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09.
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「樹、ほら」
「うん、ありがと」
昂志が確保してくれたスペースにゆっくりと腰を下ろす。
母さんとは何回と通った定期検診だけど、昂志とは初めての定期検診。
自分はソファに座らず、あれこれと俺の世話をやく昂志の姿に、ほとんどが妊婦さん、もとい女性という診察室では周囲からの興味津々な視線が突き刺さった。
「……ね、旦那さん?」
「――!」
こっそりと隣に居合わせた妊婦さんに話しかけられる。何回かの定期検診でよく顔を合わせた臨月に近い妊婦さんで、確か伊崎さんという名前だった。
ニコニコと優しげな笑顔を浮かべて首を傾げている。
「ぁ……」
どう返すべきか。
悩んだ一瞬の隙を昂志に浚われる。
「はい」
「……っ!?」
目の前からさらりと出た肯定の言葉を聞いて、俺は目を見開いた。
「ちょっと……!」
勝手に答えるな、そう昂志に言おうとして口を開いたが、
「もしかして新婚さん?」
伊崎さんがにっこり笑って続けた。
「はい」
対して、昂志がまた俺を置いて勝手に返事をする。
「ちょ、昂志っ!」
なんだ、そのドヤ顔。勘弁してくれ。
俺が、穴があったら入りたい程の羞恥を感じていても、昂志と伊崎さんはまったく関せず笑い合う。
「そう、おめでとう! じゃあ初めての赤ちゃんなのね」
「はい。あ、ありがとうございます。まさか父親になれるなんて思ってなくて、実は今も夢心地だったりするんですが」
「あら、そうなの?」
「はい。ちょっと事情があって。……コイツの妊娠知って急いでそういうの勉強したもんで、妊娠中に気をつけるべきこととか、身体には何がいいのかとか全然分からなくて。色々教えて頂けると嬉しいです」
「あら! まあまあ……素敵な旦那さんね」
羨ましいわ、と伊崎さんが俺を見た。
その視線は母さんを連想させる優しいもので、気恥ずかしく感じていた空気もなんだかホッとするものに変わる。
だから、だろうか。昂志の前では普段言えなかったこともするりと口をついて出た。
「……え、っと……あの……はい。お、いえ私には勿体ないぐらいの良い人だと、思います……」
本当に。昂志だから、俺はこうしていられるんだと思う。
「何言ってんだ。お前のほうが俺には勿体ねぇよ。だから少しでも相応しくなろうとしてるだけだろうが」
そう。こんな恥ずかしいことをあっさり言える昂志だからこそ、俺は今幸せなんだろう。
「ッ! ~~ちょっともう黙って!!」
でも、それとこれとは話は別だ。
天然は怖い。昂志は天然じゃなかった筈なのに。
お願いだからもう喋らないでくれ。そんな気持ちで昂志の口を手の平で覆うように塞いだ。
「ぅぐ!?」
昂志が苦しそうに俺の腕を掴んでくるが、かまうもんか。
「仲がいいのね。新婚さんだし当然と言えば当然かしら?」
俺と昂志のやり取りを見た伊崎さんがクスクス笑う。
堪らなく恥ずかしくてチラリと伊崎さんを窺えば、その柔らかい視線がふと下に下りた。
「今、何週目?」
「あ、えっと……」
「なんしゅう?」
昂志がどういう意味だ?と俺を見て首を傾げる。
当然だ。妊娠の日数を週で数えるなんて、俺も最初は知らなかった。
先生は元男である俺を気遣ってか、分かりやすく○ヶ月目と表現してくれるが、本来は○週目というらしいのは母さんの話からもネット情報でも確かだ。個人的には『○ヶ月目』表現でもいいんじゃないかと思うけど、まあ何がしかの理由があるんだろう。
何にせよ、伊崎さんに答えなければと口を開こうとしたときだった。
「川邊さん、どうぞー」
「あ、……」
妙齢の看護師さんに呼ばれ、自分の順番がきたことを知る。
慌てて昂志の手を引き立ち上がった。
「……すみません、失礼します」
話を途中で切り上げて申し訳ないと伊崎さんに頭を下げれば、微笑ましいものでも見るかのような眼差しで緩やかに手を振って送り出された。
「やあ、調子はどうだい?」
診察室に入ったと同時に掛けられた柔らかい声。
目を向けるまでもなくお世話になっている先生のものだと分かり、俺は笑って返した。
「はい。少し腰が痛いですが、それ以外は大丈夫です」
看護師さんが椅子を引いて促してくれるまま、先生の前に腰を下ろす。
「ああ、赤ちゃんが順調に育ってる証拠だよ。この時期から重心が前にずれて腰や背中が痛むんだ」
先生が喜ばしいことだと言えば、俺の肩に添えられていた昂志の手に力が入った。
チラッと目だけでその顔を見上げると、喜色満面な笑顔が視界に入る。
父親だから当たり前と言えば当たり前だが、昂志が自分のことのように喜んでくれている事実に、幸せを感じて思わず頬が緩んだ。
しかし、先生も喜色に顔を緩ませているのが視界の端で分かり、何となく恥ずかしくなって俯く。
「ふふ……っ、よかったね樹くん」
先生の穏やかな声にそろそろと顔を上げれば、父さんのような優しい眼差しを注がれていた。
「……はい。ありがとうございます」
近頃、周囲の人すべてがこんな眼差しを向けてくるような気ががする。父さん母さんだけじゃない。知り合ったばかりの人も、とても大切なものを見るような、優しくて温かい視線を向けてくる。
俺の存在を、赤ちゃんの存在を祝福してくれているようで、胸がいっぱいになった。
特に先生は、昂志と家族以外では男だった俺の過去を知っているただ一人の人だ。その人から祝福されることほど、嬉しいことはなかった。
「……本当に、ありがとうございます」
涙腺を必死に締めて笑えば、先生は困ったように微笑み返してくれた。
ふと、先生のその視線がゆっくりと上に上がる。
その先を辿れば、昂志に向かっていることに気がついた。
「初めまして」
先生が目を細めて笑う。
「君が樹くんの旦那さんか」
「は、はいっ!」
伊崎さん相手のときのドヤ顔のは違い、昂志は背筋をピンと伸ばして先生と目を合わせた。
「樹くんから話は聞いているよ」
どこか含みのある言い方に変わった雰囲気に、昂志が喉を鳴らして唾を飲んだ。
「樹くんがそうだったように、君も適当な思考で今ここに立っているわけじゃないのは分かる。しかし正直、君たちにはこれから果てしない困難が待っているだろう」
「っ! ……はい。覚悟の上です」
「……うん。失礼な言い方かもしれないけど、同性を恋人にひいては伴侶に選んだ君だから、ある程度の偏見も覚悟の上で、どんな事態になろうと心構えは出来ていると思う」
「……はい」
「でも出産とは女性にとってもそうだが、男性だった樹くんにとっては更に不安で怖いことだろう」
「!」
「君が、支えてあげなさい」
昂志がハッとして唇を引き結ぶ。
「これから樹くんをパートナーとして支え、父親として君が赤ちゃんを守ってやるんだ」
真剣な先生の眼差しに、昂志は無言で強く頷いた。
改めて現状の重大さに気づいたらしい。
昂志が緊張に顔を難しくするのを見た先生は苦笑した。
「自覚は大事だが、そんなに気張る必要はないよ。意外とそのときになれば、身体は勝手に動くものだから。……そうだな。赤ちゃん見てみるかい?」
「え!?」
「定期検診では必ず超音波検査をするからね。今日もその予定だから、一緒に見てみるかい?」
「……超音、波?」
昂志が馴染みのない言葉に首を傾げる。
妊娠ってキーワードで超音波の意味合いを思い浮かべることが出来ないのは分かるから、俺はすぐに助け舟を出した。
「エコーのことだよ」
「エコー?」
復唱する昂志に頷く。
「そう。エコー写真ってあるだろ? 簡単に言えば、あれは超音波を当てた反射具合を映像化して写真にしたものなんだ。つまり今からする検査は、超音波をお腹に当てて反射具合で異常がないか調べるものなんだよ」
赤ちゃんが生まれてくるまでの間、定期検診に行く度に必ずある検査だから俺も覚えたけど、男のままだったら詳しく知らなかっただろう検査だから、昂志が知らないのも無理はない。定期検診に病院へ通うようになって、俺だって初めてエコー写真もその検査で貰えることを知ったくらいだし。
「……じゃあその超音波検査ってやつは映像化された胎の中を見れるってことなのか?」
昂志の目が期待に輝く。
「まあ、論より証拠だね。今から検査してみようか」
先生は笑って椅子を引いた。
「樹くん、ちょっと横になってお腹出してもらえるかな?」
「あ、はい」
示された診察台にゆっくりと横になり服をめくり上げると、あらわれた膨らんだ腹にジェルを塗られ、先端が横広がりした手の平サイズの機会を当てられた。
「……なんかバーコード読むやつみたいだな」
手の平サイズの機械を見た昂志が呟く。
「ふふ、バーコードか。確かにそう見えるかもなあ。これはプローブって言うんだよ」
先生が微かに肩を震わせながらプローブを上下左右に動かすと、昂志の正面に設置されたブラウザ画面に黒と白のまだら模様が映し出された。
うねうねとした白い筋の単調な映像がしばらく続く。
「……何がどこだか……??」
「4Dエコーだと分かりやすく鮮やかなリアルタイム動画で赤ちゃんの様子が見れるんだけど、ウチではまだ導入されてなくてね」
難しい顔をして映像を眺める昂志に、先生は分かりにくくてごめんね。と苦笑した。
プローブを動かしていると、白く丸い曲線が表れる。画面では全容が映らない大きさのそれに、ゆっくりプローブを動かせばどことなく凸凹のある様子に、昂志の目が釘付けになった。
「うん、赤ちゃん順調に育っているようだね」
「……赤、ん坊?」
先生の言葉に目を見開いた昂志がそう呟いた瞬間、白く丸いものから細長いものが出ているのが映る。
「!!」
それは、小さな小さな手だった。よく見れば、凸凹は頭と身体だ。白と黒しか色がない映像では顔もはっきり分からないが、握り拳を作っているように黒い画面の中でも見てとれ、機械の小さな起動音以外は静かな診察室に昂志の息を呑む音が響く。
「昂志?」
喉を鳴らして硬直したまま微動だにしない昂志に、俺は診察台の上から目だけを動かし様子を窺おうと見上げた。
「……た、かし?」
見上げた先、目の前にあるものが信じられなくて俺も目を見開く。
昂志は、泣いていた。
頬を伝い落ちる涙は静かで、一瞬自分の見間違いではないかと疑うが、指先に落ちてきた雫に見間違いでも幻覚でもない現実だと知る。
普段はきつくつり上がったその眼から、昂志はハラハラと涙を流していた。
「……昂志」
赤ちゃんのエコー画像に釘付けになっている昂志の指先に、そっと手を伸ばす。
よく分からないけど、昂志の手を握りたくなった。
手を伸ばした先、その指先に触れた瞬間、昂志の手に逆に握りこまれ驚く。
「ありがとう」
「!」
一言。それは、たった一言だった。
けれど、昂志が何を言いたいかそれだけで分かってしまい、俺の視界も歪む。
「……っ本当に、ありがとう」
「……、っ」
ぎゅっ、と左手を両手で握られ、俺は声もなく何度も頷いた。
確かに始めは赤ちゃんを産むかどうするか悩んだ。諦めないといけないものが多すぎたから。でも本来なら諦めないといけなかったものを、全部ではないけどお前は俺に与えてくれた。当たり前のものじゃないのに、当たり前みたいに。だから今、俺は赤ちゃんを産もうと決心してよかったと思えるんだ。相手が、お前だから。
「俺も、ありがとう。愛してるよ」
「うん、ありがと」
昂志が確保してくれたスペースにゆっくりと腰を下ろす。
母さんとは何回と通った定期検診だけど、昂志とは初めての定期検診。
自分はソファに座らず、あれこれと俺の世話をやく昂志の姿に、ほとんどが妊婦さん、もとい女性という診察室では周囲からの興味津々な視線が突き刺さった。
「……ね、旦那さん?」
「――!」
こっそりと隣に居合わせた妊婦さんに話しかけられる。何回かの定期検診でよく顔を合わせた臨月に近い妊婦さんで、確か伊崎さんという名前だった。
ニコニコと優しげな笑顔を浮かべて首を傾げている。
「ぁ……」
どう返すべきか。
悩んだ一瞬の隙を昂志に浚われる。
「はい」
「……っ!?」
目の前からさらりと出た肯定の言葉を聞いて、俺は目を見開いた。
「ちょっと……!」
勝手に答えるな、そう昂志に言おうとして口を開いたが、
「もしかして新婚さん?」
伊崎さんがにっこり笑って続けた。
「はい」
対して、昂志がまた俺を置いて勝手に返事をする。
「ちょ、昂志っ!」
なんだ、そのドヤ顔。勘弁してくれ。
俺が、穴があったら入りたい程の羞恥を感じていても、昂志と伊崎さんはまったく関せず笑い合う。
「そう、おめでとう! じゃあ初めての赤ちゃんなのね」
「はい。あ、ありがとうございます。まさか父親になれるなんて思ってなくて、実は今も夢心地だったりするんですが」
「あら、そうなの?」
「はい。ちょっと事情があって。……コイツの妊娠知って急いでそういうの勉強したもんで、妊娠中に気をつけるべきこととか、身体には何がいいのかとか全然分からなくて。色々教えて頂けると嬉しいです」
「あら! まあまあ……素敵な旦那さんね」
羨ましいわ、と伊崎さんが俺を見た。
その視線は母さんを連想させる優しいもので、気恥ずかしく感じていた空気もなんだかホッとするものに変わる。
だから、だろうか。昂志の前では普段言えなかったこともするりと口をついて出た。
「……え、っと……あの……はい。お、いえ私には勿体ないぐらいの良い人だと、思います……」
本当に。昂志だから、俺はこうしていられるんだと思う。
「何言ってんだ。お前のほうが俺には勿体ねぇよ。だから少しでも相応しくなろうとしてるだけだろうが」
そう。こんな恥ずかしいことをあっさり言える昂志だからこそ、俺は今幸せなんだろう。
「ッ! ~~ちょっともう黙って!!」
でも、それとこれとは話は別だ。
天然は怖い。昂志は天然じゃなかった筈なのに。
お願いだからもう喋らないでくれ。そんな気持ちで昂志の口を手の平で覆うように塞いだ。
「ぅぐ!?」
昂志が苦しそうに俺の腕を掴んでくるが、かまうもんか。
「仲がいいのね。新婚さんだし当然と言えば当然かしら?」
俺と昂志のやり取りを見た伊崎さんがクスクス笑う。
堪らなく恥ずかしくてチラリと伊崎さんを窺えば、その柔らかい視線がふと下に下りた。
「今、何週目?」
「あ、えっと……」
「なんしゅう?」
昂志がどういう意味だ?と俺を見て首を傾げる。
当然だ。妊娠の日数を週で数えるなんて、俺も最初は知らなかった。
先生は元男である俺を気遣ってか、分かりやすく○ヶ月目と表現してくれるが、本来は○週目というらしいのは母さんの話からもネット情報でも確かだ。個人的には『○ヶ月目』表現でもいいんじゃないかと思うけど、まあ何がしかの理由があるんだろう。
何にせよ、伊崎さんに答えなければと口を開こうとしたときだった。
「川邊さん、どうぞー」
「あ、……」
妙齢の看護師さんに呼ばれ、自分の順番がきたことを知る。
慌てて昂志の手を引き立ち上がった。
「……すみません、失礼します」
話を途中で切り上げて申し訳ないと伊崎さんに頭を下げれば、微笑ましいものでも見るかのような眼差しで緩やかに手を振って送り出された。
「やあ、調子はどうだい?」
診察室に入ったと同時に掛けられた柔らかい声。
目を向けるまでもなくお世話になっている先生のものだと分かり、俺は笑って返した。
「はい。少し腰が痛いですが、それ以外は大丈夫です」
看護師さんが椅子を引いて促してくれるまま、先生の前に腰を下ろす。
「ああ、赤ちゃんが順調に育ってる証拠だよ。この時期から重心が前にずれて腰や背中が痛むんだ」
先生が喜ばしいことだと言えば、俺の肩に添えられていた昂志の手に力が入った。
チラッと目だけでその顔を見上げると、喜色満面な笑顔が視界に入る。
父親だから当たり前と言えば当たり前だが、昂志が自分のことのように喜んでくれている事実に、幸せを感じて思わず頬が緩んだ。
しかし、先生も喜色に顔を緩ませているのが視界の端で分かり、何となく恥ずかしくなって俯く。
「ふふ……っ、よかったね樹くん」
先生の穏やかな声にそろそろと顔を上げれば、父さんのような優しい眼差しを注がれていた。
「……はい。ありがとうございます」
近頃、周囲の人すべてがこんな眼差しを向けてくるような気ががする。父さん母さんだけじゃない。知り合ったばかりの人も、とても大切なものを見るような、優しくて温かい視線を向けてくる。
俺の存在を、赤ちゃんの存在を祝福してくれているようで、胸がいっぱいになった。
特に先生は、昂志と家族以外では男だった俺の過去を知っているただ一人の人だ。その人から祝福されることほど、嬉しいことはなかった。
「……本当に、ありがとうございます」
涙腺を必死に締めて笑えば、先生は困ったように微笑み返してくれた。
ふと、先生のその視線がゆっくりと上に上がる。
その先を辿れば、昂志に向かっていることに気がついた。
「初めまして」
先生が目を細めて笑う。
「君が樹くんの旦那さんか」
「は、はいっ!」
伊崎さん相手のときのドヤ顔のは違い、昂志は背筋をピンと伸ばして先生と目を合わせた。
「樹くんから話は聞いているよ」
どこか含みのある言い方に変わった雰囲気に、昂志が喉を鳴らして唾を飲んだ。
「樹くんがそうだったように、君も適当な思考で今ここに立っているわけじゃないのは分かる。しかし正直、君たちにはこれから果てしない困難が待っているだろう」
「っ! ……はい。覚悟の上です」
「……うん。失礼な言い方かもしれないけど、同性を恋人にひいては伴侶に選んだ君だから、ある程度の偏見も覚悟の上で、どんな事態になろうと心構えは出来ていると思う」
「……はい」
「でも出産とは女性にとってもそうだが、男性だった樹くんにとっては更に不安で怖いことだろう」
「!」
「君が、支えてあげなさい」
昂志がハッとして唇を引き結ぶ。
「これから樹くんをパートナーとして支え、父親として君が赤ちゃんを守ってやるんだ」
真剣な先生の眼差しに、昂志は無言で強く頷いた。
改めて現状の重大さに気づいたらしい。
昂志が緊張に顔を難しくするのを見た先生は苦笑した。
「自覚は大事だが、そんなに気張る必要はないよ。意外とそのときになれば、身体は勝手に動くものだから。……そうだな。赤ちゃん見てみるかい?」
「え!?」
「定期検診では必ず超音波検査をするからね。今日もその予定だから、一緒に見てみるかい?」
「……超音、波?」
昂志が馴染みのない言葉に首を傾げる。
妊娠ってキーワードで超音波の意味合いを思い浮かべることが出来ないのは分かるから、俺はすぐに助け舟を出した。
「エコーのことだよ」
「エコー?」
復唱する昂志に頷く。
「そう。エコー写真ってあるだろ? 簡単に言えば、あれは超音波を当てた反射具合を映像化して写真にしたものなんだ。つまり今からする検査は、超音波をお腹に当てて反射具合で異常がないか調べるものなんだよ」
赤ちゃんが生まれてくるまでの間、定期検診に行く度に必ずある検査だから俺も覚えたけど、男のままだったら詳しく知らなかっただろう検査だから、昂志が知らないのも無理はない。定期検診に病院へ通うようになって、俺だって初めてエコー写真もその検査で貰えることを知ったくらいだし。
「……じゃあその超音波検査ってやつは映像化された胎の中を見れるってことなのか?」
昂志の目が期待に輝く。
「まあ、論より証拠だね。今から検査してみようか」
先生は笑って椅子を引いた。
「樹くん、ちょっと横になってお腹出してもらえるかな?」
「あ、はい」
示された診察台にゆっくりと横になり服をめくり上げると、あらわれた膨らんだ腹にジェルを塗られ、先端が横広がりした手の平サイズの機会を当てられた。
「……なんかバーコード読むやつみたいだな」
手の平サイズの機械を見た昂志が呟く。
「ふふ、バーコードか。確かにそう見えるかもなあ。これはプローブって言うんだよ」
先生が微かに肩を震わせながらプローブを上下左右に動かすと、昂志の正面に設置されたブラウザ画面に黒と白のまだら模様が映し出された。
うねうねとした白い筋の単調な映像がしばらく続く。
「……何がどこだか……??」
「4Dエコーだと分かりやすく鮮やかなリアルタイム動画で赤ちゃんの様子が見れるんだけど、ウチではまだ導入されてなくてね」
難しい顔をして映像を眺める昂志に、先生は分かりにくくてごめんね。と苦笑した。
プローブを動かしていると、白く丸い曲線が表れる。画面では全容が映らない大きさのそれに、ゆっくりプローブを動かせばどことなく凸凹のある様子に、昂志の目が釘付けになった。
「うん、赤ちゃん順調に育っているようだね」
「……赤、ん坊?」
先生の言葉に目を見開いた昂志がそう呟いた瞬間、白く丸いものから細長いものが出ているのが映る。
「!!」
それは、小さな小さな手だった。よく見れば、凸凹は頭と身体だ。白と黒しか色がない映像では顔もはっきり分からないが、握り拳を作っているように黒い画面の中でも見てとれ、機械の小さな起動音以外は静かな診察室に昂志の息を呑む音が響く。
「昂志?」
喉を鳴らして硬直したまま微動だにしない昂志に、俺は診察台の上から目だけを動かし様子を窺おうと見上げた。
「……た、かし?」
見上げた先、目の前にあるものが信じられなくて俺も目を見開く。
昂志は、泣いていた。
頬を伝い落ちる涙は静かで、一瞬自分の見間違いではないかと疑うが、指先に落ちてきた雫に見間違いでも幻覚でもない現実だと知る。
普段はきつくつり上がったその眼から、昂志はハラハラと涙を流していた。
「……昂志」
赤ちゃんのエコー画像に釘付けになっている昂志の指先に、そっと手を伸ばす。
よく分からないけど、昂志の手を握りたくなった。
手を伸ばした先、その指先に触れた瞬間、昂志の手に逆に握りこまれ驚く。
「ありがとう」
「!」
一言。それは、たった一言だった。
けれど、昂志が何を言いたいかそれだけで分かってしまい、俺の視界も歪む。
「……っ本当に、ありがとう」
「……、っ」
ぎゅっ、と左手を両手で握られ、俺は声もなく何度も頷いた。
確かに始めは赤ちゃんを産むかどうするか悩んだ。諦めないといけないものが多すぎたから。でも本来なら諦めないといけなかったものを、全部ではないけどお前は俺に与えてくれた。当たり前のものじゃないのに、当たり前みたいに。だから今、俺は赤ちゃんを産もうと決心してよかったと思えるんだ。相手が、お前だから。
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