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井戸の中にいたカエルは自分の小ささを知る

かつて人心掌握に長けた女帝がいた

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 事務所のいたるところで朝の挨拶がきこえる。見習いや事務員にとって上司である弁護士の機嫌がどうなのかを知る朝の挨拶は大切だ。

 ダシルバ班の事務員、カミラがめざとくモリソン先生が出勤しているのをみて、「モリソン先生、今日も素敵」うっとりした声をだす。

 モリソン先生は弁護士であり政治家で、ダシルバ法律事務所に所属する弁護士の中で異色だった。

 モリソン先生が弁護士として活動をしていた時はダシルバ法律事務所に所属していた。四年前に政治家となってからはダシルバ法律事務所に籍はそのままおいているが、事務所を間借りしているかんじらしい。

 政治家としての事務所は別にあるが、モリソン先生にとって長年働いてきたダシルバ法律事務所が一番落ち着くらしく、事務所で仕事している姿をよくみかける。

 モリソン先生は五十代でお腹がでておらず、髪も大きく後退していない。政治家というよりも教師といった雰囲気で、「渋い」という言葉がぴったりだ。

 よく通る深みのある声も魅力で、ダシルバ先生がモリソン先生の声を「くだらないこと言ってても重要なことを話しているような気にさせる声」といっていた。

 カミラはモリソン先生のファンで、モリソン先生をみてはうっとりしている。

「なんでモリソン先生付きの事務員になれなかったんだろう」

 きっと仕事をするより、モリソン先生をみつめる時間が長そうに思われているからだろうとステラは思うが何もいわない。

 カミラはステラより二つ年上で六年事務所で働いていた。婚約者と結婚しニウミールの隣町に住むため五月に退職する。

 そのためもうすぐモリソン先生に会えなくなるからと、モリソン先生が事務所にいる時はひまがあれば先生をみつめていた。

「ああ、今日もルカが憎い。ルカがいるから私がモリソン先生付きの事務員になれなかった……」

 モリソン先生付きの事務員であるルカへ、カミラが子供のようなかわいらしい声で恨み言をいうのを聞きステラは笑いをこらえる。

 カミラは少し舌足らずなしゃべりかたをするのと声の調子が高いので、時々子供が話しているように聞こえることがあった。

 本人いわく感情を殺して話そうとすると子供のような声になるらしく、ルカへの敵意を必死におさえているのだろう。

 モリソン先生に熱い視線をむけるカミラの気持ちはステラもよく分かる。穏やかな性格で正義をもとめる紳士という雰囲気をまとうモリソン先生をしたう人は多い。

 ステラも自身の父を思いおこさせるモリソン先生のひそかなファンだった。モリソン先生と父の容姿が似ているわけではないが、モリソン先生の穏やかな笑顔が父と似ているようにみえた。

「またモリソン先生見てるのか? 婚約者にいいつけないとな」

 ジョージがカミラをからかう。

「いいじゃない。見てるだけだもん。彼も私がモリソン先生のファンなのは知ってるし、まったく相手にされてないのも知ってるから大丈夫。それに彼、いまレガルニンにいってるからジョージがいいつけようとしても無理よ」

 カミラの婚約者は西地区の東南端にある大きな町、レガルニンで東地区と南地区との取引きをするため行き来しておりニウミールをはなれていることが多いという。

 その寂しさをモリソン先生をファンとして見つめることで気持ちをまぎらわせているというのがカミラの言い訳らしい。

「レガルニンといえばフランシスカ元気かな? まあ彼女のことだから元気に旦那を笑顔で尻にしいてそうだ」

「たしかに。旦那さんの実家はレガルニンの大商会だし、女弁護士として腕がなるとはりきって仕事してそう」

 フランシスカ・クルスはダシルバ先生の姪で、ディアス国ではじめて弁護士資格をえた女性だ。

 弁護士になると決めたフランシスカは、夫と子供をつれてレガルニンからニウミールへ引っ越し、ダシルバ法律事務所で見習いをし弁護士資格をえたあとレガルニンにもどった。

 ニウミールでフランシスカに会えるのを楽しみにしていたステラは彼女に会うことができなかった。

 フランシスカは女性ではじめて弁護士資格をえたという伝説をうちたてただけでなく、ダシルバ法律事務所で初の女性弁護士見習いとしてなにかと話題をふりまいていたという。

「あいつ子供のときから人心掌握しまくってたから、うちの事務所の人間を自分の都合のよいようころがしまくった。

 俺があいつを見習いにしたのも、あいつにうまく丸めこまれたせいだ。男だったら政治家になって国を自分のよいように動かしただろうな」

 ダシルバ先生はフランシスカのことをそのようにいった。

 フランシスカはどちらかといえば目立たないおとなしそうに見える女性だという。

 自分の意見を声高に主張することはなく、世間話のように自分が通したいと思う意見をのべ、反対されると相手に反論するのではなく相手の意見に同調しながらじわじわと論点をずらし、自分の意見に相手が同調するようにもっていく。

 そのため反論していた相手は話し終えたあとはすっきり納得したように感じるが、あとになってからフランシスカの手のひらでころがされたと苦笑するらしい。

 その人心掌握の力をダシルバ法律事務所の顧客達にも発揮し、女性だからと見下す相手を手のひらでころがしていたという。

「そういえばステラ、弁護士になりたいのは分かるけど行き遅れにならないようがんばった方がよくない?

 フランシスカみたいにまず結婚して子供うんだあとに弁護士めざした方がよいような気がするけど」

 これまでカミラに何度もそのようにいわれている。フランシスカは弁護士になると決心した時点で、結婚していただけでなく二人の小さな子供がいた。

 フランシスカは高等学校を卒業しすぐに結婚し子をうんでいた。

 夫だけでなく彼女の周囲が弁護士になるのを反対しなかった理由は、フランシスカの説得がうまかっただけでなく妻として子をもうけるという責任をはたしていることが大きかったようだ。

 フランシスカはまだ三十歳にもなっていない。自分と大きく歳がはなれているわけでないにもかかわらず、自分との差の大きさにステラはため息しかでない。

「ちょっと進路変更するには遅すぎたかなあ。これから結婚相手をさがして結婚して、子供うんでとなるとあっという間に三十歳になってそうだし。

 それならこのままがんばって出来るだけ早く資格をとって、それから結婚を考えるよ」

 カミラがあわれむような表情をみせたあと、小声で「女弁護士と結婚しようなんていう男性がいるとは思えないけどなあ」といったのが聞こえた。

 結婚できないぞとヤング・ジュニアにいわれたことを思い出す。

 ステラは結婚できればよいなとは思っているが、できなければそれでかまわないと思っている。そのことを人に話すと、その考えは間違っているといわれることが多いので何もいわないようにしていた。

「おはよう。さぼってないで仕事しろ」

 ダシルバ先生があらわれたので挨拶をかえしながら、ステラは朝の打ち合わせに必要なものをつかみ先生のあとにつづく。

 忙しい一日がはじまる。ステラは歩きながら背筋をのばした。
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