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二章 第四皇子、白百合に陰謀を聴く。
2-2 妃殿下の呼称
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「だいだい……まだ正式には、これは妃殿下ではないぞ」
燎琉が皓義の言葉尻をとらえてこう言ったのは、もしかすると半分は、からかわれて口惜しいがゆえの負け惜しみのようなものだったかもしれない。
そして、もう半分の原因は――……たぶん、戸惑いだ。
妃殿下という響きは、燎琉の胸を、ひどくざわつかせる。擽ったいような、どうも据わりが悪いような、言明しがたい奇妙な感情が湧いてくるのだ。
たしかに、瓔偲はもうひと月もすれば、紛れもなく燎琉の妃という立場になる相手だった。それは間違いないことだ。
けれども、いま目の前にいる、この凛とした佇まいのうつくしい人が、自分のつがいであり、伴侶になるのだとは――……どうしたって、実感が湧かない。
それよりも、考えるだけで、どうも頭が、ぼう、と、してきてしまうのだ。
妃殿下、と、そう呼ばれて何も言わなかった当の瓔偲は、いったい、燎琉との婚姻のことを、どう受け止めているのだろうか。ちらりと相手をうかがい見ると、彼は燎琉の視線に気がついて、すこし不思議そうに、ことりと首を傾けてみせた。
「どうかなさいましたか、殿下……?」
「っ、なんでもない……! とりあえずいつまでもこんなところで突っ立ってないで、さっさと正房へ行くぞ」
燎琉は喚くような声で瓔偲を促した。瓔偲はまだすこしばかり黙ったままで燎琉を見返していたが、やがて、はい、と、静かに応じた。
「皓義、茶を持て」
従者に短く命じておいて、燎琉は正堂へ続く階へと歩を進めた。
「桂花のような、いい香りがいたしますね」
燎琉が居室としている正房に足を踏み入れた相手は、開口一番、そんなことを言った。
「そうか?」
燎琉はややぶっきらぼうに応じる。すると瓔偲は、燎琉を見詰めたままに、じっと黙り込んでしまった。
「っ、なんだよ」
燎琉は瓔偲の反応にややたじろいでしまう。気まずくなって、む、と、くちびるを引き結び、鼻頭に皺を寄せていた。
「ここは椒桂殿だからな」
それでもすぐに、そんなことを口にしている。
「名に違わず、院子には桂花の木があったろう。桂花の香りがするというなら、その香が殿舎に染みついているのかもな」
早口に告げたのは、多分に、場に落ちた沈黙に堪えかねたためだった。
とはいえ、言った内容は、まるで適当というのでもない。
三大香木ともいわれる桂花――金木犀――の木が二本、この椒桂殿の院子には、象徴のように植えられていた。秋になれば、橙色のちいさな愛らしい花をたくさんつけて、馨しい芳香を辺りいっぱいに漂わせることだろう。
今春、椒桂殿を与えられて越してきたばかりの燎琉は、この殿舎で桂花が咲く時期をまだ過ごしてはいなかった。が、院子の東西に植えられた桂花木はそれなりに立派なものだったから、きっと時期になればすばらしい香りを楽しむことができるようになるはずだ。
燎琉の言葉を受けて、瓔偲は、いま通り過ぎてきたばかりの院子のほうを軽く振り向くようにした。納得したのかどうなのか、ふ、と、口許をやさしくゆるめる。
その表情に、どきりとする。
なぜか気恥ずかしくて、燎琉は相手からあからさまに顔を背けてしまった。
「……座ったらどうだ」
相手にそう椅子だけ勧めておいて、燎琉自身は窓辺のほうまでつかつかと歩いていた。瓔偲は燎琉に言われたままに、卓子の傍の椅子におとなしく腰掛けている。
ふいに、いま房間にふたりきりなのだと意識してしまって、どうしたものか――己もまた卓子を挟んで向かいの椅子に座るべきかどうか――燎琉は困り果てた。なんとも居た堪れない、落ち着かない気分で、しばらく窓辺をうろうろと歩き回る。
そんなこちらを無言で眺めていた瓔偲が、やがてふと、口を開いた。
「妃、と……わたしがそう呼ばれたのが、殿下には、お気に召しませんでしたか?」
使われた妃殿下という呼称が気に喰わなかったのか、と、彼は静かにそんなことを問うてきた。
はっとして立ち止まり、燎琉は瓔偲のほうを見る。相手は苦笑めいた、なんとも複雑な笑みを口許に浮かべていた。
「殿下のご気分を害してしまったのなら、あやまります。申し訳ございませんでした」
「いや……べつに、そんなのじゃないが」
燎琉は眉を寄せつつ、曖昧に答えた。
だいたい、もしもその呼称が原因で燎琉が不機嫌になったのだとすれば、責められるべきは、それを使った皓義のはずである。瓔偲には何の咎もないことだった。
それなのになぜ、彼は詫びるのだろう。
加えていうなら、燎琉は別に、瓔偲に対する妃の呼称が気に食わなかったわけでもなかったのだ。先程、まだ妃ではないと言ってみせたのは、揶揄に対して悔し紛れに張った意地みたいなものである。
それでももしいまの自分が、瓔偲から不機嫌に見えているというのなら、その原因は、きっと燎琉の中にある大きな困惑である。
そのことを、いったいどう説明したものだろう。
自分の中でぐちゃぐちゃになっている感情にとにかく苛ついて、燎琉は、継ぐべき言葉を探しあぐんだ。
そのままむっと黙り込み、窓の傍の榻にどかりと腰掛ける。
そんな燎琉の態度をどう受け取ったのか、今度、瓔偲はすこしだけ困ったような表情を見せた。
「ご婚約が、破談になったとか」
控え目な声が、そんなことを言う。
「……正確には、婚約に至る前に、白紙になったんだがな」
燎琉は顔を背けつつ訂正した。
「さようですか……ほんとうに、申し訳ありませんでした」
燎琉の言葉を受けて、瓔偲が深々と頭を下げる。その静かな声音にはっとして相手のほうを見ると、顔を上げた瓔偲は、また困ったような表情を見せていた。
整った美貌の浮かべるその困惑を目にすると、それまで苛ついてどこか尖った燎琉の感情は、ふと、その先端を折られてしまっていた。
「べつに……いい。だってそれは、お前のせいじゃないだろう?」
素っ気ないながらも、結局、そんなふうに答えいる。燎琉は、ふう、と、ひとつ大きく息をついた。
異を決して立ち上がり、瓔偲の傍へと歩み寄る。相手の向かいの椅子に座って、けれどもまだ相手を真正面から見ることはできずに目は逸らしたまま、もう一度、ふう、と、息を吐き出した。
「正直言って……戸惑ってる」
気付けば、ややうつむき加減に、そんなふうに吐露していた。
たしかに苛ついてはいるが、たぶん燎琉は、瓔偲を含め、何かに対して怒っているわけではなかった。だからこれは単なる困惑ゆえのことだ。あまりにも突然の事態に、頭も、心も、ついていっていないというだけのことに過ぎない。
ちら、と、瓔偲を見る。
瓔偲は燎琉の言葉を受けとめて、一拍黙ったが、当然です、と、やがてそんな答えを寄越した。
「員外郎……鵬明さまから、おうかがいいたしました。殿下と宋家のお嬢さまとは、傍目にも、似合いの睦まじいご夫婦におなりだろうと、そう思わせるご様子だったと……年齢もふさわしく、家柄も申し分のないお相手とのご縁組みの話が順調に進んでいたところに、突然、わたしのような者を望まず娶る羽目になってしまったのです。殿下のご困惑は、もっとものことと存じます」
そう言う瓔偲の声はあまりにも冷静だ。まるで他人事を語るかのような平坦さからは、彼が燎琉との婚姻をどう思っているのか、彼自身の抱く感情については、まるで読み取ることが出来なかった。
燎琉が皓義の言葉尻をとらえてこう言ったのは、もしかすると半分は、からかわれて口惜しいがゆえの負け惜しみのようなものだったかもしれない。
そして、もう半分の原因は――……たぶん、戸惑いだ。
妃殿下という響きは、燎琉の胸を、ひどくざわつかせる。擽ったいような、どうも据わりが悪いような、言明しがたい奇妙な感情が湧いてくるのだ。
たしかに、瓔偲はもうひと月もすれば、紛れもなく燎琉の妃という立場になる相手だった。それは間違いないことだ。
けれども、いま目の前にいる、この凛とした佇まいのうつくしい人が、自分のつがいであり、伴侶になるのだとは――……どうしたって、実感が湧かない。
それよりも、考えるだけで、どうも頭が、ぼう、と、してきてしまうのだ。
妃殿下、と、そう呼ばれて何も言わなかった当の瓔偲は、いったい、燎琉との婚姻のことを、どう受け止めているのだろうか。ちらりと相手をうかがい見ると、彼は燎琉の視線に気がついて、すこし不思議そうに、ことりと首を傾けてみせた。
「どうかなさいましたか、殿下……?」
「っ、なんでもない……! とりあえずいつまでもこんなところで突っ立ってないで、さっさと正房へ行くぞ」
燎琉は喚くような声で瓔偲を促した。瓔偲はまだすこしばかり黙ったままで燎琉を見返していたが、やがて、はい、と、静かに応じた。
「皓義、茶を持て」
従者に短く命じておいて、燎琉は正堂へ続く階へと歩を進めた。
「桂花のような、いい香りがいたしますね」
燎琉が居室としている正房に足を踏み入れた相手は、開口一番、そんなことを言った。
「そうか?」
燎琉はややぶっきらぼうに応じる。すると瓔偲は、燎琉を見詰めたままに、じっと黙り込んでしまった。
「っ、なんだよ」
燎琉は瓔偲の反応にややたじろいでしまう。気まずくなって、む、と、くちびるを引き結び、鼻頭に皺を寄せていた。
「ここは椒桂殿だからな」
それでもすぐに、そんなことを口にしている。
「名に違わず、院子には桂花の木があったろう。桂花の香りがするというなら、その香が殿舎に染みついているのかもな」
早口に告げたのは、多分に、場に落ちた沈黙に堪えかねたためだった。
とはいえ、言った内容は、まるで適当というのでもない。
三大香木ともいわれる桂花――金木犀――の木が二本、この椒桂殿の院子には、象徴のように植えられていた。秋になれば、橙色のちいさな愛らしい花をたくさんつけて、馨しい芳香を辺りいっぱいに漂わせることだろう。
今春、椒桂殿を与えられて越してきたばかりの燎琉は、この殿舎で桂花が咲く時期をまだ過ごしてはいなかった。が、院子の東西に植えられた桂花木はそれなりに立派なものだったから、きっと時期になればすばらしい香りを楽しむことができるようになるはずだ。
燎琉の言葉を受けて、瓔偲は、いま通り過ぎてきたばかりの院子のほうを軽く振り向くようにした。納得したのかどうなのか、ふ、と、口許をやさしくゆるめる。
その表情に、どきりとする。
なぜか気恥ずかしくて、燎琉は相手からあからさまに顔を背けてしまった。
「……座ったらどうだ」
相手にそう椅子だけ勧めておいて、燎琉自身は窓辺のほうまでつかつかと歩いていた。瓔偲は燎琉に言われたままに、卓子の傍の椅子におとなしく腰掛けている。
ふいに、いま房間にふたりきりなのだと意識してしまって、どうしたものか――己もまた卓子を挟んで向かいの椅子に座るべきかどうか――燎琉は困り果てた。なんとも居た堪れない、落ち着かない気分で、しばらく窓辺をうろうろと歩き回る。
そんなこちらを無言で眺めていた瓔偲が、やがてふと、口を開いた。
「妃、と……わたしがそう呼ばれたのが、殿下には、お気に召しませんでしたか?」
使われた妃殿下という呼称が気に喰わなかったのか、と、彼は静かにそんなことを問うてきた。
はっとして立ち止まり、燎琉は瓔偲のほうを見る。相手は苦笑めいた、なんとも複雑な笑みを口許に浮かべていた。
「殿下のご気分を害してしまったのなら、あやまります。申し訳ございませんでした」
「いや……べつに、そんなのじゃないが」
燎琉は眉を寄せつつ、曖昧に答えた。
だいたい、もしもその呼称が原因で燎琉が不機嫌になったのだとすれば、責められるべきは、それを使った皓義のはずである。瓔偲には何の咎もないことだった。
それなのになぜ、彼は詫びるのだろう。
加えていうなら、燎琉は別に、瓔偲に対する妃の呼称が気に食わなかったわけでもなかったのだ。先程、まだ妃ではないと言ってみせたのは、揶揄に対して悔し紛れに張った意地みたいなものである。
それでももしいまの自分が、瓔偲から不機嫌に見えているというのなら、その原因は、きっと燎琉の中にある大きな困惑である。
そのことを、いったいどう説明したものだろう。
自分の中でぐちゃぐちゃになっている感情にとにかく苛ついて、燎琉は、継ぐべき言葉を探しあぐんだ。
そのままむっと黙り込み、窓の傍の榻にどかりと腰掛ける。
そんな燎琉の態度をどう受け取ったのか、今度、瓔偲はすこしだけ困ったような表情を見せた。
「ご婚約が、破談になったとか」
控え目な声が、そんなことを言う。
「……正確には、婚約に至る前に、白紙になったんだがな」
燎琉は顔を背けつつ訂正した。
「さようですか……ほんとうに、申し訳ありませんでした」
燎琉の言葉を受けて、瓔偲が深々と頭を下げる。その静かな声音にはっとして相手のほうを見ると、顔を上げた瓔偲は、また困ったような表情を見せていた。
整った美貌の浮かべるその困惑を目にすると、それまで苛ついてどこか尖った燎琉の感情は、ふと、その先端を折られてしまっていた。
「べつに……いい。だってそれは、お前のせいじゃないだろう?」
素っ気ないながらも、結局、そんなふうに答えいる。燎琉は、ふう、と、ひとつ大きく息をついた。
異を決して立ち上がり、瓔偲の傍へと歩み寄る。相手の向かいの椅子に座って、けれどもまだ相手を真正面から見ることはできずに目は逸らしたまま、もう一度、ふう、と、息を吐き出した。
「正直言って……戸惑ってる」
気付けば、ややうつむき加減に、そんなふうに吐露していた。
たしかに苛ついてはいるが、たぶん燎琉は、瓔偲を含め、何かに対して怒っているわけではなかった。だからこれは単なる困惑ゆえのことだ。あまりにも突然の事態に、頭も、心も、ついていっていないというだけのことに過ぎない。
ちら、と、瓔偲を見る。
瓔偲は燎琉の言葉を受けとめて、一拍黙ったが、当然です、と、やがてそんな答えを寄越した。
「員外郎……鵬明さまから、おうかがいいたしました。殿下と宋家のお嬢さまとは、傍目にも、似合いの睦まじいご夫婦におなりだろうと、そう思わせるご様子だったと……年齢もふさわしく、家柄も申し分のないお相手とのご縁組みの話が順調に進んでいたところに、突然、わたしのような者を望まず娶る羽目になってしまったのです。殿下のご困惑は、もっとものことと存じます」
そう言う瓔偲の声はあまりにも冷静だ。まるで他人事を語るかのような平坦さからは、彼が燎琉との婚姻をどう思っているのか、彼自身の抱く感情については、まるで読み取ることが出来なかった。
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