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第一章・生麦騒動
第2話 生麦騒動
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サトウやウィリスが働いている横浜のイギリス公使館は「横浜居留地20番」の場所にあった。現在の場所でいえば山下橋交差点近くの「横浜人形の家」のあたりになる。ちなみにここには明治大正の頃、関東大震災で焼失するまでは横浜を代表する最高級ホテル「グランド・ホテル」が建っていた。
しかし生麦事件が発生したこの時期、イギリス公使館のトップであるオールコック公使はイギリスに帰国中で不在だった。代わりにニール陸軍大佐が代理公使をつとめていた。このニール代理公使が当時の在日イギリス人たちにとっての最高責任者であり、サトウやウィリスの上司でもあった。
前回「ウィリスが攘夷殺傷事件の救急活動にあたるのはすでに二度目である」と書いたように、これ以前にも外国人を狙った殺傷事件は度々発生しており、横浜の外国人たちはイラ立ちをつのらせていた。
そしてこの日の夜、横浜にリチャードソンの無残な遺体が運び込まれたのである。
ついに彼らのイラ立ちは爆発した。
横浜の外国人たち、特に一番人数の多いイギリス人は激昂して叫んだ。
「我々はこれまで何度も攘夷浪人どもから襲撃をうけてきた!」
「今度という今度は日本人に目に物見せてやろうじゃないか!」
なにしろ今回の事件はこれまでのような暗殺事件と違って犯行が薩摩藩の仕業であることは明白で、しかもたった今、目と鼻の先に犯人がいるのである。薩摩藩の一行が宿泊している保土ヶ谷宿は直線距離にして横浜から五キロも離れていない。
さらに彼ら外国人たちにとって幸いなことに、この日横浜にイギリス艦隊の旗艦ユーリアラス号が入港してきた。フランス艦隊の旗艦セミラミス号とならんで東洋では最大級の軍艦(蒸気フリゲート艦)である。それ以前から横浜に停泊していた英仏蘭の軍艦をあわせると合計八隻となり、それぞれの軍艦から海兵隊を出兵すればかなりの兵力となる。
横浜の外国人たちの多くは「保土ヶ谷襲撃」に賛成した。
彼らは最高責任者であるニールの意見を待たずに一部の有力者たちだけで軍議を開いた。
「これだけの兵力があれば薩摩の軍勢などひとひねりだ!」
「これから我々は保土ヶ谷を攻撃して島津三郎(久光)と殺人犯を捕らえる!」
「異議なし!」
彼らは「保土ヶ谷襲撃」を決定した。
一方、その保土ヶ谷宿のほうでも薩摩藩士たちが「横浜への先制攻撃」を唱えていた。
この薩摩藩一行は外国人数人を斬り捨てたにもかかわらず幕府役人たちからの詮議も無視し、平然と保土ヶ谷宿まで行列を進めていた。
ただし、この保土ヶ谷宿ではイギリスからの報復にそなえて厳重に警備をかためていた。薩摩藩からすれば幕府などすでに眼中に無く、相手はイギリスだけである。しかし薩摩藩としても、幕府を脅すために運んできた大砲をまさかイギリス相手に使うことになろうとは夢にも思ってなかったであろう。
薩摩藩の陣屋敷では生麦でイギリス人たちを斬った「実行犯」の一人である海江田信義が、藩の家老並役である小松帯刀に対して意見を具申した。
「俺に百名の軍勢を貸してたもんせ。これから異人どものいる横浜を攻めて焼き払ってきもんそ」
小松は仰天した。
「バカな事を言うな!横浜には日本人の商人もおるんじゃぞ!」
「異人との商売で儲けとる連中なんぞ、気にする必要は無かでしょう」
今回の問題を処理するために小松と相談していた大久保一蔵(後の大久保利通)が海江田を一喝した。
「先に手を出してはならん!」
しかし海江田は承服できず反論した。
「一蔵どん、そげん弱気でどげんする。すでに一人殺してしもうたんじゃ。あと何人殺そうが同じじゃ。いっそ我が薩摩が横浜を焼き払って、攘夷のさきがけをやれば良いではごわはんか」
これに対し大久保は毅然として言った。
「もし異人どもが攻めてきたらその時は反撃しても構わんが、こちらから先に手を出してはならん。我々の一番大切な任務は国父様を無事帰国させる事じゃ」
結局、薩摩側は小松と大久保の判断によって「横浜への先制攻撃」は差し控えることになった。
同じ頃、横浜では「保土ヶ谷襲撃」に賛成した人々がフランス公使館に集まっていた。この公使館のトップであるフランス公使のベルクールは襲撃賛成派の意見を尊重するような姿勢を見せていたので、彼らはベルクールを頼ったのだった。彼らはこのフランス公使館にイギリスのニール代理公使を呼びつけた。時刻はすでに深夜である。
フランス公使館の会議室に入るやいなや、ニールは不快な表情をあらわにして抗議した。
「イギリス人が犠牲になったというのに、なぜフランスの公使館に私を呼びつけるのかね?」
ニールの抗議をうけてベルクールは答えた。
「まあまあ、そう怒りなさるな。私は“公使”だが、あなたはオールコック氏不在中の“代理公使”だ。しかも私はあなたよりも横浜での経験が長い。それで皆がこの場所を選んだのだ」
ニールの表情はますます険しくなった。
そのニールに対し、席にすわっている外国人の代表者たちが意見を述べはじめた。
「とにかく、報復のため直ちに海兵隊を上陸させて保土ヶ谷の薩摩陣営を攻撃すべし、というのが我々の総意です」
「速やかにご決断下さい、ニール代理公使」
そして一同は拳を振りあげて口々に叫んだ。
「報復だ、報復だ!日本人を血祭りにあげてやれ!」
この会議の席には、この日横浜に到着したばかりのユーリアラス号の艦長キューパー提督もすわっている。彼はこの襲撃賛成派の人々に対して異論を述べた。
「ちょっと待ってくれ。私は横浜に着いたばかりでまだ事情を把握していない。会議に参加するとは言ったが、攻撃作戦に賛成するとは言ってない」
これで襲撃賛成派の人々の意気はやや消沈した。そこへニールが追い打ちをかけるようにキッパリと言った。
「私は襲撃作戦を容認することはできない」
彼はさらに続けて言った。
「我々が保土ヶ谷を襲撃すれば、薩摩ばかりか日本全体と戦争することにもなりかねない。我々は貿易をするために日本に来ているのだ。戦争をするためではない」
このニールの意見を聞いて襲撃賛成派の一同が騒ぎ立てた。
「日本人に侮辱されたままで悔しくはないのか!?」
「そうだ、そうだ!臆病者!」
これらの罵声をうけてもニールの方針は変わらなかった。
「私はすでにこの件を本国政府の判断に一任すると決めている。これ以上何を言われても、この決定が覆る事はない」
襲撃賛成派の人々から祭り上げられる形で公使館を会議場所として提供していたベルクールも、そのニールの方針をうけいれた。
「了解した。我がフランスもその判断を尊重しよう。ただし、これから薩摩の軍勢が攻めてくる可能性もある。横浜の警戒は怠らないように努めることとしよう」
結局イギリス側も、ニールの強い意志が示されたことによって「保土ヶ谷襲撃」計画を中止することになった。
翌朝、幕府からの保土ヶ谷駐留の命令を無視して、薩摩藩一行はさっさと京都へ向けて出発した。
こうして、お互い複雑な事情をかかえながらも「この時は」薩摩とイギリスの武力衝突は避けられたのである。
ちなみにこれは余談というべきだろうが、この薩摩藩一行には「あの西郷吉之助(西郷隆盛)」は加わっていない。西郷は流されていた奄美大島から一旦戻ってきて今回の「久光上洛および江戸下向」に不本意ながら参加したものの、久光の命令を無視した咎で藩から捕縛され、再び島流しとなった。
後にサトウと知り合い、ともに歴史の転換点を見届けることになる西郷は、この頃沖永良部島の牢屋に閉じ込められていた。
しかし生麦事件が発生したこの時期、イギリス公使館のトップであるオールコック公使はイギリスに帰国中で不在だった。代わりにニール陸軍大佐が代理公使をつとめていた。このニール代理公使が当時の在日イギリス人たちにとっての最高責任者であり、サトウやウィリスの上司でもあった。
前回「ウィリスが攘夷殺傷事件の救急活動にあたるのはすでに二度目である」と書いたように、これ以前にも外国人を狙った殺傷事件は度々発生しており、横浜の外国人たちはイラ立ちをつのらせていた。
そしてこの日の夜、横浜にリチャードソンの無残な遺体が運び込まれたのである。
ついに彼らのイラ立ちは爆発した。
横浜の外国人たち、特に一番人数の多いイギリス人は激昂して叫んだ。
「我々はこれまで何度も攘夷浪人どもから襲撃をうけてきた!」
「今度という今度は日本人に目に物見せてやろうじゃないか!」
なにしろ今回の事件はこれまでのような暗殺事件と違って犯行が薩摩藩の仕業であることは明白で、しかもたった今、目と鼻の先に犯人がいるのである。薩摩藩の一行が宿泊している保土ヶ谷宿は直線距離にして横浜から五キロも離れていない。
さらに彼ら外国人たちにとって幸いなことに、この日横浜にイギリス艦隊の旗艦ユーリアラス号が入港してきた。フランス艦隊の旗艦セミラミス号とならんで東洋では最大級の軍艦(蒸気フリゲート艦)である。それ以前から横浜に停泊していた英仏蘭の軍艦をあわせると合計八隻となり、それぞれの軍艦から海兵隊を出兵すればかなりの兵力となる。
横浜の外国人たちの多くは「保土ヶ谷襲撃」に賛成した。
彼らは最高責任者であるニールの意見を待たずに一部の有力者たちだけで軍議を開いた。
「これだけの兵力があれば薩摩の軍勢などひとひねりだ!」
「これから我々は保土ヶ谷を攻撃して島津三郎(久光)と殺人犯を捕らえる!」
「異議なし!」
彼らは「保土ヶ谷襲撃」を決定した。
一方、その保土ヶ谷宿のほうでも薩摩藩士たちが「横浜への先制攻撃」を唱えていた。
この薩摩藩一行は外国人数人を斬り捨てたにもかかわらず幕府役人たちからの詮議も無視し、平然と保土ヶ谷宿まで行列を進めていた。
ただし、この保土ヶ谷宿ではイギリスからの報復にそなえて厳重に警備をかためていた。薩摩藩からすれば幕府などすでに眼中に無く、相手はイギリスだけである。しかし薩摩藩としても、幕府を脅すために運んできた大砲をまさかイギリス相手に使うことになろうとは夢にも思ってなかったであろう。
薩摩藩の陣屋敷では生麦でイギリス人たちを斬った「実行犯」の一人である海江田信義が、藩の家老並役である小松帯刀に対して意見を具申した。
「俺に百名の軍勢を貸してたもんせ。これから異人どものいる横浜を攻めて焼き払ってきもんそ」
小松は仰天した。
「バカな事を言うな!横浜には日本人の商人もおるんじゃぞ!」
「異人との商売で儲けとる連中なんぞ、気にする必要は無かでしょう」
今回の問題を処理するために小松と相談していた大久保一蔵(後の大久保利通)が海江田を一喝した。
「先に手を出してはならん!」
しかし海江田は承服できず反論した。
「一蔵どん、そげん弱気でどげんする。すでに一人殺してしもうたんじゃ。あと何人殺そうが同じじゃ。いっそ我が薩摩が横浜を焼き払って、攘夷のさきがけをやれば良いではごわはんか」
これに対し大久保は毅然として言った。
「もし異人どもが攻めてきたらその時は反撃しても構わんが、こちらから先に手を出してはならん。我々の一番大切な任務は国父様を無事帰国させる事じゃ」
結局、薩摩側は小松と大久保の判断によって「横浜への先制攻撃」は差し控えることになった。
同じ頃、横浜では「保土ヶ谷襲撃」に賛成した人々がフランス公使館に集まっていた。この公使館のトップであるフランス公使のベルクールは襲撃賛成派の意見を尊重するような姿勢を見せていたので、彼らはベルクールを頼ったのだった。彼らはこのフランス公使館にイギリスのニール代理公使を呼びつけた。時刻はすでに深夜である。
フランス公使館の会議室に入るやいなや、ニールは不快な表情をあらわにして抗議した。
「イギリス人が犠牲になったというのに、なぜフランスの公使館に私を呼びつけるのかね?」
ニールの抗議をうけてベルクールは答えた。
「まあまあ、そう怒りなさるな。私は“公使”だが、あなたはオールコック氏不在中の“代理公使”だ。しかも私はあなたよりも横浜での経験が長い。それで皆がこの場所を選んだのだ」
ニールの表情はますます険しくなった。
そのニールに対し、席にすわっている外国人の代表者たちが意見を述べはじめた。
「とにかく、報復のため直ちに海兵隊を上陸させて保土ヶ谷の薩摩陣営を攻撃すべし、というのが我々の総意です」
「速やかにご決断下さい、ニール代理公使」
そして一同は拳を振りあげて口々に叫んだ。
「報復だ、報復だ!日本人を血祭りにあげてやれ!」
この会議の席には、この日横浜に到着したばかりのユーリアラス号の艦長キューパー提督もすわっている。彼はこの襲撃賛成派の人々に対して異論を述べた。
「ちょっと待ってくれ。私は横浜に着いたばかりでまだ事情を把握していない。会議に参加するとは言ったが、攻撃作戦に賛成するとは言ってない」
これで襲撃賛成派の人々の意気はやや消沈した。そこへニールが追い打ちをかけるようにキッパリと言った。
「私は襲撃作戦を容認することはできない」
彼はさらに続けて言った。
「我々が保土ヶ谷を襲撃すれば、薩摩ばかりか日本全体と戦争することにもなりかねない。我々は貿易をするために日本に来ているのだ。戦争をするためではない」
このニールの意見を聞いて襲撃賛成派の一同が騒ぎ立てた。
「日本人に侮辱されたままで悔しくはないのか!?」
「そうだ、そうだ!臆病者!」
これらの罵声をうけてもニールの方針は変わらなかった。
「私はすでにこの件を本国政府の判断に一任すると決めている。これ以上何を言われても、この決定が覆る事はない」
襲撃賛成派の人々から祭り上げられる形で公使館を会議場所として提供していたベルクールも、そのニールの方針をうけいれた。
「了解した。我がフランスもその判断を尊重しよう。ただし、これから薩摩の軍勢が攻めてくる可能性もある。横浜の警戒は怠らないように努めることとしよう」
結局イギリス側も、ニールの強い意志が示されたことによって「保土ヶ谷襲撃」計画を中止することになった。
翌朝、幕府からの保土ヶ谷駐留の命令を無視して、薩摩藩一行はさっさと京都へ向けて出発した。
こうして、お互い複雑な事情をかかえながらも「この時は」薩摩とイギリスの武力衝突は避けられたのである。
ちなみにこれは余談というべきだろうが、この薩摩藩一行には「あの西郷吉之助(西郷隆盛)」は加わっていない。西郷は流されていた奄美大島から一旦戻ってきて今回の「久光上洛および江戸下向」に不本意ながら参加したものの、久光の命令を無視した咎で藩から捕縛され、再び島流しとなった。
後にサトウと知り合い、ともに歴史の転換点を見届けることになる西郷は、この頃沖永良部島の牢屋に閉じ込められていた。
応援ありがとうございます!
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