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3天界
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地上での初日任務を終えた後、ルシファーは一旦、天界に戻っていた。
圧倒的な静寂の中で、彼の胸の奥だけがざわめいていた。
深く息を吸っても、あの瞬間の記憶は消えない。
──血。
幼い王子の指先から滲んだ真紅を見た時、一瞬見惚れてしまった。
人ならざる自分には縁のない色だったから―――という理由だけでもなさそうだ。
確かに“あの血に魅せられ”、胸の奥が激しく疼いた。気のせいか、あの血に触れた時から、身体反応が強くなってきたように思える。
「……血か」
ルシファーは思わず呟き、しばし考え込んだ後、肩をすくめた。取り澄ました仮面を外し、短く息を吐く。
「考えてもわからないことは、経過を観察するしかない」
そう言いながらも、やはり気になる。すぐにでも、確かめずにはいられなかった。
任務の最中に、幼子相手に心が揺らぐなど──理解できないし、あってはならない。
向かったのは、親友ミカエルの館。
武を司る大天使は、翼を身体の中にしまいくつろいでいたようだが、穏やかな笑みで彼を迎えた。
通された部屋は彼自身の性格を表すように、飾りも何もないさっぱりとした部屋だ。
ルシファーの話を聞き終えたミカエルは、うーむと唸って首を傾げた。
「俺は血など見慣れているからなあ。戦場では、大地が海のように赤く染まることもあるんだ。血しぶきが顔にかかったこともある。
まあ、あれはあまり気持ちのいいものではないが、だからといって動揺したことはないな」
「……そうか」
ルシファーは何でもないことのように微笑んだ。いつもの、完璧に整えた微笑みで。
その裏で、掌が冷えていくのを感じていた。やはり、何かがおかしい。
「お前は今まで血を見たことがないのか?」
「ない。ただの知識として知っていただけだ」
ミカエルは苦笑した。
「神のお気に入りは違うな。確かにお前が戦場に送られることはないからな。いつも天界で天使たちの管理ばかりだろう?」
「そうだな、地上任務は初めてだ。お前はどんな任務が多いのだ?」
「戦場に行くことが多いな。俺の守護対象は指揮官や国の英雄がほとんどだ。前線に立つ一兵士の場合もある」
「戦う者を守るのは君らしい」
「か細い姫の守護よりは性に合っている。それに、天界で天使相手の仕事も真っ平ごめんだ。あいつら、好き勝手だからな」
「だろうな」
ふたりの間に、短い笑いが落ちる。
けれど、笑いのあとに訪れた沈黙は、やけに長く感じた。
戦場の血に比べれば、王子の指先の血など、ほんの一滴。
それに惑うなど軟弱すぎる──恥ずべきことだと思いながらも、落ち着かない。
忘れろ。そう思うたびに忘れられなくなるのはなぜだろう。
その刹那、
──光が弾けた。
ルシファーの脳裏に、ひとつの映像が流れ込む。
金髪の青年。よく見れば、成長したセドリック王子に似ている。
鋼のような身体、黄金の瞳。
あの幼子が、映像の中で、威厳をまとった青年になっていた。
その王子がゆっくりと近づく。
『ルシファー』
甘い声。
金の瞳に捉えられ、動けない。
距離が、眼前まで詰められる。
唇が触れた瞬間、微かな血の匂いと熱が、体内を焼いた。
「……っ!」
ルシファーは息を呑む。
映像は霧のように消えた。
だが胸の奥の熱だけが、残った。
(今のは……なんだ……?)
未来視?
そんな力は自分にはない。
突然、脳裏に流れ込む映像など、初めてだ。
だが、まさか──あれが未来に起こるのか?
胸の奥が冷たく凍る。
落ち着け。
王子の瞳は茶色だ。金ではない。
ならば今のは……幻想だ。疲れているのかもしれない。
(気にする必要はない……)
低く呟き、震えを抑えるため自分の身体を抱きしめた。
そのとき、沈黙していたミカエルの声が響く。
「だが王族の血……あれは特殊だ。俺も、王族の血は見たことがない。その中でもダルヴィア王族の血は最も特殊かもしれん。初代皇帝は人ではないと聞くからな」
「人でない? ではなんだ?」
「龍神だ」
ルシファーは目を見開いたが、何も言わなかった。
あの時、王子の血に触れてしまったことが悔やまれる。なにか、自分には想像もできないことが起こっているのかもしれない。
沈黙により、空気の温度がわずかに下がった。
別れ際、ルシファーは振り返った。
「ミカエル。君は未来視ができるか?」
「予測はできる。だが、未来を“見る”ことはない」
「突然、脳内で映像を見た経験は?」
「ない。……お前、見たのか?」
「いや、たぶん、気のせいだ」
ルシファーが立ち去ったあと、 静かな館にひとり残ったミカエルは、長い沈黙ののち、ぽつりと呟く。
「……ダルヴィアの血。龍の執着は、やっかいだ。あいつの任務、俺と代われぬものか」
その声は、誰にも届かぬほど低く沈んでいった。
圧倒的な静寂の中で、彼の胸の奥だけがざわめいていた。
深く息を吸っても、あの瞬間の記憶は消えない。
──血。
幼い王子の指先から滲んだ真紅を見た時、一瞬見惚れてしまった。
人ならざる自分には縁のない色だったから―――という理由だけでもなさそうだ。
確かに“あの血に魅せられ”、胸の奥が激しく疼いた。気のせいか、あの血に触れた時から、身体反応が強くなってきたように思える。
「……血か」
ルシファーは思わず呟き、しばし考え込んだ後、肩をすくめた。取り澄ました仮面を外し、短く息を吐く。
「考えてもわからないことは、経過を観察するしかない」
そう言いながらも、やはり気になる。すぐにでも、確かめずにはいられなかった。
任務の最中に、幼子相手に心が揺らぐなど──理解できないし、あってはならない。
向かったのは、親友ミカエルの館。
武を司る大天使は、翼を身体の中にしまいくつろいでいたようだが、穏やかな笑みで彼を迎えた。
通された部屋は彼自身の性格を表すように、飾りも何もないさっぱりとした部屋だ。
ルシファーの話を聞き終えたミカエルは、うーむと唸って首を傾げた。
「俺は血など見慣れているからなあ。戦場では、大地が海のように赤く染まることもあるんだ。血しぶきが顔にかかったこともある。
まあ、あれはあまり気持ちのいいものではないが、だからといって動揺したことはないな」
「……そうか」
ルシファーは何でもないことのように微笑んだ。いつもの、完璧に整えた微笑みで。
その裏で、掌が冷えていくのを感じていた。やはり、何かがおかしい。
「お前は今まで血を見たことがないのか?」
「ない。ただの知識として知っていただけだ」
ミカエルは苦笑した。
「神のお気に入りは違うな。確かにお前が戦場に送られることはないからな。いつも天界で天使たちの管理ばかりだろう?」
「そうだな、地上任務は初めてだ。お前はどんな任務が多いのだ?」
「戦場に行くことが多いな。俺の守護対象は指揮官や国の英雄がほとんどだ。前線に立つ一兵士の場合もある」
「戦う者を守るのは君らしい」
「か細い姫の守護よりは性に合っている。それに、天界で天使相手の仕事も真っ平ごめんだ。あいつら、好き勝手だからな」
「だろうな」
ふたりの間に、短い笑いが落ちる。
けれど、笑いのあとに訪れた沈黙は、やけに長く感じた。
戦場の血に比べれば、王子の指先の血など、ほんの一滴。
それに惑うなど軟弱すぎる──恥ずべきことだと思いながらも、落ち着かない。
忘れろ。そう思うたびに忘れられなくなるのはなぜだろう。
その刹那、
──光が弾けた。
ルシファーの脳裏に、ひとつの映像が流れ込む。
金髪の青年。よく見れば、成長したセドリック王子に似ている。
鋼のような身体、黄金の瞳。
あの幼子が、映像の中で、威厳をまとった青年になっていた。
その王子がゆっくりと近づく。
『ルシファー』
甘い声。
金の瞳に捉えられ、動けない。
距離が、眼前まで詰められる。
唇が触れた瞬間、微かな血の匂いと熱が、体内を焼いた。
「……っ!」
ルシファーは息を呑む。
映像は霧のように消えた。
だが胸の奥の熱だけが、残った。
(今のは……なんだ……?)
未来視?
そんな力は自分にはない。
突然、脳裏に流れ込む映像など、初めてだ。
だが、まさか──あれが未来に起こるのか?
胸の奥が冷たく凍る。
落ち着け。
王子の瞳は茶色だ。金ではない。
ならば今のは……幻想だ。疲れているのかもしれない。
(気にする必要はない……)
低く呟き、震えを抑えるため自分の身体を抱きしめた。
そのとき、沈黙していたミカエルの声が響く。
「だが王族の血……あれは特殊だ。俺も、王族の血は見たことがない。その中でもダルヴィア王族の血は最も特殊かもしれん。初代皇帝は人ではないと聞くからな」
「人でない? ではなんだ?」
「龍神だ」
ルシファーは目を見開いたが、何も言わなかった。
あの時、王子の血に触れてしまったことが悔やまれる。なにか、自分には想像もできないことが起こっているのかもしれない。
沈黙により、空気の温度がわずかに下がった。
別れ際、ルシファーは振り返った。
「ミカエル。君は未来視ができるか?」
「予測はできる。だが、未来を“見る”ことはない」
「突然、脳内で映像を見た経験は?」
「ない。……お前、見たのか?」
「いや、たぶん、気のせいだ」
ルシファーが立ち去ったあと、 静かな館にひとり残ったミカエルは、長い沈黙ののち、ぽつりと呟く。
「……ダルヴィアの血。龍の執着は、やっかいだ。あいつの任務、俺と代われぬものか」
その声は、誰にも届かぬほど低く沈んでいった。
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