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第参話──九十九ノ段
【壱】竜睡楼
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――大正十年、桃の頃。
犬神零は、斜面に横たわるように連なる建物を見上げていた。
――料亭・竜睡楼。
著名な歌人が、「竜の微睡み」と喩えた事から、その名が付いたとされる。
こんもりと茂る山肌に埋まるように、点々と建つ和風建築。
それらを繋ぐ階段はつづら折れとなり、起伏のある斜面に貼り付いていた。
『九十九段』。
文字通り九十九段あるとされる、竜睡楼名物の階段である。瓦葺きに洒落た窓を配した壁に覆われ、その内部は窺い知れない。
時は、夕刻。
薄らいだ初春の日差しが、瓦屋根を黒々と鱗のように照らす。
だがそれは、犬神零にとって、風雅な竜の姿には見えなかった。
――蛇。
開け放たれた玄関から、九十九段の入口が覗き見える。
それが、牙を剥いて口を開く大蛇の、喉奥に並ぶ肋骨のように、彼には見えた。
獲物を待ち構え、虎視眈々と睨み下ろす大蛇。
その中へ飛び入らねばならないというのは、つくづく己の運命が嫌になる。
かと言って、「逃げる」という選択肢は、彼には残されていなかった。
――彼の『主』は、それを決して許さない。
玄関に明かりが灯る。前庭の灯篭に灯が入り、咲き誇る桃の花を艶やかに照らした。
打ち水のされた石畳に明かりが反射し、刻が艶めかしく彼を導く。
「……さて、行きますか」
零が独り言を呟くと、隣で声がした。
「そうね」
その返事に目を丸くしてそちらを見れば、クロッシェ帽を目深に被った椎葉桜子が軽く微笑み、数寄屋門へと足を踏み出した。
――長い夜の、はじまりである。
◇
そもそも、犬神零のような万年金欠の男が、竜睡楼のような高級料亭に向かう理由は、当然、仕事である。
――『犬神怪異探偵社』。
神田明神を臨む裏路地。下町風情漂う中で異彩を放つ、煉瓦造りの洋館。
その外階段を上がった二階の一室を、彼は探偵事務所として間借りしている。
そこへ依頼人がやって来たのは、三日前だった。
応接の長椅子に座るなり、彼女はこう訴えた。
「主人を探して欲しいんです」
彼女は、お榮と名乗った。結髪に銀細工の簪、大きな柄の小紋を洒脱に着こなすさまは、水商売をしているのではなかろうかと、零は思った。
彼は向かいの長椅子に腰を下ろし、悩ましい表情の依頼人と顔を合わせた。
「それは、ご主人が失踪なさった、という意味ですか?」
「えぇ。主人の知り合いや警察にも相談したんですけど、埒が明かなくて」
お榮は疲れ果てた表情で目を伏せる。
「それはお気の毒に。……どうぞ」
事務所の雑用係をしている椎葉桜子が、応接テーブルに湯呑と茶菓子を置く。
断髪に、春らしい若草色のワンピースという姿。モダンガールも大分板に付いてきた。
お榮は気分を落ち着けるように湯呑に口を付けた。
「ご主人は、どんな方なんです?」
桜子の問いに、お榮は顔を上げた。
「鱒三といいます。絵描きの卵です。……籍にはまだ入ってませんけど。彼の絵、売れなくて。私が養ってました」
「それで、失踪されたのはいつ?」
「十日前です。……赤ちゃんができたと伝えた日の夜の事だから、よく覚えてます」
言いながら、お榮は腹を撫でる。
「彼も喜んでいました。これからもっと頑張らなきゃ、って。なのに、行きずりの女と消えるなんて、有り得ません」
堰を切ったように、お榮は嗚咽した。桜子はハンカチを渡しながら、背をさすり宥める。
その様子を見ながら、零は気まずい顔で首に手を置いた。
――子供を育てられる覚悟が持てずに逃げた、と考えるのが妥当だろう。警察が身を入れないのにも得心がいく。
だからといって、もらい泣きしながらお榮に寄り添う桜子が、それを納得するとは思えない。
「弱りましたね……」
ボソッと呟き、零は腕組みした。
「それで、ご主人が失踪された時の様子は?」
もみくちゃにしたハンカチで顔を拭き、お榮は泣き腫らした目を零に向ける。
「画壇のお仲間に誘われたとかで、目黒の料亭に行きました。それっきり、帰って来なくて」
「……ご主人は、確かに、その料亭へ行かれたのですか?」
その質問に反応したのは桜子だった。
「あなたね、もう少しものの言い方があるでしょ? それじゃまるで、ご主人が自分からいなくなったみたいじゃない」
予想通りではあるが、食って掛かる桜子を宥めようと、零は愛想笑いを浮かべた。
「いや、そうは言ってませんよ。ご主人がどこで失踪されたのか、その確認ですので」
するとお榮は、幾分か落ち着きを取り戻した口調で答えた。
「竜睡楼のお座敷までは、確かに、主人は他の皆様と一緒でした。同席された画家の方々や、料亭の仲居にも聞きましたから」
「それから、ご主人はどうされたのです?」
「絵の批評を、画壇の重鎮である篠山栴檀画伯からされたようで。……あの方、厳しい事で有名なんです。主人は酷評されたようで、いたたまれなくなって席を立ったとか」
「それから、お座敷に戻られなかったと」
お榮は鼻をすすりながら、口元をハンカチで押さえる。
「気の弱い人ですから。でも私には、あの人がそのままいなくなるなんて、考えられません」
「…………」
「主人は私の反対を押し切って、竜睡楼に向かったんです。お腹の子のために、画伯に取り入って仕事を貰ってくるって。それなのに……」
すると、今度は桜子が同情めいた目をお榮に向ける。
「信じたい気持ちは分かるけど、彼の事は忘れて、新しい人生を探すって手もあるわ。まだお若いんだし」
「桜子さん、冷たい人ですね。そう思い切れないから、ご相談に来られたんですよ」
零が窘めると、桜子は口を尖らせた。
「だって……」
そう言う零も、桜子に言い返したかっただけで、彼女の言い分は至極真っ当に思えた。状況から、期待の持てる案件ではないと思う。
しかし、ひとつ気になった。
零は身を乗り出して、項垂れるお榮に尋ねた。
「――なぜ、ご主人が竜睡楼に行かれるのを、反対されたのですか?」
犬神零は、斜面に横たわるように連なる建物を見上げていた。
――料亭・竜睡楼。
著名な歌人が、「竜の微睡み」と喩えた事から、その名が付いたとされる。
こんもりと茂る山肌に埋まるように、点々と建つ和風建築。
それらを繋ぐ階段はつづら折れとなり、起伏のある斜面に貼り付いていた。
『九十九段』。
文字通り九十九段あるとされる、竜睡楼名物の階段である。瓦葺きに洒落た窓を配した壁に覆われ、その内部は窺い知れない。
時は、夕刻。
薄らいだ初春の日差しが、瓦屋根を黒々と鱗のように照らす。
だがそれは、犬神零にとって、風雅な竜の姿には見えなかった。
――蛇。
開け放たれた玄関から、九十九段の入口が覗き見える。
それが、牙を剥いて口を開く大蛇の、喉奥に並ぶ肋骨のように、彼には見えた。
獲物を待ち構え、虎視眈々と睨み下ろす大蛇。
その中へ飛び入らねばならないというのは、つくづく己の運命が嫌になる。
かと言って、「逃げる」という選択肢は、彼には残されていなかった。
――彼の『主』は、それを決して許さない。
玄関に明かりが灯る。前庭の灯篭に灯が入り、咲き誇る桃の花を艶やかに照らした。
打ち水のされた石畳に明かりが反射し、刻が艶めかしく彼を導く。
「……さて、行きますか」
零が独り言を呟くと、隣で声がした。
「そうね」
その返事に目を丸くしてそちらを見れば、クロッシェ帽を目深に被った椎葉桜子が軽く微笑み、数寄屋門へと足を踏み出した。
――長い夜の、はじまりである。
◇
そもそも、犬神零のような万年金欠の男が、竜睡楼のような高級料亭に向かう理由は、当然、仕事である。
――『犬神怪異探偵社』。
神田明神を臨む裏路地。下町風情漂う中で異彩を放つ、煉瓦造りの洋館。
その外階段を上がった二階の一室を、彼は探偵事務所として間借りしている。
そこへ依頼人がやって来たのは、三日前だった。
応接の長椅子に座るなり、彼女はこう訴えた。
「主人を探して欲しいんです」
彼女は、お榮と名乗った。結髪に銀細工の簪、大きな柄の小紋を洒脱に着こなすさまは、水商売をしているのではなかろうかと、零は思った。
彼は向かいの長椅子に腰を下ろし、悩ましい表情の依頼人と顔を合わせた。
「それは、ご主人が失踪なさった、という意味ですか?」
「えぇ。主人の知り合いや警察にも相談したんですけど、埒が明かなくて」
お榮は疲れ果てた表情で目を伏せる。
「それはお気の毒に。……どうぞ」
事務所の雑用係をしている椎葉桜子が、応接テーブルに湯呑と茶菓子を置く。
断髪に、春らしい若草色のワンピースという姿。モダンガールも大分板に付いてきた。
お榮は気分を落ち着けるように湯呑に口を付けた。
「ご主人は、どんな方なんです?」
桜子の問いに、お榮は顔を上げた。
「鱒三といいます。絵描きの卵です。……籍にはまだ入ってませんけど。彼の絵、売れなくて。私が養ってました」
「それで、失踪されたのはいつ?」
「十日前です。……赤ちゃんができたと伝えた日の夜の事だから、よく覚えてます」
言いながら、お榮は腹を撫でる。
「彼も喜んでいました。これからもっと頑張らなきゃ、って。なのに、行きずりの女と消えるなんて、有り得ません」
堰を切ったように、お榮は嗚咽した。桜子はハンカチを渡しながら、背をさすり宥める。
その様子を見ながら、零は気まずい顔で首に手を置いた。
――子供を育てられる覚悟が持てずに逃げた、と考えるのが妥当だろう。警察が身を入れないのにも得心がいく。
だからといって、もらい泣きしながらお榮に寄り添う桜子が、それを納得するとは思えない。
「弱りましたね……」
ボソッと呟き、零は腕組みした。
「それで、ご主人が失踪された時の様子は?」
もみくちゃにしたハンカチで顔を拭き、お榮は泣き腫らした目を零に向ける。
「画壇のお仲間に誘われたとかで、目黒の料亭に行きました。それっきり、帰って来なくて」
「……ご主人は、確かに、その料亭へ行かれたのですか?」
その質問に反応したのは桜子だった。
「あなたね、もう少しものの言い方があるでしょ? それじゃまるで、ご主人が自分からいなくなったみたいじゃない」
予想通りではあるが、食って掛かる桜子を宥めようと、零は愛想笑いを浮かべた。
「いや、そうは言ってませんよ。ご主人がどこで失踪されたのか、その確認ですので」
するとお榮は、幾分か落ち着きを取り戻した口調で答えた。
「竜睡楼のお座敷までは、確かに、主人は他の皆様と一緒でした。同席された画家の方々や、料亭の仲居にも聞きましたから」
「それから、ご主人はどうされたのです?」
「絵の批評を、画壇の重鎮である篠山栴檀画伯からされたようで。……あの方、厳しい事で有名なんです。主人は酷評されたようで、いたたまれなくなって席を立ったとか」
「それから、お座敷に戻られなかったと」
お榮は鼻をすすりながら、口元をハンカチで押さえる。
「気の弱い人ですから。でも私には、あの人がそのままいなくなるなんて、考えられません」
「…………」
「主人は私の反対を押し切って、竜睡楼に向かったんです。お腹の子のために、画伯に取り入って仕事を貰ってくるって。それなのに……」
すると、今度は桜子が同情めいた目をお榮に向ける。
「信じたい気持ちは分かるけど、彼の事は忘れて、新しい人生を探すって手もあるわ。まだお若いんだし」
「桜子さん、冷たい人ですね。そう思い切れないから、ご相談に来られたんですよ」
零が窘めると、桜子は口を尖らせた。
「だって……」
そう言う零も、桜子に言い返したかっただけで、彼女の言い分は至極真っ当に思えた。状況から、期待の持てる案件ではないと思う。
しかし、ひとつ気になった。
零は身を乗り出して、項垂れるお榮に尋ねた。
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