東海道品川宿あやめ屋

五十鈴りく

文字の大きさ
34 / 51
それから

18

しおりを挟む
 高弥は、そのまますぐにあやめ屋の中に戻る気になれなかった。あやめ屋の壁を背にもたれかかり、そこでぼんやりと暗くなっていく空を眺めた。そうしたら、涙がとめどなく溢れてきた。
 元助に投げ飛ばされて打ちつけた背中が痛いからではない。どうしてだかを考えるよりも先に熱い涙が流れる。

「――莫迦ばかやろぉ」

 つぶやいて、涙を拭う。
 元助は莫迦だ。不器用にもほどがある。
 自分が引けばそれで丸く収まるなどと、本気でそんなことを考えたのなら、間違いなく莫迦だ。

 ギリギリと、心の臓が締めつけられた。
 これは、元助の心のうちを察してしまうからだ。あれほど大事に想っていたあやめ屋を出ていく元助の痛みが、高弥にまで染みてくる。どんなに上手く取り繕ったところで、語らない心の裏が漏れないなどと考えているのか。

 一年と少し、同じ釜の飯を食った間柄なのだ。多少は元助のことをわかっていると思う。こんなのは、本気で望んだことではない。望んでいないくせに、出ていく元助の心が痛々しくて、それが今、高弥に涙を流させる。

 高弥自身のことなら、己が気張ってどうにかする。けれど、他人のことは、当の本人の思いが優先されるから、こうすべきだと高弥が言ったところで思うようにはならない。それがもどかしく、痛い。

 はぁ、と深々とため息をついて涙を肩口で拭うと、いつの間にか軒下の端に志津が立っていた。

「いっ」

 いつからいたのだ。
 暗いとはいえ、めそめそと泣いていたのを見られていたのか。
 高弥が気づいたからか、志津はゆっくりと高弥に近づいた。そして、高弥の横にしゃがみ込む。泣き顔を見られたくなくて、高弥はとっさに顔をそらしてしまった。
 すると、志津は高弥の背に問う。

「元助さんは行ってしまったのね」

 行ってしまった。莫迦だから。本当に、どうしようもない。

「――へい」

 志津は、そう、と短く答えた。ただし、その短さの中に悲しみがギュッと詰まっていた。志津の方がずっと元助との付き合いは長いのだ。

 それから、志津は何も言わなかった。寂しい通りに、時折家屋から聞こえてくる笑い声が響くばかりだった。背中を向け続けていた高弥は、それでも消えない志津の気配にようやく恐る恐る振り返った。
 その時、志津は声を立てずに涙を流していた。

「お志津さん――」

 高弥の心がさらに痛んだ。志津は、涙を拭くよりも先に震える声を零す。

「元助さんも政さんも出ていって、そのうちに高弥さんも帰ってしまうのよね。せっかくよくなって来ていたのに、あやめ屋はどうなってしまうのかしら」

 あるじであるていは変わらないとしても、そうなると古参の奉公人は平次のみである。志津には見知った顔が一人ずつ消えていくことが不安ではあるのだろう。そういう志津も、嫁に行くのだろうし――

 志津の涙を見ていたら、やっぱりこれではいけない、と強く思った。
 政吉は皆に祝福されながら巣立ったのだ。それは寂しくとも嬉しいことである。

 しかし、元助のこれは違う。出ていくべきではない人が出た。
 これは、あやめ屋にとっての損失でしかない。
 高弥はなるべく力強い声を出すようにして言った。

「お志津さん、おれ、仕事の合間に元助さんを捜しやす。それで、きっと戻ってきてもらいやす」

 ついさっき振り払われたお前が何を言うかと、高弥自身が思う。それでも、このままにして板橋に帰ることなどできない。それは嫌だ。
 志津に誓うことで己を奮い立たせたかった。どんなことがあっても諦めるな、と。

「あの元助さんが言ったことを取り消すかしら」

 ひく、と志津はしゃくり上げた。高弥は素直にうなずけない。

「難しいとは思いやす。でも、奥の手でもなんでも使って、首に縄をつけてでも引っ張ってきやす」

 首に縄をつけてみても、引きずられるのは高弥の方かもしれない。厄介な男である。
 それでも、志津は少しくらいは頼もしく思ってくれたのだろうか。ようやく涙を拭いた。

「ありがとう、高弥さん」

 この信用を裏切らないように、何より元助自身のためにあやめ屋に戻る道を手を引いて進もうと高弥は決意した。


     ●


 その日から、ていは彦佐が来てから上機嫌であったのが嘘のように沈んだ。それを彦佐があれやこれやと話しかけている。しかし、笑顔なのは彦佐ばかりで、ていは無理をした強張った笑みを浮かべるばかりである。

 高弥は、平次と朝餉の握り飯の支度をしていた。今日からしばらくは朝餉も一人前少ない。昨日の夕餉も結局元助は箸もつけずに去ったので、それを皆で食べた。取り分が多くなって浜は嬉しいかと思ったが、この重たい雰囲気の中ではしゃげるはずもなかった。葬儀の席のような薄暗さであったのだ。

 彦佐は他の泊り客と同じ一階で寝泊まりしている。二階の奉公人部屋は高弥と平次の二人だけであった。初めてここに来た時は、四人もの男が狭い部屋に詰め込まれ、窮屈な思いをしながら眠った。それなのに、今ではその半数がいない。ゆったりと眠れることが仕合せとは言えなかった。

 眠る前、平次は何も言わなかった。それは、隣の部屋、襖一枚を隔てたところにいるていを気遣ってのことだったと思う。だから高弥も何も言わなかった。
 そうして、朝になって平次はボソリと言う。

「なあ、元助さん、そのうち戻ってくるよな」

 それは平次の望みであり、皆の望みである。
 しかし、何もせずに待っていたのでは戻ってこない。こちらから迎えに行って引っ張り出さねばならないのだ。

が、いつになるかはわかりやせんが」

 すると平次は、うん、とつぶやいた。
 平次は、元助の心のうちをどの程度わかっているのだろうか。身を切るような痛みを伴う決断をしたのだ。あやめ屋にとってなくてはならない人だと、平次も思っているはずだけれど。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。