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第二章 蝶よ花よ
龍髭斬り①
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あれはあさ子がまだ六つのころ。
ながらく権勢をほこった第十一代将軍徳川家斉が没したのを境に、それまで先おくりしてきた幕政の課題と脆弱性があらわになった。
冷害による大飢饉があって、米の値段と物価のひどい高騰が富める者と貧しき者の差をこじあけ、市中の暮らしむきがままならなくなった。会津はお蔵米の備蓄があったので何とかしのげたが、諸国ではたくさんの餓死者と流民と出生の低下で人口の減少もはじまり、甲斐や摂津をはじめ列島じゅうで打ちこわしと一揆、乱があった。
かたや四海をみわたせば、見なれぬ黒い異国船がひんぱんに目撃されるようになった。異国船の打ち払いを是としてきた幕府は、せっかく漂流民を送りとどけてくれた米国の船にむかって砲撃を仕掛けてしまったので、いったいなにを血迷っているのかと世論の批判をあびた。
さらに遠い海のむこうでは、先進の技術と強大な軍事力をほこる英国が、ムガル帝国の植民地化をすすめるかたわらで清国と戦をはじめた。
つぎつぎと舞いこんでくる難題の対応におわれたのは幕府であったが、老中水野忠邦が推しすすめた幕政改革は、あちらを立てればこちらが沈むとなるような片手落ちのものばかりで、計画の途中で猛反発にあって頓挫をくりかえす始末だった。二百数十年のときをへて、深くひろく、複雑にもつれあった世のしくみを解きほぐすのは一朝一夕にはならない。
まさしく内憂外患のはじまりである。
御家門の会津松平家がそしらぬ顔で無関係をきめこんでいられるはずもなく、困ったときだけ都合よく抱きついてこようとする幕府に引きずられ、若松城下もだいぶ騒がしくなった。
会津松平家八代容敬は、年に四ヶ月ほど江戸に在府して、幕府や諸侯との距離感に細心の注意をはらっている。
西郷頼母(先代)、簗瀬三左衛門、萱野権兵衛をはじめとした会津の家老たちは、航路の安全がおびやかされ清国との交易に影響がでるようになると、家中の経政をゆるがしかねないので頭をなやませている。
天保十二年(一八四一年)のあたりはそうした世相だった。
だが原源右衛門は、じつに気楽なものだった。
しょせんは外様無役の百三十石どり。
「なにやら近ごろは、色々なことが起こるものだ――」
ぐらいに思っていた。
源右衛門で六代目をかぞえる原家は、分家の庶流ながら由緒ある信濃の武田家遺臣を祖とし、郭西の隅っこではあるが融通寺口御番所ちかくにささやかな屋敷をたまわって代々暮らしてきた。
家中の分限に照らしあわせれば、中の上といったところである。とりたてて裕福ではないが不便もしない。偉くはないがべつに不満もなかった。
日新館の課程をおえたあと、面倒見のよい上役がいくつかの見習役をあてがってくれたが、どうしても続かなかった。半日もするとやめたくなってしまう。
定められた日に、上役からぐちぐちと小言されるために役場へ出仕する文官や小役人たちが気の毒でならない。あんなのは人の一生として狂気の沙汰だとすら思う。以来、ときどき雑務の手伝いや家中の面倒ごとにかりだされることはあるが、ずっと無役でとおしてきた。
とくに無役のよいところは好きなときに酒を飲みながら、かわいい我が子の顔を存分にながめていられることである。
まず長女のあさ子が生まれた。
つぎに長男の承治を得た。
と思ったら、また妻の腹が大きくなっている。
子など要らないと思っていたほうだったが、いざ生まれてみると可愛くてしかたなくなるのだから不思議だ。元気な寝返りをひとつうっただけで、わが子は天与の才をもって生まれてきたのではないかと感動してしまう。
あっというまの五年だった。
みずから率先しておしめをかえてやり、野太い声で子守唄もきかせ、起きれば這え、這えば立て、立てば歩めとしているうち、子供たちは大病をわずらうこともなくすくすく育ち、気づけば源右衛門は三十一歳をむかえていた。
それは武芸者として、もっとも脂の乗る年齢でもある。
とある厳冬の日。
今朝も庭先で諸肌をさらし五本の型稽古をしたあと、降りつもった雪を見てふとおもいたった。
「ふぅむ、そろそろ今年もあれが固まったころだろう。そうだ、おあさと承治にあれを見せてやろうか」
うきうきと弾む心もちで朝餉のときに誘ってみたところ、あさ子が飛びあがって行く行くと名のりをあげてくれた。
が、妻のきせ子が、承治だけは連れて行くのをやめてくれと、断固として首を横にふった。寒気にあてられて昨晩に熱をだしたばかりだったので、たしかに仕方がないとあきらめた。
それから家伝の信濃守信吉を腰にさし、防寒を厳重にほどこされたあさ子を肩にのせ、まだ人影のない本一之丁の大通りのまんなかを歩いた。
八寸ばかりつもった雪をふみしめるたび、きゅっきゅっと澄んだ音が鳴った。
朝陽がおりた雪の城下は、冷たく透明な気でみちみちて、睫毛がくすぐったくなるほどきらきらと眩い。
すんと、鼻からめいっぱい吸いこみ、全身にゆきわたらせた。肩のうえであさ子も父の真似をする。
「よしおあさ、駆けるからふりおとされるな!」
暴れ馬のようにどっと駆けだすと、うしろに粉雪をかきあげて一本筋の足跡がきざまれてゆく。高い視界に興奮するあさ子のにぎやかな笑い声が、城下にきゃっきゃと響いた。
源右衛門の体躯は、城下のなかでも大柄なほうだ。
余人より頭ひとつぶん抜きんでて、身の丈五尺八寸(一七四センチ)、体重二十二貫(八三キロ)もある。子供のころからいかつい顔つきをしていたせいで十二歳にして成人とまちがわれることもしばしばで、ついた渾名は鬼瓦だった。
そのとげとげしい渾名がしめすとおり、腕白坊主だった。
什どうしの喧嘩があればいつも先頭をきってきたし、日新館の武寮では何につけ遅れをとったことがない。
武芸こそ自分の道だと思いこんでからは四書五経をほうりだし、槍と剣術に熱中する日々をおくった。弓馬も人よりはできたが、幼少から稽古をつみかさねてきた刀槍が好きだった。
もともと原家が武芸に秀でてとりたてられた家柄だったので、一族の血が濃くあらわれたのだろう。工夫を惜しまず、労を労とも感じず、楽しくて仕方がないという具合だった。
しかしながら父はあまりよい顔をしなかった。
父は簗瀬家の分家からきた婿養子で、日新館の素読所指南役手伝をおおせつかったほど生粋の文官だった。
「これから世はますます複雑みを増す。なればこそ武よりも文だ。学問をせよ――」
そうした小言を浴びるたび、反抗心のつよい源右衛門はますます稽古に没頭した。
宝蔵院流名物の徹夜で開かれるたちきり稽古においては三年連続で最後の一人に勝ちのこった。
御前仕合や追鳥狩では、君公じきじきの饗盃をたまわった。
そしてついに、宝蔵院流槍術と安光流剣術の印可を若くして得た。
そんな息子をずっと苦々しい顔で見てきた父であったが、ある日とつぜん、職場で倒れて急逝した。
その通夜ではじめて母から明かされたことは、じつは源右衛門の武名があがるたび、父はひそかに顔をほころばせていたと聞かされた。同僚から賞賛されれば、
「いやいや、どうやら倅は私に似なかったようで」
とまんざらでもない様子で謙遜していたそうだ。
病弱だった父は、武芸が苦手な人だった。
武の道を志す息子を導いてやることができなかったので、自分がしてやれることといえばこれしかないだろうと思いきわめ、わざと厳しく接することで応援してくれていたのだという。
いまは父の深い情と、己の父であってくれたことに源右衛門は感謝をしている。
めいっぱい使えるこの大柄な体躯は、まぎれもなく父方の簗瀬の血からさずかったものにちがいないと信じている。
ながらく権勢をほこった第十一代将軍徳川家斉が没したのを境に、それまで先おくりしてきた幕政の課題と脆弱性があらわになった。
冷害による大飢饉があって、米の値段と物価のひどい高騰が富める者と貧しき者の差をこじあけ、市中の暮らしむきがままならなくなった。会津はお蔵米の備蓄があったので何とかしのげたが、諸国ではたくさんの餓死者と流民と出生の低下で人口の減少もはじまり、甲斐や摂津をはじめ列島じゅうで打ちこわしと一揆、乱があった。
かたや四海をみわたせば、見なれぬ黒い異国船がひんぱんに目撃されるようになった。異国船の打ち払いを是としてきた幕府は、せっかく漂流民を送りとどけてくれた米国の船にむかって砲撃を仕掛けてしまったので、いったいなにを血迷っているのかと世論の批判をあびた。
さらに遠い海のむこうでは、先進の技術と強大な軍事力をほこる英国が、ムガル帝国の植民地化をすすめるかたわらで清国と戦をはじめた。
つぎつぎと舞いこんでくる難題の対応におわれたのは幕府であったが、老中水野忠邦が推しすすめた幕政改革は、あちらを立てればこちらが沈むとなるような片手落ちのものばかりで、計画の途中で猛反発にあって頓挫をくりかえす始末だった。二百数十年のときをへて、深くひろく、複雑にもつれあった世のしくみを解きほぐすのは一朝一夕にはならない。
まさしく内憂外患のはじまりである。
御家門の会津松平家がそしらぬ顔で無関係をきめこんでいられるはずもなく、困ったときだけ都合よく抱きついてこようとする幕府に引きずられ、若松城下もだいぶ騒がしくなった。
会津松平家八代容敬は、年に四ヶ月ほど江戸に在府して、幕府や諸侯との距離感に細心の注意をはらっている。
西郷頼母(先代)、簗瀬三左衛門、萱野権兵衛をはじめとした会津の家老たちは、航路の安全がおびやかされ清国との交易に影響がでるようになると、家中の経政をゆるがしかねないので頭をなやませている。
天保十二年(一八四一年)のあたりはそうした世相だった。
だが原源右衛門は、じつに気楽なものだった。
しょせんは外様無役の百三十石どり。
「なにやら近ごろは、色々なことが起こるものだ――」
ぐらいに思っていた。
源右衛門で六代目をかぞえる原家は、分家の庶流ながら由緒ある信濃の武田家遺臣を祖とし、郭西の隅っこではあるが融通寺口御番所ちかくにささやかな屋敷をたまわって代々暮らしてきた。
家中の分限に照らしあわせれば、中の上といったところである。とりたてて裕福ではないが不便もしない。偉くはないがべつに不満もなかった。
日新館の課程をおえたあと、面倒見のよい上役がいくつかの見習役をあてがってくれたが、どうしても続かなかった。半日もするとやめたくなってしまう。
定められた日に、上役からぐちぐちと小言されるために役場へ出仕する文官や小役人たちが気の毒でならない。あんなのは人の一生として狂気の沙汰だとすら思う。以来、ときどき雑務の手伝いや家中の面倒ごとにかりだされることはあるが、ずっと無役でとおしてきた。
とくに無役のよいところは好きなときに酒を飲みながら、かわいい我が子の顔を存分にながめていられることである。
まず長女のあさ子が生まれた。
つぎに長男の承治を得た。
と思ったら、また妻の腹が大きくなっている。
子など要らないと思っていたほうだったが、いざ生まれてみると可愛くてしかたなくなるのだから不思議だ。元気な寝返りをひとつうっただけで、わが子は天与の才をもって生まれてきたのではないかと感動してしまう。
あっというまの五年だった。
みずから率先しておしめをかえてやり、野太い声で子守唄もきかせ、起きれば這え、這えば立て、立てば歩めとしているうち、子供たちは大病をわずらうこともなくすくすく育ち、気づけば源右衛門は三十一歳をむかえていた。
それは武芸者として、もっとも脂の乗る年齢でもある。
とある厳冬の日。
今朝も庭先で諸肌をさらし五本の型稽古をしたあと、降りつもった雪を見てふとおもいたった。
「ふぅむ、そろそろ今年もあれが固まったころだろう。そうだ、おあさと承治にあれを見せてやろうか」
うきうきと弾む心もちで朝餉のときに誘ってみたところ、あさ子が飛びあがって行く行くと名のりをあげてくれた。
が、妻のきせ子が、承治だけは連れて行くのをやめてくれと、断固として首を横にふった。寒気にあてられて昨晩に熱をだしたばかりだったので、たしかに仕方がないとあきらめた。
それから家伝の信濃守信吉を腰にさし、防寒を厳重にほどこされたあさ子を肩にのせ、まだ人影のない本一之丁の大通りのまんなかを歩いた。
八寸ばかりつもった雪をふみしめるたび、きゅっきゅっと澄んだ音が鳴った。
朝陽がおりた雪の城下は、冷たく透明な気でみちみちて、睫毛がくすぐったくなるほどきらきらと眩い。
すんと、鼻からめいっぱい吸いこみ、全身にゆきわたらせた。肩のうえであさ子も父の真似をする。
「よしおあさ、駆けるからふりおとされるな!」
暴れ馬のようにどっと駆けだすと、うしろに粉雪をかきあげて一本筋の足跡がきざまれてゆく。高い視界に興奮するあさ子のにぎやかな笑い声が、城下にきゃっきゃと響いた。
源右衛門の体躯は、城下のなかでも大柄なほうだ。
余人より頭ひとつぶん抜きんでて、身の丈五尺八寸(一七四センチ)、体重二十二貫(八三キロ)もある。子供のころからいかつい顔つきをしていたせいで十二歳にして成人とまちがわれることもしばしばで、ついた渾名は鬼瓦だった。
そのとげとげしい渾名がしめすとおり、腕白坊主だった。
什どうしの喧嘩があればいつも先頭をきってきたし、日新館の武寮では何につけ遅れをとったことがない。
武芸こそ自分の道だと思いこんでからは四書五経をほうりだし、槍と剣術に熱中する日々をおくった。弓馬も人よりはできたが、幼少から稽古をつみかさねてきた刀槍が好きだった。
もともと原家が武芸に秀でてとりたてられた家柄だったので、一族の血が濃くあらわれたのだろう。工夫を惜しまず、労を労とも感じず、楽しくて仕方がないという具合だった。
しかしながら父はあまりよい顔をしなかった。
父は簗瀬家の分家からきた婿養子で、日新館の素読所指南役手伝をおおせつかったほど生粋の文官だった。
「これから世はますます複雑みを増す。なればこそ武よりも文だ。学問をせよ――」
そうした小言を浴びるたび、反抗心のつよい源右衛門はますます稽古に没頭した。
宝蔵院流名物の徹夜で開かれるたちきり稽古においては三年連続で最後の一人に勝ちのこった。
御前仕合や追鳥狩では、君公じきじきの饗盃をたまわった。
そしてついに、宝蔵院流槍術と安光流剣術の印可を若くして得た。
そんな息子をずっと苦々しい顔で見てきた父であったが、ある日とつぜん、職場で倒れて急逝した。
その通夜ではじめて母から明かされたことは、じつは源右衛門の武名があがるたび、父はひそかに顔をほころばせていたと聞かされた。同僚から賞賛されれば、
「いやいや、どうやら倅は私に似なかったようで」
とまんざらでもない様子で謙遜していたそうだ。
病弱だった父は、武芸が苦手な人だった。
武の道を志す息子を導いてやることができなかったので、自分がしてやれることといえばこれしかないだろうと思いきわめ、わざと厳しく接することで応援してくれていたのだという。
いまは父の深い情と、己の父であってくれたことに源右衛門は感謝をしている。
めいっぱい使えるこの大柄な体躯は、まぎれもなく父方の簗瀬の血からさずかったものにちがいないと信じている。
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