かみうみ異譚

はち

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黒い泥

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 その日、イザナギの寝所の様子がおかしかった。
 ナオビが駆けつけたときには、寝台からは黒い泥のようなものが滴り、床を汚していた。
 床に広がる黒い泥の中心、沼地のようになった場所に、マガツヒは蹲っていた。黒い泥に浸り、赤い髪は根元近くまで泥の色に染まっていた。
 その傍に、イザナギがいた。跪き、マガツヒの背を優しく撫でている。
 ナオビは思わず駆け寄った。

「ナオビ」

 イザナギの声は硬かった。ナオビは只事でないことを察して身を固くした。

「はい」
「しばらくここを空けるから、マガツヒのことを頼むね」
「……はい」
「いい子だ。早く帰ってくるからね」

 踵を返したイザナギを見送ったナオビは、マガツヒの元に駆け寄った。
 床に広がる泥が、ナオビの白い足を汚した。

「っう、えッ……」

 苦しげな声を上げ、黒い泥を吐くマガツヒ。
 ぼた、びしゃ、と聞くに堪えない音を立て、マガツヒの口から黒い泥のようなものが溢れる。

「マガツヒ」

 マガツヒも、何が起きているのかわかっていないようだった。

「なお、び、っ、ぅ、え」

 身体と同じ色の泥のようなものが、マガツヒの口から止めどなく溢れてくる。マガツヒの周りは黒い泥が溜まり、沼のようになっていた。

「マガツヒ」

 泣きながら何度も黒い泥を吐き続けるマガツヒに、ナオビは背をさすってやるしかできなかった。

「っえ、やだ、ナオビ」

 ナオビを呼び、泣きながらえずくマガツヒを、直してやれないのがもどかしかった。

「あう」

 マガツヒが苦しげに喘ぐ。
 金色の双眸は濡れ、頬をいく筋も涙が伝い落ちていた。

「んう、なおび……」
「大丈夫だ、マガツヒ」
「苦しい、たすけて、なおび」

 小さく蹲って震えるマガツヒを抱きしめてやるしかできなかった。
 ナオビの白い身体と衣は、マガツヒの吐き出す泥でマガツヒと同じ色に染まっていく。
 ナオビが抱きしめてやると、マガツヒは少し楽になったのかすり寄ってきた。嬉しそうに頬を擦り付け、浅く息をついて濡れた瞳を伏せた。
 マガツヒを抱きしめ、ナオビはただ、イザナギの戻りを待つしか出来なかった。



 マガツヒは苦しかった。自分の中で、自分ではない誰かが嘆き、怒り、哀しみ、喚いている。叫んでいる。声は聞こえるのに、何を言っているのかはわからなかった。ただ内に轟くような声色がずっと響いて、マガツヒを揺らす。

 ただ、それがよくないものだとわかった。
 どす黒い、昏いものが、腹の底から湧いてくる。生温かく腑を満たして、逆流する。
 口から溢れたそれは、自分よりもずっと昏い色をしているように思えた。
 それが何か、マガツヒにはわからない。
 それでも、叫びが聞こえるたび、それは腹から湧いて、口から溢れた。

「あ、う」

 苦しかった。
 身体が動かない。
 目の前も霞んで、よく見えない。
 あのひとの声も、聞こえない。

「たすけて」

 声が掠れる。声が出ているのかもわからない。
 そんなマガツヒを、白い腕が抱きしめてくれた。あのひとのような、でもあのひとよりも少し頼りない腕。
 温かな腕に抱かれると、内に響く叫びは少しだけ遠のいた。腹の底の昏い渦は緩やかにおさまり、静かになった

「なおび」

 腕の主を呼ぶ。縋りつきたいのに、身体が動かせない。なんとか身体を擦り付けて、喜びを伝える。

「大丈夫だ、マガツヒ」

 静かな声に、安堵する。
 ナオビがそこにいてくれることが、抱きしめてくれることが嬉しかった。



 それからも、度々マガツヒは泥のようなものを吐き出した。
 来る日も来る日も、眠って、起きては吐くことの繰り返しだった。
 マガツヒは日に日に弱っていく。
 どうしてマガツヒがこうなってしまったのか、ナオビには見当もつかなかった。
 イザナギは、まだ戻らない。このまま、戻ってこないのではないかと不安になった。
 一日中、ただマガツヒを抱きしめて撫でてやるしかできなかった。
 それからどれくらい経ったか、ナオビにはわからなかった。マガツヒはほとんど吐くことは無くなったが、代わりに深く眠っているようだった。身体はすっかり痩せ細り、あちこちに骨が浮いて見える。
 黒い沼地のようになったその場所で、ナオビはマガツヒを抱きしめていた。

「マガツヒ、ナオビ」

 美しい声に、ナオビが顔を上げる。そこには覚えのある美しい神がいた。

「イザナギさま」

 黒い泥に塗れ、ぐったりと身体を預けるマガツヒと、そんなマガツヒを抱きしめる憔悴しきったナオビを見て、イザナギはナオビの頭を優しく撫でた。

「大丈夫かい、ナオビ」
「イザナギさま、マガツヒは……」
「スサノオの影響だ。もう大丈夫だよ」
「スサノオ」

 ナオビは知っていた。イザナギから生まれた、高貴な三人のうちの一人。それがどう繋がっているのか、ナオビにはわからなかった。

「スサノオは遠くに行った。だからもう大丈夫だよ」
「はい」

 黒い泥に塗れた二人を見て、イザナギは慈しむような穏やかな笑みを浮かべた。

「二人とも、湯殿へ行こうか」

 ナオビはマガツヒを抱いたまま、ふらつきながら立ち上がる。イザナギに支えられ、立ち上がったナオビの腕からイザナギはマガツヒを抱き上げる。
 イザナギに手を引かれ、ナオビは湯殿へ向かう。身体が重い。泥を吸っただけではない。疲れていた。終わりの見えない不安を抱えるのは初めてだった。そもそも、不安という感情を抱くのが初めてだった。そんなナオビも気遣いながら、イザナギは湯殿への廊下を進む。
 湯殿では、すべてイザナギが世話をしてくれた。汚れた身体を洗い流し、髪を洗い、マガツヒも同じように洗い清めていく。

「疲れただろう、ナオビ。ありがとう。マガツヒのことは、もう心配いらないよ」

 頭を撫でられ、労いの言葉がかけられる。
 嬉しかった。
 なにより、もうマガツヒが苦しまなくていいのだと、安堵した。
 身を清めると、別の部屋に通された。そこは今までとは別の寝所のようだった。
 眠ったままのマガツヒは寝台に横たえられ、ナオビも傍らの寝台で休むよう言われた。

「イザナギさま」

 寝台に上がったナオビはイザナギを見上げた。

「マガツヒは、スサノオさまと関係があるのですか」

 ナオビはマガツヒとスサノオの関係を知らない。素朴な問いだった。

「マガツヒの魂は、スサノオの負の波長に共鳴しやすいんだ」

 苦しげに、黒い泥を吐いていたマガツヒを思い出す。あの黒い泥は、スサノオの負の波長に共鳴して生じたもの、ということだった。

「スサノオは、もう遠くへ行ったから、もう心配ないよ」

 イザナギがそういうのなら、大丈夫なのだろう。もう、マガツヒは影響を受けない。

「おやすみ、ナオビ」

 ナオビは、マガツヒの生んだ災いを直す。
 直すと言うのかどういうことか、ナオビにはまだわからなかった。
 ただ、マガツヒを悲しませたり苦しめたりするようなことなら、そんな日は永遠にこなければいいのにと思いながら、ナオビは目を閉じた。

「マガツヒは、ここからは追放しないし、させないよ。ナオビ」

 そんなイザナギの声を聞きながら、ナオビの意識は緩やかに溶け出していった。

 後にナオビが聞かされたのは、スサノオは神々の土地、高天原を追放されたということだった。
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