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のぶの田楽

藩主の約束

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 夜の田楽屋の二階で、晃之進と同じ布団に入りのぶは目を閉じる。今日も一日が終わる。自分は生きているけれど、朝も昼も夜もなにもかもが無駄なことのように思えた。例えばこのまま目を閉じて朝が来なくてもいいと思うくらいだった。

「のぶ、寒くねえか?」

 晃之進がのぶの肩に布団をかける。彼の胸に顔を埋めてのぶは声を殺して泣いた。

「おまえさん、ごめんなさい……」

 ぬけがらのようになって店をやれずに、ただぼんやりとしかできないのが申し訳なかった。

「おまえさんにはお役目があるのに、どうしても私、なにもする気になれなくて……」

 のぶがやれないなら田楽屋は閉めればいいだけの話なのだ。晃之進には役目がある。でも彼がそうしないで、店に立っているのは、家にひとり残されるのぶを心配してくれているからだ。田楽屋を開け続けて、いつでものぶが戻れるように店を守ってくれている。
 早くしっかりしなくてはと思うのに、どうしても身体に力が入らない。

「なにかしろなんて思っちゃいねえよ。おれはずっとそばにいる」

「おまえさん……!」

 彼の身体にしがみついてのぶは声をあげて泣き出した。涙は、あの夜から何度流したかしれないくらいだ。

「おれはのぶのそばを離れねえ。ぼうずの代わりにはなれねえが、泣きてえならいつでもこうして抱いてやる」

 自分を包む温かくて力強い腕に、少しだけ慰められて顔を上げると優しい眼差しが自分を見つめている。

「おれはこのままずっと田楽屋をしたってかまわねえんだぜ」

 その言葉に、のぶの頭に慣れない手つきで田楽を焼いていた晃之進が浮かぶ。
 慣れないことに奮闘してくれている彼をありがたいと思いつつ、思わず素直な感想が口から出る。

「それじゃあ、店が潰れちゃう」

「なんでだ、客足は落ちてねえじゃねえか」

 呑気なことを言う彼に、のぶの心が少し動いた。

 確かに客足は落ちていない。
 でも今日、田楽を受け取ってきゃあきゃあ騒いでいたふたりづれは、水茶屋の看板娘たちだ。裏店のかみさん連中は二日にいっぺんは来るようになった。
 それから酒屋の娘と……。

「でも客層は変わりました。おなごばかりです。皆田楽目当てじゃなくて、おまえさん目当てですよ」

 晃之進が驚いたように瞬きをしてフッと笑う。のぶの頬を優しく摘んだ。

「悋気か? それが言えるなら上等だ」

 ——その時。

 階下で、コンコンと戸を叩く音がする。

 ふたり顔を見合わせた。ふたりしてそろりそろりと階段を下りる。コンコンという音は続いている。

「ごめん、誰かおるか」

 声まで聞こえるではないか。

「のぶ、さがってろ」

 晃之進が低く言って、そっと戸を開ける。

 ——その隙間から。

「かかさま!」

 朔太郎が飛び込んできた。ドンとのぶにぶつかりしがみつく。

「かかさま!」

「さくちゃん!」

 のぶは彼を抱きしめた。
 自分は夢を見ているのだろうか?
 あまりにも恋しく思いすぎて、とうとう夢に出てきてくれた?
 でも腕の中の温もりは、確かにずっしりと重かった。髪に顔を埋めるとお日さまみたいな朔太郎の香りがする。
 朔太郎を連れてきたと思しき、ふたりの侍が店の中に入ってきた。
 ひとりは一度会ったことがある初老の侍だ。
 もうひとりは天蓋と呼ばれる深い編笠を被っていて顔は見えない。が、薄暗い中でもよくわかる立派な刀を刺していた。
 編笠の侍は近くの酒樽に腰掛ける。初老の侍は控えるように床に座った。
 そんなふたりにのぶはもしかしてと思いあたる。同じことを思ったのか、晃之進も床に膝をつく。朔太郎を抱いているのぶは、冷たい床に座らずに、小上がりに座った。

「かかさま……。かかさまじゃ」

 ひとしきり涙を流したあと、朔太郎は安心したように眠りに落ちた。少し痩せたような気がして、のぶの胸は痛んだ。

「泣いてばかりで、ろくに物を食おうとせずに、ほとんど寝ておらんかった」

 編笠の侍が言う。思ったよりも若い声だ。のぶはカッとなって口を開いた。

「あたりまえにございます。まだこんなに小さいのに大人の都合で振り回されているんですから。ここにだって一生懸命馴染んだのに、また連れ帰られたのです。そちらのお屋敷には寄り添ってくださる方はいらっしゃらないのですか⁉︎」

「これ、おかみ! 生意気なことを言うでない! こちらの方は……」

「よい、松木。おかみの言う通りだ」

 侍が彼を止めた。

「母親が亡くなったゆえ江戸へ連れてきたはいいが、こちらには息子を心を込めて世話する者はおらぬのだ」

 ではやはり、彼が朔太郎の父親なのだ。

「だから、手に余って連れてきたってわけですかい?」

 晃之進が怒りを押し殺した声で尋ねた。

「ぼうずが寂しがるのは、連れ帰った時からわかっていたでしょうに」

「……それもあるが、あの時と少し事情が変わったのだ」

 藩主の代わりに、松木が口を開いた。

「事情が?」

「ご正室さまが、ご懐妊された」

 その言葉に、のぶと晃之進は息を呑んだ。その事実がいったいなにを示すのかすぐに理解できなかった。
 が、相変わらず朔太郎が蔑ろにされていることは確かだ。彼が藩の跡取りだとしっかり認識されていれば、正室の懐妊うんぬんは彼には関係ないはずだ。

「はっ!」

 晃之進が吐き捨てる。

「それでまた預かってくれって? お殿さまよ、あんたら身分の高い人たちには、人の心はないんですかい? 今回の件で私たち夫婦とぼうずがどれだけつれえ思いをしたか、考えもしねえんだろう! 子どもは物じゃねえんだよ!」

 彼にしては珍しく激昂して声をあげる。
「おぬし……!」

 松木が怒りに震え刀の柄に手をかける。

「よい、松木、この者の言う通りだ」

 殿さまがそれを遮った。

「人の心を持っていては藩政は行えぬ。……朔太郎は我が藩にとって争いをもたらす子。朔太郎が江戸藩邸におる十日あまりの日々で余はそれを肌で感じた。正室の子の男女にかかわらず、ここに置いておくわけにはいかんと」

 実の父親からでたあまりにもひどい言葉に、のぶは思わず眠る朔太郎の耳を塞ぐ。万が一にでも聞かせたくなかった。

「だから余は、朔太郎を捨て置くことに決めたのだ」

 捨て置く。つまりいない子として放っておくということだ。

「なるほど、確かに人の心はねえ」

 晃之進が震える声で感想を漏らす。

「よく理解したぜ。殿さまたちの流儀とやらを。おれにはついていけねえが、心配なのは将来のことだ。後になってやっぱり返せと言われてもそれは聞けねえ話だぜ。ぼうずはおれとのぶの子として育てるんだからよ」

 捲し立てるように言う。いつも豹尾として落ち着いている彼が、今は怒りを抑えられないようだ。
『ととさま』と呼ばれた時の、彼の目をのぶは思い出していた。
 藩主がしばらく沈黙したあと、一段低い声を出した。

「……その方がよいだろう。朔太郎をこちらへ戻せなどというようなことにはならぬように余も力をつくそう。先日ここを襲った三人はこちらで処分した。朔太郎は表向き国元の寺に預けることになっておる。ここにいることを知っておるのは余とこの松木だけだ。安心するがよい」

 その言葉に、のぶの胸がこつん音を立てた。心がないという彼の言葉に一欠片の情が混ざり込んだように思えたからだ。

 それは晃太郎も同じようだった。

「そんなことをしてもよいのですか」

 声を和らげて問いかける。
 松木が苦しげに口を開いた。

「我が藩の江戸家老は絶大な力を持っておるのだ。この件が知れたら、殿とてお立場が危うくなる。それでも朔太郎さまを思い、危ない橋を渡られるのだ」

 藩主すらも脅かす、力を持った家老の話などのぶには想像もつかなかった。
 しばらくの沈黙ののち、編笠の下で殿さまがぽつりと言った。

「不甲斐ない父親のもとに生まれたこの子が不憫だ」
 
 彼の膝に置かれた手が拳を作った。

「朔太郎の母親は、余の乳母の娘だった。……余が唯一心を許したおなごだ」

 突然胸の内を語り始めた藩主に、のぶと晃之進は息を呑んだ。

「亡くなる前に余は約束したのだ。朔太郎を必ず守ると、世継ぎにはなれずとも、健やかに幸せに生きられるようにすると。国元に置いてきては、誰に何をされるやもわからん。だから江戸へ連れてきた。だが……」

 結局、江戸藩邸も安全とは言えなかった。

「……余のそばには置いておけん」

 絞り出すように彼は言った。

「松木から、おぬしらの話を聞いた。榊原に襲われた朔太郎を命をかけて守ったと。朔太郎は藩邸で『かかさまの田楽が食べたい』と言って泣いておった。朔太郎は、ここにいるのがよいのだろう」

 のぶの目から涙が溢れる。若い藩主の苦悩する姿がつらかった。
 突き放す。そうすることでしか守れない。こんなに悲しい父子が、どうしてこの世に存在するのだ。
 朔太郎のみならず、彼もまた重たいものを背負い、過酷な運命と戦っている。
 藩主が立ち上がり、頭を下げた。

「朔太郎を頼む」

 あまりの出来事に、のぶは自分の見たものが信じられなかった。一国の主が、田楽屋夫婦に頭を下げるなど、天地がひっくり返ってもありえない。決してやってはならないことだ。だがそれでも子のために頭を下げずにはいられない。それが親というものなのだ。
 晃之進が、床に手をつき頭を下げて答えた。

「藩主さまのそのお心、この安居晃之進と妻のぶがしっかりと承りました。朔太郎さまをしっかりとお預かりいたします」

「うむ」

 頷いて藩主は踵を返す。話は済んだ、この話が極秘なら彼がここに長居するのは得策ではない。
 でも出口へ行きかけて、足を止めて振り返る。しばらく考えてから、のぶと朔太郎のところへやってきて眠る朔太郎の頬をそっと撫でた。そして昼間にのぶが見ていてそのままになっている風ぐるまに目を留めた。

「風ぐるまか」

「朔太郎さまがここにいる間、大切にしていた物です。よろしければ……」

 差し出すと、彼は受け取った。

「懐かしいな」

「藩主さま、お願いしたきことがございます」

 たまらずにのぶが口を開くと、彼は頷き無言で続きを促した。

「いつの日か、今のお話を藩主さまのお口から、朔太郎さまにお伝えいただきたいのでございます」

「今の話を?」

「はい。お父上さまとお母上さまが、朔太郎さまを大切に思われていたのだということを、直接伝えいただきたいのです。親から大切に思われてていたという記憶は、子の心を強くするものでございます。今のお話を朔太郎さまがお耳にすれば、生きていくのに大きな力になりましょう。ですから……どうか!」

 朔太郎をぎゅっと抱いて、のぶは彼に訴えた。
 風ぐるまと朔太郎を交互に見て、藩主はしばらく沈黙する。やがてゆっくりと頷いた。

「約束しよう」
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