東海道品川宿あやめ屋

五十鈴りく

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それから

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 何かが起こっているのか、いないのか、そこは確証もない。ただの取り越し苦労ならばそれでいい。
 元助があやめ屋まで足を運ぶ気になっただけでも十分だ。細身の元助は旅人たちの間を器用に、体を斜にしてすり抜ける。政吉もいつもの天秤棒を担いでいないので、それだけでも楽なのだろう。途中、八百晋を通り過ぎる時に由宇たちと軽く話し、それからすぐについてきた。

 どうするのが一番なのか、答えはまだ出ていない。
 彦佐が去ればそれでいいのかというと、行く当てがないのを知っていて追い出すようなことは、ていにはできないだろう。どうしてもあやめ屋に残りたいというのなら、皆で話し合うしかない。
 バラバラに考えた結果がこの現状なのだ。
 皆で話し合い、結論を出さねば先へも進めない。そのことに気づくのが遅かったのかもしれない。

 あやめ屋が見えてきても、政吉が言うような怪しい男たちは周囲にいなかった。それは、周囲ではなく、中にいたのだ。上がり框にドカリと腰を下ろしている三人の男がいた。
 帳場に座った彦佐がその相手をしている、といった具合である。

 高弥たちは皆、足を止めて見つからぬように表を通らず、壁に張りつくようにして中を窺う。通りかかった人々は何事かと思っただろう。
 街道のざわめきがうるさく、中の話声もやっと拾えるかどうかというところだった。それでも耳を澄ませる。

「――だから、まだだって言ってるじゃねぇか」

 と、彦佐が潜めた声で言った。

「そればっかりだな。一体いつになったらいいんだよ」
「番頭に納まったくせに、もたもたしてんじゃねぇよ」

 男たちの胴間声がする。
 なんだこれは。高弥は成り行きを見守りつつもゾッとした。

 彦佐は一体何を企んでいるのだろう。想念が言ったように、あやめ屋を乗っ取るつもりなのか。
 元助を見遣ると、顔からは考えが読み取れなかった。ただ厳しい横顔だった。

 その時、破落戸がヒュウ、と口笛を吹いた。何事かと思えば、下卑た笑い声が聞こえた。

「おお、いい女がいるじゃねぇか。こいつは残しとけよ」
「――あの、お客様でしょうか」

 どうやら志津が顔を出してしまったようだ。彦佐は、もごもごと何かを答えたが、まるで聞き取れなかった。

「姉ちゃん、いくらだい」
「えっ」
「旅籠の飯盛女だろ。散々男の相手をしてきたにしちゃ素人っぽいな」

 男たちの目が、志津を舐めるように見ているのが声からでもわかった。高弥がカッと頭に血が上って飛び出そうとすると、その首根っこを元助が素早くつかんで引き戻した。
 しかし――

「なあ、彦佐さんよぅ。大年増の寡婦一人にどれだけ手ぇかけてんだよ。あんな弱々しい女、すぐに引きずり出せるだろうがよ。俺たちだって暇じゃあねぇんだ。あんたが金を作る当てがあるっていうから付き合ってやってんだぜ。ぐずぐずしてんじゃねぇよ。あんたができねぇってんなら、俺たちが手伝ってやろうか」

 それを聞いた途端、高弥を押さえていた手が緩んだ。かと思うと、元助は高弥を通り越し、さっさと一人であやめ屋の暖簾を潜った。高弥たちも顔を見合わせると慌てて後に続く。

「元助さんっ」

 志津が声を上げた。しかし、元助はそれに答えるでもなく、破落戸よりも余程恐ろしい目つきをして男たちを睨みつけた。

「ふざけたことを言ってやがるのはどこのどいつだ」
「なっ、なんだてめぇっ」

 破落戸の一人が立ち上がったものの、元助の鼻の辺りまでしか上背がなかった。元助は片手でその襟をつかむと、捻り倒した。ビッと着物が裂ける音がして、破落戸が三和土に転がる。
 彦佐は憐れなほどに目をひん剥いていた。そんな表情は、ていの亭主ならばしなかったのではないだろうか。

 他の二人も仲間を転がされ、目を怒らせて何か喚いたが、元助は最早聞いていなかった。ただ彦佐だけを見て、そうして低く、地獄の底から響くような声で言った。

「彦佐さん、あんた、どういうつもりでここに来たんだ」

 元助の怒りを前にしてまともに口が利けるほど、彦佐の肝は据わっていない。

「あ、あの、そ、それは――」
「今のこいつらの口ぶりじゃあ、最初からあやめ屋を乗っ取るつもりで来たみてぇに聞こえるんだが。そうじゃあねぇなら早く『違う』と言った方がいいぜ」

 元助は履物を脱ぎ、そうして帳場へ近づく。帳場の中の彦佐は狼狽え、何かをまたボソボソと言った。
 破落戸たちはそんな彦佐を見捨て、さっさと逃げ出している。高弥も引き留めるつもりはなかった。
 すると、彦佐は帳場格子の中で体を精一杯反らせ、元助から間を取った。その体制のまま、顔をしかめて零す。

「兄貴はもういねぇんだから、俺が困っていたら兄貴が遺したもんに助けてもらったっていいじゃねぇか。この宿だって兄貴が始めたもんであって、あんたたちのもんじゃねぇ。あんたちより身内の俺がこの宿を好きにしたっていいだろうがよ。おていさんだって寝てばっかりで、宿のことなんてろくになんにも――」

 余計なことを言った。彦佐がそれを悔いたのは、元助の筋張った手が胸倉をつかみ、拳を振り上げた時だっただろうか。
 ただ、その拳は震えていた。強く握られるばかりで叩きつけられる様子はなかった。

 彦佐があまりにもていの亭主に似ているからか。あやめ屋を乗っ取ろうとし、ていを愚弄した男だ。普段の元助ならば一も二もなく殴っているだろうに。
 元助が己の顔を殴れないのだと、彦佐も察したようだ。急に嘲笑を浮かべる。

「あんたもせっかくここから出ていけたのに、なんだって戻ってきちまったんだかな。ここにそんな値打ちがあんのかよ」

 その時、高弥は板敷の上に飛び乗り、元助の背後に回り込むと、拳を彦佐の頬に叩きつけた。元助が殴れないのなら、高弥が殴るだけの話だ。高弥はこの顔になんの思い入れもない。

「ここは、おれたちにとっちゃあ大事な宿なんで、莫迦ばかにすんのはよしておくんなさい。それから、女将さんは女将さんなんで、いてくれるだけでありがてぇお人なんでござんす」

 手がジンジンと痛んだ。人を殴ると己まで痛いとは。
 高弥の手は料理をするための手であり、人を殴るためのものではない。しかし、大事なものを莫迦にされてへらへらと笑っているつもりはなかった。

「――おめぇは案外喧嘩っ早ぇよな」

 元助が呆れたように言うけれど、元助にそんなことを言われる筋合いはないはずである。

「そんなこたぁありやせん」

 痛む手を振りながら澄まして答えた。
 彦佐はというと、元助が殴れないと思って油断していたから、まるで構えていなかったのだ。歯で切ったらしく、
血のついた唇が感情に揺れて震えている。怒りか、悔しさか、そんなものはどちらでも構わない。殴り返したいなら受けて立つつもりだ。

 ふと、台所の戸が僅かに開いた。平次と浜がその隙間から恐る恐る様子を窺っている。
 そうして、ていが二階から下りてきた。志津が心配そうに手を添えてていを支える。いつも以上に顔色は白かった。唇まで蒼い。

「元助――」

 名を呼ばれ、元助は彦佐をつかんでいた手を引っ込めた。この状況だと、元助が殴ったように見えたかもしれない。
 元助は先ほどまでの凶悪さを隠し、神妙な顔つきになる。

「女将さん、お加減はいかがでしょうか」

 ていはその問いかけには答えず、肩を落としてつぶやいた。

「ごめんねぇ、元助。いつも元助に世話ばっかりかけて、これじゃあどっちが主だかわかりゃしないよねぇ。あたしったら本当に情けなくって、しっかりしなくちゃと思うんだけど、そう考えると余計にしんどくなってきちまって――」

 元助は、破落戸たちには毅然と振る舞うくせに、しょんぼりとしたていを前にしてはどう答えていいのかわからないらしい。戸惑った様子でゆるくかぶりを振る。

「いえ、世話になっていたのは俺の方で、いつも大した働きができていたとは思っちゃおりやせん」
「そんなことはないよ。元助にはどれだけ助けてもらっていたか、数えきれないくらいさ」

 そう言ってから、ていは黙った。元助も何も言わない。
 高弥は焦れて口を挟もうかと思った。けれど、それを政吉が目で止めた。お前は黙っていろ、と。
 これは他人がとやかく言うことではない。二人とも願いは同じなのだから。
 ていはようやく深く息を吸うと、元助ではなく彦佐に向けて言った。

「彦佐さん」

 彦佐はビクリと飛び上らんばかりに驚いた。しかし、ていは穏やかである。先ほどのやり取りを聞いていなかったのだろうか。
 身構えた彦佐に、ていは困った様子で、それでも微笑んだ。

「悪いんだけどね、番頭はやっぱり元助じゃないといけないんだ。彦佐さんがどうしてもって言うならうちで働いてくれてもいいから、番頭は元助と代わっておくれ」
「えっ、女将さんっ」

 高弥は思わず声を上げていた。やはり、さっきのやり取りを聞いていなかったのだ。このあやめ屋を乗っ取ろうとしていた男なのだと知らないままらしい。

 しかし、わざわざ訪ねてきた義弟がそんなことを画策していたと知ったら、ていは傷つくだろう。知らない方がいいのかもしれない。
 そう思ったけれど、それは違った。ていはそれでも笑ってみせた。

「この宿はね、確かにあの人が始めたものだけど、ここまで続けてこれたのは元助や皆のおかげさ。だからね、相手が誰であってもあたしの勝手で譲るようなことはできないんだよ。ここは皆の居場所だから」

 しっかりと聞いていたらしい。
 それでも怒らない。ていはそうした人である。怒ることが苦手な、優しい人なのだ。
 だからこそ、元助も心配するのだけれど。

「でもね、彦佐さんは義弟だから、あの人がしてあげられなかった分、あたしが力になれることがあるなら何かしてあげたいとも思っているよ。蓄えはそんなにないけれど、住むところがないならここにいたらいいからね」

 ――もっと怒ってもいいと思う。けれど、いつも穏やかに、自分が傷つけられても自分のことならば呑み込んで、こうして笑って手を差し伸べる。

 最初は、怠けている奉公人に厳しいことも言えないなんて、そんなことでは主として正しいとは言えないと思っていた。それが、こうして接していくうちに、ていの大らかさに救われる人たちもいるのだと知った。
 彦佐は、顔を歪めていた。

「なんでそんなことを言うんだ。聞いてたんだろう。俺は、金が欲しかったからここへ来た。兄貴の女房ったって、俺にとっては他人だ。あんたからこの宿を取り上げて、俺が主になって儲かるようならそれでいいし、商いが上手く行かなけりゃ売ればいいかって思ってたさ」

 はっきりと言葉にすると、元助が指の関節をバキ、と鳴らした。恐ろしくてその顔は誰も見られない。
 それでも、彦佐は続けた。どうしてだか、この時、高弥は本当の彦佐を見たような気がした。

「俺はいつだって、俺のことが一番大事だし、兄貴みてぇに人のために駆けずり回るなんてまっぴらだった。挙句に死んだって、なんだそれ。俺は、兄貴のことなんて好きじゃあなかった。俺は――っ」

 早口でまくし立てていたけれど、そこで言葉に詰まった。そんな彦佐にていはそっとうなずいた。それは慈愛に満ちた眼差しだった。

「それでもね、あの人は弟のことを気にかけていたよ。そのうちに会いにいかないとって言いながらも、奉公人を抱えた身だから、あんまり暇もなくって、つい先延ばしにしちまって。あんなことになるなんて、あたしも思いもよらなかったから」
「気にかけていたなんて、そんなこたぁねぇはずだ。取ってつけたようなことを言うのはよしてくれ」

 彦佐の声が震えた。
 兄のことが嫌いだったなんていうのは、嫌いだと思い込みたかっただけなのではないだろうか。本当は、年の離れた兄をとても頼りにし、憧れていた。それが、家に戻ってきてくれず、ほとんど顔も見せない。ただ、それが悲しかったのではないだろうか。
 高弥はそんなふうに思えた。元助たちもそうだろうか。厳しいことは言わなかった。

「あの人のことを、弟の彦佐さんがよく知らないはずがないよ。あの人なら、弟のことを気にかけていたってわかるはずだ。だからね、あの人の代わりにあたしにできることがあれば言っておくれ」

 ていがそう続けると、彦佐はうつむいてかぶりを振った。それは頼りなく、どこか子供のように見えた。兄の背を追いかけていた昔を思い出しているのだろうか。

「今、俺が八方塞がりなのは、俺がしてきたことのツケだ。兄貴なら、てめぇのケツはてめぇで拭けとか言うだろうよ」

 すると、元助は小さく嘆息した。

「旦那さんなら言うだろうけど、そんなこと言いながらも手ぇ差し伸べてくれるお人だった。俺もそうやって助けてもらった。だから、このあやめ屋には返しきれねぇ恩がある」

 繰り返し、恩があると言う。その恩返しは多分、生涯終わらない。
 けれど、それでいいのだと高弥は苦笑した。それこそが絆でもあるのだ。

 彦佐は顔をしかめる。しかし、それは嫌がっているのともまた違うような、何やら複雑な表情に思えた。

「元助さん、お前さんがここじゃあ一番厄介だと踏んで、早々に出ていってくれた時はほっとしてたよ。これで思い通りにことが運ぶと思ったのに、もっと厄介なのが残っていた」

 高弥は落ち着いて聞いていたのだが、彦佐の目が自分に向いているのを感じ、思わず自分を指さした。しかし、高弥が元助よりも厄介なはずはない。それは違うと思うのに、彦佐はクッと小さく笑った。

「毛を逆立てた猫みてえに懐かねぇし、妙な荒くれ者とも親しくしているし、俺が金を借りている連中と別の組のやつらで、せっかくこの宿を手に入れても縄張り争いに巻き込まれたんじゃあ堪らねぇと思って焦ったぜ」

 あれは元助の湯屋仲間であって、高弥の友人ではない。しかし、あの男たちが来たことによって彦佐は焦っていたそうだ。

 友人に貯めていた金を盗まれたというのが事実かどうかは知らないが、金がないばかりではなく借財があり、そのためにあやめ屋の身代を狙っていたのだ。
 それを皆は大喜びで迎え入れたのだから、事実は惨い。
 ただし、ていはそんな彦佐を心配そうに見遣る。

「返せそうな額なのかい。少しくらいはあたしだって手伝えるからね」

 すると、彦佐はハッと吐き捨てた。

「おていさん、どんだけ人がいいんだよ。言っただろう、俺はこの宿を乗っ取るつもりで来たんだって」
「そうかもしれないけど、彦佐さんは義弟だからね。助けたいって思うだけさ」

 ていは本気でそんなことを考えている。
 それがわかるからこそ、彦佐はそんなていを蔑ろにしたことに胸を痛めるかもしれない。彦佐は根っからの悪人にはなりきれない男ではあるのだろう。ただ少し狡くて、思い遣りに欠けていただけだ。

 そんな彦佐がていのような人に触れ、心を入れ替えるだろうか。三十路も半ばを越えて今さらそれは難しいことであるだろうか。
 けれど、高弥はなんとなく、もう心配は要らないような、そんな気がした。

「真面目に働けば少々は返せるだろうよ。俺は働きたくねぇから、楽して稼ぎたかっただけだ。けどな、おていさん――いや、義姉さんにそんなことまで言われて、じゃあ金を恵んでくれたぁ言えねぇよ。そこまで落ちぶれたくねぇんだよ。俺にだってそんくらいのは意地はあるんだ」

 意地があるのではなく、今ここで初めて持ったのではないだろうか。
 それは、ていが真剣に彦佐を心配したからだ。上辺だけではなく、本気で自分を案じてくれる人が現れた時、その人のことだけは裏切りたくないと思うだろう。それはごく自然なことだ。
 彦佐がそれを言った途端に、ていは真っ白だった顔にほんのりと赤味を浮かべて笑った。

「そうかい。でも、行く当てはあるのかい」

 すると、彦佐は一度口をへの字に曲げた。

「この宿には奉公人がこんなにいやがる。俺まで食わせるゆとりなんてねぇだろうが。それがわかってて居座るつもりもねぇよ」

 ただ、と言って言葉を切る。その先を、彦佐は言わなかった。
 言わなかったから、高弥は勝手に考えた。

 きっと、借金を返して身綺麗になったら、また会いに来るとでも言いたかったのではないだろうか。
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