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三章 第四皇子、白百合を知りゆく。

3-3 堤普請の冊子

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 職場である工部官舎の奥、物置のようになっている一室の、うずたかく積まれた書物の中に冊子はあった。古紙と墨と、それからほこりっぽい独特の匂いの漂う室内で、そこの空気だけが、不思議なほどに清澄なそれのように思われた。

 それはまさに、まるでなにかに導かれたかのような瞬間だったのだ。凛と澄んだ気に気を引かれるかのごとく、気がつけば燎琉は、その冊子を手に取っていた。

「これはどうも、数年前、匿名で前帝のもとへと奏上されてきた書き付けらしい」

 瓔偲えいしの問いに答えるように、燎琉りょうりゅうは言った。

内容なかみ威水いすいの堤の普請についてだったから、そのまま工部尚書しょうしょの手に渡ったということなんだが……ほら、見てくれ。威水の氾濫の歴史が、その時の雨の様子、河の様子、それから越水時の被害なんかも含めて、子細に渡って、まとめ記されているだろう? その上で、堤の構造について考え得る工夫なんかも書かれている」

 燎琉が現在たずさわっている案件からすれば、この冊子に記された内容は、実に有り難い示唆に富むものばかりだった。偶然これを見つけて以来、常に携行し、読み込んで、様々な検討を進めている。

「本当は、これを書いた者に会えればいろいろと話を聴けて一番いいんだが、なにしろ、誰が送ってきたものかもわからない。だからせめて、この冊子の内容を手掛かりに、俺もいろいろ調べてみようと思って……それで、しょうぶん殿通いをしていた」

 そこまでを勢いのままに一気に語った燎琉は、ふと、瓔偲がますます大きく目をみはって、またたきながらこちらを見ているのに気が付いた。

「どうした?」

 相手の表情を不思議に思って目を瞬いてから、自分が一方的につらつらと喋っていた状況はっと気がついた。

「す、すまない。その……つい、熱くなった」

 どことなく恥ずかしく、口籠るように言う。

「つまらなかったか?」

 興味がなかっただろうかと案じて、窺うように問いかけた。

「まさか」

 瓔偲はきっぱりと首を振る。

「ただ……」

「なんだ?」

 はっきりしない態度を怪訝けげんに思って眉をしかめたら、それでも一拍黙った後で、瓔偲は微笑した。

「その……すこし、驚いたのです」

「いったい何を驚くというんだ?」

「いえ、その……皇族がたは国府にそれぞれ職掌を得られておられますが、それはほとんどが名誉職のようなものでしょう? でも、殿下は違うのだな、と、そう思って」

 つまり、燎琉が工部で実際に職務を担っているようなのに驚いたということらしかった。

 事実、皇族男子は成人と同時に国府に出仕するようになるとはいえ、大抵の場合、それは名目上のことに過ぎない。例外といえば、現在、戸部こぶ員外郎いんがいろうとして実質的に勤めている――しかも敏腕との呼び声高い――叔父、皇弟おうてい鵬明ほうめいくらいのものだろう。

 だがしゅ鵬明ほうめいという人は――甥の燎琉から見ても――皇族において、少々変わり者の部類に入る人物である。一般の皇族の在り方の参考にはならなかった。

 自らは皇弟であり、かつ、その母は、現帝の実母ではないとはいえ、皇太后の位にある。しかも母方の伯父は門下もんか侍中じちゅうという最高位の官僚であるからこそ、好き勝手していても、誰も表立っては文句を言えないだけのことだった。

 そんな叔父を除いては、皇族の国府における職務は、たしかに普通は名ばかりのそれでしかなかった。

威水いすいつつみ修繕しゅぜんを担っておられるといっても、殿下の、すなわち皇帝の御子みこ御名おんなの下に行われれば、民はそれだけで安心します。ですから、殿下の職掌も、あるいはそういうことなのかと……鵬明殿下からは、殿下が任されていらっしゃるお仕事について聞いてはおりましたのに、すみません、無意識に殿下をくびっていたのかもしれません」

「別に……進士のお前からしたら、俺のやっている仕事など、実際、たいしたものでもないのかもしれんが」

 ふん、と、ちいさく鼻を鳴らしたら、また驚いたように目をみはった瓔偲が、とんでもない、と、首を振った。

「堤のこと、先程、殿下がおっしゃいました通りかと……威水の傍に暮らす民のためにも、ぜひとも、良いお仕事をなさってくださいますよう、僭越ながら心よりお願い申し上げます」

 どうかよろしく、と、そんなことを微笑みながら言われたとき、燎琉はいままでに味わったことのない感情が胸のうちに湧くのを覚えた。なんだろう、くひどくすぐったいような、誇らしいような、不思議なきもちだ。

「どうかなさいましたか、殿下……?」

 燎琉の変化を目敏く見て取ったらしい瓔偲が、ちいさく首をかたげる。

「別に、なんでもない……!」

 燎琉は、ついつい、そう強がるような返答をしていた。けれども、湧き起こった言明しがたい想いは、たしかに燎琉の胸にじんわりと沁みている。

 そういえば、と、燎琉は思い出していた。

 母の計らいで幾度か宋家令嬢である清歌せいかに会った時にも、同じように、燎琉は自らのたずさわる仕事の話にふれたことがあった気がする。そのときの相手は、いま瓔偲が微笑をもって燎琉の話を聴いていたのと同様に、おっとりと笑いながらこちらの話を聴いてくれていた。

 だが、いまのような気持ちは、燎琉の中に湧きはしなかった。

 清歌は燎琉よりも年下の娘である。おそらくは、燎琉の話す堤の修繕のことになど、さして関心がなかったのではないかと思う。一応は頷きながら耳を傾けてくれてはいたが、形ばかり。ただ、それだけのことだった。

 だが、瓔偲は違う。

 いま彼は、燎琉の携わる仕事についてきちんと理解し、受け止めた上で、こちらに言葉を返してくれたのだ。それがなんともうれしいような、照れくさいような、そんな不可思議な気分だった。

 燎琉が自分の中に生じた奇妙な感覚に戸惑ううちに、瓔偲はこちらをしっかと見詰め、それから丁寧に頭を下げる。

「いっていらっしゃいませ、殿下」

 そう見送りの言葉を口にしてから、あ、と、思い当たったように顔を上げた。

 その表情は、しまった、と、そんなふうな色をありありと浮かべている。

「お支度と、朝餉あさげが先ですね」

 ちいさく苦笑を浮かべられて、たしかにな、と、燎琉は起き抜けのままの己の恰好かっこうを思い出した。

 こちらも苦笑して、身支度を整えるために、書房から正房いまへと戻る。ふと思いついて、こちらの半歩ほど後ろに付き従った瓔偲を振り返った。

「工部での仕事が早く済んだら、その後、戸部こぶへ寄ってきても良いか? お前の同僚の話も聞きたいし」

 戸部は瓔偲の勤めていた部署だった。

 たとえば瓔偲の飲んでいた薬に何らかの手が加えられていたとするなら、それを為したのは瓔偲を恨んだり嫉んだりしている者かもしれない、と、彼は言っていた。ならば彼の周囲に関する情報を集めておきたい、と、そう考えての燎琉の発言だ。

 だがこれに瓔偲はふと息を呑み、わずかに複雑そうな表情を見せた。

「……どうした?」

 気になってそう問うたが、いえ、と、相手は首を振る。

「なんでもありません」

 そう言ったときにはもう、何かを奥に押し込めるかのような静かな微笑が、瓔偲の頬には張りついていた。

「あの、殿下」

「ん?」

「殿下がお留守の間、わたしはこちらの書房にいてもかまわないでしょうか?」

 そう言って、いま後にしたばかりの、燎琉の書房を振り返る。

「わたしはすでに戸部を辞しましたし、いまは手持無沙汰にございます。いたずらに時を持て余すだけなら、この房間へやの書籍の整理などをさせていただければ、すこしは殿下のお役に立てるものと……」

 目を眇めながらそう言われて、燎琉はむっと押し黙る。眉を寄せたのは瓔偲の言が気に喰わなかったのではなくて、言われてようやく、房間へやの惨状に思い至ったからだった。

 春にこの殿舎へ移ったとき、もとの殿舎から運び入れた巻帙がある。また、その時期から工部で職掌を得て、様々な書類も増えた。それらが、この書房には、いま雑多に置かれたままになっているのだ。

「……頼む」

 燎琉はまり悪くぼそりと言った。

「はい。何か仕事があるほうが、わたしも張り合いがあります」

 瓔偲はてらいなく返事をした。

 相手の表情は朗らかに明るく、書籍の山を見詰める黒曜石の眸もきらきらと輝いている。瓔偲の見せるその表情に、燎琉は、官吏たる自分に誇りを持っている、と、瓔偲が昨夜口にしていた自負の言葉を思い出していた。
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