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仲直りのところてん
仲直りのところてん
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残暑を惜しむようにしわしわと蝉が鳴く八百屋の裏庭で、さちは縁側に所在なく座っていた。朔太郎と手を繋いでのぶはそれを見ている。
ひと呼吸してから思い切って「さっちゃん」と声をかけると、彼女はこちらに気がついて顔を上げた。
「のぶ……」
「具合はどう? やっぱりちょっと顔色が悪いね」
柵を開けて裏庭の中に入る。なんとなく朔太郎を挟んで縁側に腰掛けた。
「表の店でお姑さんにさっちゃんはここだって聞いたから。実家から戻ってきたんだね」
「うん……実家もね、あまり長くいるといい顔はされないんだ。兄嫁がいるからさ。うちの人も寂しがるし……。それよりのぶ、聞いたよ。お手柄だったんだって?」
「うん、まあね」
お文のことを言ってるのだ。
「お文ちゃんがっていうのは驚いたけど、お咎めがなくてよかったよね。商売も再開できたみたいだし」
「うん」
お文は以前と同じように深川界隈を玩具を売り歩いている。のぶの店にも来てくれる。
お文のことを菊蔵に告げたのがのぶだったと知っても、恨みごとを言ったりせずに、さっぱりしたものだった。
『おかみさんは、真っ当なことをされたと思います。どのみちあの生活がいつまでも続けられるとは思っていませんでしたし。あの子らが安心して暮らせるようになったなら私はそれで満足です』
彼女は奉行所から、今後は彼らのような子を見つけたら相談するようにと言われているという。亡くなった弟のような子をひとりでも救いたいと言って張り切っていた。
「昨日も店先で見たけど、元気そうだった……」
さちはそう言って、そのあとは何を言えばいいかわからないといった様子で黙り込む。いつものぶの顔を見ると、たくさんおしゃべりするのに、こんな彼女ははじめてだった。
彼女は、なぜのぶが実家に帰った話を知っているのかと聞かなかった。のぶに妊娠の話が伝わっていると知っているのだ。
気まずい思いでのぶは口を開いた。
「さっちゃん……ごめんね。来るのが遅くなっちゃって」
「ううん、あたしの方こそ……なんかごめん、のぶ」
うつむいて謝るさちに、のぶは思わず声をあげた。
「さっちゃんは謝らないで。おめでたいことじゃない! 私が、気を遣わせてしまっただけ。さっちゃんは、お腹の子のことだけを考えなくちゃいけない大事な時なのに……。本当にごめん」
「のぶ」
こちらを見たさちの目は、真っ赤だった。彼女も自分と同じくらい悩んでいたのだ。自分がうじうじと悩んでいたばかりに、つらい思いをさせたのがただただ申し訳なかった。
「それでね、さっちゃん。今さらなんだけど、体調がよくなってさっちゃんさえよければ、その……また会いに来てくれる? つわりって、食べられるものが限られるって聞いたけど、さっちゃんが食べられる物おしえてくれたら、私、どっさり用意して待ってるからさ」
彼女が来ない田楽屋はどこか静かで物足りない。
「のぶ……。でも、のぶはつらくない?」
恐る恐るさちが尋ねる。その優しさに甘えるような気持ちになって、のぶは少しだけ本音を口にする。
「つらくなんてないよ。さっちゃんの赤ちゃん、すごく楽しみ。……だけどはじめはね、やっぱり寂しかった。さっちゃんが遠くに行ってしまうみたいに感じたし。さっちゃんだけ自分の赤ちゃんを抱けるんだって思ったらうらやましかったし……。でもね、さっちゃん、私、ないものねだりはしないことにしたんだ」
「のぶ……」
「ないものねだりをして、一番の友達をなくしちゃうのは嫌だもん」
目尻の涙を拭いて言い切ると、心が晴れていくような心地がした。
天涯孤独ののぶが、毎日楽しく賑やかに過ごしていられるのは、気のいい人たちに囲まれているからだ。それを心底ありがたいと思う。この気持ちを大切にしたい。叶うか叶わぬかわからぬものに手を伸ばして、その気持ちを失うのは嫌だった。
「嬉しい、のぶ」
さちが顔を手で覆い肩を震わせた。
「のぶのところへ行けないの、私すごく寂しかったんだ……」
「うん、私も。さっちゃんのおしゃべりが聞けないのすごく寂しかった。待ってるからね」
「うん」
さちが顔を上げて、ふたり微笑み合う。
間にいる朔太郎がのぶの袖を引っぱって、手にしていた竹筒を差し出した。
「かかさま、これ」
「ああ、そうだった。さくちゃんありがとう」
のぶは鼻をすすりながら受け取りさちに渡す。
「さっちゃんに、お見舞い。お見舞いにするにはちょっと変な物なんだけど、ところてんなの」
「え? ところてん? 嬉しい! 私、今食欲がないんだけど、冷たくてつるつるしてるのは食べられるんだ。そうめんとかお蕎麦とか……でも姑が身体を冷やすのは良くないって好きにさせてくれなくて、具沢山の味噌汁やら煮物ばかり食べさせられてさ」
そう言ってさちは顔をしかめる。でもすぐに朔太郎に向かってににかっと笑った。
「殿ちびちゃんが持ってきてくれたんだ」
「ふふふ、さくちゃんが決めたの、お見舞いはところてんにしようって。つわりの時って、食べられるものが限られるって、前につねさんが言ってたから、私何がいいかわからなくて。迷ってたら」
もちろんまだ小さい彼のことだから、ただ自分が食べたかっただけだろう。でも考えてみれば、ところてんならさちの気分次第で甘くしても食べられるし、生姜醤油と酢でさっぱり食べることもできる。
さっき寄ったところてん屋で、さちの分を買う前に自分も食べて満足した朔太郎は、さちの分は自分が持って行くと言い張ったのだ。
どうやらさちが来ない田楽屋を物足りないと思っていたのは、のぶだけではないらしい。
「ありがとう、殿ちびちゃん。重かったでしょ」
朔太郎が頬を緩めた。
「このくらい、なんでもないわい」
「そう? あ、黒蜜がお口についてるよ」
そう言ってさちは朔太郎の頬を突く。
すると彼は、大福餅のような頬を膨らませた。
「これ、きやすくさわるなと、いっておるに」
「あ、やっぱりこんなところは相変わらずだ!」
さちが声をたてて笑った。久しぶりの彼女のふたりのやり取りに、のぶの胸は温かな思いでいっぱいになった。
ひと呼吸してから思い切って「さっちゃん」と声をかけると、彼女はこちらに気がついて顔を上げた。
「のぶ……」
「具合はどう? やっぱりちょっと顔色が悪いね」
柵を開けて裏庭の中に入る。なんとなく朔太郎を挟んで縁側に腰掛けた。
「表の店でお姑さんにさっちゃんはここだって聞いたから。実家から戻ってきたんだね」
「うん……実家もね、あまり長くいるといい顔はされないんだ。兄嫁がいるからさ。うちの人も寂しがるし……。それよりのぶ、聞いたよ。お手柄だったんだって?」
「うん、まあね」
お文のことを言ってるのだ。
「お文ちゃんがっていうのは驚いたけど、お咎めがなくてよかったよね。商売も再開できたみたいだし」
「うん」
お文は以前と同じように深川界隈を玩具を売り歩いている。のぶの店にも来てくれる。
お文のことを菊蔵に告げたのがのぶだったと知っても、恨みごとを言ったりせずに、さっぱりしたものだった。
『おかみさんは、真っ当なことをされたと思います。どのみちあの生活がいつまでも続けられるとは思っていませんでしたし。あの子らが安心して暮らせるようになったなら私はそれで満足です』
彼女は奉行所から、今後は彼らのような子を見つけたら相談するようにと言われているという。亡くなった弟のような子をひとりでも救いたいと言って張り切っていた。
「昨日も店先で見たけど、元気そうだった……」
さちはそう言って、そのあとは何を言えばいいかわからないといった様子で黙り込む。いつものぶの顔を見ると、たくさんおしゃべりするのに、こんな彼女ははじめてだった。
彼女は、なぜのぶが実家に帰った話を知っているのかと聞かなかった。のぶに妊娠の話が伝わっていると知っているのだ。
気まずい思いでのぶは口を開いた。
「さっちゃん……ごめんね。来るのが遅くなっちゃって」
「ううん、あたしの方こそ……なんかごめん、のぶ」
うつむいて謝るさちに、のぶは思わず声をあげた。
「さっちゃんは謝らないで。おめでたいことじゃない! 私が、気を遣わせてしまっただけ。さっちゃんは、お腹の子のことだけを考えなくちゃいけない大事な時なのに……。本当にごめん」
「のぶ」
こちらを見たさちの目は、真っ赤だった。彼女も自分と同じくらい悩んでいたのだ。自分がうじうじと悩んでいたばかりに、つらい思いをさせたのがただただ申し訳なかった。
「それでね、さっちゃん。今さらなんだけど、体調がよくなってさっちゃんさえよければ、その……また会いに来てくれる? つわりって、食べられるものが限られるって聞いたけど、さっちゃんが食べられる物おしえてくれたら、私、どっさり用意して待ってるからさ」
彼女が来ない田楽屋はどこか静かで物足りない。
「のぶ……。でも、のぶはつらくない?」
恐る恐るさちが尋ねる。その優しさに甘えるような気持ちになって、のぶは少しだけ本音を口にする。
「つらくなんてないよ。さっちゃんの赤ちゃん、すごく楽しみ。……だけどはじめはね、やっぱり寂しかった。さっちゃんが遠くに行ってしまうみたいに感じたし。さっちゃんだけ自分の赤ちゃんを抱けるんだって思ったらうらやましかったし……。でもね、さっちゃん、私、ないものねだりはしないことにしたんだ」
「のぶ……」
「ないものねだりをして、一番の友達をなくしちゃうのは嫌だもん」
目尻の涙を拭いて言い切ると、心が晴れていくような心地がした。
天涯孤独ののぶが、毎日楽しく賑やかに過ごしていられるのは、気のいい人たちに囲まれているからだ。それを心底ありがたいと思う。この気持ちを大切にしたい。叶うか叶わぬかわからぬものに手を伸ばして、その気持ちを失うのは嫌だった。
「嬉しい、のぶ」
さちが顔を手で覆い肩を震わせた。
「のぶのところへ行けないの、私すごく寂しかったんだ……」
「うん、私も。さっちゃんのおしゃべりが聞けないのすごく寂しかった。待ってるからね」
「うん」
さちが顔を上げて、ふたり微笑み合う。
間にいる朔太郎がのぶの袖を引っぱって、手にしていた竹筒を差し出した。
「かかさま、これ」
「ああ、そうだった。さくちゃんありがとう」
のぶは鼻をすすりながら受け取りさちに渡す。
「さっちゃんに、お見舞い。お見舞いにするにはちょっと変な物なんだけど、ところてんなの」
「え? ところてん? 嬉しい! 私、今食欲がないんだけど、冷たくてつるつるしてるのは食べられるんだ。そうめんとかお蕎麦とか……でも姑が身体を冷やすのは良くないって好きにさせてくれなくて、具沢山の味噌汁やら煮物ばかり食べさせられてさ」
そう言ってさちは顔をしかめる。でもすぐに朔太郎に向かってににかっと笑った。
「殿ちびちゃんが持ってきてくれたんだ」
「ふふふ、さくちゃんが決めたの、お見舞いはところてんにしようって。つわりの時って、食べられるものが限られるって、前につねさんが言ってたから、私何がいいかわからなくて。迷ってたら」
もちろんまだ小さい彼のことだから、ただ自分が食べたかっただけだろう。でも考えてみれば、ところてんならさちの気分次第で甘くしても食べられるし、生姜醤油と酢でさっぱり食べることもできる。
さっき寄ったところてん屋で、さちの分を買う前に自分も食べて満足した朔太郎は、さちの分は自分が持って行くと言い張ったのだ。
どうやらさちが来ない田楽屋を物足りないと思っていたのは、のぶだけではないらしい。
「ありがとう、殿ちびちゃん。重かったでしょ」
朔太郎が頬を緩めた。
「このくらい、なんでもないわい」
「そう? あ、黒蜜がお口についてるよ」
そう言ってさちは朔太郎の頬を突く。
すると彼は、大福餅のような頬を膨らませた。
「これ、きやすくさわるなと、いっておるに」
「あ、やっぱりこんなところは相変わらずだ!」
さちが声をたてて笑った。久しぶりの彼女のふたりのやり取りに、のぶの胸は温かな思いでいっぱいになった。
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