69 / 74
66、連れ立ち
しおりを挟む
深く宿る悔やみがあるのは、かなり寝過ごしたらしいと、天幕の隙間から差し込む微かな光で知れることよりも。
目を覚まして真っ先に思い出したのが「砦に帰ってから妊娠させて欲しい」と、口走ったことだ。
身を起こして気怠く座り込み、欠伸をしているアギレオの横で、顔を覆う。
帰りの道中で出産したら、大変なことになる。とまで考えた自分が信じがたい。
「私は男だから、妊娠はしない……」
フッと、アギレオの笑う息が聞こえるのが、予想通りで。
深い後悔の片隅に、自分が正常であると安堵する。
「起きてまずそれかよ。したっていいぜ」
「いいとか悪いとかではない…。機能がない…」
機能って、と笑っているアギレオの声に、両手はひとまず下ろし。
「腰から下に力が入らない…」
「おー。前もそう言ってたな。ここにゃ務めはねえんだから、ゆっくりしてな」
うん…と、半分は項垂れるように目を閉じ。
髪を撫でてくれる手が、けれど、離れて起きる気配なのに、再び目を開く。
「お前は仕事があるのか…」
「ンー? ねえよ。俺ゃもう、氏族の人間じゃねえしな。起きれなくても水は飲むだろ?」
飯は食うか?と、衣服を身に着けながら問われるのに、腹は減っていないと首を振り。なら外で食ってくっかな、と言っているのに、もらってきてここで食べろと強請る。
水をもらって、行儀悪く寝転んだまま水差しから水を飲み、相変わらず肉を食っているアギレオを眺め。
「子供ができなくても、帰らなければな」
ン?と、振り返り、眉を上げるアギレオに、目で頷く。
「帰りたくなくなったかよ」
まあ遠すぎてダリィのは確かだ、などと首を回しているのを見ながら、少し考え。そうではないなと、小さく頭を振る。
「帰りたいとは思っている。おそらく、ずっと」
アギレオと二人の家や、みなのいる砦に。それに、生まれ育った国に、敬愛する主君のお膝元に。
「だが、留まってもっと見てみたいものはあるな。冬の暮らしもそうだし、日々の暮らしも、ヴァルグの文化もまだまるで見ていない。…お前は? お前こそ、ここにいたくはならないのか?」
眉を上げるアギレオの、ほんの少し、読めないような複雑な笑みを、じっと見つめ。
「十五の年で山を下りてみりゃ、雪や氷に道を塞がれることはねえし、オークまで食わなきゃならねえほど食いモンに困るわけでもねえ。山になんか二度と戻らねえぞと思ってたことすらあるが。――戻ってみりゃなんてことねえ。冬はこれからだが、羊を追うのも氷を割って水を汲むのも、やってみりゃほんとになんてことねえ。妙なもんだ」
途中から先が耳に入らず、目を見開く。
「オークを食うのか!?」
「ああ…。今は食いモンが足りるからな。そんでも、今頃に貯めとく食いモンが冬を越すのに足りなきゃ、わざわざ巣まで襲ってでも食うことがあったぜ」
あっ帰りてえ。二度と食いたくねえ。と、けれど戯けている様子であるのに、開いた口を閉じそびれ。
「私は…むしろ少し興味が湧いたぞ…。…おそらく、だが、世界中でもオークを襲うのはヴァルグだけなのではないだろうか…。一体どういう暮らしなんだ…」
貧しいだけさ、と、やはり笑っているのに、瞬いて。
「冗談はともかく、もう夏も終わりだ。雪が降り始めたら山を下りられねえからな。――いても10日だぜ」
わかった、と頷きながら、オソグリスやヴィボラは悲しむなと。小さく痛む胸に息をついた。
「なあ…」
「うン?」
手を伸ばせば、握り返され、様子を見るように足腰に力を入れてわずかだけ寝返りを打つ。仰向けが横向きになっただけで、身を投げ出すように伸ばしながら、頬笑んでいるアギレオを見つめ。
「お前は、ヴァルグの男だったのだと、気がついた」
ン?と、眉を上げて続きを促されるのに、思い起こすよう目を伏せて。
「ここへ来て、暮らしを見て、氏族の人々から聞く話にも、景色そのものにも。私の知るアギレオが、どこから来た者であったのか、つながったように思えた。お前は、ヴァルグの男だったのだなと」
どう言えばいいだろうかと、言葉を次ぎながらも考え。けれど、思いがけずアギレオが、ああと合点の声を上げて。
「それはちょっと分かる気がすんな。アレだ、和平の前。お前と王都に行って、お前が軍隊の建物にスタスタ入ってって、出てきたら着替えてたりとか、王様と話したり、レビと王都の話してたりな。それ見て、あそこで生まれて育ったエルフだったんだなあ…みてえなことは思ったな」
ひとつ瞬いて。そうか、と、目許を緩める。
「アギレオ…」
両手を伸ばせば、ン?と、鼻先で柔らかく声をして、少し上半身だけ抱き起こすようにして、抱き締められ。
結婚を申し込んでくれたアギレオの言葉が、ふいに思い出されて。
まだ力を込めれば震えそうな足腰に、力を込める。
生まれた場所で肉の身体を得て、またこれを離れていくまでの、短い間。それが何百年であろうと、何千年であろうと、限りあるかぎり、欲深い己はきっと、短いと感じるのだ。
そりゃそうだけどよ、と、アギレオなら笑うだろうか。
離れたくない、行かないでくれと、半分はわざと駄々をこねる己を抱えて。なんだよ、とか、ちったあ手伝ってこねえとお前のが居心地悪ぃだろうが、とか、宥めたりすかしたりする“ふり”で相手をしてくれるアギレオを、少し長い時間、そうして引き留めた。
思う存分ぐずって気が晴れる頃には、足腰のしびれも取れてずいぶん力も入るようになった。
寝具の上掛けを抱え、昨日女達が洗濯していた場所へと、足を忍ばせるように運んでいく。汚れたシーツを洗うのが、実をいうとあまり嫌ではない。
寝具が傷むのが気になり、みっともない姿をアギレオに見られるのは今でも恥ずかしい。それに、高原の水は限りなく冷たく、少し背が震えるほどだが。
昨夜のアギレオがどんな風だったのかと思い出し、はしたない記憶の反芻を楽しみながら、シーツを取り回して汚れを揉み落とす。
苦心して水を絞っていると、離れたところで洗濯していた女性が声を掛けてくれて、両端をそれぞれ持つようにして、絞るのを手伝ってもらった。そのまま、干す場所を尋ね、案内してもらう最中にあれこれと話す中に、シーツの洗濯について真正面からからかわれて、赤面してしまったり。
大きな泉で水を汲んで、人目を不快にせぬよう天幕の陰で身を清め。
馬や羊の世話、剣を始めとした格闘の稽古。食事の支度や天幕の手入れ。国に持ち帰ろうと、紙と書く物を持って歩けば、手伝いがてらにも尋ねたいことは後から後から増えて。
焚き火を囲む夕食の際に、オソグリスが「そろそろ雪が降るな」とポツリと言うまで、日々は瞬く間にすぎた。
アギレオは「そうだな」と答えたきり、それがどうしたとも言わず。
けれど、みなの口数がすこし少なくなって、そうか、と己にも理解できた。
「おいちょっと待て。馬が潰れちまうわ」
あれもこれもと、オソグリスとヴィボラが荷をくれるのに、腰に手をやり眺めていたアギレオが、ついに呆れたように言う。
「そうか…」
「じゃあ馬ももう一頭持っていきなさいよ。そしたら平気でしょ」
心遣いはありがたいが、10日いたばかりの己でも、彼らが懸命に冬を迎える支度をしている最中なのを知っている。
けれど、辞しようとした声を、ヴィボラの声に飲み込んだ。
「む、息子ふたりに贈ってやれるのが、こ、これだけなのよ。多くなんか、ないじゃない」
ぐすぐす、と鼻すら鳴らすヴィボラに、うんうんとオソグリスが相槌を打って。
大きく息を吸って吐き、沁みるような胸を堪えて、ヴィボラの傍へと歩み寄る。
「ありがとうヴィボラ、オソグリス。だがどうか、お二人の冬には足りるように備えて欲しい。また来ます」
「うォい。簡単に言うんじゃねえ」
「き、きっとよハル。また来るのよ、ハル。そこの薄情息子を、連れてきてね」
やれやれといった風なアギレオの声を聞き流し、堰の切れたように泣き出すヴィボラに抱きつかれて、しかと抱き締め。
「…ヴィボラ。あんまり困らせるもんじゃない。ハル、こんな雪山くんだりまで、わざわざ年寄りの顔なぞ見に来んでよろしい。…それぞれのあるべき場所で、なすべきことをしっかりやりなさい」
ため息まじりのオソグリスの声も、けれど、震えてはいないだろうか。
ありがとうございます、と、頷く眉が下がってしまう。
踏み出しがたい心中をこらえ、乗ってきた馬に跨がって、アギレオと二人で歩み出す。
ついつい振り返ってしまう己と違って、振り向かず道の先を見据えたままであるのが、アギレオらしい。
彼の分までたっぷりと未練がましく、草を分けて馬の足を進め。
草原を離れて山を下る道に差し掛かったところで、大きく息がもれた。
「次は、道中をもっと短い時間で進みたいものだな」
「お、おッ前…、マジでまた来る気なのかよ」
冗談だろ、と、どうやら本気で驚いているらしいアギレオに、眉を寄せてしまう。
「来れぬわけではないのだから、来ればいいだろう」
クリッペンヴァルトでの、航海研究をもっと進めれば、魔術の力でもう少し速く着けないだろうか…と、顎をさすって思案し。
「四腕のオソグリスが言ってただろうが。年寄りと遊んでる場合でもねえよ」
しつこいな、と、本人のおらぬ前でも下がった二つ名をわざわざつけるアギレオに、少し呆れ。
けれど。
あるべき場所で、なすべきことをなせと。震えそうな声で告げたオソグリスの、確たる表情を思い出して、小さく唇を引き結ぶ。
「…お前が次の頭領にゆずる時には、また来れるだろうか…」
まあ、せめてそんくらいだよな、と、なんでもないような声で応じるアギレオも、己も、きっと考えている。人間達の短い命のことを。
けれど、それでも。
だからこそ、誰もが己の仕事をせねばならぬのだと、つく息を腹に隠した。
しばし黙って道を下る中、アッと突然声を上げたアギレオに、顔を上げる。
「そういや、お前に話してやる約束だったな。――しばし、余の昔話に付き合うがよい」
「!?」
急に声色を改め、古い言葉遣いになり、オホンと咳払いまでしてみせるアギレオに、目を丸くし。
「今は昔、はじまりまで遡れば、エルフというのは、星の光であった」
ふむ、と、語り口はともかく、よく知る創世史記を語り始めるアギレオの声に耳を澄ませて。
「あいや、この話は、そなたにはちと長過ぎるであろう」
「!?!? それは、どういう…」
一体何が始まったんだ!?と、目を白黒させる己を置き去りのよう、ブハッとアギレオが吹き出して笑う。
「今のはお前んとこの王様の真似だけどよ、」
「お、お前…ッ」
なんて不敬なやつだ!、と一度叱ってから。
けれど、決してもちろん陛下のことではなく。アギレオのおかしな口上を思い出して、己も噴き出してしまう。
「ま。話す時間はいくらでもあるな。こっから先、ずっと連れ合うんだからよ」
それが、砦に戻るまでの、長い旅程の話ではないと、もちろん分かる。
「どんな話なんだ?」
聞かせてくれ、と、続きをねだって。
クリッペンヴァルト国の国境、境の森の砦への長い旅路。
そして、きっと、そこからもまだ続いていく、この男との連れ立ち。
いくら続こうとも欲深い己には短い時を、ひと時たりとも逃すまいと、アギレオの声に耳を傾けた。
目を覚まして真っ先に思い出したのが「砦に帰ってから妊娠させて欲しい」と、口走ったことだ。
身を起こして気怠く座り込み、欠伸をしているアギレオの横で、顔を覆う。
帰りの道中で出産したら、大変なことになる。とまで考えた自分が信じがたい。
「私は男だから、妊娠はしない……」
フッと、アギレオの笑う息が聞こえるのが、予想通りで。
深い後悔の片隅に、自分が正常であると安堵する。
「起きてまずそれかよ。したっていいぜ」
「いいとか悪いとかではない…。機能がない…」
機能って、と笑っているアギレオの声に、両手はひとまず下ろし。
「腰から下に力が入らない…」
「おー。前もそう言ってたな。ここにゃ務めはねえんだから、ゆっくりしてな」
うん…と、半分は項垂れるように目を閉じ。
髪を撫でてくれる手が、けれど、離れて起きる気配なのに、再び目を開く。
「お前は仕事があるのか…」
「ンー? ねえよ。俺ゃもう、氏族の人間じゃねえしな。起きれなくても水は飲むだろ?」
飯は食うか?と、衣服を身に着けながら問われるのに、腹は減っていないと首を振り。なら外で食ってくっかな、と言っているのに、もらってきてここで食べろと強請る。
水をもらって、行儀悪く寝転んだまま水差しから水を飲み、相変わらず肉を食っているアギレオを眺め。
「子供ができなくても、帰らなければな」
ン?と、振り返り、眉を上げるアギレオに、目で頷く。
「帰りたくなくなったかよ」
まあ遠すぎてダリィのは確かだ、などと首を回しているのを見ながら、少し考え。そうではないなと、小さく頭を振る。
「帰りたいとは思っている。おそらく、ずっと」
アギレオと二人の家や、みなのいる砦に。それに、生まれ育った国に、敬愛する主君のお膝元に。
「だが、留まってもっと見てみたいものはあるな。冬の暮らしもそうだし、日々の暮らしも、ヴァルグの文化もまだまるで見ていない。…お前は? お前こそ、ここにいたくはならないのか?」
眉を上げるアギレオの、ほんの少し、読めないような複雑な笑みを、じっと見つめ。
「十五の年で山を下りてみりゃ、雪や氷に道を塞がれることはねえし、オークまで食わなきゃならねえほど食いモンに困るわけでもねえ。山になんか二度と戻らねえぞと思ってたことすらあるが。――戻ってみりゃなんてことねえ。冬はこれからだが、羊を追うのも氷を割って水を汲むのも、やってみりゃほんとになんてことねえ。妙なもんだ」
途中から先が耳に入らず、目を見開く。
「オークを食うのか!?」
「ああ…。今は食いモンが足りるからな。そんでも、今頃に貯めとく食いモンが冬を越すのに足りなきゃ、わざわざ巣まで襲ってでも食うことがあったぜ」
あっ帰りてえ。二度と食いたくねえ。と、けれど戯けている様子であるのに、開いた口を閉じそびれ。
「私は…むしろ少し興味が湧いたぞ…。…おそらく、だが、世界中でもオークを襲うのはヴァルグだけなのではないだろうか…。一体どういう暮らしなんだ…」
貧しいだけさ、と、やはり笑っているのに、瞬いて。
「冗談はともかく、もう夏も終わりだ。雪が降り始めたら山を下りられねえからな。――いても10日だぜ」
わかった、と頷きながら、オソグリスやヴィボラは悲しむなと。小さく痛む胸に息をついた。
「なあ…」
「うン?」
手を伸ばせば、握り返され、様子を見るように足腰に力を入れてわずかだけ寝返りを打つ。仰向けが横向きになっただけで、身を投げ出すように伸ばしながら、頬笑んでいるアギレオを見つめ。
「お前は、ヴァルグの男だったのだと、気がついた」
ン?と、眉を上げて続きを促されるのに、思い起こすよう目を伏せて。
「ここへ来て、暮らしを見て、氏族の人々から聞く話にも、景色そのものにも。私の知るアギレオが、どこから来た者であったのか、つながったように思えた。お前は、ヴァルグの男だったのだなと」
どう言えばいいだろうかと、言葉を次ぎながらも考え。けれど、思いがけずアギレオが、ああと合点の声を上げて。
「それはちょっと分かる気がすんな。アレだ、和平の前。お前と王都に行って、お前が軍隊の建物にスタスタ入ってって、出てきたら着替えてたりとか、王様と話したり、レビと王都の話してたりな。それ見て、あそこで生まれて育ったエルフだったんだなあ…みてえなことは思ったな」
ひとつ瞬いて。そうか、と、目許を緩める。
「アギレオ…」
両手を伸ばせば、ン?と、鼻先で柔らかく声をして、少し上半身だけ抱き起こすようにして、抱き締められ。
結婚を申し込んでくれたアギレオの言葉が、ふいに思い出されて。
まだ力を込めれば震えそうな足腰に、力を込める。
生まれた場所で肉の身体を得て、またこれを離れていくまでの、短い間。それが何百年であろうと、何千年であろうと、限りあるかぎり、欲深い己はきっと、短いと感じるのだ。
そりゃそうだけどよ、と、アギレオなら笑うだろうか。
離れたくない、行かないでくれと、半分はわざと駄々をこねる己を抱えて。なんだよ、とか、ちったあ手伝ってこねえとお前のが居心地悪ぃだろうが、とか、宥めたりすかしたりする“ふり”で相手をしてくれるアギレオを、少し長い時間、そうして引き留めた。
思う存分ぐずって気が晴れる頃には、足腰のしびれも取れてずいぶん力も入るようになった。
寝具の上掛けを抱え、昨日女達が洗濯していた場所へと、足を忍ばせるように運んでいく。汚れたシーツを洗うのが、実をいうとあまり嫌ではない。
寝具が傷むのが気になり、みっともない姿をアギレオに見られるのは今でも恥ずかしい。それに、高原の水は限りなく冷たく、少し背が震えるほどだが。
昨夜のアギレオがどんな風だったのかと思い出し、はしたない記憶の反芻を楽しみながら、シーツを取り回して汚れを揉み落とす。
苦心して水を絞っていると、離れたところで洗濯していた女性が声を掛けてくれて、両端をそれぞれ持つようにして、絞るのを手伝ってもらった。そのまま、干す場所を尋ね、案内してもらう最中にあれこれと話す中に、シーツの洗濯について真正面からからかわれて、赤面してしまったり。
大きな泉で水を汲んで、人目を不快にせぬよう天幕の陰で身を清め。
馬や羊の世話、剣を始めとした格闘の稽古。食事の支度や天幕の手入れ。国に持ち帰ろうと、紙と書く物を持って歩けば、手伝いがてらにも尋ねたいことは後から後から増えて。
焚き火を囲む夕食の際に、オソグリスが「そろそろ雪が降るな」とポツリと言うまで、日々は瞬く間にすぎた。
アギレオは「そうだな」と答えたきり、それがどうしたとも言わず。
けれど、みなの口数がすこし少なくなって、そうか、と己にも理解できた。
「おいちょっと待て。馬が潰れちまうわ」
あれもこれもと、オソグリスとヴィボラが荷をくれるのに、腰に手をやり眺めていたアギレオが、ついに呆れたように言う。
「そうか…」
「じゃあ馬ももう一頭持っていきなさいよ。そしたら平気でしょ」
心遣いはありがたいが、10日いたばかりの己でも、彼らが懸命に冬を迎える支度をしている最中なのを知っている。
けれど、辞しようとした声を、ヴィボラの声に飲み込んだ。
「む、息子ふたりに贈ってやれるのが、こ、これだけなのよ。多くなんか、ないじゃない」
ぐすぐす、と鼻すら鳴らすヴィボラに、うんうんとオソグリスが相槌を打って。
大きく息を吸って吐き、沁みるような胸を堪えて、ヴィボラの傍へと歩み寄る。
「ありがとうヴィボラ、オソグリス。だがどうか、お二人の冬には足りるように備えて欲しい。また来ます」
「うォい。簡単に言うんじゃねえ」
「き、きっとよハル。また来るのよ、ハル。そこの薄情息子を、連れてきてね」
やれやれといった風なアギレオの声を聞き流し、堰の切れたように泣き出すヴィボラに抱きつかれて、しかと抱き締め。
「…ヴィボラ。あんまり困らせるもんじゃない。ハル、こんな雪山くんだりまで、わざわざ年寄りの顔なぞ見に来んでよろしい。…それぞれのあるべき場所で、なすべきことをしっかりやりなさい」
ため息まじりのオソグリスの声も、けれど、震えてはいないだろうか。
ありがとうございます、と、頷く眉が下がってしまう。
踏み出しがたい心中をこらえ、乗ってきた馬に跨がって、アギレオと二人で歩み出す。
ついつい振り返ってしまう己と違って、振り向かず道の先を見据えたままであるのが、アギレオらしい。
彼の分までたっぷりと未練がましく、草を分けて馬の足を進め。
草原を離れて山を下る道に差し掛かったところで、大きく息がもれた。
「次は、道中をもっと短い時間で進みたいものだな」
「お、おッ前…、マジでまた来る気なのかよ」
冗談だろ、と、どうやら本気で驚いているらしいアギレオに、眉を寄せてしまう。
「来れぬわけではないのだから、来ればいいだろう」
クリッペンヴァルトでの、航海研究をもっと進めれば、魔術の力でもう少し速く着けないだろうか…と、顎をさすって思案し。
「四腕のオソグリスが言ってただろうが。年寄りと遊んでる場合でもねえよ」
しつこいな、と、本人のおらぬ前でも下がった二つ名をわざわざつけるアギレオに、少し呆れ。
けれど。
あるべき場所で、なすべきことをなせと。震えそうな声で告げたオソグリスの、確たる表情を思い出して、小さく唇を引き結ぶ。
「…お前が次の頭領にゆずる時には、また来れるだろうか…」
まあ、せめてそんくらいだよな、と、なんでもないような声で応じるアギレオも、己も、きっと考えている。人間達の短い命のことを。
けれど、それでも。
だからこそ、誰もが己の仕事をせねばならぬのだと、つく息を腹に隠した。
しばし黙って道を下る中、アッと突然声を上げたアギレオに、顔を上げる。
「そういや、お前に話してやる約束だったな。――しばし、余の昔話に付き合うがよい」
「!?」
急に声色を改め、古い言葉遣いになり、オホンと咳払いまでしてみせるアギレオに、目を丸くし。
「今は昔、はじまりまで遡れば、エルフというのは、星の光であった」
ふむ、と、語り口はともかく、よく知る創世史記を語り始めるアギレオの声に耳を澄ませて。
「あいや、この話は、そなたにはちと長過ぎるであろう」
「!?!? それは、どういう…」
一体何が始まったんだ!?と、目を白黒させる己を置き去りのよう、ブハッとアギレオが吹き出して笑う。
「今のはお前んとこの王様の真似だけどよ、」
「お、お前…ッ」
なんて不敬なやつだ!、と一度叱ってから。
けれど、決してもちろん陛下のことではなく。アギレオのおかしな口上を思い出して、己も噴き出してしまう。
「ま。話す時間はいくらでもあるな。こっから先、ずっと連れ合うんだからよ」
それが、砦に戻るまでの、長い旅程の話ではないと、もちろん分かる。
「どんな話なんだ?」
聞かせてくれ、と、続きをねだって。
クリッペンヴァルト国の国境、境の森の砦への長い旅路。
そして、きっと、そこからもまだ続いていく、この男との連れ立ち。
いくら続こうとも欲深い己には短い時を、ひと時たりとも逃すまいと、アギレオの声に耳を傾けた。
0
あなたにおすすめの小説
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
シスルの花束を
碧月 晶
BL
年下俺様モデル×年上訳あり青年
~人物紹介~
○氷室 三門(ひむろ みかど)
・攻め(主人公)
・23歳、身長178cm
・モデル
・俺様な性格、短気
・訳あって、雨月の所に転がり込んだ
○寒河江 雨月(さがえ うげつ)
・受け
・26歳、身長170cm
・常に無表情で、人形のように顔が整っている
・童顔
※作中に英会話が出てきますが、翻訳アプリで訳したため正しいとは限りません。
※濡れ場があるシーンはタイトルに*マークが付きます。
※基本、三門視点で進みます。
※表紙絵は作者が生成AIで試しに作ってみたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる