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俺の願望が、幻を作ったのかと思った。幻聴まで聴こえるほど、焦がれているのかと思った。
大好きで焦がれてやまないあの低音が俺の名前を紡いだ瞬間、確かに俺の中を歓喜が駆け巡ったのは事実だけど、信じられない部分のほうが大きかった。
だって気づかなかったじゃないか。あんなに間近で俺を見たくせに、俺が川邊樹だって気づかなかったじゃないか。
「……っ」
なのに何でだ五十風。何で戻って来た。何でそんなことを言うんだ。
「なあ、樹なんだろ?」
今度は疑問形じゃない。確信した口調で問われる。
どこだ。どこに俺が川邊樹だと確信する部分を見つけた。今の俺は女にしか見えないんだろう? だからお前だって最初、気づかなかったんだろう?
「っ……何とか言え!」
「ぁっ!」
応えに戸惑っていたら、痺れを切らしたらしい五十風に強く腕を引かれた。
手加減無しの男の力は、同じ男だった5ヶ月前の俺には痛手にならなくても、妊娠して肉体的に女になった俺には酷い暴力と同じで、体勢を崩して前のめりに倒れ込む。
視界いっぱいに五十風の胸板が迫り、何とか上体を反らせる形で回避を試みれば、弾みで五十風の下腹部に俺の腹が当たってしまった。
「ッ!!」
ほとんど条件反射で慌てて残った左手で腹を押さえる。
注意深く自分の身体を看れば、異常は無く痛みも一瞬だったことから問題ないと踏んで、ホッと胸を撫で下ろした。
「!……ぁ、え!? ……っと、……」
その一連の俺の動作と、恐らくぶつかった時の感触に五十風が目を見開いているのに遅れて気づく。
「……わ、悪……い?いや、その……」
五十風の鋭かった眼光は一転、戸惑いを隠せないものに変わっていた。
「……大丈夫、か?です」
「…………」
俺が妊婦だってことを自分の身体で体感して、川邊樹じゃないかって疑い自体に疑問を持ったらしい。よほど混乱しているのか妙な敬語になっている。
場違いにも、五十風の微笑ましいとも感じるその混乱ぶりに、笑ってしまいそうだった。
しかしまあ、そりゃそうだろう。俺を川邊樹だと確信して妊婦だと理解するのは、ずいぶんとおかしな話だ。男が妊娠するわけがない。
……そうだ、何も焦ることはない。今の俺は妊婦なんだから、誤魔化せる。シラを切り通せる筈だ。
「……大丈夫です」
なるべく高い声を喉から捻り出す。
「ちょっとぶつかっただけなので。こちらこそご免なさい」
普段の自分ならあまりしない言葉遣いで、五十風の中の疑惑を助長した。
掴まれたままの腕を離して欲しい意思表示に、苦笑を顔に貼り付けて視線を自分の腕と五十風の顔へ交互に向ける。
けれど、更に強い力で腕を引き寄せられ、距離を取ることを阻まれて困惑した。
まだ疑ってるのか?
「……あの、確かに私は『川邊』ですけど、誰かと勘違いしてませんか?」
俺を妊婦だと理解しているなら、男である川邊樹と自分は結びつかない筈だろうと口を開く。
「申し訳ないけど、見ての通り私は女よ」
「……」
自分は五十風の求める『川邊樹』ではないと遠回しに諭したつもりが、その視線が再び訝しげなものに変わって驚いた。
……え? 失敗した? どこで? え? 俺、おかしな事言ってないよな?
動揺を隠そうとして隠しきれず、唇が引きつったのを顔面から感じとる。
「……君の言ってる『川邊』は男の子でしょ?」
それでも、川邊樹と自分が重ならないように『女っぽく』を心掛け、言葉を選んで返せば更に探るような視線を寄越された。
もう泥沼のようだった。言葉を返せば返す程、五十風の疑惑は深まっていってるような気ががする。でも言わないわけにはいかない。
これでももうすぐ自分は母親になるんだと、『女』を強調して腹を撫でながら微笑む。
五十風の顔が、酷く歪んだ。
「……な、じゃあアンタ、樹と……この川邊の樹と、どういう関係?」
スルリと俺の腕から手を離した五十風が、今度は俺の頬に手を滑らせる。
「関係? って……従姉妹ですけど」
「従姉妹にしては似すぎだろ? 双子って言われたほうがまだ納得できる」
ゆっくりと、形をなぞるように頬を撫でられた。
おいおい。普通に初対面の女の頬を撫でるなんて、痴漢扱いされてもおかしくないんだぞ。と現実逃避気味に思わず半目になる。
けれど、五十風はそんな俺の視線にまったく気づかず、話を続けた。
「なあ、あんた本当に樹じゃねぇの? 樹だろ、どっから見ても」
「……」
正直それは極論過ぎるだろう、と思った。顔が樹に瓜二つだから樹だろう、なんて。ジャイアンか。ちゃんと性別を見ろ性別を。そもそも最初は女に見えたから別人だと思ったんだろ?
「……あの、私……女なんだけど。樹君は男の子でしょ?」
同じ台詞を繰り返す。苦し紛れの言い訳でも何でもない、正論の筈だ。
「ああ、何でかそうだな。……そうやって正論で攻めて丸め込もうとするところまで、樹と一緒だ」
「っ……」
駄目だ、こいつ俺の話を聞いてない。
「なあ、何でアンタそんなに樹と全部同じなの? 顔も、考え方も、俺に対する接し方も」
五十風の追撃が続く。
「樹が、女になったみたいに」
「ッ!!」
――やめろ、息を呑むな。落ち着け俺。
ドクドクと早鐘を打つ胸を必死に抑える。そんな非現実的なことをって詰れば、まだ通じる範囲だ。俺みたいな真性半陰陽は、すごく稀だって先生にも言われたじゃないか。五十風が知ってるわけない。大丈夫だ。
「今の医療技術なら男が女になれないわけじゃないけど、私がそう見えるのかしら」
私はニューハーフじゃないんだけど、と少し気分を害したフリをして眉をつり上げる。
誤解されやすい言い方かもしれないが、別にニューハーフの人を差別視してるわけじゃない。根本的に、俺よりも辛い思いをしただろう彼女達を尊敬こそすれ、嫌悪や差別なんてありえない。でも男だったんじゃないかって疑惑を持たれて、怒らない女は居ない筈だ。今度こそ、五十風の何かに引っ掛かるようなおかしい対応ではない筈だ。
重ねられた失礼な態度に耐えかねて、と見せかけ口を開きかけた時、
「~~っそんな事、俺は一言も言ってねぇっ」
五十風の苛立ちを感じさせる強い口調に遮られ、俺は思わず口を噤んだ。
「そういうこと言ってんじゃねぇし、聞いてんじゃねぇんだよ! 男とか女とか関係ねェ!!」
両肩を掴まれ、強引に引き寄せられる。
「俺は! 樹かって聞いてんだ!!」
「!!」
鼻先が触れ合う程の近距離で問われたことは、女であれば絶対に問われない筈だった言葉で、動揺せずにはいられなかった。
眉を吊り上げる五十風の瞳の中に、目を見開いて固まる自分の姿を見る。
「なぁっ、お前樹なんだろ!? 何かあったんだろ!? ずっと様子がおかしかったのもこれが原因か!? 何があったんだよ! 隠すなよ! 言えよ! 俺はそんなに頼りないか!? 信用ならないか!? 一人だけで悩んでんじゃねーぞ! 俺を頼れよ! 俺はお前の恋人だろ!!」
「ッッ!」
身体が、火を飲んだように熱くなった。目が渇いて涙が浮かぶ。
真っ直ぐに俺を見てくる五十風の真摯な眼に、頷いてしまいたかった。
確かに五十風ならそう言ってくれるんじゃないかと思ってた。期待していた。
ここまで言ってくれる五十風なら、俺を気味悪がったりするどころか、それこそ俺を全てから守ろうとしてくれるだろう。確実に、俺は幸せになれるだろう。
でも、それじゃ駄目なんだ。俺が幸せになれても、五十風が幸せになれなければ意味がない。
「……ち、違っ」
「嘘つくんじゃねーよ」
俺にとっては紛れもない苦渋の決断だったのに、にべもなく静かな声に否定される。
「う……ぅそ、なんかじゃ……ッ!」
誰よりも大切な五十風の為に。五十風の幸せの為に、嘘を塗り重ねようとした時だった。
「……お前、また余計なこと色々考えてんだろ」
「え?」
五十風の厳しく尖っていた眼差しが、ふいに優しく柔らかなものに変わった。
「……いつも自分より他人の事考えて行動する。お前の悪い癖だ」
「……っ」
何でだ。五十風はいつもこうだ。
「なあ、俺の幸せは樹が隣に居ることだ」
「っ!」
超能力者でもないくせに、何で俺の考えてることが分かるんだ。
「世界全部が樹の敵になっても、俺は樹の味方だ」
俺の男としてのプライドを考慮してか、守ると言わないところが五十風らしい。
「俺は樹が隣に居てくれるなら、それだけでいい。他は何も望まない」
……ああ。ああ! 俺だってそうだ。俺だって五十風が傍に居てくれるなら、他は要らない。そのくらい愛してる。
だから。五十風を不幸にしたくないからこの道を選んだのに……っ、
「なあ、お前樹なんだろ?」
五十風に応えられない。それだけのことが、何で今こんなに苦しいんだ。
「……昂志君?」
それは、まったく予想外のことだった。男だった時は数日に一回だった頻度が、妊娠してからはほぼ毎日顔を合わせている人物の姿を五十風の後ろに見つけ、身体どころか思考の全てが停止する。
「ッ父さ……っ!」
一拍遅れて口をついた台詞を、俺は慌てて手で押さえた。父さんを『父さん』と呼ぶことは、自分が川邊樹だと認めているようなものだ。
「どうしたんだ? こんな玄関先で」
にこやかに笑いながら、父さんが門をくぐって歩み寄る。
いや、父さんこそどうしたんだ。仕事行ってくるって出たばっかりじゃないか。
ありえない人物の登場に、密かに混乱する。
でもどんな理由があるにせよ、これはチャンスだ。父さんをダシにしてここは逃げよう。今の自分には耐えられない。
そう決意して五十風に視線を向けたが、目に入ってきた光景に俺は思わず息を止めた。
土下座、していた。五十風が、額を地面に擦り付けて。父さん相手に、土下座していた。
何だ、どういうつもりだ。
聞きたくても今の状況からは聞くわけにはいかなくて、ただただ五十風を茫然と凝視する。
そんな五十風の口から飛び出た言葉は、更に俺を茫然とさせるものだった。
「おじさん! 樹君を俺にください!!」
「ちょ……っ!?」
何を言い出すんだと言いかけて、とっさに口を両手で塞いだ。川邊樹の従姉妹がここで取り乱すのはおかしい。
恐る恐る父さんを窺えば、絶対零度の笑み。
「……うん。とりあえず此処ではご近所の目もあるし、中に入りなさい」
笑顔で促すものの、目は笑っていない。
五十風は父さんを縋るように見上げた。
「おじさん……っ」
「樹が大切なら入れ」
「……っ!」
間髪入れず返されたのは、普段の父さんであれば絶対しないだろう命令。
五十風は何か言おうとして開きかけた唇を引き結び、深く頷いた。
大好きで焦がれてやまないあの低音が俺の名前を紡いだ瞬間、確かに俺の中を歓喜が駆け巡ったのは事実だけど、信じられない部分のほうが大きかった。
だって気づかなかったじゃないか。あんなに間近で俺を見たくせに、俺が川邊樹だって気づかなかったじゃないか。
「……っ」
なのに何でだ五十風。何で戻って来た。何でそんなことを言うんだ。
「なあ、樹なんだろ?」
今度は疑問形じゃない。確信した口調で問われる。
どこだ。どこに俺が川邊樹だと確信する部分を見つけた。今の俺は女にしか見えないんだろう? だからお前だって最初、気づかなかったんだろう?
「っ……何とか言え!」
「ぁっ!」
応えに戸惑っていたら、痺れを切らしたらしい五十風に強く腕を引かれた。
手加減無しの男の力は、同じ男だった5ヶ月前の俺には痛手にならなくても、妊娠して肉体的に女になった俺には酷い暴力と同じで、体勢を崩して前のめりに倒れ込む。
視界いっぱいに五十風の胸板が迫り、何とか上体を反らせる形で回避を試みれば、弾みで五十風の下腹部に俺の腹が当たってしまった。
「ッ!!」
ほとんど条件反射で慌てて残った左手で腹を押さえる。
注意深く自分の身体を看れば、異常は無く痛みも一瞬だったことから問題ないと踏んで、ホッと胸を撫で下ろした。
「!……ぁ、え!? ……っと、……」
その一連の俺の動作と、恐らくぶつかった時の感触に五十風が目を見開いているのに遅れて気づく。
「……わ、悪……い?いや、その……」
五十風の鋭かった眼光は一転、戸惑いを隠せないものに変わっていた。
「……大丈夫、か?です」
「…………」
俺が妊婦だってことを自分の身体で体感して、川邊樹じゃないかって疑い自体に疑問を持ったらしい。よほど混乱しているのか妙な敬語になっている。
場違いにも、五十風の微笑ましいとも感じるその混乱ぶりに、笑ってしまいそうだった。
しかしまあ、そりゃそうだろう。俺を川邊樹だと確信して妊婦だと理解するのは、ずいぶんとおかしな話だ。男が妊娠するわけがない。
……そうだ、何も焦ることはない。今の俺は妊婦なんだから、誤魔化せる。シラを切り通せる筈だ。
「……大丈夫です」
なるべく高い声を喉から捻り出す。
「ちょっとぶつかっただけなので。こちらこそご免なさい」
普段の自分ならあまりしない言葉遣いで、五十風の中の疑惑を助長した。
掴まれたままの腕を離して欲しい意思表示に、苦笑を顔に貼り付けて視線を自分の腕と五十風の顔へ交互に向ける。
けれど、更に強い力で腕を引き寄せられ、距離を取ることを阻まれて困惑した。
まだ疑ってるのか?
「……あの、確かに私は『川邊』ですけど、誰かと勘違いしてませんか?」
俺を妊婦だと理解しているなら、男である川邊樹と自分は結びつかない筈だろうと口を開く。
「申し訳ないけど、見ての通り私は女よ」
「……」
自分は五十風の求める『川邊樹』ではないと遠回しに諭したつもりが、その視線が再び訝しげなものに変わって驚いた。
……え? 失敗した? どこで? え? 俺、おかしな事言ってないよな?
動揺を隠そうとして隠しきれず、唇が引きつったのを顔面から感じとる。
「……君の言ってる『川邊』は男の子でしょ?」
それでも、川邊樹と自分が重ならないように『女っぽく』を心掛け、言葉を選んで返せば更に探るような視線を寄越された。
もう泥沼のようだった。言葉を返せば返す程、五十風の疑惑は深まっていってるような気ががする。でも言わないわけにはいかない。
これでももうすぐ自分は母親になるんだと、『女』を強調して腹を撫でながら微笑む。
五十風の顔が、酷く歪んだ。
「……な、じゃあアンタ、樹と……この川邊の樹と、どういう関係?」
スルリと俺の腕から手を離した五十風が、今度は俺の頬に手を滑らせる。
「関係? って……従姉妹ですけど」
「従姉妹にしては似すぎだろ? 双子って言われたほうがまだ納得できる」
ゆっくりと、形をなぞるように頬を撫でられた。
おいおい。普通に初対面の女の頬を撫でるなんて、痴漢扱いされてもおかしくないんだぞ。と現実逃避気味に思わず半目になる。
けれど、五十風はそんな俺の視線にまったく気づかず、話を続けた。
「なあ、あんた本当に樹じゃねぇの? 樹だろ、どっから見ても」
「……」
正直それは極論過ぎるだろう、と思った。顔が樹に瓜二つだから樹だろう、なんて。ジャイアンか。ちゃんと性別を見ろ性別を。そもそも最初は女に見えたから別人だと思ったんだろ?
「……あの、私……女なんだけど。樹君は男の子でしょ?」
同じ台詞を繰り返す。苦し紛れの言い訳でも何でもない、正論の筈だ。
「ああ、何でかそうだな。……そうやって正論で攻めて丸め込もうとするところまで、樹と一緒だ」
「っ……」
駄目だ、こいつ俺の話を聞いてない。
「なあ、何でアンタそんなに樹と全部同じなの? 顔も、考え方も、俺に対する接し方も」
五十風の追撃が続く。
「樹が、女になったみたいに」
「ッ!!」
――やめろ、息を呑むな。落ち着け俺。
ドクドクと早鐘を打つ胸を必死に抑える。そんな非現実的なことをって詰れば、まだ通じる範囲だ。俺みたいな真性半陰陽は、すごく稀だって先生にも言われたじゃないか。五十風が知ってるわけない。大丈夫だ。
「今の医療技術なら男が女になれないわけじゃないけど、私がそう見えるのかしら」
私はニューハーフじゃないんだけど、と少し気分を害したフリをして眉をつり上げる。
誤解されやすい言い方かもしれないが、別にニューハーフの人を差別視してるわけじゃない。根本的に、俺よりも辛い思いをしただろう彼女達を尊敬こそすれ、嫌悪や差別なんてありえない。でも男だったんじゃないかって疑惑を持たれて、怒らない女は居ない筈だ。今度こそ、五十風の何かに引っ掛かるようなおかしい対応ではない筈だ。
重ねられた失礼な態度に耐えかねて、と見せかけ口を開きかけた時、
「~~っそんな事、俺は一言も言ってねぇっ」
五十風の苛立ちを感じさせる強い口調に遮られ、俺は思わず口を噤んだ。
「そういうこと言ってんじゃねぇし、聞いてんじゃねぇんだよ! 男とか女とか関係ねェ!!」
両肩を掴まれ、強引に引き寄せられる。
「俺は! 樹かって聞いてんだ!!」
「!!」
鼻先が触れ合う程の近距離で問われたことは、女であれば絶対に問われない筈だった言葉で、動揺せずにはいられなかった。
眉を吊り上げる五十風の瞳の中に、目を見開いて固まる自分の姿を見る。
「なぁっ、お前樹なんだろ!? 何かあったんだろ!? ずっと様子がおかしかったのもこれが原因か!? 何があったんだよ! 隠すなよ! 言えよ! 俺はそんなに頼りないか!? 信用ならないか!? 一人だけで悩んでんじゃねーぞ! 俺を頼れよ! 俺はお前の恋人だろ!!」
「ッッ!」
身体が、火を飲んだように熱くなった。目が渇いて涙が浮かぶ。
真っ直ぐに俺を見てくる五十風の真摯な眼に、頷いてしまいたかった。
確かに五十風ならそう言ってくれるんじゃないかと思ってた。期待していた。
ここまで言ってくれる五十風なら、俺を気味悪がったりするどころか、それこそ俺を全てから守ろうとしてくれるだろう。確実に、俺は幸せになれるだろう。
でも、それじゃ駄目なんだ。俺が幸せになれても、五十風が幸せになれなければ意味がない。
「……ち、違っ」
「嘘つくんじゃねーよ」
俺にとっては紛れもない苦渋の決断だったのに、にべもなく静かな声に否定される。
「う……ぅそ、なんかじゃ……ッ!」
誰よりも大切な五十風の為に。五十風の幸せの為に、嘘を塗り重ねようとした時だった。
「……お前、また余計なこと色々考えてんだろ」
「え?」
五十風の厳しく尖っていた眼差しが、ふいに優しく柔らかなものに変わった。
「……いつも自分より他人の事考えて行動する。お前の悪い癖だ」
「……っ」
何でだ。五十風はいつもこうだ。
「なあ、俺の幸せは樹が隣に居ることだ」
「っ!」
超能力者でもないくせに、何で俺の考えてることが分かるんだ。
「世界全部が樹の敵になっても、俺は樹の味方だ」
俺の男としてのプライドを考慮してか、守ると言わないところが五十風らしい。
「俺は樹が隣に居てくれるなら、それだけでいい。他は何も望まない」
……ああ。ああ! 俺だってそうだ。俺だって五十風が傍に居てくれるなら、他は要らない。そのくらい愛してる。
だから。五十風を不幸にしたくないからこの道を選んだのに……っ、
「なあ、お前樹なんだろ?」
五十風に応えられない。それだけのことが、何で今こんなに苦しいんだ。
「……昂志君?」
それは、まったく予想外のことだった。男だった時は数日に一回だった頻度が、妊娠してからはほぼ毎日顔を合わせている人物の姿を五十風の後ろに見つけ、身体どころか思考の全てが停止する。
「ッ父さ……っ!」
一拍遅れて口をついた台詞を、俺は慌てて手で押さえた。父さんを『父さん』と呼ぶことは、自分が川邊樹だと認めているようなものだ。
「どうしたんだ? こんな玄関先で」
にこやかに笑いながら、父さんが門をくぐって歩み寄る。
いや、父さんこそどうしたんだ。仕事行ってくるって出たばっかりじゃないか。
ありえない人物の登場に、密かに混乱する。
でもどんな理由があるにせよ、これはチャンスだ。父さんをダシにしてここは逃げよう。今の自分には耐えられない。
そう決意して五十風に視線を向けたが、目に入ってきた光景に俺は思わず息を止めた。
土下座、していた。五十風が、額を地面に擦り付けて。父さん相手に、土下座していた。
何だ、どういうつもりだ。
聞きたくても今の状況からは聞くわけにはいかなくて、ただただ五十風を茫然と凝視する。
そんな五十風の口から飛び出た言葉は、更に俺を茫然とさせるものだった。
「おじさん! 樹君を俺にください!!」
「ちょ……っ!?」
何を言い出すんだと言いかけて、とっさに口を両手で塞いだ。川邊樹の従姉妹がここで取り乱すのはおかしい。
恐る恐る父さんを窺えば、絶対零度の笑み。
「……うん。とりあえず此処ではご近所の目もあるし、中に入りなさい」
笑顔で促すものの、目は笑っていない。
五十風は父さんを縋るように見上げた。
「おじさん……っ」
「樹が大切なら入れ」
「……っ!」
間髪入れず返されたのは、普段の父さんであれば絶対しないだろう命令。
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