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王宮がざわめいていた。
他国の姫との縁談が、王子のもとへ舞い込んだのだ。
侍女たちが嬉々として噂を交わし、文官が次々と書簡を運ぶ。
その喧騒の中で、ルシファーはひとり、静かに胸を撫で下ろしていた。
これでセドリックも、安らかな日常を手に入れるだろう。
もう私がいなくても大丈夫だ。任務も終了だ。
そう思えば、胸の奥にかすかな安堵が灯る。
「おめでとう、セドリック」
笑顔でそう言った瞬間、王子の表情が固まった。
目の奥が、何かを失った子どものように揺れていた。
「……ルー、それ、本気で言ってるの?」
「もちろんだ。お前にふさわしい相手が現れたのだから」
言葉の刃が空気を裂いた。
次の瞬間、セドリックは一歩踏み込み、ルシファーとの距離を詰めた。
逃げ場を探す間もなく、真っ直ぐな瞳に捕らえられる。
いつの間に、こんな目で見るようになったのだろう。
かつて胸までしかなかった少年が、今は自分を見下ろしている。
肩越しに光る髪、低く落ちた声。
すべてが、彼の成長を雄弁に語っていた。
「僕はルーがいい。他の誰でもなく、ルーじゃなきゃ嫌だ」
胸がきゅっと縮む。
呼吸が浅くなる。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「セドリック、何を――」
「いつまでも守護天使と対象者の関係で逃げられると思うな。僕はもう大人だ。自分の欲しいものくらい、わかっている」
その声には鋭さと痛みが入り混じっていた。
命令のように突きつけられた言葉の端に、どうしようもない孤独が滲んでいる。
やがて彼は、かすれる声で言った。
「……酷いことをいって、悪かった。好きなんだ。僕を捨てないでくれ」
静寂が降りた。
ルシファーは息を整え、冷ややかに言葉を紡ぐ。
「……セドリック、戯れはよせ。お前を守る任務が終われば、私は天界に帰る。それ以上の関係など、ありえない」
冷たい声を選んだのは、自分とそれ以上にセドリックを守るためだった。
けれど胸の奥では、何かが崩れ始めていた。
なぜこんなにも心が痛むのか。
彼を拒むたびに、自分が少しずつ壊れていく気がした。
「……ルー。何度でも言う。好きだ。ずっと一緒にいてほしい」
その声が、記憶の底を呼び覚ます。
石造りの塔。
鎖に繋がれ、震えていた自分。
差し込む光の中に立つ王子の影。
伸ばされた手。
その先にある熱と狂気が、肌を焼くように迫る。
胸の奥が凍りつく。
(現実に起これば最悪だ――)
息が詰まり、逃げるように翼を広げた。
心は拒絶を叫んでいるのに、体の奥では震えが止まらない。
「もうこれ以上は……。お前のためにならない」
そう呟くと、踵を返しバルコニーへ走った。驚愕するセドリックを振り返らず、翼を広げ空へと消えた。
「ルシファー! 戻って来て!」
残された部屋には、彼の名を呼ぶかすかな声だけが漂っていた。
光の中を、ルシファーは矢のように駆け上がっていく。
天へ、さらにその上へ――
けれど昇るほどに、胸の内側が軋む。
(これでいい。これで、いいはずだ)
繰り返し心に言い聞かせながらも、息が苦しい。
天界の空気は澄みきっているのに、肺の奥が焼けるようだった。
ルシファーは知っていた。
あの声を聞いた瞬間から、もう何もかも手遅れなのだと。
守護天使としての理性も、天の掟も、いまや意味をなさない。
胸の奥に沈んだ熱が、形を持ちはじめる。
名を与えられたかのように、ひとつの鼓動を打つ。
――セドリック。
その名が脳裏を過った瞬間、赤と黒の世界が弾けた。
愛する人を失った王子が、嘆きと哀しみで叫んでいる。
(これは……龍の血が暴走しているのか?)
胸が締めつけられる。
あの穏やかだった少年を、こんな風に変えてしまうなど――
(もし、私が帰らなければ、彼はどうなる?)
息が止まった。
——そして、呼ばれた。
声ではなく、魂を直接掴まれるような衝動。
(ルー……いやだ……帰って来てくれ)
聞こえた。確かに。
あの柔らかい声で、あのどうしようもなく切実な響きで。
(ルー……君がいないと駄目なんだ……)
ルシファーは両手で胸を押さえた。
心臓が暴れ、翼が熱を帯びる。
先に見える天界の光が、痛いほどに眩しい。
「ルシファー!」
「……やめろ」
声が震えた。
「そんな声で名を呼ぶな。私はもう、お前の傍には――」
ルシファーはもう既に彼を愛していることに気づいていた。
それは、神に向ける愛とは、また違うものだった。
彼方に見える光に向かい、ルシファーは一心に羽ばたいた。
他国の姫との縁談が、王子のもとへ舞い込んだのだ。
侍女たちが嬉々として噂を交わし、文官が次々と書簡を運ぶ。
その喧騒の中で、ルシファーはひとり、静かに胸を撫で下ろしていた。
これでセドリックも、安らかな日常を手に入れるだろう。
もう私がいなくても大丈夫だ。任務も終了だ。
そう思えば、胸の奥にかすかな安堵が灯る。
「おめでとう、セドリック」
笑顔でそう言った瞬間、王子の表情が固まった。
目の奥が、何かを失った子どものように揺れていた。
「……ルー、それ、本気で言ってるの?」
「もちろんだ。お前にふさわしい相手が現れたのだから」
言葉の刃が空気を裂いた。
次の瞬間、セドリックは一歩踏み込み、ルシファーとの距離を詰めた。
逃げ場を探す間もなく、真っ直ぐな瞳に捕らえられる。
いつの間に、こんな目で見るようになったのだろう。
かつて胸までしかなかった少年が、今は自分を見下ろしている。
肩越しに光る髪、低く落ちた声。
すべてが、彼の成長を雄弁に語っていた。
「僕はルーがいい。他の誰でもなく、ルーじゃなきゃ嫌だ」
胸がきゅっと縮む。
呼吸が浅くなる。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「セドリック、何を――」
「いつまでも守護天使と対象者の関係で逃げられると思うな。僕はもう大人だ。自分の欲しいものくらい、わかっている」
その声には鋭さと痛みが入り混じっていた。
命令のように突きつけられた言葉の端に、どうしようもない孤独が滲んでいる。
やがて彼は、かすれる声で言った。
「……酷いことをいって、悪かった。好きなんだ。僕を捨てないでくれ」
静寂が降りた。
ルシファーは息を整え、冷ややかに言葉を紡ぐ。
「……セドリック、戯れはよせ。お前を守る任務が終われば、私は天界に帰る。それ以上の関係など、ありえない」
冷たい声を選んだのは、自分とそれ以上にセドリックを守るためだった。
けれど胸の奥では、何かが崩れ始めていた。
なぜこんなにも心が痛むのか。
彼を拒むたびに、自分が少しずつ壊れていく気がした。
「……ルー。何度でも言う。好きだ。ずっと一緒にいてほしい」
その声が、記憶の底を呼び覚ます。
石造りの塔。
鎖に繋がれ、震えていた自分。
差し込む光の中に立つ王子の影。
伸ばされた手。
その先にある熱と狂気が、肌を焼くように迫る。
胸の奥が凍りつく。
(現実に起これば最悪だ――)
息が詰まり、逃げるように翼を広げた。
心は拒絶を叫んでいるのに、体の奥では震えが止まらない。
「もうこれ以上は……。お前のためにならない」
そう呟くと、踵を返しバルコニーへ走った。驚愕するセドリックを振り返らず、翼を広げ空へと消えた。
「ルシファー! 戻って来て!」
残された部屋には、彼の名を呼ぶかすかな声だけが漂っていた。
光の中を、ルシファーは矢のように駆け上がっていく。
天へ、さらにその上へ――
けれど昇るほどに、胸の内側が軋む。
(これでいい。これで、いいはずだ)
繰り返し心に言い聞かせながらも、息が苦しい。
天界の空気は澄みきっているのに、肺の奥が焼けるようだった。
ルシファーは知っていた。
あの声を聞いた瞬間から、もう何もかも手遅れなのだと。
守護天使としての理性も、天の掟も、いまや意味をなさない。
胸の奥に沈んだ熱が、形を持ちはじめる。
名を与えられたかのように、ひとつの鼓動を打つ。
――セドリック。
その名が脳裏を過った瞬間、赤と黒の世界が弾けた。
愛する人を失った王子が、嘆きと哀しみで叫んでいる。
(これは……龍の血が暴走しているのか?)
胸が締めつけられる。
あの穏やかだった少年を、こんな風に変えてしまうなど――
(もし、私が帰らなければ、彼はどうなる?)
息が止まった。
——そして、呼ばれた。
声ではなく、魂を直接掴まれるような衝動。
(ルー……いやだ……帰って来てくれ)
聞こえた。確かに。
あの柔らかい声で、あのどうしようもなく切実な響きで。
(ルー……君がいないと駄目なんだ……)
ルシファーは両手で胸を押さえた。
心臓が暴れ、翼が熱を帯びる。
先に見える天界の光が、痛いほどに眩しい。
「ルシファー!」
「……やめろ」
声が震えた。
「そんな声で名を呼ぶな。私はもう、お前の傍には――」
ルシファーはもう既に彼を愛していることに気づいていた。
それは、神に向ける愛とは、また違うものだった。
彼方に見える光に向かい、ルシファーは一心に羽ばたいた。
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