49 / 51
小噺
ある日のあやめ屋
しおりを挟む
それは、どこかの宿の跡取り息子が手違いで押しかけてくる少ぅし前のこと――
品川宿あやめ屋。
すっきりと美しく咲く高貴な花の名を持つ宿。
しかし、当のあやめ屋は、その名に相応しいとは言えない有様であったかもしれない。
先代の主を失い、その妻女であるていが宿を引き継いだ。ただし、ていはたおやかで、亭主に口答えなどしたこともない女人であった。旅籠の商いにもそれほど通じているわけでもない。丈夫な方でもなく、疲れが出ると寝込んでしまうこともしばしばであった。
旅籠の女主になど向いているわけではない。むしろ、宿を畳んでどこかでひっそりと暮らした方がいいのかもしれない。
けれど、ていは亭主が始めたあやめ屋をなくしてしまいたくはないようだった。不慣れながらにも健気に、奉公人に混じって炊事、洗濯、掃除と仕事をする。そうした姿を見てると、番頭の元助も力にならねばと思うのであった。
ていが引き継いでから十年。
正直にいってよく持った方だと思う。
ていも旅籠の主には向いていないが、元助もまた旅籠の番頭には向いていなかった。そうして、奉公人の政吉も、平次もだ。大黒柱がいなくなり、支えを失ったあやめ屋は、それだけで皆がどこを目指して進めばいいのかもわからなくなった。皆がてんでばらばらに動いている。
女手がていだけでは大変だからと女中に志津という娘を雇ったが、志津もまた今のあやめ屋の中にいては特別できる女中にはならなかった。誰も厳しく教えないのだから、あんなものではある。
炊事洗濯といった家事を元助が教えることはできない。ていも料理はあまり得意ではなかった。
元助にできることは、ていが苦手ながらに腐心して作った料理を黙って食べることだけである。それが真夜中に喉が渇いて起きるほど塩辛かったとしても。
どうやら、ていは味見をして物足りないと思えば味を足すのだが、その後の味見はしない。その注ぎ足しがどうなったのか、自分の膳に載せて食べてみて初めてわかるといった具合なのだが、仮に二度目の味見をしたところで、注ぎ足した醤油は取り戻せない。
そんなことを繰り返しているうちに皆、塩辛い料理にすっかり慣れてしまった。
ただ、障りがあるとすれば――
元助は帳場に座ったままで帳面を広げていた。
ここ数年、客足は降下の一途を辿っている。その理由として考えられることはいくつかあった。
料理が美味いとは言えないかもしれない。けれど、旅籠は寝泊まりする場であり、料亭のような料理が出ると期待する客もそう多くはないはずだ。期待していなかったにしても、それを大きく下回る料理が出たとでもいうのだろうか。
しかもそれが口づてに広がり、あそこの旅籠の飯は不味いから、間違っても泊まるなという噂を立てられているのかもしれない。ていも志津も声が小さく、呼び込みが下手なこともあるだろう。
一日二日、客が少ないのならばまだしも、これが連日となると困る。奉公人たちが食っていけなくなる。ここの奉公人たちは帰る当てのない者たちばかりなのだ。
どうにかして客を増やさねばならない。
そうは思うが、元助にも何をどうすればいいのかがわからない。
だからこそ、できることは倹約、である。
銭の無駄遣いはないか、そこを細かく調べて抑える。正直なところ、元助にはそんなことしかできなかった。そのせいで思わずため息が漏れるのである。
どう考えてもかさんでいるのは、醤油代だった。
ていが味つけの際に醤油を気持ち減らしてくれたら、醤油代が安くつく。それから、もしかすると客にとって食べやすい料理になるかもしれない。そうしたら、いいこと尽くしなのだ。
ひと言、言いさえすればいい。ていに、料理に使う醤油の量を少し減らしてみてはどうかと。
今日こそは、と元助は――傍目にはわからないとしても――意気込んでいた。
帳場に座り、ていが通りかかるのを待つ。煙管を弄び、ごく自然に切り出すつもりでいた。
カラリ、と台所の戸が開いた。元助は何気なく、たった今思いついたかのようにして、ていに醤油代のことを言ってみる――と、そのはずであった。
しかし、ていは手ぬぐいで手を押さえ、キュッと目を瞑っていた。
「女将さん、どうかされやしたか」
様子がおかしくて、思わず問う。すると、ていはそっと片目を開け、苦笑した。
「ううん、ちょいと指を切っちまってね。大したことはないんだよ」
そうして、梯子段を上がっていった。
「――――」
この間切った傷がようやく治ったかというところである。またか、とは思わない。
あんなにも苦手である料理を、それでも懸命に作ってくれている。そう思うと、余計なことなど言えたものではなかった。
そうして、また言えぬまま歳月は過ぎる。
あやめ屋の菜が塩辛いのは、ていが作るのだから仕方がない。醤油代よりも他に削れるところがまだあるはずだ。
「――おい、政吉」
「へ、へい」
元助は通りかかった政吉に仏頂面で言った。
「おめぇ、買いつけの時に言い値で受け取るんじゃねぇよ。安くできるものは値切れ」
「ええっ」
「八百晋より安いところねぇのかよ」
「そそ、そんなっ」
政吉の焦りをよそに、今日も帳場で煙管を咥え、プカリと煙草を吹かす元助であった。
―了―
品川宿あやめ屋。
すっきりと美しく咲く高貴な花の名を持つ宿。
しかし、当のあやめ屋は、その名に相応しいとは言えない有様であったかもしれない。
先代の主を失い、その妻女であるていが宿を引き継いだ。ただし、ていはたおやかで、亭主に口答えなどしたこともない女人であった。旅籠の商いにもそれほど通じているわけでもない。丈夫な方でもなく、疲れが出ると寝込んでしまうこともしばしばであった。
旅籠の女主になど向いているわけではない。むしろ、宿を畳んでどこかでひっそりと暮らした方がいいのかもしれない。
けれど、ていは亭主が始めたあやめ屋をなくしてしまいたくはないようだった。不慣れながらにも健気に、奉公人に混じって炊事、洗濯、掃除と仕事をする。そうした姿を見てると、番頭の元助も力にならねばと思うのであった。
ていが引き継いでから十年。
正直にいってよく持った方だと思う。
ていも旅籠の主には向いていないが、元助もまた旅籠の番頭には向いていなかった。そうして、奉公人の政吉も、平次もだ。大黒柱がいなくなり、支えを失ったあやめ屋は、それだけで皆がどこを目指して進めばいいのかもわからなくなった。皆がてんでばらばらに動いている。
女手がていだけでは大変だからと女中に志津という娘を雇ったが、志津もまた今のあやめ屋の中にいては特別できる女中にはならなかった。誰も厳しく教えないのだから、あんなものではある。
炊事洗濯といった家事を元助が教えることはできない。ていも料理はあまり得意ではなかった。
元助にできることは、ていが苦手ながらに腐心して作った料理を黙って食べることだけである。それが真夜中に喉が渇いて起きるほど塩辛かったとしても。
どうやら、ていは味見をして物足りないと思えば味を足すのだが、その後の味見はしない。その注ぎ足しがどうなったのか、自分の膳に載せて食べてみて初めてわかるといった具合なのだが、仮に二度目の味見をしたところで、注ぎ足した醤油は取り戻せない。
そんなことを繰り返しているうちに皆、塩辛い料理にすっかり慣れてしまった。
ただ、障りがあるとすれば――
元助は帳場に座ったままで帳面を広げていた。
ここ数年、客足は降下の一途を辿っている。その理由として考えられることはいくつかあった。
料理が美味いとは言えないかもしれない。けれど、旅籠は寝泊まりする場であり、料亭のような料理が出ると期待する客もそう多くはないはずだ。期待していなかったにしても、それを大きく下回る料理が出たとでもいうのだろうか。
しかもそれが口づてに広がり、あそこの旅籠の飯は不味いから、間違っても泊まるなという噂を立てられているのかもしれない。ていも志津も声が小さく、呼び込みが下手なこともあるだろう。
一日二日、客が少ないのならばまだしも、これが連日となると困る。奉公人たちが食っていけなくなる。ここの奉公人たちは帰る当てのない者たちばかりなのだ。
どうにかして客を増やさねばならない。
そうは思うが、元助にも何をどうすればいいのかがわからない。
だからこそ、できることは倹約、である。
銭の無駄遣いはないか、そこを細かく調べて抑える。正直なところ、元助にはそんなことしかできなかった。そのせいで思わずため息が漏れるのである。
どう考えてもかさんでいるのは、醤油代だった。
ていが味つけの際に醤油を気持ち減らしてくれたら、醤油代が安くつく。それから、もしかすると客にとって食べやすい料理になるかもしれない。そうしたら、いいこと尽くしなのだ。
ひと言、言いさえすればいい。ていに、料理に使う醤油の量を少し減らしてみてはどうかと。
今日こそは、と元助は――傍目にはわからないとしても――意気込んでいた。
帳場に座り、ていが通りかかるのを待つ。煙管を弄び、ごく自然に切り出すつもりでいた。
カラリ、と台所の戸が開いた。元助は何気なく、たった今思いついたかのようにして、ていに醤油代のことを言ってみる――と、そのはずであった。
しかし、ていは手ぬぐいで手を押さえ、キュッと目を瞑っていた。
「女将さん、どうかされやしたか」
様子がおかしくて、思わず問う。すると、ていはそっと片目を開け、苦笑した。
「ううん、ちょいと指を切っちまってね。大したことはないんだよ」
そうして、梯子段を上がっていった。
「――――」
この間切った傷がようやく治ったかというところである。またか、とは思わない。
あんなにも苦手である料理を、それでも懸命に作ってくれている。そう思うと、余計なことなど言えたものではなかった。
そうして、また言えぬまま歳月は過ぎる。
あやめ屋の菜が塩辛いのは、ていが作るのだから仕方がない。醤油代よりも他に削れるところがまだあるはずだ。
「――おい、政吉」
「へ、へい」
元助は通りかかった政吉に仏頂面で言った。
「おめぇ、買いつけの時に言い値で受け取るんじゃねぇよ。安くできるものは値切れ」
「ええっ」
「八百晋より安いところねぇのかよ」
「そそ、そんなっ」
政吉の焦りをよそに、今日も帳場で煙管を咥え、プカリと煙草を吹かす元助であった。
―了―
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。