東海道品川宿あやめ屋

五十鈴りく

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それから

16

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 そうして、その翌朝。
 握り飯を手渡して客を送り出し、皆で朝餉を食べた後のこと。

 高弥は朝風呂へ行かせてもらうことにした。この時、帳場に元助はすでにいなかった。風呂好きな元助だから、すでに湯に浸かっていそうだ。

「じゃあ、平次さん、お先に行ってきやす」
「おお」

 高弥が戻ったら平次が行くことになっている。ていは部屋で繕い物をしていたので、一旦声をかけた。

「女将さん、湯屋に行って参りやす」
「ああ、行っておいで。気をつけてね」

 と、ていは穏やかに返してくれた。こうしていると、いつものていだ。
 彦佐は見当たらないけれど、どこだと訊きたくなった。しかし、四六時中一緒にいて、ていが彦佐を見張っているわけではないのだ。訊いてみて、彦佐のすべてを把握している方が何か嫌なような気もして、結局高弥は何も訊かなかった。

 彦佐はいつまでいるのかと、本音ではそれが一番知りたかったが、ていならばいつまでだっていていいんだよ、なんてことを言っていそうに思える。だから、それも訊ねたくなかった。

「へい」

 短く答え、高弥は手ぬぐいを手にあやめ屋を出た。自然とため息が零れる。
 湯に浸かってさっぱりとしたら、この胸のつかえも取れるだろうか。

 晩夏とはいえ、まだまだ暑い。高弥は汗を滲ませながら街道を歩いた。この頃は、街道でもよく揉め事がある。武士が殺気立っていると感じることが何度かあった。この時代、風向きがこれまでとは違う方に吹き始めているような、そんな気が、町人の高弥にさえ感じられるのだ。立場のある武士たちが何も思わずにのんべんだらりと生きているはずはない。

 高弥にとって大事なのは、つばくろ屋を継ぎ、守っていくこと。世の中の趨勢よりも、もっと身近なことに目を向けてしまう。国が盤石でなければ旅をする者も減り、旅籠客も減ってしまうので、その心配こそすれ、国を誰がどう治めるかということまでは考えられない。そんな気楽な身である。

 武士であれば、家や国のために命を賭すこともある。高弥には考えられない重責だ。
 だからこそ、国の風向きに過敏になり、些細なことに毛を逆立てる、それも仕方のないことなのかもしれない。
 この先、この品川宿や板橋宿はどうなっていくのだろう。
 ――などという難しい問いかけに対し、高弥に出せる答えがあるはずもなかったのだが。

 とにかく人にぶつからないように気をつけながら歩いていると、ふと海を見渡せるところに元助が立っていた。腕を組み、海を睨むように見据えている。
 風呂には入ったが、考え事でもあるのか道草をしているのだ。高弥は声をかけようとして思い留まった。その時、元助の厳しい横顔の陰に彦佐が見えた。

 別に、連れ立って風呂に行っても不思議はない。単に高弥が、あやめ屋の外でまで彦佐に会いたくなかっただけだ。
 声をかけずにその後ろを通り過ぎて湯屋に行こうと決めた。あまりそちらにも顔を向けず、スタスタと早足で進む。しかし、気にならないわけではなかった。

 元助は嬉しそうにはしていない。難しい顔をして海を眺めている。むしろ彦佐の方だけが笑顔で、楽しげだ。年の近い二人だから話が弾んでもよさそうだが、彦佐が一方的に喋り、それを元助が受け止めていると言ったところだ。海鳥の声、波の音、旅人の賑わいが邪魔をして、何も聞こえなかった。

 元助はていや平次とは違い、己をしっかりと持っている。心配は要らないと思うものの、けれどどこかに不安を残す。それは、ことがことだけに仕方がない。他のことであればよかったのだが、元助の一番の弱みともいえる柔らかな部分を突かれているようなものだ。

 いっそ、顔が似ていなければよかったのに、と言っても仕方のないことを考えながら高弥は二人の後ろを通り過ぎた。


 ――急いで体を清めて湯に浸かり、高弥はあやめ屋に戻る。途中にはもう、元助も彦佐もいなかった。
 ただ、あやめ屋に戻っても元助は帳場にもいなかった。

「元助さんは――」

 思わず口から零れた。
 帳場には何故だか彦佐が座っていた。その後ろにはていがいて、古い帳面を開いて指さしていた。

「ああ、おかえり高弥」

 ていは変わりなくにこやかである。
 しかし、おかしいとは思わないのか。大事な帳場に彦佐を座らせて、何を見せているのか。そこは元助の場所ではないのか。
 憮然とした高弥に彦佐はニヤリと笑うと言った。

「元助さんなら寄るところがあるって言ってたぜ」

 それはきっと、墓だ。ていの亭主に話したいことがあったのだと、高弥は直感が働いた。
 話しながら己の考えをまとめる。それが元助のいつもの行動である。

「そうでしたか」

 それだけ言うと、高弥はすぐに台所へ引っ込む。しかし、その背にも二人の声が届いた。

「ほら、これもそうだよ」
「へぇ、兄貴って字が下手だなぁ」
「下手なのかねぇ。味があっていいと思うけれど」
「なんだよそれ、痘痕あばたもえくぼってやつかい」

 ――苛々する。
 せっかく湯屋に行ったのに、さっぱりしきれない。
 こっそりため息を吐くと、高弥は小鉢を拭いていた平次に声をかけた。

「平次さん、お先でございやした」
「ん、ああ。じゃあおいらも行ってくらぁ」
「へい」

 そうして平次が出ていき、一人になると、余計に笑い声がよく聞こえて嫌になった。だから高弥は今日の献立のことばかり考えるようにした。己は料理人なのだから、他のことは雑念でしかない、と。
 打ち込めることがあるというのは仕合せだ。高弥はしみじみと思った。


     ●


 政吉がつる菜や甘唐辛子を持ってやってきた。帳場が空で元助がいないことに片眉を跳ね上げつつも、土間から辺りを見回す。高弥は板敷から、そんな政吉に向けてつぶやく。

「――彦佐さんをお捜しでござんすか」

 先に言ってやった。政吉も長くあやめ屋におり、ていの亭主が親のようなものだったのだ。平次と同じほどには彦佐に思うところもあるはずだ。だから、顔を見に来たのかと思ったのだ。
 しかし、政吉は溜息をついただけだった。

「捜してるってわけじゃねぇよ。まあ、まだいるのかなってくらいには思ったけどな」

 案外淡白であった。目を瞬かせて政吉を見ると、政吉は台所の方を気にしていた。平次に聞かせたくないようだ。平次はいないのだと言う前に、高弥は政吉に近づく。すると、政吉はボソボソと言った。

「平次のやつ、すっかり旦那さんが戻ってきたみてぇに懐いてんだろ」
「へ、へい」

 やっぱりな、と政吉はぼやいた。

「ここ半年くらいで随分しっかりはしたけど、それでも根っこは一緒だからな。まあ、俺もそう偉そうなことが言えるわけじゃあねぇが――いや、俺も少し前なら同じように喜んでいただろうな」
「今は違うってわけで」

 政吉は連日天秤棒を担いでいて肩が凝るのか、肩を揉み、首を左右に傾けながら零した。

「まあな。今の俺には女房がいて、八百晋がある。大事なもんをあやめ屋以外にも抱えているから、そういうのを裏切らねぇように、いろんなことをよく考えていかなくちゃならねぇんだ。昔みてぇにてめぇの気持ちひとつで動けやしねぇ。だからな、一旦落ち着いて考えてら」

 女房、と政吉の口から聞くと、高弥までこそばゆい。しかし、それが妙に清々しくて、高弥も久し振りに楽しく笑えた。

「政吉さん、立派になって」
「うるせぇな、お前みてぇなチビに言われたくねぇ」
「おれ、昔ほど小さかねぇつもりなんで、チビって言わねぇでください」
「それでもまだチビだろ」

 普段なら背のことを言われたら腹は立つが、今日は許せそうな気分だった。少し頬を膨らませてみせたけれど、本気で怒ったりはしていなかった。

 むしろ、政吉がしっかりとした考えを持っていてくれたことが嬉しい。これはもしかすると、由宇がついているからかもしれない。政吉は、彦佐のことを由宇に話したはずだ。そうして、夫婦二人で話し、政吉は落ち着いていつもの姿勢を保っていられるのだろう。
 夫婦っていいな、と高弥はほんのりと思った。

 そういえば、彦佐が来てひとつだけ高弥にとって幸いであったのは、ていが外歩きをあまりしなくなり、志津の嫁ぎ先を積極的に探していないことだろう。彦佐が出ていってからでもいいかと思っているのか、それすら忘れてしまうほどに浮かれているのかはわからない。

 志津はこんな状況ならばさっさと嫁に行くのもいいかもしれないと思っていたりはしないだろうか。
 そこはよくわからないけれど。


 政吉から受け取ったつる菜は胡麻和え、甘唐辛子は焼いてさらに甘みを引き出す。焼いている時、いきなりポンッと大きな音を立てて爆ぜることがある。焼く前にうっかりしていて、甘唐辛子に串を刺して穴をあけておくのを忘れたのだ。こうしておかないと危ない。

 しかし、甘唐辛子とはいうものの、時々甘くない。真剣に辛い時があって、あれは何故なんだろうと思う。採る時期のせいだろうか。けれど、それならば全部辛いはずではないのか。何故少しだけ辛いのが混ざっているのだと思う。その辛い甘唐辛子も高弥は美味しく食べられるからいいのだけれど、よりによって浜に当たり、辛い辛いと大騒ぎされた。

 美味いのにな、と高弥は残念に思う。
 いつまでも口の中が辛い、と大騒ぎする浜だが、皆がそれを見て笑っても、元助だけはにこりともしていなかった。この騒がしさが元助の耳には届いていないのか。それが妙に思いつめたように見えて、高弥はそんな元助の様子に胸騒ぎを感じたのだった。
 高弥でさえ気づいたそれを、ていは感じてくれていただろうか。ただ楽しげに微笑んでいた。

 ――楽しくはない。
 あの去年の火事を乗り越えて、皆で少しずつあやめ屋を立て直そうとしたあの頃の方がよほど、高弥にとっては輝いていたのだから。
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