その溺愛は行き場をさまよう

七天八狂

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35.推しと仮初と、本命

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 久世邸へと入ったあと、使用人の男性からの案内を受けながら、こっそりと気になっていたことを久世に問いかけた。

「相馬さんは、なんで僕が櫻田さんのマンションへ行ったことを知っていたんだ?」
「深夜に雅紀と櫻田さんがマンションへ入っていくのを見たそうだ」
 
 聞くまでもない当然の返答である。
 そんな偶然があるのかと驚くが、可能性としてはゼロではない。というか、それ以外に知る術がないのだから、他の手段で知ったとしたら大事だ。
 
「なるほど。それで……僕たちが浮気してたって?」
「いや。そんなことは言ってなかった」
 
 久世は嘘をついたりしない。昴が浮気という単語を出さなかったことは間違いないだろう。
 となると、敢えて口にしなくても事実を告げれば事足りると思ったのだろうか。
 
「……そのことなんだが」

 久世が何かを言いかけたとき、ちょうど久世母の居室のドアを使用人がノックしてしまったため、会話は打ち切りとなった。

「嬉しいわ。毎日LINEしていても、会うのは久しぶりね」
 入室すると、久世の母から息子よりも大きな笑みでの歓迎を受けた。
「お招きいただきまして、ありがとうございます」
「ええ。今日来てもらったのは、これを渡したかったからなの。お気に召してくれたら嬉しいわ」
 ソファへと腰を下ろした瞬間、さっそくとばかりに長方形の箱を差し出された。
「……なんですか?」
「開けてみて」
 促されてラッピングを解き開けてみると、驚くことにカルティエの腕時計が入っていた。
「これは……」
「カルティエでよかったかしら?」
 今自分の腕には久世から誕生日にもらったオメガが付けられている。彼氏からの贈り物ですら、高価すぎると言って押し返しかけたというのに、いや、そもそもがまず贈り物をするタイミングではない。
 どういうつもりなのだろう。
 
「どう?」
 絶句していた自分のほうへ、久世母はきらきらとした期待の目を向けていた。
「こんな高価なものをいただくわけには……」
「気に入らなかった?」
「いえ、そういうわけでは……」
「雅紀くんは私の推しだから、いわば推し活よ。気に入らないようなら、別のものを選んでくるわ。それよりも一緒に選びに行ったほうがいいかしら?」

 息子の恋人を相手に推しだなんて、耳を疑う話である。しかし、以前久世から「母は雅紀のファンなんだ」という、理解難儀なお言葉を頂戴していたため、妙に納得した自分もいる。
 久世は映画の話をするかのごとくの調子で、新しく恋人となった自分のことをのべつ幕なしに語ったらしく、次第に母のほうから、自分の話を求めるようになったのだという。
 恋人の親に気に入られるのは歓迎すべきこととはいえ、これは度を過ぎているというものだ。

「私は雅紀くんのことが大好きなのよ」
「……ありがとうございます。お気持ちは嬉しいのですが、こういったものは」
「だから、透とこれからも末永く仲良くして欲しいと願ってるの」

 久世母は、こちらの断りの言葉に被せて、穏やかとも言える笑みを浮かべながらも断固たる口調で言った。

「……それは僕も願っていることです」
 おずおずと返答すると、久世母の笑みが大きくなる。
「よかった」
「お母様」
 割って入ってきた久世の声に、母はじろりと睨みを向けた。
「いいじゃない。雅紀くんを安心させておかなきゃ」
 
 なんだろう。何か思惑めいたものを感じてならない。
 もしやプレゼントは推し活ではなく、何か意図を含んだものなのだろうか。
 
「……なにか、僕が不安になることでも?」
「不安というか、透が家を出るだけじゃ、雅紀くんは満足できないんでしょ?」
 
 いきなりのことで面食らう。
 もしや、自分のことを勘違いしているのだろうか。
 久世が家を出ることに反対の姿勢を示している理由は、御曹司の立場を失う彼に不満を感じていると思われているのかもしれない。
 
「ええ。ですが財産を狙っているというわけではありません」
「そんなのわかってるわよ」
 くすくすと答えた久世の母は、笑みをたたえたまま続けて言った。
「昴から聞いたのよ。櫻田さんを諦めさせようとしてるって」

 そういうことか、とようやく合点がいった。
 昴はレストランの喫煙室で交わした話を二人に流していたようだ。久世は瑞希とのことを聞いたとき、そのことも同時に聞いたのだろう。だから、浮気という単語が出なかったのだ。
 
「ええ。おっしゃるとおりです」
「それで、兄は心配してくれていたんだ」

 心配は心配でも、浮気の危惧ではなく二人の仲のほうだったとは。結果としてはありがた迷惑ではあるものの、感情的に言えば純粋に嬉しく思えることだ。

「その件に関しては私に任せてもらえれば簡単に済むわ。それくらいの意見ならすることができるもの。もし反対されても、父に頼むから問題はないわ」
 久世母がなんとも頼もしいことを言ってくれた。
「それは、ありがたいお話です」
「ええ。でも私にできるのは、婚約者の人選が気に入らないと跳ね除けることまで。結婚自体を諦めさせることは難しいわ。夫だけでなく、父のほうも透に後を継いでもらいたいと考えているから、この方法だと、他の令嬢を連れてくるだけでキリがないと思うの」
「……それは、おっしゃるとおりだと思います」
 
 これは前置きであろう。
 当然とも言うべき話をバカ丁寧にしてくれているということは、こちらでは考え付きもしなかったアイデアが出てくるはずだ。
 そう、身構えた。
 
「……だから、やっぱり家を出るしか道はないと思うの」
 
 え。
 思わず、ぽかんとしてしまった。
 単に、二人の意向を通すために回りくどい説明をしただけらしい。
 久世も真剣な顔を──不安げというのだろうか、眉間に皺を寄せて母のほうへ目を向けている。
 なんだよ、と肩を落とすも、がっかりした顔を見せてはならない。
 二人は自分を心配して、なんとか説得しようとしてくれているのである。

「わかりました」

 愛する人とその母親から気遣われて、無下にすることはできない。

「櫻田さんに関わることは終わりにします……そういえば、昴さんのお父さんが来日されていらっしゃるとお伺いしたのですが」
「えっ?」
「なぜ雅紀が知っている?」
 
 二人は同時に飛び上がったような声をあげた。
 その様子を見るに、久世は知っていたらしい。敢えて話す必要はないと判断していたからか、自分と同じように、言わないことは嘘にはならないというていで隠していたのか。
 どちらにせよ、動揺すべきは自分ではなく相手のほうである。二人の思惑が成就した油断をついて、訪問の目的を達するべく探りを入れる。

「お会いになられましたか?」
「えっ……」

 身構える暇もなく畳み掛けたことで、思ったとおり動揺を表に出してくれた。これでノーと言われても、嘘であることがわかる。もし嘘だとしたら、なぜそんな真似をするのかはわからないが。

「……確かに、相馬とは会ったわ。でもそれがどうしたの?」
「いえ、昴さんがいらっしゃっておりますから、そのお父様ももしかしたらと考えただけです。……まだお会いするご関係なのですね」
「それは……息子の両親ですもの」
「ええ。とうに成人年齢を超えたご子息の」
「あら、雅紀くん。私に探りを入れようとしているの? それなら直接聞いてくれたほうが嬉しいわ。雅紀くんにならなんでも正直にお答えするもの」
「ありがとうございます。でしたら不躾にもお伺いさせていただきますが、相馬さんと再婚されるご予定はありますか?」
 言うと、一瞬目を丸くした久世母は、しかしすぐにくすっと吹き出して、笑みになった。
「まさに不躾なうえに単刀直入ね」

 しばらくの間くすくすと笑ったあと、「そうね」と言って久世母は話し始めた。

 まず最初にと言って、再婚の予定はないと彼女は断言した。
 そのためには唐澤と離婚しなければならないが、唐澤だけでなく父である久世首相が許すはずがないと言う。
 彼女はそこで、自分と相馬にその気がないとは、言わなかった。
 しかし、続いて聞いた内容から、それは感情の問題ではなく実際的に難しいからであることがわかった。
 相馬が日本へ来た理由は、父親、つまりフランスの富豪が死去したことで相続争いに巻き込まれ、逃げ出してきたからだった。
 相続放棄をしようにも、そうなると持ち会社の株がライバル側にすべて渡ってしまう手筈になっているそうで、親族連中から一度相続したうえで明け渡すよう詰められているらしい。自分を蛇蝎のごとく憎悪していた連中の思うままにするのは癪に障る、かと言って影ながらも愛してくれていた実父の会社をライバルに盗られるのも面白くない、ということで思い悩んでいるのだという。
 久世母は相馬氏に対して、父の意向を汲んで会社を継げばいいと背中を押したそうなのだが、医師として生きてきて、経営のいろはもわからないのにと決意が固まらないらしい。
 何にせよ、その状況では久世の母と再婚して久世家を継ぐのは無理というものである。彼女と結婚するためには、一般のそれとはわけが違う。同時に会社を継ぐ必要があるからだ。
 それにくわえて、父である久世首相は、自分の代よりも久世グループを大きくさせた唐澤の手腕を買っているため、その婿と離婚をして、たかが医師でしかない相馬を新たに向かい入れるはずがないとも言っていた。

「だから、透との愛を貫くためには家を出るしかないのよ」

 久世母はこちらの質問に対して、満面の笑みでそう締めた。
 息子のほうも同じ考えらしく、一度も口を挟まず、ただじっと聞いていただけだった。
 久世が結婚するという未来を回避するために、家出などという強硬手段以外でと考えだした結果、相馬氏との再婚、そして昴を跡継ぎに据えるという手段を導き出したが、それはどうやら難しいらしい。
 こちらができることといえば、説得することだけだが、それ以前に、当人たちがまるで別のところで悩んでいるのだから、余所者が口を挟める問題ではない。
 だとしても、家を出るだけですべてが丸く収まると思っている二人は、考えが甘いと言わざるを得ない。
 二人の言うままにしていたら、末永く仲良くどころか、久世との未来は持って数年だろう。
 家を出たところで、結局は後に捕まり、櫻田か他の誰かと結婚した久世に、愛人として囲われたあと、やがて捨てられることになる。

 久世からの愛を疑っているのではなく、愛しているからこそ、そう考えてしまう。
 気弱に見える彼は、実はこうと決めたら頑として聞かず、愛情深い男であることを、身をもって知っているからだ。
 永遠に変わらないものはこの世にない。そこに例外はなく、愛も同様である。
 愛情はいつか冷めるものであり、死を分かつまで続く愛とは、情熱的なものから穏やかな愛情へと変化していくものを指すのである。
 相手がどんな令嬢であれ、家族という形で日々を過ごしていれば、何かしらの情を抱き始めるだろう。そこに愛が芽生えることを、外野が止めることはできない。
 愛する彼は潔癖で、しかも一人しか愛することができないのだから、一度でも彼の手が離れたら、二度と取り戻すことはできないのである。
 愛を失わないために、自分が努力をするだけでいいのなら、どんなことでもする覚悟はある。しかし、自分の手が届かないところで、となれば話は変わってくる。
 日々戦々恐々と、彼からの愛を不安に感じながら過ごすなんて、考えるだけでぞっとする。
 愛とは誠実であるべきだ。しかし、ただ貫いていればいいというものでもない。
 独占欲という、わがままかつ身勝手な感情に負けるのも、また愛と呼ぶはずである。
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