五人目のご令嬢

じぇいそんむらた

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後日譚

2 キスより先にできること

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 とうとう、両手でも数えきれないくらいの回数になった、爺が言うところの逢瀬。ご令嬢が語る近況に、僕は驚かされた。

「わたくし、とうとう、他愛もないおしゃべりというものを経験してしまったわ」
「え?まさか、ご令嬢友達ができたのですか?」
「友達……ではないわね。だって彼女、兄の奥様だもの。なかなか外出できないから、話し相手になって欲しいって言われたの」

 確か、ご令嬢の義姉は、何ヶ月か前に出産したと聞いている。子が小さいうちは外出もままならないのだろう。

「あなたの事を色々と聞かれたから答えたけれど、とても驚かれたわ」
「驚かれた?」
「ええ。付き合って半年以上も経ってキスもしてないの?信じられない!……ですって」

 その言葉に僕は愕然とする。

(信じられない?それはこっちの台詞だ。なぜそんな話題をご令嬢に出す?こっちがどれだけそれを我慢してると思っているんだ)

 だが、それと同時に、ご令嬢がそれをどう思っているのかと気が気でなくなる。そんな僕に、ご令嬢は追い打ちをかける。

「好きな女に手を出さない男なんて、そんなのありえない!……だそうよ」
「そんな!」

 やはりご令嬢もそう思っているのだろうか。思わず声が出てしまった。
 でも、そんな僕をみて、ご令嬢はなぜか笑い出したではないか。

「ありえないって……ふふ……思い出すだけで笑ってしまうわ……」
「笑える……?」
「ふふ……だって……そんなに情熱的なあなたを想像したら……だめ……笑いが止まらないわ……」

 僕は、呆れていいのか、喜んでいいのか分からない。

「まったく、笑いすぎですよ。……そういう男は、お嫌いですか?」
「ええ、好きになれないわ。こちらの都合も考えないで、それなのに、喜ばせてやってるだろうみたいな態度。こちらの調子を狂わされていくようで、本当に苦手」
「……あの、それは、まるでそんな体験を実際にしたように聞こえますが」
「そうよ。元婚約者がそういう人だったの」

 また元婚約者か。僕は悪態をつきたくなるのを必死で堪える。元婚約者の話を聞くたびに、なぜそんな男と婚約まで至ったのかが気になってしまう。そして、そんなに気に食わないのに、事あるごとに話題に出す理由も。

「そうですか。元と言えて、何よりですね」

 思わず、ぶっきらぼうなものの言い方をしてしまった僕を、少し不安そうにご令嬢が覗き込む。

「……ご機嫌斜め?」
「そうかもしれません」

 思えば、ご令嬢にそんな態度を取ったのは初めてだった。そんな僕に、ご令嬢は更に表情を曇らせる。

「わたくしが他の男性の話をするの、不愉快?」
「いえ……何というか……んん……」

 ご令嬢を困らせてしまった事と、自分の中の感情の正体が分からないのとで、僕は頭を悩ませる。元婚約者への嫉妬なのか、怒りなのか、元婚約者の事を話すご令嬢が嫌なのか。でも、僕の中にあったのは、そのどれでもなかった。

「話していて、辛くはないのですか?」
「……もしかしてあなた、わたくしを心配してくれたの?」

 意外そうな表情のご令嬢。でもすぐに、気が緩んだような笑顔になる。

「辛くないと言えば嘘になるわ。口にしたら余計腹が立ってしまうし、そんな自分が嫌になりそうで……だから今まで、父やおじにもこんな話してこなかったの」
「では……なぜ僕に?」
「そういう事があったのを隠すのは、あなたに失礼でしょう?わたくしに誠実にいてくれるあなたに、わたくしも出来る限り誠実でいたい……でも、ここにいない方を悪く言うなんて、誠実には程遠いわね」

 そう言って、困った顔で笑うご令嬢。僕は、誠実だと言ってくれた彼女に、救われたような気持ちになる。最初に誠実さに欠けていたのは、僕の方だったのに。

「いいじゃないですか。僕も、誠実でなかった事があったんですし。だから、お互い様ですよ」
「ふふ、そうね」

 そして、キスの話題なんてものはここで終わる……そう思って僕は油断していた。
 だが、ご令嬢の次の一言で、僕は思わず椅子から転げ落ちそうになった。

「キスも、あなたとだったら、嬉しいと思えるのかしら」

 至って真剣な表情のご令嬢に、僕は唖然とし、それからずり落ちかけた体を何とか元に戻す。

「そ……それは……ええと……」
「一度だけ、強引にされたの。元婚約者に。でも、ちっとも嬉しくなかった。だから、不安なの」

 何でもないような風に言うご令嬢の、微かに滲んでみえる悲しさ。僕は、衝撃なのか、時間が止まってしまったような感覚に襲われる。

「そんな事まで……話さなくてもいい……」
「こんな話、嫌よね。……わたくしの事、見損なった?」
「違う!違うんです……。辛いのなら僕に秘密にしておいたっていい……心の傷を抉ってまで誠実であろうとしなくていい!キスだってしたくないなんて事はないけれど、それはお互いの心がそうしたいと思うまで待とうと……だから僕はずっと待って……だから……」

 ご令嬢の顔が、今にも泣きそうに歪み、両手が微かに震えている。僕は、居ても立っても居られなくなる。

「僕に……できる事は?」
「……手を、握っていて」

 僕は、その震える小さな手を、両手でそっと、包み込むように握る。

「ありがとう……」

 青ざめて見えたご令嬢の顔に、次第に色が戻ってくる。

「……あなた、ずっと、したいと思っていてくれていたの?」
「ええ。そんなの、ずっと思っていましたよ。でも僕は一方的にしたいわけじゃない。お互いが引き寄せられるように、そんな風になって初めてするものなんだと……ええわかってますよ……そんなロマンチシストみたいな考えは女々しいって……」

 僕はもう、半ばヤケクソになって言った。これで嫌われたらもうそれはそれだ。そんな男なんだから仕方ない。
 でも、ご令嬢の反応は、予想していた最悪の展開とはならなかった。ご令嬢は、僕と少しだけ距離を縮めて言う。

「お互いに引き寄せあって……あなたと息が混ざりそうなくらい近く顔を寄せて……その涼しげな瞳にわたくしだけが映るのね」

 僕も、まるでご令嬢に引き寄せられるように、体が自然と動く。彼女の呼吸の音が聞こえる。僕の視界の全てが、ご令嬢になる。きっと彼女の視界も、僕だけだ。それは、僕だけに許された場所。

 ただ無言で、互いに見つめ合う。何か言いたげな瞳が、艶やかに潤んで、僕の心を引き寄せる。

 彼女に触れたい。素直にそう思った。

 でも、まだ、その時ではないような気がした。いつも迷いのないご令嬢が見せた、悲しみに揺れる瞳が、脳裏に浮かぶ。

 僕は、口付けをする。でもそれは、ご令嬢の頬へ。ご令嬢は、少し時間を置いて、それから驚いて僕を見る。

「……それで、いいの?」

 僕は苦笑して、答えた。

「いいんです。僕たちには、キスより先にすることが、まだたくさんあるんですから」
「そうね……きっとたくさんあるわ」

 まだ僕らの先は長いのだ。焦る必要なんて、これっぽっちもない。

「とりあえずは、元婚約者の事なんて考えなくなるくらい、あなたの事で頭をいっぱいにしたいわ」
「ええ。たくさん手を繋いで、たくさん思い出を作って、僕と過ごす楽しい事だけで頭をいっぱいにしてみせます」
「ふふ……とても心強いわ。ありがとう」

 僕は、それに応えるように、すっかり震えの止まったご令嬢の手を、強く握った。
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