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黒い泥
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その日、イザナギの寝所の様子がおかしかった。
ナオビが駆けつけたときには、寝台からは黒い泥のようなものが滴り、床を汚していた。
床に広がる黒い泥の中心、沼地のようになった場所に、マガツヒは蹲っていた。黒い泥に浸り、赤い髪は根元近くまで泥の色に染まっていた。
その傍に、イザナギがいた。跪き、マガツヒの背を優しく撫でている。
ナオビは思わず駆け寄った。
「ナオビ」
イザナギの声は硬かった。ナオビは只事でないことを察して身を固くした。
「はい」
「しばらくここを空けるから、マガツヒのことを頼むね」
「……はい」
「いい子だ。早く帰ってくるからね」
踵を返したイザナギを見送ったナオビは、マガツヒの元に駆け寄った。
床に広がる泥が、ナオビの白い足を汚した。
「っう、えッ……」
苦しげな声を上げ、黒い泥を吐くマガツヒ。
ぼた、びしゃ、と聞くに堪えない音を立て、マガツヒの口から黒い泥のようなものが溢れる。
「マガツヒ」
マガツヒも、何が起きているのかわかっていないようだった。
「なお、び、っ、ぅ、え」
身体と同じ色の泥のようなものが、マガツヒの口から止めどなく溢れてくる。マガツヒの周りは黒い泥が溜まり、沼のようになっていた。
「マガツヒ」
泣きながら何度も黒い泥を吐き続けるマガツヒに、ナオビは背をさすってやるしかできなかった。
「っえ、やだ、ナオビ」
ナオビを呼び、泣きながらえずくマガツヒを、直してやれないのがもどかしかった。
「あう」
マガツヒが苦しげに喘ぐ。
金色の双眸は濡れ、頬をいく筋も涙が伝い落ちていた。
「んう、なおび……」
「大丈夫だ、マガツヒ」
「苦しい、たすけて、なおび」
小さく蹲って震えるマガツヒを抱きしめてやるしかできなかった。
ナオビの白い身体と衣は、マガツヒの吐き出す泥でマガツヒと同じ色に染まっていく。
ナオビが抱きしめてやると、マガツヒは少し楽になったのかすり寄ってきた。嬉しそうに頬を擦り付け、浅く息をついて濡れた瞳を伏せた。
マガツヒを抱きしめ、ナオビはただ、イザナギの戻りを待つしか出来なかった。
マガツヒは苦しかった。自分の中で、自分ではない誰かが嘆き、怒り、哀しみ、喚いている。叫んでいる。声は聞こえるのに、何を言っているのかはわからなかった。ただ内に轟くような声色がずっと響いて、マガツヒを揺らす。
ただ、それがよくないものだとわかった。
どす黒い、昏いものが、腹の底から湧いてくる。生温かく腑を満たして、逆流する。
口から溢れたそれは、自分よりもずっと昏い色をしているように思えた。
それが何か、マガツヒにはわからない。
それでも、叫びが聞こえるたび、それは腹から湧いて、口から溢れた。
「あ、う」
苦しかった。
身体が動かない。
目の前も霞んで、よく見えない。
あのひとの声も、聞こえない。
「たすけて」
声が掠れる。声が出ているのかもわからない。
そんなマガツヒを、白い腕が抱きしめてくれた。あのひとのような、でもあのひとよりも少し頼りない腕。
温かな腕に抱かれると、内に響く叫びは少しだけ遠のいた。腹の底の昏い渦は緩やかにおさまり、静かになった
「なおび」
腕の主を呼ぶ。縋りつきたいのに、身体が動かせない。なんとか身体を擦り付けて、喜びを伝える。
「大丈夫だ、マガツヒ」
静かな声に、安堵する。
ナオビがそこにいてくれることが、抱きしめてくれることが嬉しかった。
それからも、度々マガツヒは泥のようなものを吐き出した。
来る日も来る日も、眠って、起きては吐くことの繰り返しだった。
マガツヒは日に日に弱っていく。
どうしてマガツヒがこうなってしまったのか、ナオビには見当もつかなかった。
イザナギは、まだ戻らない。このまま、戻ってこないのではないかと不安になった。
一日中、ただマガツヒを抱きしめて撫でてやるしかできなかった。
それからどれくらい経ったか、ナオビにはわからなかった。マガツヒはほとんど吐くことは無くなったが、代わりに深く眠っているようだった。身体はすっかり痩せ細り、あちこちに骨が浮いて見える。
黒い沼地のようになったその場所で、ナオビはマガツヒを抱きしめていた。
「マガツヒ、ナオビ」
美しい声に、ナオビが顔を上げる。そこには覚えのある美しい神がいた。
「イザナギさま」
黒い泥に塗れ、ぐったりと身体を預けるマガツヒと、そんなマガツヒを抱きしめる憔悴しきったナオビを見て、イザナギはナオビの頭を優しく撫でた。
「大丈夫かい、ナオビ」
「イザナギさま、マガツヒは……」
「スサノオの影響だ。もう大丈夫だよ」
「スサノオ」
ナオビは知っていた。イザナギから生まれた、高貴な三人のうちの一人。それがどう繋がっているのか、ナオビにはわからなかった。
「スサノオは遠くに行った。だからもう大丈夫だよ」
「はい」
黒い泥に塗れた二人を見て、イザナギは慈しむような穏やかな笑みを浮かべた。
「二人とも、湯殿へ行こうか」
ナオビはマガツヒを抱いたまま、ふらつきながら立ち上がる。イザナギに支えられ、立ち上がったナオビの腕からイザナギはマガツヒを抱き上げる。
イザナギに手を引かれ、ナオビは湯殿へ向かう。身体が重い。泥を吸っただけではない。疲れていた。終わりの見えない不安を抱えるのは初めてだった。そもそも、不安という感情を抱くのが初めてだった。そんなナオビも気遣いながら、イザナギは湯殿への廊下を進む。
湯殿では、すべてイザナギが世話をしてくれた。汚れた身体を洗い流し、髪を洗い、マガツヒも同じように洗い清めていく。
「疲れただろう、ナオビ。ありがとう。マガツヒのことは、もう心配いらないよ」
頭を撫でられ、労いの言葉がかけられる。
嬉しかった。
なにより、もうマガツヒが苦しまなくていいのだと、安堵した。
身を清めると、別の部屋に通された。そこは今までとは別の寝所のようだった。
眠ったままのマガツヒは寝台に横たえられ、ナオビも傍らの寝台で休むよう言われた。
「イザナギさま」
寝台に上がったナオビはイザナギを見上げた。
「マガツヒは、スサノオさまと関係があるのですか」
ナオビはマガツヒとスサノオの関係を知らない。素朴な問いだった。
「マガツヒの魂は、スサノオの負の波長に共鳴しやすいんだ」
苦しげに、黒い泥を吐いていたマガツヒを思い出す。あの黒い泥は、スサノオの負の波長に共鳴して生じたもの、ということだった。
「スサノオは、もう遠くへ行ったから、もう心配ないよ」
イザナギがそういうのなら、大丈夫なのだろう。もう、マガツヒは影響を受けない。
「おやすみ、ナオビ」
ナオビは、マガツヒの生んだ災いを直す。
直すと言うのかどういうことか、ナオビにはまだわからなかった。
ただ、マガツヒを悲しませたり苦しめたりするようなことなら、そんな日は永遠にこなければいいのにと思いながら、ナオビは目を閉じた。
「マガツヒは、ここからは追放しないし、させないよ。ナオビ」
そんなイザナギの声を聞きながら、ナオビの意識は緩やかに溶け出していった。
後にナオビが聞かされたのは、スサノオは神々の土地、高天原を追放されたということだった。
ナオビが駆けつけたときには、寝台からは黒い泥のようなものが滴り、床を汚していた。
床に広がる黒い泥の中心、沼地のようになった場所に、マガツヒは蹲っていた。黒い泥に浸り、赤い髪は根元近くまで泥の色に染まっていた。
その傍に、イザナギがいた。跪き、マガツヒの背を優しく撫でている。
ナオビは思わず駆け寄った。
「ナオビ」
イザナギの声は硬かった。ナオビは只事でないことを察して身を固くした。
「はい」
「しばらくここを空けるから、マガツヒのことを頼むね」
「……はい」
「いい子だ。早く帰ってくるからね」
踵を返したイザナギを見送ったナオビは、マガツヒの元に駆け寄った。
床に広がる泥が、ナオビの白い足を汚した。
「っう、えッ……」
苦しげな声を上げ、黒い泥を吐くマガツヒ。
ぼた、びしゃ、と聞くに堪えない音を立て、マガツヒの口から黒い泥のようなものが溢れる。
「マガツヒ」
マガツヒも、何が起きているのかわかっていないようだった。
「なお、び、っ、ぅ、え」
身体と同じ色の泥のようなものが、マガツヒの口から止めどなく溢れてくる。マガツヒの周りは黒い泥が溜まり、沼のようになっていた。
「マガツヒ」
泣きながら何度も黒い泥を吐き続けるマガツヒに、ナオビは背をさすってやるしかできなかった。
「っえ、やだ、ナオビ」
ナオビを呼び、泣きながらえずくマガツヒを、直してやれないのがもどかしかった。
「あう」
マガツヒが苦しげに喘ぐ。
金色の双眸は濡れ、頬をいく筋も涙が伝い落ちていた。
「んう、なおび……」
「大丈夫だ、マガツヒ」
「苦しい、たすけて、なおび」
小さく蹲って震えるマガツヒを抱きしめてやるしかできなかった。
ナオビの白い身体と衣は、マガツヒの吐き出す泥でマガツヒと同じ色に染まっていく。
ナオビが抱きしめてやると、マガツヒは少し楽になったのかすり寄ってきた。嬉しそうに頬を擦り付け、浅く息をついて濡れた瞳を伏せた。
マガツヒを抱きしめ、ナオビはただ、イザナギの戻りを待つしか出来なかった。
マガツヒは苦しかった。自分の中で、自分ではない誰かが嘆き、怒り、哀しみ、喚いている。叫んでいる。声は聞こえるのに、何を言っているのかはわからなかった。ただ内に轟くような声色がずっと響いて、マガツヒを揺らす。
ただ、それがよくないものだとわかった。
どす黒い、昏いものが、腹の底から湧いてくる。生温かく腑を満たして、逆流する。
口から溢れたそれは、自分よりもずっと昏い色をしているように思えた。
それが何か、マガツヒにはわからない。
それでも、叫びが聞こえるたび、それは腹から湧いて、口から溢れた。
「あ、う」
苦しかった。
身体が動かない。
目の前も霞んで、よく見えない。
あのひとの声も、聞こえない。
「たすけて」
声が掠れる。声が出ているのかもわからない。
そんなマガツヒを、白い腕が抱きしめてくれた。あのひとのような、でもあのひとよりも少し頼りない腕。
温かな腕に抱かれると、内に響く叫びは少しだけ遠のいた。腹の底の昏い渦は緩やかにおさまり、静かになった
「なおび」
腕の主を呼ぶ。縋りつきたいのに、身体が動かせない。なんとか身体を擦り付けて、喜びを伝える。
「大丈夫だ、マガツヒ」
静かな声に、安堵する。
ナオビがそこにいてくれることが、抱きしめてくれることが嬉しかった。
それからも、度々マガツヒは泥のようなものを吐き出した。
来る日も来る日も、眠って、起きては吐くことの繰り返しだった。
マガツヒは日に日に弱っていく。
どうしてマガツヒがこうなってしまったのか、ナオビには見当もつかなかった。
イザナギは、まだ戻らない。このまま、戻ってこないのではないかと不安になった。
一日中、ただマガツヒを抱きしめて撫でてやるしかできなかった。
それからどれくらい経ったか、ナオビにはわからなかった。マガツヒはほとんど吐くことは無くなったが、代わりに深く眠っているようだった。身体はすっかり痩せ細り、あちこちに骨が浮いて見える。
黒い沼地のようになったその場所で、ナオビはマガツヒを抱きしめていた。
「マガツヒ、ナオビ」
美しい声に、ナオビが顔を上げる。そこには覚えのある美しい神がいた。
「イザナギさま」
黒い泥に塗れ、ぐったりと身体を預けるマガツヒと、そんなマガツヒを抱きしめる憔悴しきったナオビを見て、イザナギはナオビの頭を優しく撫でた。
「大丈夫かい、ナオビ」
「イザナギさま、マガツヒは……」
「スサノオの影響だ。もう大丈夫だよ」
「スサノオ」
ナオビは知っていた。イザナギから生まれた、高貴な三人のうちの一人。それがどう繋がっているのか、ナオビにはわからなかった。
「スサノオは遠くに行った。だからもう大丈夫だよ」
「はい」
黒い泥に塗れた二人を見て、イザナギは慈しむような穏やかな笑みを浮かべた。
「二人とも、湯殿へ行こうか」
ナオビはマガツヒを抱いたまま、ふらつきながら立ち上がる。イザナギに支えられ、立ち上がったナオビの腕からイザナギはマガツヒを抱き上げる。
イザナギに手を引かれ、ナオビは湯殿へ向かう。身体が重い。泥を吸っただけではない。疲れていた。終わりの見えない不安を抱えるのは初めてだった。そもそも、不安という感情を抱くのが初めてだった。そんなナオビも気遣いながら、イザナギは湯殿への廊下を進む。
湯殿では、すべてイザナギが世話をしてくれた。汚れた身体を洗い流し、髪を洗い、マガツヒも同じように洗い清めていく。
「疲れただろう、ナオビ。ありがとう。マガツヒのことは、もう心配いらないよ」
頭を撫でられ、労いの言葉がかけられる。
嬉しかった。
なにより、もうマガツヒが苦しまなくていいのだと、安堵した。
身を清めると、別の部屋に通された。そこは今までとは別の寝所のようだった。
眠ったままのマガツヒは寝台に横たえられ、ナオビも傍らの寝台で休むよう言われた。
「イザナギさま」
寝台に上がったナオビはイザナギを見上げた。
「マガツヒは、スサノオさまと関係があるのですか」
ナオビはマガツヒとスサノオの関係を知らない。素朴な問いだった。
「マガツヒの魂は、スサノオの負の波長に共鳴しやすいんだ」
苦しげに、黒い泥を吐いていたマガツヒを思い出す。あの黒い泥は、スサノオの負の波長に共鳴して生じたもの、ということだった。
「スサノオは、もう遠くへ行ったから、もう心配ないよ」
イザナギがそういうのなら、大丈夫なのだろう。もう、マガツヒは影響を受けない。
「おやすみ、ナオビ」
ナオビは、マガツヒの生んだ災いを直す。
直すと言うのかどういうことか、ナオビにはまだわからなかった。
ただ、マガツヒを悲しませたり苦しめたりするようなことなら、そんな日は永遠にこなければいいのにと思いながら、ナオビは目を閉じた。
「マガツヒは、ここからは追放しないし、させないよ。ナオビ」
そんなイザナギの声を聞きながら、ナオビの意識は緩やかに溶け出していった。
後にナオビが聞かされたのは、スサノオは神々の土地、高天原を追放されたということだった。
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