお食べにならないのですか?」
「オレはいい。先ほど適当に済ませておいた」

 やはり長い時間待たせていたのだろうか。食事を終えてしばしの間、部屋の中に沈黙がおりる。いつもなら髪のひとつも梳かれているところだ。どことなくジークヴァルトがよそよそしく感じて、リーゼロッテはこてんと首を傾けた。

(なんだかヴァルト様、緊張してる……?)

 きつく引き結ばれた唇に、刻まれた眉間のしわもいつも以上に深かった。自分を膝に抱えた状態で、ジークヴァルトは暖炉の中の揺れる炎を見つめている。まきぜる音だけが響く中、リーゼロッテは場がなごむ話題を探そうとした。

「あ……」
「どうした?」
「いえ、何でもありませんわ」

 ふとフルーツ盛りの中に、季節外れのビョウを見つけた。ビョウはリンゴそっくりの赤い果実だ。神殿でかじった、固くて酸っぱいビョウが思い出された。今となっては苦い思い出だが、あのビョウがこの命をつないでくれたのもまた事実だった。

「いちビョウあれば怪我知らず、三ビョウあれば風邪知らず、十ビョウあれば寿命が延びる……」

 市井しせいで唄われるわらべ歌を、なんとはなしに口ずさんだ。ふっと視界に大きな手が入りこむと、頬包まれジークヴァルトへと顔を向けさせられた。

 青い瞳と見つめ合ったまま、長い指が頬を滑っていく。顎下まで降りてきた指先は、そこで一度動きを止めた。
 くいとあごをすくわれて、少しだけ顔を上向かされる。伏し目がちのジークヴァルトの顔が、傾けられながらゆっくりと近づいてきた。

(あれ……? キス、されるのかな……?)

 瞳を閉じて、間を置かずやわらかいものが唇に触れた。すぐに離れたのを感じとって、そっとまぶたを開けてみる。

「――……っ!」

 まだ目の前にあったジークヴァルトの顔に驚くも、うなじに回った手で逃げられない。目を見開いたまま今度は性急に口づけられた。ピントのぼやけた青い瞳に、慌てて再び目をつむる。

 ちゅっちゅと何度もついばまれ、力が抜けるのに時間はかからなかった。体も思考も何もかもが、甘い熱にゆっくりと溶かされていく。跳ねた心臓だけは裏腹で、いつまでも鳴りやまない鼓動が耳についた。

(これが何度目のキスかしら……)

 ぼんやりと今までの口づけを数えてみる。初夏の夜会での初めてのキス。執務室で交わした机越しの熱い口づけ。東宮でのキスも唐突だった。囚われの神殿では、幾度口づけただろうか。

(唇が離れないままのキスは、何回でカウントするのかな……)

 世の恋人たちはどうしているのだろう。そんな考えも、やがては思考の奥底へと沈んでいった。

 いつもリーゼロッテが目を回してしまうからだろうか。今日の口づけは手加減をされながら、段階を追っていくように感じられた。

「んっふ……ん」

 鼻から抜ける声が恥ずかしくて、逃げようとする顔を包まれる。

(これ、いつまで続くんだろう)

 いつまでも終わりを見せない口づけに、そんな疑問が湧いてくる。ふわふわとしたまま延々と口づけられて、ジークヴァルトは一向にキスをやめようとしない。

(こんなとき、いつもどうやって終わってたっけ……)

 公爵家の執務室での光景が浮かんでくる。口づけられて目を回す自分。騒ぎ出す異形の者に、ひっくり返る部屋の中。そこに血相を変えたマテアスが、叫びながら止めに入るのがいつものことだ。

(ここ、異形、いない! マテアスも、いない……!)

 外はしんしんと雪が降っていて、まきぜる音が時折響く。そんな静かな室内に、漏れる吐息とリップ音が、いくつもいくつも重ねられていく。

 だんだんと疲れてきて、吸われ続ける唇もこのままでは腫れあがりそうな勢いだ。息も絶え絶え伺うようにまぶたを開く。熱のこもった瞳でジークヴァルトが、自分の顔をじっと見つめていた。

 目が合った瞬間、口づけがさらに深められる。肩を押すようにシャツをつかみとるも、弱い抵抗にすらならなかった。

「ぁふっあ……」

 口をつく声に、気を回すこともままならない。意識を保てなくなってきて、この調子だと気絶コース一直線だ。そんなことを思ったときに、頬を包んでいた手が、ゆっくりと下に滑り落ちていった。

「んんんっ!?」
(ヴァルト様に胸を……!)

 突然のことに、一気に意識が覚醒した。薄い夜着の上、大きな手が触れている。どう考えても、偶然当たってしまいましたという触れ方ではなかった。強い意思を持って揉んでいる。そんな迷いのなさが、指の動きから伝わってきた。

「んむぅっ! んっ、うんんっ!」

 塞がれたままの口からは声を出すこともできなくて、咄嗟にジークヴァルトの手を掴み取った。やめさせるように手を重ねるも、怪しい動きは止まらない。

(何? 今から? 今からなの……?)

 半ばパニック状態で、リーゼロッテは必死に首を振った。この胸は、悲しいかなAカップだ。だがもっと高みをめざせる、ポテンシャルある胸なのだ。
 現状、東宮で得たプロポーションにはほど遠い。いずれ迎える夫婦生活のために、旅から帰ったらバストアップに励むのだ。それをなぜ今、ジークヴァルトに揉まれているのか。

(こんなときは、そう、プレゼンよ……!)

 今までの経験上、理屈さえ通っていれば、ちょっとしたことならジークヴァルトは無理強いしてこない。小胸がバレてしまう前に、なんとしても阻止しなければ。

 いやいやとするうちに、ジークヴァルトの唇からなんとか逃れた。また塞がれないようにと、顔を背けて最大限横を向く。
 差し出された首筋に、ついばむような口づけが落ちてくる。

(プレゼン、プレゼンよ……!)

 ぐるぐる回る思考の中、説得できそうな言葉を死に物狂いで探しあてた。

「ヴァルト様……こういったことは婚姻を果たしてからでないと」

 そうだ、きちんと籍を入れるまでは、貴族として節度を保つべきだ。ぐうの音も出ないであろう言葉を提示して、胸を揉まれながらもリーゼロッテは勝利を確信した。
 しかしジークヴァルトの動きは止まらなかった。耳元に熱い吐息を落としてくる。

「誓いならば先ほど泉で果たしただろう。問題ない。オレたちは正式に夫婦となった」
「え……?」

 言われた意味を理解できなくて、リーゼロッテは一瞬抵抗を忘れた。

「ででで、ですが! 神殿で神官様に、きちんと許可をいただかないとならないですし!」

 アンネマリーのおごそかな結婚式を思い出して、これならどうだと必死に訴えた。

「そんなもの、欲深い神官どもが勝手に定めたことだ。問題ない。ついの託宣を受けた者の婚姻は、泉での神事が真のあかしだ」
「ですがわたくし、心の準備が……っ!」

 回避するすべがなくなったことを知り、真っ白な頭でリーゼロッテは大きく叫んだ。その瞬間、ジークヴァルトの動きがぴたりと止まる。

「……そうか」

 静かに言って、のしかかっていた身を起こす。触れていた手も、あっさり引き上げられた。

(た、助かった……)

 放心状態で体を起こした。そんなリーゼロッテに、ジークヴァルトがぐいと顔を近づけてきた。

「ならば十ビョウやる」
「十ビョウ……?」

 そう言われて頭に浮かんだのは、十個の赤いリンゴだった。いちビョウあれば怪我知らず、三ビョウあれば風邪知らず、十ビョウあれば寿命が延びる。次いでわらべ歌が脳内に流れ出す。

「ひゃっ」

 いきなり膝をすくい上げられて、横抱きに抱え上げられた。高くなった視界に驚いて、ジークヴァルトの首にしがみつく。
 大股でジークヴァルトは、隣室に足を踏み入れた。明かりのない真っ暗な部屋の中、リーゼロッテはゆっくりと仰向けのまま降ろされる。

 頭にあたったやわらかな感触に、それが枕なのだと理解する。少し慣れてきた目で見まわすと、リーゼロッテが五人は眠れそうな、大きな寝台の上にいることが分かった。

 スプリングがぎしりと鳴って、横たわった体が右に左に順に沈んだ。真正面を見上げると、自分をまたぐようにジークヴァルトが膝立ちをしている。

 そのジークヴァルトは、上着を首から抜き取るところだった。手にした服を無造作に放り投げると、遠くで布が落ちる音がした。
 隣の部屋の明かりが、ジークヴァルトの裸の上半身を照らしている。横から射す頼りない光だけが、均整の取れた筋肉の凹凸おうとつを浮かび上がらせた。

 初めて見るジークヴァルトの裸体に、視線は釘付けとなった。鳩尾みぞおちにある龍のあざが目にとまり、次いで肩口の傷の引きつれが目に入る。

 状況が把握できなくて、リーゼロッテはひじをついて身を起こそうとした。そこを肩を押されて、枕へと頭が再び沈む。
 馬乗りになったジークヴァルトが、ぐいと顔を近づけてきた。青い瞳がリーゼロッテを捉えたまま、口元に魔王の笑みを刻みこむ。

「十秒経ったぞ。覚悟はいいな?」

 そう言ってジークヴァルトは、リーゼロッテに噛みつくようなキスをした。


(って、十秒って短すぎます、ヴァルト様……!)

 脳内の叫びは、熱い吐息に飲み込まれていき――


 その夜、ジークヴァルトとリーゼロッテは、名実ともに夫婦となった。









【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。超特急でジークヴァルト様と夫婦になってしまったわたし。恥ずかしさのあまり顔を合わせづらいと思うわたしと違って、ジークヴァルト様は意外といつも通りの反応で……?
 次回、5章第10話「とこしえの蜜月」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!! 


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