R18 短編集

上島治麻

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12ー3

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どんなに最低な男だとしても、貴方を嫌いになる選択肢はなかった。
嫌いになれたら、きっと切なくてたまらなくなる。
どんなに痛くたっていい。貴方への気持ちを忘れたくない。
だから、どんな我慢だってする。
貴方が誰のものだっていい。俺の事を所有してくれているなら。



(気付いてる…はずだけど)

 首筋にはまだ2日前のキスマークが残っている。
だが、彼はその事について何も切り出したりしなかった。
もともと無口な彼だけれど、後ろめたい事があると余計に気になってしまう。
何を考えて、何を求めているんだろうか。
考えれば考えるほど、深みに嵌っていく気がした。

「ん……っ、あ」

 逢引の場所は決まってこの会議室。
ここは彼の管轄だから、鍵をかけて使用中にしてしまえば誰も侵入は出来ない。
二人きりになれて嬉しいはずなのに、昨日から心の靄は晴れそうになかった。
もう時期が来ているのだろう。

(はっきり…聞いてみたい)

 感情が、零れる。
彼が受け止めてくれるだなんて思ってもいないのに、儚い期待を抱く自分が浅はかだと笑いたくもなった。
 首筋に埋められていた顔をどうにか上げさせる。
不思議そうな不満そうな視線が、不躾にあげられた。
俺はひとつ呼吸を置いて、服装の乱れを直す。

「あの…話したい事があるんですが」

「何だ」

「っ…、手、止めて下さい」

「…」

まだ行為を続けようとする彼をきつく牽制する。
ぶすっとした顔をして、彼はようやく身体を離した。

(ほんっとにこの人は…)

「仕事の話か?」

「いえ。貴方の事です」

シャツのボタンを留めて、ネクタイを締めなおした。
今日はするつもりはない、とはっきりと態度で示してみる。
すると彼の方も、少し緩んでいたネクタイをきつく締めて、上司の顔へと戻った。
緩やかな仕草で会議用の椅子に腰掛ける彼を見ると、どうも話がしづらくなる。
けれど、視線は逸らしたくなかった。

「…」

聞きたいと思っていた言葉が、心の中をぐるぐると駆け巡る。でも何から言葉にしていいのか分からない。
無言のままで居ると、珍しく彼が口を開いた。

「昨日から、様子がおかしいな」

(そういう事は気付いてるのか…)

 てっきり気付かれていないと、自分のことはセックスの対象でしか見られていないと思っていたから、彼の口から飛び出した言葉に心臓が跳ねる。
ドキドキと脈打つ胸元を押さえ、俺は俯いた。

「……別れ話でもしたいか」

「ち、違いますっ…」

はじかれたように、思わず答えてしまっていた。
別れるつもりなんてない。どうなったって。

「だったら何だ」

「あ、の…」

だが、だったら何を確かめたいのかが分からなくて、二の次が詰まってしまう。
彼はまだ瞳に疑問を浮かべたまま、こちらを見つめていたから、困惑しきった顔を隠す為、利き手で額を覆う。

「っ…そのキスマーク…、誰にもばれなかったんですか」

「言いたいことがあるならはっきり言え」

「貴方の、奥さんに…」

自分でも自分の首を絞めているみたいだ、と思う。
こんなにも張り裂けそうに痛むのは、未来を予測できるからだ。
奥さんの話を切り出されて、迷惑がらない男なんていない。
気軽なセックスが、これでは確信的なものになってしまうから。

(俺は何を…)

「奥さん?」

「ば、れなかったんですか…?」

「何を、言ってるんだ」

「何って…」

自分でだって分からなくなっていた。
貴方を独り占めにしたい気持ちを、抑えているのが限界で。
でもきっと、そんな気持ちを伝えれば捨てられてしまうのは自分の方だと分かりきっているのに。

(こうなるとワガママになるって、本当だな…)

 いつかの誰かの言葉が心によみがえる。
墓穴そのものの状況に、涙さえ出せなくて彼の瞳をただ見つめた。
全部伝えるように、彼の顔を見つめる。
もうこうして見つめられないかも知れない、と考えると胸が痛んだ。

「それが聞きたかったことか?私の、妻…」

「分かりません…」

「君は、本当に可愛い」

「やめてくださいっ、こんな時に…っ」

彼はふ、と酷薄そうな唇を歪めた。
楽しそう、と形容するのが正しい表情に、からかわれているのだろうと思った俺は恥ずかしくなって唇を噛む。
少し距離をとっていた二人の間を、彼が縮めた。
こつ、と床を踏んで俺の腕を掴む。

「何か勘違いしているみたいだが、私は未婚だ」

「……嘘、つかなくてもいいです」

「何故嘘をつく必要があるんだ」

「…だって」

(見た、から…)

 数ヶ月前、若い女性と小さな子供を連れて歩く普段着の彼を。
自分の知らない彼だった。
こんなにも素敵な人が未婚だとは思っていなかったから、その瞬間は不思議と傷つかなかった。
ただ、真実を何も伝えられていなかった事に酷く痛んだだけだった。

「誰かに聞いたのか?」

「見たんですよ…っ」

自棄気味に叫ぶ。
この後に及んで隠されると、余計に辛くなるから。

「貴方が、商店街を歩いてるとこ…か、家族連れで」

「…いつの話だ?」

「だ、から…1ヶ月前ぐらいに…駅前の」

「…それだけで私の妻だと思ったのか。本当に馬鹿だな君は」

「っ、そんなこと!分かってますよ…!貴方が既婚者でも俺は」

言いかけた唇に、彼の人差し指が触れた。

「違う。そういう意味じゃない」

今にも泣きそうな顔をしていたんだろう。
俺の顔を見て、彼は言いよどむ仕草を見せる。
薄く形のいい唇。何度もキスして、何度も…。
それが開けば意地悪ばかり。
次はなんと言われるのだろうか。俺の胸は張り裂けてしまいそうになる。

「…証拠を見せればいいんだろう」

「…え、な、何を…?」

強く腕を引かれる。
彼は俺を強引に会議室から連れ出して、不思議がる同僚を目に車の助手席へと押し込んだ。

「課長、仕事が…」

「そんなこと、前からしてないだろう」

「そんなことって」

(そりゃしてないけど…)

何処へ向かうか分からない。
シートベルトを、と言ったきり黙りこむ横顔に答えも求められないまま、車は静かに走り出した。 
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