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第五章

婚約への後悔1(ユリウス視点)

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 明るく晴れた春の日。アンダーサン公爵家の庭園にあるブランコをそっと押しながら、ブランコに乗ったレインと一緒に花を見ていた。そこは、タンポポが咲き誇り、愛らしい庭になっていた。
 あの頃だいぶ健康になってきていたレインの目は、陽の光が当たると美しい虹が、より濃く現れるようになった。

「私は奴隷です、ゆ……お兄様」
「奴隷じゃないよ。君は僕の大切なお姫様だ」

 いつだって、奴隷だった時を思いだして不安そうに揺れる目に、守ってやりたくてその小さな体を抱きしめたのをよく覚えている。レインの体は細く、華奢で、いい香りがした。花のような、ミルクのような香りだった。

「雨の日に見つけたから、君はレインというんだよ。……雨の日があれば、そのあとには虹が出る。虹が幸せをつかさどるというのは、君も知っているだろう?」

 そう言ったのは本心からだ。彼女の本名、イリスレインという名前は、記憶のない公爵家の養女につけるには仰々しすぎて、イリスレインの素性を世間にばらしてしまいかねなかった。

 だからイリスレインの記憶がないのをいいことに、彼女に適当な名前を付けたのだ。
 その必要があったから。けれどどうしても、イリスレインという、誰もが慈しんだ彼女のかけらを残したくて、残してやりたくて、レイン、という彼女の愛称をとって名前にした。

 雨が降れば虹が出る。そう言う意味の名前は、ユリウスのせいでただの雨になってしまった。

 ――レインはユリウスの慈雨だった。

 やっと見つけた彼女は痩せやつれて、あの薔薇色の頬も、美しいつやつやとした髪も、白い手も何もかもを失っていたけれど、あの美しい目に灯る優しい色だけはあの頃と同じだった。レインを救い出したあとは、そのぼろぼろの姿を見てタンベット男爵に殺意すら湧いた。

 だが、幸せに不慣れなレインをいつくしんで大切にすることは、ユリウスにとって幸せなものでもあった。

 レインは姫君であり、本来なら何百人もの人間に傅かれるはずの彼女が、お兄様、とユリウスだけに懐き、甘えてくれることはユリウスの喜びだ。そんな彼女が学園へ行き、婚約者であるオリバーに不遇な扱いを受けていると聞いて、オリバーの暗殺を真剣に考える程度には、ユリウスはレインを何より大切にしていた。

「はあ……」
「自分で決めたことなのに、後悔してるんだろ」

 そんな気持ちにベンジャミンが追い打ちをかける。
 わかっている。わかっているとも。

 この状態を招いたのはユリウスの決断だ。ユリウスが、オリバーの伴侶にレインを、という申し出を受け入れていなければ、レインはあの目の光を陰らせることもなかっただろう。
 ユリウスは、国中を飛び回って、レインの誘拐事件の背景について調査している父である前公爵からの報告書に視線を落とした。

「なあ、ベン。コックス子爵令嬢の母親と王家の接点はなんだ」
「もう知ってるんでしょうに、俺に聞くんですか。……皆無ですよ。皆無。ただ、ここ最近、新興貴族や下級貴族の間の茶会に顔を出してるコックス子爵夫人はやたら自信に満ち溢れてるらしく、妄言を吐いては苦笑されてるって話ですが」
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