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三章 第四皇子、白百合を知りゆく。

3-5 預けられたもの

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「瓔偲は南部、てんしゅう威原いげんけんの出らしいな。そも、地元では名の知れた秀才だったという」

 鵬明は、国府の端にある下級官吏の宿舎へと燎琉を案内しながら、瓔偲についてそんなふうに話を続けた。

十八歳じゅうはちの若さで郷試きょうしに合格し、そのまま、都へ出て省試しょうしを受けるはずだった」

 郷試と省試とをあわせて科挙という。それぞれの地方で、地方官僚や書院・義塾からの推挙などを受けて臨むのが郷試、それに及第きゅうだいした者が中央で臨むのが省試だ。

 家柄や身分を問わず官吏登用の道筋をつける科挙制度だが、この試験は、相当に難易度が高いものだった。及第ごうかくして進士になったときには、すでに知命ごじゅうを過ぎ、耳順ろくじゅう古稀しちじゅうも越えていたという逸話さえあるほどだ。

 その試験に――郷試のみとはいえ――瓔偲は十八歳じゅうはちで及第したという。

 十八歳といえばいまの燎琉と同じ歳、つまりは成人して科挙の受験資格を得ると同時に、瓔偲は地方試験である卿試に臨んだというわけだ。それだけでも驚くべき才覚だが、それにとどまらず、及第ごうかくさえしたのだという。

 一族からひとり進士――科挙に及第して官僚になった者――が出れば、爾後じご、すくなくとも二世代数十年の名誉、栄華栄耀が約束されるといわれる。そうであれば、一族郎党の瓔偲にかける期待はさぞ大きかったことだろう。

「だが、皮肉にもその頃になって、あれが第弐性……しかも、発情期をもつ性を有することが発覚した。――その頃は、まだ今上陛下は即位されておられない。我が父でありお前の祖父である、先帝の時期だ。癸性の者には、科挙の受験が認められていなかった。それで省試受験の話は白紙なしになったとか」

 鵬明は燎琉にそう教えた。

「第弐性のことがわかってからは、通っていた書院もやめさせられ、一族の恥だと言って家の中で軟禁状態。一歩も外には出してもらえなかったらしい。――ああ、ちなみにあれは、地方の小役人の家柄のようだぞ。いかにも古臭い考えを持った、頭の固いやつが集まっていそうじゃないか。まあ、これも偏見かもしれんが」

 鵬明は皮肉っぽく口の端を歪めた。

「それなら……瓔偲はどうして、国官に?」

 癸性であることがわかり、決まっていたはずの科挙受験の話はなくなってしまった。それのみならず、瓔偲はその後、家に籠められて過ごすことにすらなったらしい。

 一歩も家から出してもらえない状況の中から、およそ十年の時を経て、どうしていま彼は戸部こぶ書吏しょきかんになれていたのだろうか。

「諦め切れなかったんだとさ」

 鵬明が、歩きながらこちらを振り返り、目を細める。

「あいつらしいことだ」

 くつりと喉を鳴らして言う叔父の、その口振りからすると、いま鵬明が語るのはまさに瓔偲本人から直接聞いた話なのかもしれなかった。

「いつか官吏に……国官になって、国のため、民のために尽くしたい、と、瓔偲はこれを諦め切れなかったんだそうだ。軟禁されてなお、手に入る限りの書籍を読み、学問を続けた。やがて……いまから二年前か。即位した今上陛下が、癸性の者に科挙受験を認める旨、国土の隅々まで勅を発せられた。それを受けて、瓔偲はすぐに家人を説き伏せたらしい。一度限りでいいから、科挙を受けたい、と。家の者からは、それならば勘当だ、縁を切ると言われたようだが」

 なるほど、昨夜ゆうべ瓔偲が口にしていた勘当とはそういう事情でのことだったのか、と、燎琉はひとり得心した。

「結局は家を飛び出すような形で省試に臨んだようだが、見事一発で進士に及第したってんだから、大したもんだけどな。実際、あいつは、実に優秀な官吏だ」

 そう口にする叔父が心底からそう思っているのだろうことが、燎琉にも感じ取れた。燎琉は言葉もなく、黙ったままで叔父について歩いた。

 瓔偲は地方の出身だ。また、まだまだ下級官吏に過ぎなかったから、帝都・翠照すいしょうに邸宅を構えてはいない。そうした下官らは普通、城壁内、国府の一角にある官舎にそれぞれ一室をたまわって、そこで日常生活を営むものだった。

 やがて瓔偲が暮らしたへやの前に辿り着くと、鵬明はふところから鍵を取り出し、戸に取りつけられた錠を開けた。

 開け放たれた室内はがらんとしている。漏窓すかしまどから射し込む夕刻の茜の光の中に見えるのは、書卓や書架、架台たな、それから粗末な臥牀しんだいなど、最低限の調度に過ぎなかった。

 だがそれが、いったい、主の退去に伴い片付けられたからなのか、瓔偲が暮らした時からそうなのか、燎琉には判断のつけようもない。

 瓔偲の上官でもあった鵬明は、すこしも躊躇ためらうことなく室内へと踏み込んだ。壁際に置かれていたちいさな行李はこを持ち上げると、燎琉のもとへそれを運んでくる。

「着る物やら巻帙しょもつやら、一部、いったんうち……繍菊しゅうぎく殿でんで預かっている物もある。それはおいおい届けさせるが、とりあえず、これは持って帰れ」

 差し出されるままに受け取り、燎琉は頷いた。

「燎琉。あれを……瓔偲をお前にめとらせるよう陛下に進言したのは、この私だ」

 ふいに、鵬明はそんなことを言い出した。

「え?」

 いきなりの、しかも思わぬ告白に、燎琉は目をみはる。

 意外な言葉だった。

 鵬明のこれまでの言い方から、叔父は瓔偲の能力を高く買っているように思われた。ならば――燎琉のつがいになったとしても、日常に目立った変化があるわけではなく、すくなくとも国官としての職務遂行が困難になることはないはずだから――そのまま何事もなかったかのように瓔偲を戸部で勤務させるという選択肢もとれたことだろう。

 だが叔父は、そうはせずに、むしろ瓔偲を燎琉に縁付けるよう皇帝に言ったのだという。

 その意図はいったい何だったのか――……癸性の者を燎琉の妃にすることで、燎琉を皇太子位から遠ざける。まさかほんとうに、叔父にそうした陰謀があったとでもいうのだろうか。

 しかし、もしもそうだとしたら、なぜいま叔父は燎琉に敢えてそのことを告げるのか。

「どうして……」

 呟きは、燎琉の頭の中を飛び交う疑念に押し出されたように口からこぼれた独白ひとりごとに過ぎない。鵬明はそれに、くすん、と、肩を竦めて見せた。

「皇后……お前の母などは、公然と、瓔偲に毒杯をたまわれと主張したぞ。皇子を傷つけたのだからそれが相応だ、むしろ斬首やら、罪を九族に及ぼさぬだけ寛大な処置だろう、と、皇族会議の場でわめいていたな」

「な、母上が……!」

 まさか母がそんなことを言っていたとはつゆしらず、燎琉は言葉を呑んだ。

 だが、燎琉を皇太子にと願い、そのために宋家令嬢との婚姻を進めんとしていた母皇后ならば、燎琉のつがいとなった癸性の者を、邪魔者と判断してもおかしくはなかった。

「陛下も皇后の意見に押されて、それもむ無しか、と、結論はそちらに傾きかけていた。――まあ、兄上はお優しい性質たちだが、反面、押しに弱いし、少々事なかれ主義のきらいがあるのが玉にきずだな」

 鵬明は、血を分けた兄弟だからこそ許されるのだろう軽口を叩いてみせた。

「ともあれ、皇族会議は大紛糾ふんきゅうだ。あの場のあの空気の中では、瓔偲を殺させないために、お前に娶らせよと言う以外、陛下を説得できる、うまい方策ほうがなかった……婚約を控えているという噂だったお前には、多少、すまないとは思ったが」

 だが皇族の婚姻など大概たいがいは政略だから、と、鵬明は短く付け足す。

「瓔偲を頼むぞ、燎琉。私にとって、あれは大事な部下だった。――あれの穴は痛手だが、こうなったからには、あれの命には変えられん」

 そう言うと鵬明は、燎琉が抱える行李に、ぽん、と、軽く手を乗せた。

 ずしり、と、一瞬、重みが増す。それはまるで、いま目を細めてこちらを見る叔父が燎琉に託す想いの分の重みのように感じられた。
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