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航悠編
23、藍良と青竹-4
「青竹君! ……どうしたの、夜に」
「急にすんません。でも、どうしても早く伝えなきゃと思って」
陽が沈み、昼間の寂しい様子とは打って変わり、花街は華やかでどこか淫靡な輝きを放ち始める。
その一等地、薫風楼にて。店の看板妓女である藍良は、予想外の客の来訪に長いまつげを瞬いた。
なんとなく気分が乗らなくて、今夜は店に出ず自室でのんびりしていた。すると、なぜか春蘭に客の取り次ぎをされた。
しぶしぶ部屋で待っていた藍良は、現れた男の姿に胸騒ぎを覚える。
青竹が夜にやってくるのは初めてだ。彼はいつも、床入りのない昼にだけ妓楼に上がっていた。
いつもと違う行動と彼の切羽詰まった顔に嫌な予感がして、思わず問いかける。
「航さんのこと、何か動きがあったの? それとも雪華に何か……?」
「はい。……頭領が、帰ってきました…!」
「本当に…!?」
息せき切る勢いで告げられた言葉に、一瞬呆然として口を覆う。藍良は大きく息を吸うと、安堵の息を吐き出した。
「良かった……! 無事なのよね!? ちゃんと手足は付いてるのよね?」
「はい。少し熱は出してますが、元気です。もう副長が泣いて泣いて、俺ら見ないふりするのが大変でした」
「ふふ……。そう……。良かった……本当に良かった……!」
これで沈んでいた雪華も、元気を取り戻すだろう。
まだ見ぬ親友の姿を思い浮かべると、藍良は息を吸って、立ったままだった青竹に笑みを向ける。
「これを伝えるためだけに、わざわざ夜に来てくれたの……。ありがとうね。ずいぶんお金もかかるのに」
「いえ。藍良さんが、たまたま空いてて良かったっす」
糸目を弧にした青竹が息をつくと、室内には一瞬沈黙が流れた。青竹は少し困ったように、首の後ろを掻く。
「その……夜だと、だいぶ雰囲気も違うんすね。妓楼としてはこっちが本当なんでしょうけど、なんか落ち着かないっつーか……」
(あ……)
言われて初めて気が付いた。夜に、対価を払って自分に会いに来た男――つまり、客。
その客に、妓女である藍良は見返りを提供しなければいけない。
階下からは宴席の声、そして隣室からは少々気の早い情事の声がかすかに漏れ聞こえていた。昼にはほとんど聞こえない、妓楼本来の姿だ。
夜に来てもらった以上、そういう行為に及ぶのは当然だ。藍良は居住まいを正すと、青竹にゆっくりと歩み寄る。
「青竹君。……いえ、葉様。何かお飲みになります? それともすぐ床に――」
「っ……。……やめて下さい」
「え? でも――」
「そういうつもりで来たわけじゃないっすから。これだけ言いたかったんで、すぐ帰ります。だから……葉様とか呼ぶのは、やめて下さい」
知り合いではなく、『客』に対する態度へと改めてそっと肩に触れると、青竹はぱっと目を逸らして藍良から少し離れた。
夜に妓楼にいながら自分を拒絶するような態度に、妓女としての小さな矜持が少し傷付けられる。
「じゃあ話し方は戻すけど、どういうつもり? 青竹君、あたしのこと好きなのよね」
「好きですよ。マジで惚れてます」
「だったら、夜に来てお金も払ってるのにどうして君はあたしのことを抱かないの? ……あたしは妓女よ。お金さえ払えば、何だって好きにしていいのよ」
胸元に手を当てて、そこに視線が行くよう無言で誘導する。
あからさまに誘うのは下級の妓女のやり方だ。そんなみっともない真似は藍良の矜持が許さない。
それと気付かれない程度に艶を含ませると、潤ませた目で青竹をじっと見上げる。どんなにお堅い客でも、これで落ちなかった男はいない。
「……やめて下さい」
だが青竹はますます拒むように視線を伏せると、藍良に背を向けてしまった。その背中に、怒りを通り越して藍良は悲しくなった。
「どうして……? あたしの体には、興味がない? あたしは綺麗に着飾って、お喋りをしてればいいだけの存在?」
「っ……! そんなわけ、ないじゃないっすか…!」
「……!」
青竹が突然振り向き、藍良の手首を掴むと壁に押し付けた。薄い唇を重ねられ、見た目の印象よりも温かいそれに目を見開く。
だが触れ合ったのは一瞬で、青竹はすぐに藍良の手を離すと彼女から距離を置いた。藍良は呆然と背の高い彼を見つめる。
「すんません。……あなたが魅力的じゃないとか、抱きたくないとか、そんなことはないです。今だって、本当は……すげえ抱きたいです」
「なら――」
「でもそれって、俺が他の客と同じ存在になるってことっすよね。藍良さんにとって俺はただの客の一人になって、特別でも何でもなくなる」
夜に来て、金を払って抱かれたら。数多いる馴染み客が一人増えはするが、昼に話をするためにだけやってくる、風変わりな青年はいなくなってしまう。
青竹は神妙な顔で、畳みかけるように続ける。
「妓楼に通うってことは、当然下心はあります。でも俺は、あなたの顔を見ること自体も目的にしてました。頑張ってる藍良さん見ると、俺も元気になれるから。……でも、最近になって思い直しました。本当は、ずっと笑顔じゃなくたっていいです」
「え――」
「ヘコんでたり、疲れてたり……そういう、他の客には見せない顔、俺の前で見せてくれたら嬉しいです。……俺は、藍良さんの特別になりたい。俺はいつか、妓女じゃなくなったあなたを……俺をただ一人の男として見てくれるあなたを、抱きたいです。だからそれまでは……我慢します」
拳を握りしめると、本当に名残惜しそうに青竹が項垂れる。
まだ口付けの感触が残る唇を押さえると、藍良はそっと目を伏せた。……頬が赤らみ、かすかに動悸がする。
「ねぇ、それって……あたしが君を選ぶってことが前提の話よね? もしあたしが途中で落籍されたり、他に好きな男がいたりしたらどうするのよ」
「……う。そんときは、仕方ないってことで……」
だが、問いかけに対して返ってきたのは消極的な答えだった。藍良はつんと唇を尖らせ、拗ねるようにじとっと青竹を見上げる。
「何それ。その程度の気持ちなの?」
「違うっす! でも藍良さんが俺に惚れる惚れないはまた別の話っつーか、無理にどーこーできるもんじゃないですし――」
「……ふふ。変な人ね」
男らしいことを言ってみたかと思えば、急に自信なさげにしおらしくなる。その落差が、見ていて飽きない。
藍良は小さく笑うと小首をかしげた。
「まぁいいわ。じゃあ夜に来なくてもいいけど、昼には頻繁に来ることね。あたしに惚れてほしいなら、まめじゃないと」
「え。俺、結構まめじゃないっすか」
「もっとよ。もっともっと……そうねぇ、破産しない程度に通ってくれたら意識するかもね」
「分かりました。善処します」
大真面目に答えられ、少しだけぎょっとする。本当にやりかねないし、そんなことをされても困る。
「いやだ、冗談なのに。あたしのせいで無一文とかやめてよね」
「大丈夫っす。俺、金銭感覚は組織一だと自負してるんで」
「……変な子」
それじゃ、と告げて青竹が去っていく。あとに残された藍良は、盛況な時間を迎えた妓楼で一人、ほぅ…と唇を押さえた。
芽生え始めたこの感情の名に、彼女はとうに気付いていた。
「話だけして帰る変な人なんて……特別じゃないわけ、ないじゃない……」
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