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名もない高校生のおはなし

後編

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 それは、何かが起こりそうな予感も、虫の知らせの一つも何も無い、いつも通りの色褪せた朝のことだった。

 木曜日の告白劇から6日。水曜日の朝ともなるといくら僕でも、もう期待していなかった。残りの短くはない高校生活を、こんな風に退屈に苛まれて過ごすのだろうと諦めの境地に入っていた。
 オジサンもいつもは持っていない経済新聞なんか読んだりして、車内の出来事には興味がなさそうだった。

 こんな風にして、“彼女”は僕たちの日常の中からいなくなってしまうんだろう。ほんの僅かな淋しさに胸を痛めていた時に、いつも“彼女”が乗り込んでくる駅から見慣れた姿が僕たちの前に現れた。



[ 名もない高校生のおはなし 後 ]



 そう、“彼女”だった。

 “彼女”に気づいた車内は、ほんの少し揺れた。全員無言だったが、明らかに辺りに視線を彷徨わせて同意を求めようとしていた。内容はきっとこんなところだろう。『え?本当にあの子だよね?』

 “彼女”はいつもよりも身だしなみを整えてはいたが、存在を疑われるほど劇的に変わったところはなかった。僕たちがびっくりしたのは“彼女”の見た目にではない。その、あまりにも早すぎる期間にだった。

 失恋の痛手を癒すのにしろ、気まずさを払拭するにしろ、“彼女”のモチベーションを回復させるにしろ、6日は少なすぎるように感じたのだ。

 特に僕たちは、“彼女”の片思い期間を知っている。ほぼ1年、“彼女”はただただ“彼”を見つめ続けた。その1年間の恋心は、6日なんかでどうにかなるようなものなのだろうか。僕なんかでは想像できないほど、“彼女”の価値観を覆す出来事と遭遇したのかもしれない。


 それとも、もう新しい恋人が出来たとか?

 “彼女”は可愛かった。“彼”につけられた傷を癒すように、新しく恋人を作っていたとしても驚くことではない。けれど、1年間“彼女”の片思いを、そして一念発起の告白を見守っていた身としては、大層面白くない想像だった事は確かだ。

 “彼女”はいつも通りに定位置に立った。“彼女”がいない為、背を曲げて立っていた男子高生が、佇まいを正す。男子高生がしっかりと背筋を伸ばしていれば、“彼女”が身を傾けずともいつもの位置にいる“彼”を見つめることができるからだ。“彼女の恋を見守り隊”復活の兆しを感じ、僕も大慌てで単語帳を鞄から取り出した。

 “彼女”は、“彼”が現れたらどうするのだろう。
 隠れる…ということはないだろう。自分から戦場にやってきたのだから。もう傷は癒えたのだろうか。茫然自失な様子で立ちすくんでいた“彼女”を思い出してつきりと胸が痛む。もう“彼”を見ても何も傷つかない強さを手に入れてやってきたのだと、そう信じたい。


 いつの間にか、“彼”がいつもの駅から乗り込んできた。そこで、僕らは少しの違和感に襲われる。

 “彼”が、いつものようにシャキッパリッとしていないのだ。

 “彼”も人間なのだから、偶に眠そうなときもあった。電車内で少しばかりうつらうつらすることもあった。けれど、今日は何というか、そういう感じではなかったのだ。

 まるで、いなくなったペットを一日中駆けずり回って探していたかのようにゲッソリとした“彼”が、あまりにも疲労困憊に見えた。髪はいつものように綺麗に整えられていないし、目の下にはくまが出来ていた。極めつけは、ジャケットのポケットの形が崩れていた。こんな“彼”は初めて見る。
 まさか、“彼”まで失恋したんじゃないだろうな、と名探偵気分で単語帳を鼻先まで持ってきた。

 “彼”は“彼女”に気づかないようだった。たったの6日前に振った人間が同じ電車に乗っているというのに気付かないなんて、なんて不義理な奴なんだと単語帳の影でぎりりと歯噛みする。
 “彼”は車内の光景になどまるで興味がないように、やつれた姿で窓の向こうを睨み付けていた。その姿はまるで頭の中で必死にジグソーパズルをしているかのような、近寄りがたいものを感じさせた。

 その“彼”を見つめる“彼女”は、随分とすっきりしたような表情をしている。
 やっぱりもう、新しい恋でも見つけたのだろうかと少しだけ心の中がもにょりと動いた。告白する勇気もないくせに、自分は愚かにも思っていたのだ。“彼”が相手なら、しょうがない、と。“彼”が相手なら自分が勝てる筈もない。告白できなくてもしょうがない。だから、これでいいんだと思っていたのだ。“彼女”の恋を見守るしかできなかった、弱い自分。でも、これでいいのだと、僕は思っている。みんながみんな思いを伝えるわけでもないし、それが勇気ってわけでもない。

 とりとめのない考えに囚われていたら、いつの間にか“彼”が降りる駅に着いていたようだった。アナウンスが鳴り響き、空気音を轟かせてドアがゆっくりと開いていく。“彼”は眠そうな顔でドアを潜り抜けていく。その後ろを“彼女”が少し慌てた足取りでパタパタとついていった。そうそう。あの時も“彼女”が“彼”の後ろをこんな風に追いかけて―――…

 は?!

 僕は単語帳を取り落した。気付けば、周りからも慌てるようなガサガサッとした音が響く。僕は少しだけ首を捻って見ていた体を大慌てで反転させた。
 ガチャリという音が鳴る。驚いて隣を見れば、隣にいつも座っていた大学生風のお姉さんが神妙な顔で僕に頷いていた。電車の窓を少し開けたのだ。彼らの声が、少しでも聞こえるように。

 僕たちは今、一心同体だった。
 小さな窓の少しの隙間に、身を寄せるようにしてへばりついている。後ろにも圧迫感を感じるので、数人近づいてきた乗客もいるのだろう。君たちも立派な“彼女の恋を見守り隊”の名誉会員だと心の中で表彰した。

 “彼女”は大慌てで“彼”に近づいていく。あぁ!ちょこっとだけ僕たちのへばりついている窓から離れてしまった!それでも何とか声が拾えないだろうかと、耳を隙間に突き出した。

「ずっと貴方が好きでした。」

 その声に、僕たちは身を強張らせた。前回のは告白じゃなかったのだろうか、いや、告白だったはずだ。声は聞こえなくても、あの雰囲気は『ハンカチ落としましたよ』ではないことだけは確かだ。だとしたら、“彼女”はもう一度“彼”に告白したのだろうか。

 なんて、なんてあっ晴れな人なんだ!
 “彼女”は、“彼”を吹っ切れていなかった。他に男が出来たわけでもなかった。“彼女”はもう一度、自分の想いを“彼”に伝えようと、そう決意したからこその、あの表情だったのだろう。

 僕は両手を叩きたくなった。“彼女”の勇気に、あまりにも感動してしまったのだ。

「よければお付き合いしてください。」
「無理。」

 続ける“彼女”の言葉を、間髪入れずに切り捨てた“彼”の言葉は無碍ない。身を寄せている人間のほとんどが、『あ~…』と溜息のような唸り声を上げた。

 あぁまた、“彼女”が落ち込んでしまう。せっかく癒えたと思っていた傷が広がってしまう。僕はまるで自分が振られてしまったかのように痛む胸を、抱えていた単語帳でギュッと押し潰した。

 そして僕たちは、思いもよらないものを見ることになる。

「ですよね!どうもありがとうございます。それではお互い頑張りましょうね。よい1日を!」

 あっ晴れだった。“彼女”は本当に、あっ晴れだった。

 先日の茫然自失とした“彼女”はもうどこにもいない。自らの偉業に胸いっぱいの達成感を得て、晴れ晴れとしていた。

 びっくりするほど清々しいその笑顔に、僕は呆気にとられた。
 呆気にとられたのはもちろん僕だけじゃない。『電車が動きます』と言うアナウンスとともに動き出してしまった電車の中で、“彼女”たちを見守っていたほとんどの人間があまりのことに動けなかった。

 窓の向こうの景色はもう変わっていて、“彼女”たちの姿を見ることはできない。
 なのに、身を乗り出すようにして窓にへばりついていた人々は、しばらくの間動くことが出来なかった。“彼女”に笑顔を向けられた時に“彼”が見せた、呆気にとられた顔と酷似した顔を浮かべながら、ぐんぐん変わる景色をただただ茫然と眺めていた。



***



 それから長いこと、“彼女”は姿を現さなかった。
 ついに“彼女”も諦めたのかと、僕は落胆する気持ちを抑えられなかった。

 暦はもう、11月である。受験生である自分は通学時間の1秒さえ無駄にできない身分であるというのに、“彼女”が現れる駅に止まる度にそわそわと心が騒いだ。

 およそ1ヶ月が過ぎ、もう本当に“彼女”を見ることもないかもなぁと思っていた時に、“彼女”は再び僕の前にやってきた。

 車両中が揺れた。前回の比ではない。それはそれは大きな動揺だった。

 もう“彼女”を見ることもないかもなと思っていた僕は、ずり下がる眼鏡を大慌てで持ち上げた。オジサンを見れば、オジサンも満足気な顔をして小刻みに僕に首を振ってくれている。僕は鞄から単語帳を取り出した。オジサンは“彼女”が立ちやすいように、広げていた経済新聞を鞄の中に突っ込んだ。

 “彼女”はフラフラと電車に乗り込んできたかと思うと、いつもの定位置に立った。ポールに捕まると、そのまま項垂れるように寄りかかる。
 いつもは目を爛々と輝かせて“彼”が乗り込む駅まで待っているのに、珍しいこともあるもんだと単語帳の隙間から覗き見た。

 寄りかかった“彼女”は、水族館で不機嫌に横たわったまま動かないサービス精神0のトドを思い起こさせた。あまりにも動かないので、肩幅に開いた足でバランスを取りながら眠っているようにも見えた。踵の高いヒールを上手に履きこなす“彼女”は、僕が憧れたままの姿で久しぶりにそこに立っていた。



 “彼女”は、“彼”が乗ってくる駅に辿り着いたことにも気づかないようだった。

 “彼女”が寄りかかっているポールとは反対側のドアから、“彼”が電車に乗り込んできた。
 乗客たちは皆、“彼女”に心の中でエールを送る。起きれ!起きるんだ!また“彼”を見に来たんだろ?寝てたら、いつの間にか“彼”が降りてしまうぞ!乗客の心は一つになっていた。“彼”と“彼女”を交互に視線だけで見比べる。

 その時、ふと“彼”と視線が合った気がした。

 大慌てで単語帳に顔を伏せる。気のせいか、気のせいだろう。だって“彼”は今まで、電車に乗ったらそのまま吊革に捕まり、窓の外をじっと見つめているばかりだったのだから。今まで一度として、誰かを探すように電車の中を見渡したことはない。その“彼”と目が合ったなんて、きっと気のせいに違いない。

 僕はドキドキしたまま単語帳を必死に睨んでいた。もちろん、新しい単語の一つも頭に入ってくるはずがない。見ているのに気付かれた?いやそんなことは。目が合っただけだし。とぐるぐると頭の中で混乱している僕の膝を、誰かが突いた。

 ハッと気づいて顔を上げると、緊張した面持ちのオジサンが目の前にいた。どうしたのかと首を傾げれると、オジサンは顎でしゃくって背後を見るように促した。

 そこには、“彼”がいた。
 僕のほぼ目の前に、“彼”がいた。
 ポールに寄りかかる“彼女”の脇に立ち、“彼女”をじっと見下ろしていた。

 何が、起こっているのか。
 僕を含め、“彼女の恋を見守り隊”の面々全員が不思議に思っていただろう。電車は不思議な沈黙に包まれていた。

 “彼”がなんと声をかけるのか。ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。隣に座る女子大生のものだろう。釣られるように、僕もゆっくりと生唾を嚥下した。


「おはよう」

 “彼”が“彼女”にかけた言葉は、驚くほど平凡だった。


 “彼”に声をかけられた瞬間、びくりと体を震わせた“彼女”は恐る恐るゆっくりと顔を上げた。戦々恐々なその表情には、明らかな怯えが浮かんでいる。その表情に、僕は驚いた。

 “彼女”が“彼”を見つめる視線はいつも、熱くて、とろけそうで、見ている方がむず痒くなるような、そんな熱が籠っていた。
 それが、今やどうだろう。“彼女”は怯え、心なしか尻込みしているようにも見える。ぼそぼそと会話を繰り広げる彼らの間に、甘い空気は皆無だった。

「昨日は無事に帰れたか」

 “彼”が放った驚くような内容に、僕は少しのけ反った。反対に、隣の女子大生は身を乗り出している。折しも、昨日は日曜日だ。色々と、想像できる内容に興味津々なのだろう。僕はあまりの急展開についていけずに目を回しそうだった。

 あの後何の接点もなく分かれたように見えて、実は連絡を取り合うようになっていたのだろうか。だとすれば、なぜ、どうして、どこから、いつから。気にしたってしょうがない、傍観者の僕には関わりのない事柄が一気に気になってくる。

 ぐるぐる、ぐるぐる、と混乱していると更に驚くべき展開になった。今まで一度だって現れたことのない、第三の登場人物が出現したのだ。
 もしかしたら前にもこの車両に乗っていたのかもしれないが、さすがに数度乗ったことがある程度の人間まで覚えていなかった。ただ、今まで一度だってその第三の登場人物である“女性”が、“彼”や“彼女”と会話しているところを見たことはなかった。

 その“女性”は颯爽と乗り込んできたかと思うと、蛇のように体をしならせて“彼”の腕に身を巻き付けた。
 その光景を見た全員が思ったことだろう。

 あぁ、二度も告白してきて振られたにも拘らず同じ車両に乗り込んできた“彼女”に牽制の意味も込めて自分の恋人を呼んだのだろう、と。

 多少行き過ぎた対応であるようにも思えるが、あのナイスなルッキングからしてこれが初めてのことではないのかもしれない。そのための処置なら、まぁと己の怒気を紛らわそうとするがうまくはいかなかった。なら、わざわざ自分から声なんてかけなきゃいいのに、いい性格してるな。とどす黒い気持ちが胸に溜まった。

 そして誰もが思ったはずだ。趣味わっる。と。

 “彼女の恋を見守り隊”の隊員は皆、1年もの間一心に“彼”に心を傾けていた“彼女”を知っている。その“彼女”を振り、こんな風に意地悪な表情を浮かべて“彼女”を嘲笑する“女性”を選んだ“彼”に、落胆に似たようなものを感じたことだろう。

 しかし、“彼”は“女性”の行動にぎょっと目を剥くと引き剥がそうとする。決して照れからくるような表情には見えなくて、ん?と僕は注目した。しかし“彼”の抵抗をものともせずに、“女性”はしっかりと“彼”の腕を抱き込んでいる。

「これ以上付け回すようなら警察への相談も辞さないつもりです。貴方のやっていることは立派な犯罪行為ですので。」

 いくらなんでも言い過ぎなんじゃないだろうかと、僕は身を震わせた。“彼女”の顔は蒼白で、土のように色味がない。

「たった、二度の告白で…」
 何言ってるんだあのおばさん。全気力を使い果たしてでも言ってやろうかと、僕はぎゅっと単語帳を握りしめた。僕の呟きが聞こえたのか、隣の女子大生がそっと顔を寄せてくる。

「昨日、あの2人、駅のホームにいた。遠目から見ただけだからよくわかんないけど、不自然な距離空いてんだよね。もしかしたら、女の方がイケメンつけ回してた、とか?」

 掠れるほど小さな声が、僕の耳に入ってきた。その距離の近さに羞恥を覚えるよりも、怒りが勝った。

「そんなこと、するような人には、見えませんっ」
 怒りで震える声を絞り出した。昨日会っていたというのが事実でも、電車の中であんなに離れた場所から、1年も見つめることしかできなかった“彼女”が、そんなことをしているとは到底思えなかった。
 隣の女子大生はすっと離れた。そして、俯いて体を強張らせている僕の背中をポンポンと軽く叩く。

「うん。見守ってたうちらは、きっと誰もそんなこと思わない。」

 驚いて女子大生を振り返れば、にっと口角を上げて笑っていた。そしてすぐに僕から視線を逸らして彼らを見つめる。僕も大人しくそれに倣った。

 僕らが話している間に、急速に場面は展開されていたようだ。何故か“彼女”が深々と頭を下げている。こんなに大勢の人間が見守る中、そんなことをさせたのか。あまりなその対応に僕はついに足に力を入れた。

「松永。これは一体どういうことだ。」

 僕は、すぐに身を引いた。その声に、冷や汗が流れるほどの恐れを感じたのだ。
 “彼”は怒っていた。彼らを観察し始めて2年目にして、初めて見る“彼”の怒りの表情だった。

 これは怖い。そう思ったのは僕だけではなかったようだ。隣の女子大生も視線を外して怯えたように顔を伏せていた。先ほどしてもらったように、肩をポンと叩いた。痴漢と言われるのが怖かったので一度だけだったが、僕の気持ちが伝わったらしい。ほっと体から力が抜けたようだった。

「もう一度聞く。どういうことだ。突然現れて警察等と、失礼にもほどがある」
「ですがその人は―――」
「なんだ」
「付きまとわれてるんじゃないんですか?」
「なんだその発想は。」
「だって瀬田さん。」
 車両内は信じられないほどの沈黙が広がっていた。みんな物音一つ立てずに、この修羅場の行方を見守ろうとしている。
 “彼”は、瀬田って名前なんだ。へぇと思っていたところで、“女性”の底意地の悪さが爆発した。

「2度もこの人に告白されてたじゃないですか。あれだけ関心を持ってもらえなかったのに、若いってすごいわねって部署内でも持ちきりですよ。」

 嘲笑交じりのその声に、車両内に同意する人間は一人もいない。これが“女性”のホームだったら、今頃同じように醜い笑顔を浮かべて同意する人間もいたかもしれないが、“彼女の恋を見守り隊”の面子を舐めないでいてもらいたい。残念ながら、“女性”がどれほど同意を求めるように周りを見渡していたとしても、貴方に同意するような隊員はここにはいなかった。

「……―――は?」

 逃げ出そうとしていた“彼女”をしっかりと繋ぎとめている“彼”が、素っ頓狂な声を出した。こちらこそ、『は?』である。今更、何を言っている。2度告白したのも、関心を持っていなかったのも、全部自分じゃないかと呆れた視線を送りたくなる。

「―――おい」
「…はい」

「まさかとは思うが、お前の“愛しの君”とやらは、俺か?」


 “愛しの君”?!


 車両内がガタガタっと揺れた。気付けばおじさんが、肩を震わせて俯いている。
 先ほどまで怖がっていた隣の女子大生も、懸命に漏れ出る笑いを噛み殺そうとしている。ここにいる全員に、この言葉は破壊力が凄まじかった。

 “彼女”は1年間、ただひたすらに“彼”を遠目に見続けた。決して近寄らず、決して声をかけず、決して触れず。“彼女”は自分の中に定めた不文律を乱さぬように、ただひっそりと、“彼”を見つめ続けた。


 その相手に、心の中で付けた名前が、“愛しの君”。


「―――はい」

 そして、認めた。認めてしまった。


 オジサンは持っていた経済新聞が鞄からずり落ちたにも拘らずに拾うことすらできない。僕も、もちろん隣の女子大生も拾ってやることができない。今動けば、噛み締めた歯の隙間から、確実に笑いが零れそうで。

「あのなぁ…そういうことは、早く言え」
「…はい」

 無茶を言う!
 一体、昨日彼らにどんな会話があったのかはわからない。『貴方のことはもう忘れて、今は“愛しの君”のことが好きなの。』なんて、“彼女”が言っていたのかもしれない。しかし、どんな内容があったにしろ、“愛しの君”なんて名づけた人間に、この呼称を知らせるのは相当な勇気が必要だろう。

「気を揉ませて悪かった。彼女は知り合いだから、君が気にすることじゃない。」
「…出過ぎたことをして申し訳ありません。」

 悔しそうに謝罪する“女性”に、ほんの少しばかり溜飲が下がる。しかし続けて“女性”に謝罪を要求しないところに心がもやっと騒いだ。結局は“女性”の方が大事なのかよ、とやさぐれそうになった僕と、冷たい“彼”の視線が重なった。

 え?今、目が。

 今度こそ、気のせいじゃない。僕は大慌てで単語帳の陰に隠れた。今目が合った。確かに合った。確実に合った。なんで、なんでと僕が焦るのと同じほど焦っているような、“彼”の声が聞こえる。

「降りるぞ」
「えっ、ここ、まだ降りる駅じゃ…」

 “彼女”の言う通り、ここはまだ“彼女”と“彼”の降りる駅ではない。修羅場に夢中で忘れていたが、乗り過ごした隊員もいるんじゃないだろうかと、僕は単語帳の陰から彼らを盗み見ながら隊員の心配をした。


「こんなギャラリーだらけの場所で、これ以上俺は一言も話したくない!」

 ばれてたのかっ!僕は再び単語帳に隠れた。気付けばオジサンも大慌てで回れ右をして景色を見始めるし、隣の女子大生はポケットから携帯を取り出して何度も何度もロックを外そうと四苦八苦していた。動揺しすぎてうまく手が動かないらしい。

 “彼女”はまるでひっとらえられた獲物のように、“彼”に引っ張られて電車を降りていった。

 去り際に見た、“彼”の耳の赤さから、悪いようにはならないのではないかと、僕はちょっと安心している。


 そして勢いに押されて乗り過ごしたが、なんだかほっこりした気持ちで電車を降りようとしていた僕の袖を引っ張る人物がいた。『うちの大学受験しなよ』と渡された大学名と電話番号の書かれたメモに、今度は僕がドギマギする番だった。









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