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それから
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高弥は、そのまますぐにあやめ屋の中に戻る気になれなかった。あやめ屋の壁を背にもたれかかり、そこでぼんやりと暗くなっていく空を眺めた。そうしたら、涙がとめどなく溢れてきた。
元助に投げ飛ばされて打ちつけた背中が痛いからではない。どうしてだかを考えるよりも先に熱い涙が流れる。
「――莫迦やろぉ」
つぶやいて、涙を拭う。
元助は莫迦だ。不器用にもほどがある。
自分が引けばそれで丸く収まるなどと、本気でそんなことを考えたのなら、間違いなく莫迦だ。
ギリギリと、心の臓が締めつけられた。
これは、元助の心のうちを察してしまうからだ。あれほど大事に想っていたあやめ屋を出ていく元助の痛みが、高弥にまで染みてくる。どんなに上手く取り繕ったところで、語らない心の裏が漏れないなどと考えているのか。
一年と少し、同じ釜の飯を食った間柄なのだ。多少は元助のことをわかっていると思う。こんなのは、本気で望んだことではない。望んでいないくせに、出ていく元助の心が痛々しくて、それが今、高弥に涙を流させる。
高弥自身のことなら、己が気張ってどうにかする。けれど、他人のことは、当の本人の思いが優先されるから、こうすべきだと高弥が言ったところで思うようにはならない。それがもどかしく、痛い。
はぁ、と深々とため息をついて涙を肩口で拭うと、いつの間にか軒下の端に志津が立っていた。
「いっ」
いつからいたのだ。
暗いとはいえ、めそめそと泣いていたのを見られていたのか。
高弥が気づいたからか、志津はゆっくりと高弥に近づいた。そして、高弥の横にしゃがみ込む。泣き顔を見られたくなくて、高弥はとっさに顔をそらしてしまった。
すると、志津は高弥の背に問う。
「元助さんは行ってしまったのね」
行ってしまった。莫迦だから。本当に、どうしようもない。
「――へい」
志津は、そう、と短く答えた。ただし、その短さの中に悲しみがギュッと詰まっていた。志津の方がずっと元助との付き合いは長いのだ。
それから、志津は何も言わなかった。寂しい通りに、時折家屋から聞こえてくる笑い声が響くばかりだった。背中を向け続けていた高弥は、それでも消えない志津の気配にようやく恐る恐る振り返った。
その時、志津は声を立てずに涙を流していた。
「お志津さん――」
高弥の心がさらに痛んだ。志津は、涙を拭くよりも先に震える声を零す。
「元助さんも政さんも出ていって、そのうちに高弥さんも帰ってしまうのよね。せっかくよくなって来ていたのに、あやめ屋はどうなってしまうのかしら」
主であるていは変わらないとしても、そうなると古参の奉公人は平次のみである。志津には見知った顔が一人ずつ消えていくことが不安ではあるのだろう。そういう志津も、嫁に行くのだろうし――
志津の涙を見ていたら、やっぱりこれではいけない、と強く思った。
政吉は皆に祝福されながら巣立ったのだ。それは寂しくとも嬉しいことである。
しかし、元助のこれは違う。出ていくべきではない人が出た。
これは、あやめ屋にとっての損失でしかない。
高弥はなるべく力強い声を出すようにして言った。
「お志津さん、おれ、仕事の合間に元助さんを捜しやす。それで、きっと戻ってきてもらいやす」
ついさっき振り払われたお前が何を言うかと、高弥自身が思う。それでも、このままにして板橋に帰ることなどできない。それは嫌だ。
志津に誓うことで己を奮い立たせたかった。どんなことがあっても諦めるな、と。
「あの元助さんが言ったことを取り消すかしら」
ひく、と志津はしゃくり上げた。高弥は素直にうなずけない。
「難しいとは思いやす。でも、奥の手でもなんでも使って、首に縄をつけてでも引っ張ってきやす」
首に縄をつけてみても、引きずられるのは高弥の方かもしれない。厄介な男である。
それでも、志津は少しくらいは頼もしく思ってくれたのだろうか。ようやく涙を拭いた。
「ありがとう、高弥さん」
この信用を裏切らないように、何より元助自身のためにあやめ屋に戻る道を手を引いて進もうと高弥は決意した。
●
その日から、ていは彦佐が来てから上機嫌であったのが嘘のように沈んだ。それを彦佐があれやこれやと話しかけている。しかし、笑顔なのは彦佐ばかりで、ていは無理をした強張った笑みを浮かべるばかりである。
高弥は、平次と朝餉の握り飯の支度をしていた。今日からしばらくは朝餉も一人前少ない。昨日の夕餉も結局元助は箸もつけずに去ったので、それを皆で食べた。取り分が多くなって浜は嬉しいかと思ったが、この重たい雰囲気の中ではしゃげるはずもなかった。葬儀の席のような薄暗さであったのだ。
彦佐は他の泊り客と同じ一階で寝泊まりしている。二階の奉公人部屋は高弥と平次の二人だけであった。初めてここに来た時は、四人もの男が狭い部屋に詰め込まれ、窮屈な思いをしながら眠った。それなのに、今ではその半数がいない。ゆったりと眠れることが仕合せとは言えなかった。
眠る前、平次は何も言わなかった。それは、隣の部屋、襖一枚を隔てたところにいるていを気遣ってのことだったと思う。だから高弥も何も言わなかった。
そうして、朝になって平次はボソリと言う。
「なあ、元助さん、そのうち戻ってくるよな」
それは平次の望みであり、皆の望みである。
しかし、何もせずに待っていたのでは戻ってこない。こちらから迎えに行って引っ張り出さねばならないのだ。
「そのうちが、いつになるかはわかりやせんが」
すると平次は、うん、とつぶやいた。
平次は、元助の心のうちをどの程度わかっているのだろうか。身を切るような痛みを伴う決断をしたのだ。あやめ屋にとってなくてはならない人だと、平次も思っているはずだけれど。
元助に投げ飛ばされて打ちつけた背中が痛いからではない。どうしてだかを考えるよりも先に熱い涙が流れる。
「――莫迦やろぉ」
つぶやいて、涙を拭う。
元助は莫迦だ。不器用にもほどがある。
自分が引けばそれで丸く収まるなどと、本気でそんなことを考えたのなら、間違いなく莫迦だ。
ギリギリと、心の臓が締めつけられた。
これは、元助の心のうちを察してしまうからだ。あれほど大事に想っていたあやめ屋を出ていく元助の痛みが、高弥にまで染みてくる。どんなに上手く取り繕ったところで、語らない心の裏が漏れないなどと考えているのか。
一年と少し、同じ釜の飯を食った間柄なのだ。多少は元助のことをわかっていると思う。こんなのは、本気で望んだことではない。望んでいないくせに、出ていく元助の心が痛々しくて、それが今、高弥に涙を流させる。
高弥自身のことなら、己が気張ってどうにかする。けれど、他人のことは、当の本人の思いが優先されるから、こうすべきだと高弥が言ったところで思うようにはならない。それがもどかしく、痛い。
はぁ、と深々とため息をついて涙を肩口で拭うと、いつの間にか軒下の端に志津が立っていた。
「いっ」
いつからいたのだ。
暗いとはいえ、めそめそと泣いていたのを見られていたのか。
高弥が気づいたからか、志津はゆっくりと高弥に近づいた。そして、高弥の横にしゃがみ込む。泣き顔を見られたくなくて、高弥はとっさに顔をそらしてしまった。
すると、志津は高弥の背に問う。
「元助さんは行ってしまったのね」
行ってしまった。莫迦だから。本当に、どうしようもない。
「――へい」
志津は、そう、と短く答えた。ただし、その短さの中に悲しみがギュッと詰まっていた。志津の方がずっと元助との付き合いは長いのだ。
それから、志津は何も言わなかった。寂しい通りに、時折家屋から聞こえてくる笑い声が響くばかりだった。背中を向け続けていた高弥は、それでも消えない志津の気配にようやく恐る恐る振り返った。
その時、志津は声を立てずに涙を流していた。
「お志津さん――」
高弥の心がさらに痛んだ。志津は、涙を拭くよりも先に震える声を零す。
「元助さんも政さんも出ていって、そのうちに高弥さんも帰ってしまうのよね。せっかくよくなって来ていたのに、あやめ屋はどうなってしまうのかしら」
主であるていは変わらないとしても、そうなると古参の奉公人は平次のみである。志津には見知った顔が一人ずつ消えていくことが不安ではあるのだろう。そういう志津も、嫁に行くのだろうし――
志津の涙を見ていたら、やっぱりこれではいけない、と強く思った。
政吉は皆に祝福されながら巣立ったのだ。それは寂しくとも嬉しいことである。
しかし、元助のこれは違う。出ていくべきではない人が出た。
これは、あやめ屋にとっての損失でしかない。
高弥はなるべく力強い声を出すようにして言った。
「お志津さん、おれ、仕事の合間に元助さんを捜しやす。それで、きっと戻ってきてもらいやす」
ついさっき振り払われたお前が何を言うかと、高弥自身が思う。それでも、このままにして板橋に帰ることなどできない。それは嫌だ。
志津に誓うことで己を奮い立たせたかった。どんなことがあっても諦めるな、と。
「あの元助さんが言ったことを取り消すかしら」
ひく、と志津はしゃくり上げた。高弥は素直にうなずけない。
「難しいとは思いやす。でも、奥の手でもなんでも使って、首に縄をつけてでも引っ張ってきやす」
首に縄をつけてみても、引きずられるのは高弥の方かもしれない。厄介な男である。
それでも、志津は少しくらいは頼もしく思ってくれたのだろうか。ようやく涙を拭いた。
「ありがとう、高弥さん」
この信用を裏切らないように、何より元助自身のためにあやめ屋に戻る道を手を引いて進もうと高弥は決意した。
●
その日から、ていは彦佐が来てから上機嫌であったのが嘘のように沈んだ。それを彦佐があれやこれやと話しかけている。しかし、笑顔なのは彦佐ばかりで、ていは無理をした強張った笑みを浮かべるばかりである。
高弥は、平次と朝餉の握り飯の支度をしていた。今日からしばらくは朝餉も一人前少ない。昨日の夕餉も結局元助は箸もつけずに去ったので、それを皆で食べた。取り分が多くなって浜は嬉しいかと思ったが、この重たい雰囲気の中ではしゃげるはずもなかった。葬儀の席のような薄暗さであったのだ。
彦佐は他の泊り客と同じ一階で寝泊まりしている。二階の奉公人部屋は高弥と平次の二人だけであった。初めてここに来た時は、四人もの男が狭い部屋に詰め込まれ、窮屈な思いをしながら眠った。それなのに、今ではその半数がいない。ゆったりと眠れることが仕合せとは言えなかった。
眠る前、平次は何も言わなかった。それは、隣の部屋、襖一枚を隔てたところにいるていを気遣ってのことだったと思う。だから高弥も何も言わなかった。
そうして、朝になって平次はボソリと言う。
「なあ、元助さん、そのうち戻ってくるよな」
それは平次の望みであり、皆の望みである。
しかし、何もせずに待っていたのでは戻ってこない。こちらから迎えに行って引っ張り出さねばならないのだ。
「そのうちが、いつになるかはわかりやせんが」
すると平次は、うん、とつぶやいた。
平次は、元助の心のうちをどの程度わかっているのだろうか。身を切るような痛みを伴う決断をしたのだ。あやめ屋にとってなくてはならない人だと、平次も思っているはずだけれど。
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