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輝蓮(一)
しおりを挟む楊濤允の屋敷は、皇帝がお暮しになっている皇宮からほど近い都の一等地に、楼閣のような正門を構えて威風堂々と建っている。重厚な出で立ちをした殿舎が広大な敷地に甍を連ねる様は、面積こそ到底敵わないが皇宮さながらの明媚な光景だ。
都人は、楊邸を湖光離宮と呼ぶ。
楊邸の琉璃瓦は、晴天の日にあっては陽光を反射してしぶきの白に輝き、雨の日にあっては濡れて波紋の黒にきらめいた。その様が湖面のように見えるので、そのような異名がついたのだ。
しかし、臣の私邸にすぎない濤允の屋敷が、恐れ多くも皇家の別宮と称されるのには別の理由があった。屋敷の主である楊濤允は、現皇帝趙高僥の弟なのだ。それも同腹の、である。その証拠に、湖光離宮の瓦には皇家の象徴である五本指の龍が型押しされている。ただ、皇帝の色である黄を使うことは禁じられて、湖光離宮は皇宮の影のように暗く落ち着いた色をしていた。
その湖光離宮の一角に、ひときわ華美な殿舎が完成したのはつい数か月前。濤允と宇宰相の娘の婚礼の日取りが決められてから約一年後のことだった。
殿舎の主人になるのは、宇蓮珠という佳人だ。その髪色と同じ夜闇より深い漆黒の琉璃瓦に、肌色と同じ白塗りの壁。本殿や回廊の蓮が彫刻された朱の円柱は蓮珠のなまめかしい唇を連想させ、庭の柳は蓮珠の吐息のように風にたゆたう。皇宮でもあるまいに、濤允は殿舎に輝蓮宮と名づけて今日の日を迎えたのだった。
「人を……、人を呼びます」
「どうぞ、お好きに。しかし、世に許された夫婦の初夜を邪魔する不届き者が、この宮にいるでしょうか」
濤允が端正な顔に薄く笑みを浮かべながら、じりじりと蓮珠を寝台の方へ追いつめる。
刻は三更。南の高い位置にのぼった月が、煌々と地を照らす真夜中である。濤允は初夜と言うが、床入りの時刻はとっくに過ぎた。
今夜はもう、訪れはないのだろう。
蓮珠は、そう心の中でほっと安堵してすっかり油断していた。だから、側仕えの侍女たちを早々にさげて、一人のんきに回廊から月などを眺めていたのだ。しかし、そろそろ寝ようと寝所へ入った時、濤允が颯爽と現れた。
「嫌です。それ以上、わたくしに近づかないでください」
容貌にふさわしい迦陵頻伽な声が、わずかに震えて、しかし強かに凛として濤允を拒絶する。蓮珠の言葉には、これは意に染まぬ結婚だという強くはっきりとした抗議が含まれているのだろう。距離を保とうと後ずさる蓮珠に、距離をつめようと濤允が一歩また一歩にじり寄る。
吉方の窓際に吊るされた薬玉や帳、部屋を照らすろうそくに寝台に敷かれた寝具まで、輝蓮宮の寝所は蓮珠の心情を無視して慶事の赤一色に染まっていた。
「下賤な真似はおよしになって」
とうとう逃げ場がなくなって、蓮珠は寝台にすとんと尻もちをついてしまった。拍子に、二輪に結われた髪にさされた蓮の歩揺が、しゃらりと澄んだ音を鳴らした。
「下賤とはひどい言いようですね。さえずりのような美しい声で、堂々と俺の悪口を?」
「来ないで」
「来るなと言われても、俺はあなたの夫です。もしや、その肌に触れてよいのは陛下だけですか?」
「なんて無礼な御方なのでしょう。夜更けに突然お越しになって、そのような」
「下賤とは言い過ぎですが……。まぁ確かに、あなたのおっしゃるとおりだ」
「……なにが」
「ただの人ですよ、俺は」
濤允が、くすっと笑って天井から垂れた紗の帳を右手で払いのける。花が恥じらい、月さえも臆して隠れてしまいそうなほど美しい蓮珠の顔に、濤允への嫌悪の相がくっきりと浮かんだ。
ただの人とは、図々しいにも程がある。咎人のくせに――。
寝台に座ったまま、蓮珠は濤允を見上げて鋭い視線を向ける。この身は、皇帝の宮で至高の地位に就くためにある。そういう家門に生まれて、物心ついた時からそう教えられてきたのに、一年と少し前、父上は突然わたくしを陛下の弟に嫁がせると決めた。
楊濤允という御方の悪評を知らぬ者はいない。整った顔立ちをして物腰は柔らかいけれど、色を好み、後宮の妃嬪まで手籠めにして皇宮を追い出された放蕩皇子だ。他にも、素行の悪さについては枚挙にいとまがない。
流罪などに処されず皇籍を剥奪されただけで済んだのは、陛下の実弟への温情あったればこそだと聞く。皇家の恥でしかない、ならず者。楊濤允とはそういう人物だ。
なにの因果で、陛下ではなくこのような人と縁を結ばなければならないのかしら。わたくしの人生は、賢帝と並び立つ皇后となるためにあるのに。
「慶事の色が、よくお似合いですね」
そうにこやかに言われて、蓮珠は自分が着ている衣装を見た。衫も胸元まである襦裙も、見事な婚礼の赤染めだ。嫁ぎ先が皇宮であったなら、それも然りであろう。しかし、相手を見るに絶望の色か喪の色にしか見えない。楊濤允も同じ色の深衣を着ているのが、余計にみじめで滑稽に思えた。
濤允が、踏み台に上がる。そして、柳眉を寄せる蓮珠を見下ろして背高い身をかがめた。押し倒されると覚悟した蓮珠が、きつく目を閉じる。刹那、衣が擦れるささやかな音がしてふわっと甘い香りが漂った。
嫌。
蓮珠の脳裏で短いその言葉がとどろいて、時の流れが沈黙によってぴたりと停止する。いつまでたっても押し倒されることはなく、触られる感覚もない。おそるおそる目を開けて、蓮珠は驚きに双眸を丸くした。あろうことか、濤允が足元にひざまずいていたのだ。
「なっ……、なにをなさっておいでなのです?」
「皇后となるはずたっだあなたに、礼をつくしているのですよ。俺では、あなたにその地位をさし上げることができないので」
まるで天子に敬礼するかのような濤允の行動に、唖然として蓮珠は言葉を失う。この人には、男としての矜持も皇子としての誇りもない。重量を増した絶望が口惜しさと混ざり合って、真っ黒な澱となって心に沈んでいく。同時に、蓮珠の黒い瞳が夜露のような雫に濡れて、目尻からつつと涙が頬へ伝った。
もう皇宮での栄光に満ちた暮らしは望めない。舞いも楽器も、学問だって父上のいいつけどおり努力してきたのに、わたくしのなにがいけなかったの?
「蓮珠」
妻を呼ぶ男の低い声が、夜鳥の鳴き声のように蓮珠の鼓膜をゆする。
濤允が、蓮珠の左の足首をつかんで錦鞋を脱がせた。初めて触れる異性の手だった。侍女たちのほっそりとしたか弱い手とは違う、ごつごつとした硬い手だ。
陶器のような白肌の足を両手で包んで、濤允がその甲にくちづける。驚いておびえた蓮珠が足を引っ込めようとするが、濤允はそれを意に介さず二度三度と蓮珠の左足にくちづけを落とした。
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