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第三章 夢よ現よ
いちだいじ②
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あさ子たちは近くの慶山村にある庄屋の軒先を借り、堆肥まみれになった手足と着物を洗った。
助けてもらった礼をつたえなければと思い、あさ子と千重子が頭巾をはずそうとしたところ、あの貴公子が五指をひろげて制した。
「いや、外さずともよい。予はここにはいないのだから。ハハハ」
口ぶりに会津の国訛りがない。軽やかな抑揚をともなった話し言葉は、まちがいなく江戸のものだろう。ちかくから見るとことさら整った顔立ちをしていて、身なりは黒紐の黒羽織をまとった士中の若侍といったところだが、そこはかとなくおかしがたい気品めいた趣を漂わせている。
やはり見ない顔だ。そういえば春先に江戸から小さな行列がきてあったので、そのときに下向してきた三家六家の縁者とかなのかもしれない。源右衛門もその行列に伴って帰ってきたのだったが、君公の行列にしてはだいぶ短かったので、どこの誰がもどってきたのかと尋ねると単なる江戸沿岸警備の交替だと言っていた。
千重子が頭をさげて丁重に礼をのべた。
「さきほどは危うきところをお救いいただき、まことにありがとうござりました。お名を頂戴してもよろしいでしょうか。ぜひとも後日、あらためましてお礼をと存じますが」
いつになくしおらしく聞こえたその声には、あさ子にも察するところがあった。和歌から源氏物語、歌舞伎や戯作まで好む読書家の千重子は、なんだかんだいって市川一門の役者をはじめとした顔立ちの整った者が好みである。隠しているがまちがいなく面食いだ。
だが彼はすぐ名乗らずにいて、腕組みをして少し考えこむそぶりをした。
「そうだな、けいでよい。さように呼んでくれ」
「けい、さま……どのようにお書きするのですか」
「金偏に土ふたつの銈だ」
あとになって千重子が言うには、会津ではあまり名前にもちいない漢字だそうだ。
銈と名乗った若者は、つぎに千重子が尋ねようとしたことを先んじて読みとり、子気味よい口調のままさりげなく述べた。
「どこの家の者かは聞かないでくれ。じつは予もそなたたちと同じで屋敷からこっそりと脱走をはかり遠駆けしてきたのだ。今ごろ家士たちがあわてて探しておるやもしれぬが」
「まぁ……」
「だから我々は今日ここで会わなかった。ましてや誰も肥溜めにはまらなかったし、娘子にこっぴどく放り投げられた者もいない。それでよいではないか、なぁ」
あざやかに投げ捨てられてすっかり自信喪失の態でいた壮年の武家二人が、困りはてた様子で苦笑いをひきつらせ、もう言わないでほしいと沈みこむようにうなだれた。
銈があさ子を見て問うた。やや吊りあがりの目もとは涼やかであるが、背中までまっすぐ射抜くような澄んだまなざしをしている。
「ときにそなたが披露してくれたあざやかな手なみには深く感服した。あれは御式内であろう」
「ありがとうございます。さようにござります」
「供番や女中番の表演でもあそこまではいかない。さぞや精緻な指と身の動きができるのだろう。誰にならった、幼いころからやってきたのか」
「よくご存知であられます。幼いころより遊びのように父から手ほどきをうけ、ここ何年かは野矢涼斎先生と黒河内伝五郎先生よりお導きをいただいております」
善左衛門はもちろんのこと、男たちがいっせいに息をのんだ。
「なんと、これは驚いた。会津にとどまらず六十余州まで名をとどろかせた宝蔵院流志賀一門の龍虎の名ではないか。その二人から習ったとはたいしたものだ。なるほど、近習の男二人ではどうにもならぬわけだ。となれば静流だけでなくこちらも相当に使うのであろう」
と言って、中段に刀を構える仕草をした。あさ子の目にはそれだけで、銈が一刀流溝口派をかなり深くたしなんでいるのだとわかり、反射的に張り合う気持ちがわいた。
「いえ、まだ剣の持ち方を覚えたぐらいにござります」
思わず言ってしまってから後悔したが、もう取り消しようもない。
銈はきょとんと目をまるくさせたあと、遠慮のない大笑いを弾けさせた。投げられた二人もそれは恐れ入ったと頭をさすりながら釣られて笑う。
「聞いたか、これは驚くばかりだ。まるで武芸者のような口ぶりではないか。どうせなら腕に覚えありと言ってくれてもよかったが、やはり会津の娘子はじつに頼もしい。ゆえに男も勇ましく育つのであろうな。ときに予の目には頑固がすぎて困るが」
銈の嫌味のない人柄は、人を輪のなかに巻きこむ不思議な魅力があった。
ふたたびあさ子と千重子は目をあわせ、
「いったいこのお方はどなたでしょう――」
「さぁ――」
と首をひねりあうことしきりだった。
トンと膝をたたき話に区切りを置いて、銈が颯爽と立ちあがった。
「さて、予はそろそろ屋敷に戻るとする。また家士たちから小言をされでもしたらかなわぬからな」
すかさず壮年の武家がさきまわりをして駆けてゆき、庭先で水を飲ませてあった馬を畏まって引いてきた。
おもわず惚れ惚れと見上げてしまう、じつに立派な栗毛馬である。光艶をたたえた毛なみはよく手入れがなされ、スラリと伸びた骨格のうえに無駄のない筋肉がのっている。鬣には複雑な編みこみが施され、うつくしく束ねられてある。
面掛から手綱、鞍、鞦までを漆黒で統一し、あざやかな朱色の房がふたつ、轡のしたで揺れている。
質実でありながらも洒落を忘れぬ馬主の好みをよく表していた。
銈は軽い身のこなしで黒羽織の裾を宙で円にひろげ、ヒラリと馬上にまたがった。彼の挙措はやることなすこと、すべてが高雅である。
「はぅ……」
千重子が小さく感嘆の声をもらし、胸のまえに手を結んで身をこわばらせた。すっかりやられてしまっているらしい。
銈が馬首を門にめぐらせると、善左衛門たちが地に膝をおとして頭を垂れたので、あさ子と千重子もそれにならった。
馬上からあらたまった張りのある声音がふってくる。
「さて河原、今日はすっかり世話になった。御種人参の土づくりと栽培の難しさ、また人参方と農民たちの精妙さと熱意をよく見知った。礼をいう」
なおさら頭を低くさせ、善左衛門がかしこまって応じる。
「もったいなきお言葉にござります」
「来てみてよくわかったぞ、会津はじつに美しい。これからも故郷のため、共に励もうではないか」
「はッ、身命を賭してつとめる所存にござります」
「うむ、頼もしいかぎり。あとはこの娘子たちが無事に郭内まで戻られるよう、送ってやってほしい」
「えっ……」
「なんだ、不服か」
「……い、いえ。しかと承りました」
「頼みおいたぞ」
突と千重子がすがるように、声をうわずらせて問うた。
「あの、銈さま!」
「なにか」
「またどこかで……いずれご再会がかないましょうか」
覆面をしているからいつもより大胆になれてしまったものか、これにはあさ子はもちろんのこと、皆がびっくりした。
銈は小さく首肯して、やわらかな微笑みでかえしてきた。
「うむ、きっと会えるであろう。だがそのときはいかにも初めて会ったふりをしてほしいのだが、頼めるか」
「はい、かならずそのように致します。ではまた、どこかで……」
「うむ、またな。はいやっ!」
ポンと馬の腹を蹴り、勢いよく飛びだして行った。
まっすぐに伸びた背筋のうえで陣笠をのせた頭が一定に留まり、馬が黒土を細かくはねあげ黒羽織の裾が高くはためく。
ついぞどこの誰かもわからずじまいとなりはしたが、遠ざかりゆく後ろ姿まで、やはり高貴だった。
助けてもらった礼をつたえなければと思い、あさ子と千重子が頭巾をはずそうとしたところ、あの貴公子が五指をひろげて制した。
「いや、外さずともよい。予はここにはいないのだから。ハハハ」
口ぶりに会津の国訛りがない。軽やかな抑揚をともなった話し言葉は、まちがいなく江戸のものだろう。ちかくから見るとことさら整った顔立ちをしていて、身なりは黒紐の黒羽織をまとった士中の若侍といったところだが、そこはかとなくおかしがたい気品めいた趣を漂わせている。
やはり見ない顔だ。そういえば春先に江戸から小さな行列がきてあったので、そのときに下向してきた三家六家の縁者とかなのかもしれない。源右衛門もその行列に伴って帰ってきたのだったが、君公の行列にしてはだいぶ短かったので、どこの誰がもどってきたのかと尋ねると単なる江戸沿岸警備の交替だと言っていた。
千重子が頭をさげて丁重に礼をのべた。
「さきほどは危うきところをお救いいただき、まことにありがとうござりました。お名を頂戴してもよろしいでしょうか。ぜひとも後日、あらためましてお礼をと存じますが」
いつになくしおらしく聞こえたその声には、あさ子にも察するところがあった。和歌から源氏物語、歌舞伎や戯作まで好む読書家の千重子は、なんだかんだいって市川一門の役者をはじめとした顔立ちの整った者が好みである。隠しているがまちがいなく面食いだ。
だが彼はすぐ名乗らずにいて、腕組みをして少し考えこむそぶりをした。
「そうだな、けいでよい。さように呼んでくれ」
「けい、さま……どのようにお書きするのですか」
「金偏に土ふたつの銈だ」
あとになって千重子が言うには、会津ではあまり名前にもちいない漢字だそうだ。
銈と名乗った若者は、つぎに千重子が尋ねようとしたことを先んじて読みとり、子気味よい口調のままさりげなく述べた。
「どこの家の者かは聞かないでくれ。じつは予もそなたたちと同じで屋敷からこっそりと脱走をはかり遠駆けしてきたのだ。今ごろ家士たちがあわてて探しておるやもしれぬが」
「まぁ……」
「だから我々は今日ここで会わなかった。ましてや誰も肥溜めにはまらなかったし、娘子にこっぴどく放り投げられた者もいない。それでよいではないか、なぁ」
あざやかに投げ捨てられてすっかり自信喪失の態でいた壮年の武家二人が、困りはてた様子で苦笑いをひきつらせ、もう言わないでほしいと沈みこむようにうなだれた。
銈があさ子を見て問うた。やや吊りあがりの目もとは涼やかであるが、背中までまっすぐ射抜くような澄んだまなざしをしている。
「ときにそなたが披露してくれたあざやかな手なみには深く感服した。あれは御式内であろう」
「ありがとうございます。さようにござります」
「供番や女中番の表演でもあそこまではいかない。さぞや精緻な指と身の動きができるのだろう。誰にならった、幼いころからやってきたのか」
「よくご存知であられます。幼いころより遊びのように父から手ほどきをうけ、ここ何年かは野矢涼斎先生と黒河内伝五郎先生よりお導きをいただいております」
善左衛門はもちろんのこと、男たちがいっせいに息をのんだ。
「なんと、これは驚いた。会津にとどまらず六十余州まで名をとどろかせた宝蔵院流志賀一門の龍虎の名ではないか。その二人から習ったとはたいしたものだ。なるほど、近習の男二人ではどうにもならぬわけだ。となれば静流だけでなくこちらも相当に使うのであろう」
と言って、中段に刀を構える仕草をした。あさ子の目にはそれだけで、銈が一刀流溝口派をかなり深くたしなんでいるのだとわかり、反射的に張り合う気持ちがわいた。
「いえ、まだ剣の持ち方を覚えたぐらいにござります」
思わず言ってしまってから後悔したが、もう取り消しようもない。
銈はきょとんと目をまるくさせたあと、遠慮のない大笑いを弾けさせた。投げられた二人もそれは恐れ入ったと頭をさすりながら釣られて笑う。
「聞いたか、これは驚くばかりだ。まるで武芸者のような口ぶりではないか。どうせなら腕に覚えありと言ってくれてもよかったが、やはり会津の娘子はじつに頼もしい。ゆえに男も勇ましく育つのであろうな。ときに予の目には頑固がすぎて困るが」
銈の嫌味のない人柄は、人を輪のなかに巻きこむ不思議な魅力があった。
ふたたびあさ子と千重子は目をあわせ、
「いったいこのお方はどなたでしょう――」
「さぁ――」
と首をひねりあうことしきりだった。
トンと膝をたたき話に区切りを置いて、銈が颯爽と立ちあがった。
「さて、予はそろそろ屋敷に戻るとする。また家士たちから小言をされでもしたらかなわぬからな」
すかさず壮年の武家がさきまわりをして駆けてゆき、庭先で水を飲ませてあった馬を畏まって引いてきた。
おもわず惚れ惚れと見上げてしまう、じつに立派な栗毛馬である。光艶をたたえた毛なみはよく手入れがなされ、スラリと伸びた骨格のうえに無駄のない筋肉がのっている。鬣には複雑な編みこみが施され、うつくしく束ねられてある。
面掛から手綱、鞍、鞦までを漆黒で統一し、あざやかな朱色の房がふたつ、轡のしたで揺れている。
質実でありながらも洒落を忘れぬ馬主の好みをよく表していた。
銈は軽い身のこなしで黒羽織の裾を宙で円にひろげ、ヒラリと馬上にまたがった。彼の挙措はやることなすこと、すべてが高雅である。
「はぅ……」
千重子が小さく感嘆の声をもらし、胸のまえに手を結んで身をこわばらせた。すっかりやられてしまっているらしい。
銈が馬首を門にめぐらせると、善左衛門たちが地に膝をおとして頭を垂れたので、あさ子と千重子もそれにならった。
馬上からあらたまった張りのある声音がふってくる。
「さて河原、今日はすっかり世話になった。御種人参の土づくりと栽培の難しさ、また人参方と農民たちの精妙さと熱意をよく見知った。礼をいう」
なおさら頭を低くさせ、善左衛門がかしこまって応じる。
「もったいなきお言葉にござります」
「来てみてよくわかったぞ、会津はじつに美しい。これからも故郷のため、共に励もうではないか」
「はッ、身命を賭してつとめる所存にござります」
「うむ、頼もしいかぎり。あとはこの娘子たちが無事に郭内まで戻られるよう、送ってやってほしい」
「えっ……」
「なんだ、不服か」
「……い、いえ。しかと承りました」
「頼みおいたぞ」
突と千重子がすがるように、声をうわずらせて問うた。
「あの、銈さま!」
「なにか」
「またどこかで……いずれご再会がかないましょうか」
覆面をしているからいつもより大胆になれてしまったものか、これにはあさ子はもちろんのこと、皆がびっくりした。
銈は小さく首肯して、やわらかな微笑みでかえしてきた。
「うむ、きっと会えるであろう。だがそのときはいかにも初めて会ったふりをしてほしいのだが、頼めるか」
「はい、かならずそのように致します。ではまた、どこかで……」
「うむ、またな。はいやっ!」
ポンと馬の腹を蹴り、勢いよく飛びだして行った。
まっすぐに伸びた背筋のうえで陣笠をのせた頭が一定に留まり、馬が黒土を細かくはねあげ黒羽織の裾が高くはためく。
ついぞどこの誰かもわからずじまいとなりはしたが、遠ざかりゆく後ろ姿まで、やはり高貴だった。
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