この愛のすべて

高嗣水清太

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「なあ! ちょっと!」

 突然呼び止められ、腕を引かれて驚く。
 視線を向ければ、どこかで見たことがあるような少年の姿に首を傾げた。まだ小学校低学年くらいの男の子だ。
 どう考えても今年大学生になる予定だった年齢の、俺との接点なんて見当たらないのに妙に懐かしい。
 真っ黒な短髪で、つり上がった眉はややキツい印象を与えるけど、目を緩やかに細めて屈託なく笑う顔は好感を覚える。

「お前、名前は?」

 少年が、眩しいほどの笑顔を浮かべながら俺を指差して言った。
 人を指差すな! と注意しかけて、思わず口を噤む。
 ――知っている。俺はこの子を、知っている。
 なんだ、どこで見た。俺はどこでこの子を知った? 知り合った?

「名前! 教えてくれよ!!」

 釈然としないこちらの様子には目もくれず、子供特有の無邪気さで少年が俺の右手を強引に引っ張る。
 瞬間、手首に走った鋭い痛みに悲鳴を上げた。

「いっ…ゃあぁああっ!?」
「えっ!!」

 少年が驚いた理由とは違うんだろうが、俺の口から出たのは思ったより甲高い声で自分でも驚く。
 今の俺では出ない、女の子のような声に混乱した。女の子のような声なのに、しかし確実に自分の声だと分かるのは何故なのか。

 鋭い痛みに反して鈍い音が手首から骨を介して耳に伝わった。

「――っこの、馬鹿力ッ!!」

 心底驚いているような少年の姿に悪態をつく。
 この痛みには覚えがあったからだ。
 幼い頃からの喧嘩で。野球の練習で。体育の授業でも経験があった。
 関節が、抜けた痛みだ。

 ――ああ。これは、昂志と初めて会ったときの記憶だ……と息を呑んだ。
 昂志と初めて会った日に、アイツは俺に一目惚れしたのだと後から聞いたが、そのときどうしても知り合いたくて引き止めようとした結果、俺の手首の関節を外したのだと謝罪と一緒に告白されたのが懐かしい。
 バカバカしくて愛おしい記憶の一部だが――、

 走馬燈とか冗談じゃない。縁起が悪いにも程がある。
 気づいた瞬間、ぐにゃりと歪んだ視界に俺は強く拳を握った。

 出会った頃の記憶がなんだっていうんだ。これから――、これからだ。昂志たかしとの人生は。赤ちゃんも含めた、家族との記憶は。昂志と、昂志と俺の赤ちゃんとの記憶はこれからなんだ。俺達はこれからなんだ。神様にだって邪魔はさせない――!!



 ズキズキとした痛みの中で、温かく懐かしい匂いに覚醒を誘われる。
 一度気がつくと五感は増すばかりで、懐かしい匂いよりも強く感じる腹部の痛みに顔をしかめた。
 ――なんだこれ? ……なんでこんなに痛いんだ……?
 絶えず鼻腔を擽る香りは俺の心を落ち着かせようとするが、ズキズキと響く痛みの前では意味がなく、どうしようもない憤りが俺の身体を支配する。
 ――なんだこれ。俺は今どうなってるんだ? 何でこんなに腹が痛いんだ。ここはどこだ。昂志は、どこだ……?
 そこまで考えて、今も漂う懐かしい匂いが昂志のものだと気づいた瞬間、赤ちゃんの存在を思い出して飛び起きた。飛び起きたつもりだった。

「っッ痛……!」

 起き上がろうとした反動で襲ってきた痛みに身体が痙攣を起こす。

「……っ、ぅ……た、昂志?」

 ビリビリとした熱い痛みの中で必死に昂志の顔を探した。

「昂志……ぁ、赤ちゃんは……」

 赤ちゃんは無事なのか。俺はちゃんと産んであげられたのか。そう尋ねようとして、正面に目を真っ赤にした昂志の顔を見つけて口を閉ざした。
 明らかに泣いた後だった。
 何て声をかければいいのか、言葉が見つからない。
 お互い目を見開いて、無言で見つめ合う。

「……い……いつき?」

 震える唇で、昂志が口を開いた。

「……うん……」

 普段の昂志からは考えられないほど弱々しい呼びかけに、俺が小さく頷けば昂志はくしゃりと顔を歪めた。

「っっ……樹、樹、樹、樹、いつ……いッ」
「!!」

 震える声が、何度も繰り返し俺の名前を呼ぶ。

「……っ、ッよか……い、いつきぃ~……」

 昂志は俺の肩口に顔を埋めたまま、母さんが来るまでずっと突っ伏して泣いていた。





 後から俺は三日も目を覚まさなかったんだと母さんから聞いた。
 破水して救急車で病院に運び込まれたけど、意識も朦朧とした様子の母体と感染症の危険を考えて緊急手術になったらしい。
 早産の原因は詳しくは分からなかったけど、妊娠高血圧症候群じゃないかって話だった。
 俺は普通の女の人とは違う身体だし、加えて当たり前だけど初めてのお産でもあったわけだし、おかしいことではないそうだ。

 赤ちゃんと会えたのは、それから五日後のことだった。
 俺の体調が芳しくなかったことと赤ちゃんが早産だった為、保育器に二週間入ることになっていたからだ。
 保育器のあるNICUは白く、無機質な部屋だった。細菌なんかの感染を予防する為に厳重管理されてるから仕方ないと言えば仕方ない。

「こちらです」

 NICUの中を看護師さんの案内で、まだ立って歩くにはしんどい俺を、車椅子に乗せた昂志が押しながら進む。
 しばらくして大きな窓が設置された部屋にたどり着いた。窓以外はなにもない小さな部屋だ。
 窓の向こうに、マスクをして防菌服のようなものに身体を包んでいるので分かりにくいが、一つの保育器の前に佇む先生の姿を見つける。
 
「!」

 先生は俺を見て微笑んだ後、そっと保育器の中から赤ちゃんを抱き上げた。
 心臓を忙しなく動かしながら、俺は窓に張り付く。
 まだ直接会うには俺の体調は良くなく、窓越しに赤ちゃんが連れてこられるのを待つしかない。
 先生の手に抱かれた赤ちゃんがゆっくりと近づく。

「……っ、ぁ」

 透明な壁を通してだけど、初めて見る我が子に鼻がツンとして目の奥が熱くなった。

 まだ、先生の両手に収まってしまうくらいすべてが小さい。

 小さい頭、小さい手、小さい足。

 血管が透けた真っ赤な顔と身体で、猿みたいにしわくちゃだ。

 それでもちゃんと、生きている。

 ――俺と、昂志の赤ちゃん。


 どうしようもない、溢れるような愛しさが込み上げてきた。

「……ゃっ……と会え、た……」

 みっともなく声が震える。

「……男の子だってさ」

 同じように声を震わせる昂志に、後ろから抱き寄せられた。

「……これから、樹とコイツは何があっても俺が守ってみせるよ」

 俺にじゃなく、自分に誓うように昂志が言う。

「……違うよ」
「……?」
「これから何があっても、俺と昂志でこの子を守ってあげような」
「!!」

 この子が、幸せになれるように。

 俺の肩を抱く昂志の腕に手を重ねてそう言えば、昂志は優しい目で笑った。

「……ああ、そうだな」




 本来であれば有り得なかった俺の妊娠は、良くも悪くも人生を変えた。
 今まで男として生きてきた自分を捨て、女として生きる決心をするのは正直辛いことだった。
 赤ちゃんは嬉しかったけど、やっぱり自分は男って自覚の上でこれまで生きてきたから。
 女になることが怖かった。昂志にどう思われるか怖かった。野球部の皆にどう思われるか怖かった。嫌われるのが怖かった。
 それでも赤ちゃんの為に、すべてを捨てる決意をした。
 望めなかった筈の俺と昂志の赤ちゃんを授かったんだ。ここで自分の人生を選んだら、後悔すると思った。
 でも本当に後悔せずに済んだのは、昂志のおかげだ。昂志が、俺を否定しなかったから。俺を分かってくれたから、今がある。俺と赤ちゃんと昂志の、今がある。




 あれから半年。
 俺達は今日――、結婚する。


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