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心音
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指先まで冷たい。
私を見下ろす視線は、まるで洗剤の原液みたいにどろどろでぬるぬるしてる。
「やめ、っ」
「バカな瀬奈。本当に君を愛してるのはオレなのに──オレはずっと君を見守ってきたのに。ずっと、ずっと」
先輩の唇がひくついて、歪な形を描く。
「あいつに言われたから──やり方を反省したんだ」
先輩はベラベラと言葉を紡いでいく。
「最初から同じ場所に住んでいれば、君の近くにいても不審がられないだろ?」
茫然と、言葉を繰り返す。
心臓がすうっと冷えていく──
「最初から──同じ、場所?」
「以前の君のマンションにも、オレは住んでいたんだよ。そうして見守っていたのに。君がオレからの愛に気がつくまで、ゆっくりと見守るつもりだったのに」
ぽた、と一筋、汗が落ちてくる。
ぼたぽたぽた、と落ちてくる。
先輩の瞳は、異様に爛々としていて──
「や、やだ」
私はゆるゆると首を振る。
「たすけて、楢村くん、たすけて、たすけて」
ここにいない彼に、必死で叫ぶ。
助けはどこにも届かない。分かっているのに、叫ぶのをやめられない。
しんとしたフロアに、響く私の声。
内廊下の真新しい絨毯に、吸い込まれて消えていく。
「たすけて、楢村くん、楢村くん──!」
先輩の手が、私の口を覆う。
「うるさい、なんで泣くんだ瀬奈、オレを受け入れてくれよ、あいつの名前を呼ぶな!」
先輩の手を噛んだ。
くぐもるような声のあとに、鋭い視線を感じる。
獣じみた、なんて言ってるかわからない咆哮を繰り返して、先輩は私を殴ろうと──した、瞬間。
がいん、と金属がぶつかるような音が、エレベーターホールの方から響く。
視界の隅に、非常階段のドアが蹴り開けられているのが見えた。
「瀬奈……っ!」
肩で息をしていたのは、楢村くんで。
私は信じられないものを見た思いで、それでも彼の名前を呼ぶ。
「楢村くん……」
「っ、このクソダボ、ヒトの嫁に何してくれとんねん──!」
先輩が舌打ちをしてナイフを手に取る。
私は透明な悲鳴を上げて、その腕にしがみついた。先輩が私を見下ろす。モノをみるみたいな目で。
「瀬奈!」
楢村くんが私を呼んで、次の瞬間には私は突き飛ばされて、また床に転がる。肩を強く打ち付けて、私は小さく息を吐く。肺が痛い。
(──っ、そんな場合じゃ)
楢村くん!
はっと視線を上げると──先輩のお腹を、楢村くんが蹴り上げていた。
先輩の口から、黄色っぽい液体が溢れ落ちて、絨毯にじわじわと染み込んでいく。
ぐう、と呻いて、先輩は蹲った。
「……あ」
「瀬奈っ」
動けない私を、楢村くんが抱き上げ、走り出す。
そうしてエレベーターホールにあった、非常ベルのスイッチを、叩きつけるように押した。
無人のフロアに響き渡る、けたたましいベルの音。その反響に、思わず耳を塞ぎたくなる。
楢村くんは非常階段を駆け上がって、そうして、八階──私たちの家があるフロアの非常階段から、エレベーターホールに出た。鳴り続ける非常ベル。楢村くんは走りながら叫ぶ。
「瀬奈、怪我は!?」
「楢村くんは!?」
私はばっと彼の頬に両手を当てる。ナイフを持った相手と、あんな──!
「俺はなんとも」
その答えに、ほおと息をついたところで、私たちの部屋の前にたどり着く。楢村くんはちらっと背後を見たあと、カードキーをかざしてドアを開けた。
ばたん、とドアは閉まるけれど──響き渡り続ける、非常ベル。
そうっと、床に下ろされて──
ジリリリリリリリリ、というその空気が震えるような音の中で、私は楢村くんに強く強く抱きしめられる。
どっどっどっ、という楢村くんの心臓の音が、ベルより大きく聞こえた。早鐘を打つような──
楢村くんは「ふ」と息を吐いて、また──さらに、私を抱きしめる腕の力を強めた。
「ごめ、ん、ね」
「なにが……」
「危ない思い、させて」
「瀬奈が謝らないかんことなんて、いっこもない──」
楢村くんはそう言って、私の肩口に顔を埋める。
「むしろ──怖い思い、さしてごめんな」
怖かったやろ?
そう言って、楢村くんは私の額にキスをして──また強く、抱きしめる。
「心臓が、止まるかと思った」
私はただ──そう呟いた彼の心臓の音だけを、聞き続けて。
「……なんで?」
やっと、そう口を開く。
「なんで、心臓、止まっちゃうの」
「そんなん」
楢村くんは間髪入れずに答える。
「愛してるからに決まっとるやん──瀬奈がおらん世界なんか、もういらん」
瀬奈は。
楢村くんはそう、続けた。
「瀬奈は俺の心臓やから」
「──なに、それ」
意味わんない。
そう呟きながら、ただ抱きしめられながら──思う。
震える手で、楢村くんの背中に手を伸ばした。
鳴り響く非常ベル。
鼓膜に響く心音は、溶け合ってしまって誰のものかももう分からない。
ただその音は、とても雄弁に思えた。
どんな言葉より、彼の感情を伝えているような──そんな風に、思ったのだった。
私を見下ろす視線は、まるで洗剤の原液みたいにどろどろでぬるぬるしてる。
「やめ、っ」
「バカな瀬奈。本当に君を愛してるのはオレなのに──オレはずっと君を見守ってきたのに。ずっと、ずっと」
先輩の唇がひくついて、歪な形を描く。
「あいつに言われたから──やり方を反省したんだ」
先輩はベラベラと言葉を紡いでいく。
「最初から同じ場所に住んでいれば、君の近くにいても不審がられないだろ?」
茫然と、言葉を繰り返す。
心臓がすうっと冷えていく──
「最初から──同じ、場所?」
「以前の君のマンションにも、オレは住んでいたんだよ。そうして見守っていたのに。君がオレからの愛に気がつくまで、ゆっくりと見守るつもりだったのに」
ぽた、と一筋、汗が落ちてくる。
ぼたぽたぽた、と落ちてくる。
先輩の瞳は、異様に爛々としていて──
「や、やだ」
私はゆるゆると首を振る。
「たすけて、楢村くん、たすけて、たすけて」
ここにいない彼に、必死で叫ぶ。
助けはどこにも届かない。分かっているのに、叫ぶのをやめられない。
しんとしたフロアに、響く私の声。
内廊下の真新しい絨毯に、吸い込まれて消えていく。
「たすけて、楢村くん、楢村くん──!」
先輩の手が、私の口を覆う。
「うるさい、なんで泣くんだ瀬奈、オレを受け入れてくれよ、あいつの名前を呼ぶな!」
先輩の手を噛んだ。
くぐもるような声のあとに、鋭い視線を感じる。
獣じみた、なんて言ってるかわからない咆哮を繰り返して、先輩は私を殴ろうと──した、瞬間。
がいん、と金属がぶつかるような音が、エレベーターホールの方から響く。
視界の隅に、非常階段のドアが蹴り開けられているのが見えた。
「瀬奈……っ!」
肩で息をしていたのは、楢村くんで。
私は信じられないものを見た思いで、それでも彼の名前を呼ぶ。
「楢村くん……」
「っ、このクソダボ、ヒトの嫁に何してくれとんねん──!」
先輩が舌打ちをしてナイフを手に取る。
私は透明な悲鳴を上げて、その腕にしがみついた。先輩が私を見下ろす。モノをみるみたいな目で。
「瀬奈!」
楢村くんが私を呼んで、次の瞬間には私は突き飛ばされて、また床に転がる。肩を強く打ち付けて、私は小さく息を吐く。肺が痛い。
(──っ、そんな場合じゃ)
楢村くん!
はっと視線を上げると──先輩のお腹を、楢村くんが蹴り上げていた。
先輩の口から、黄色っぽい液体が溢れ落ちて、絨毯にじわじわと染み込んでいく。
ぐう、と呻いて、先輩は蹲った。
「……あ」
「瀬奈っ」
動けない私を、楢村くんが抱き上げ、走り出す。
そうしてエレベーターホールにあった、非常ベルのスイッチを、叩きつけるように押した。
無人のフロアに響き渡る、けたたましいベルの音。その反響に、思わず耳を塞ぎたくなる。
楢村くんは非常階段を駆け上がって、そうして、八階──私たちの家があるフロアの非常階段から、エレベーターホールに出た。鳴り続ける非常ベル。楢村くんは走りながら叫ぶ。
「瀬奈、怪我は!?」
「楢村くんは!?」
私はばっと彼の頬に両手を当てる。ナイフを持った相手と、あんな──!
「俺はなんとも」
その答えに、ほおと息をついたところで、私たちの部屋の前にたどり着く。楢村くんはちらっと背後を見たあと、カードキーをかざしてドアを開けた。
ばたん、とドアは閉まるけれど──響き渡り続ける、非常ベル。
そうっと、床に下ろされて──
ジリリリリリリリリ、というその空気が震えるような音の中で、私は楢村くんに強く強く抱きしめられる。
どっどっどっ、という楢村くんの心臓の音が、ベルより大きく聞こえた。早鐘を打つような──
楢村くんは「ふ」と息を吐いて、また──さらに、私を抱きしめる腕の力を強めた。
「ごめ、ん、ね」
「なにが……」
「危ない思い、させて」
「瀬奈が謝らないかんことなんて、いっこもない──」
楢村くんはそう言って、私の肩口に顔を埋める。
「むしろ──怖い思い、さしてごめんな」
怖かったやろ?
そう言って、楢村くんは私の額にキスをして──また強く、抱きしめる。
「心臓が、止まるかと思った」
私はただ──そう呟いた彼の心臓の音だけを、聞き続けて。
「……なんで?」
やっと、そう口を開く。
「なんで、心臓、止まっちゃうの」
「そんなん」
楢村くんは間髪入れずに答える。
「愛してるからに決まっとるやん──瀬奈がおらん世界なんか、もういらん」
瀬奈は。
楢村くんはそう、続けた。
「瀬奈は俺の心臓やから」
「──なに、それ」
意味わんない。
そう呟きながら、ただ抱きしめられながら──思う。
震える手で、楢村くんの背中に手を伸ばした。
鳴り響く非常ベル。
鼓膜に響く心音は、溶け合ってしまって誰のものかももう分からない。
ただその音は、とても雄弁に思えた。
どんな言葉より、彼の感情を伝えているような──そんな風に、思ったのだった。
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