嫁ぎ先は、後宮ではなく皇籍を剥奪された皇子の邸でした

虹色すかい

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皇帝(一)

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 翌朝、目を覚ますと、すでに楊濤允の姿はなかった。かけられた布団をめくって、重たい体を起こす。真夜中の出来事は悪夢だったのではないかと期待して、下腹部に鈍く残る破瓜の痛みに現実を突きつけられた。さらに、侍女を呼ぶために体の向きをかえた時、両脚の間をどろりとしたものが流れる不快な感覚におそわれた。

 ぱたぱたと、複数のせわしい足音が寝所に向かってくる。側仕えの侍女たちのものだろう。立ち上がろうとして寝台に手をつくと、指先に硬いものが当たった。見ると、黄色がかった象牙のかんざしだった。それには見覚えがある。昨夜、楊濤允の髪にささっていたものだ。

 蓮珠は、それを手に取ってじっと見つめた。皇家の象徴である五本指の龍が彫刻されたかんざし。象牙の質や細工の細かさから、相当に高価な品であることは明らかだ。かんざしだけではない。まだ新築の初々しい塗料や木材の香りがするこの宮も、実家をはるかにしのぐ豪華なたたずまいをしている。陛下の温情だけで、皇籍を剥奪された咎人にここまで裕福な暮らしが許されるものなのだろうか。


「お目覚めでございますか、夫人」


 朝に鳴く小鳥のように朗らかな声がして蓮珠が顔を向けると、寝所の戸口に年のころ十五、六の愛嬌ある侍女が二人並んで拝礼していた。青い襦裙を着ているのが陽佳ようかで、深い緑の襦裙を着ている方が嬬嬬じゅじゅだ。昨日、輝蓮宮に初めて足を踏み入れた時から気持ちのいい対応をしてくれる二人を、蓮珠はよい印象を持って覚えていた。


「楽にして」


 二人を近くに呼ぶ。本当は、実家から慣れ親しんだ侍女を連れてきたかったのだけれど、濤允がそれを許さなかった。事情のある人だから、他人に知られたくない、知られては不都合なことが山ほどあるのだろう。


「朝食の前に、沐浴をいたしましょう」


 陽佳が、蓮珠の手を取って言った。そうね、と立ち上がった蓮珠は、嬬嬬に楊濤允はどうしたのかと尋ねた。


「旦那様は、陛下に呼ばれて皇宮へ行きました」
「そうなの。かんざしをお忘れになっているから、あなたに届けてもらおうと思ったのですけれど」

「お昼を過ぎたら帰ってみえますよ。それに、今夜もこちらへお渡りになられるそうですから、夫人から直接お返しください。その方が旦那様も嬉しいでしょうし」


 嬬嬬の健気な笑顔がまぶしくて、蓮珠は気恥ずかしそうな笑みを返す。陽佳と嬬嬬の人懐こい笑顔は、蓮珠の孤独を紛らわす春のひだまりのように暖かかった。ともあれ、いつまでも婚礼の衣装を着ているわけにもいかない。ほどよく空腹でもあるし、蓮珠は二人を連れ立って湯殿へ向かった。





 ◆◇◆





 楊濤允は、皇宮の回廊を足早に歩いた。向かう先は、実兄である皇帝が暮らす黄金宮だ。黄金宮とは正式な名前ではない。馬鹿がつくほど金を貼った殿舎を、濤允が心内でそう呼んでいるのだ。皇宮を訪ねる時、濤允は皇子らしからぬ質素な深衣と表着に身を包む。今日は、安物の絹を黒染めした、下級文官がお召しになりそうな粗末な衣を選んだ。

 黄金宮に着くと、入り口に宮女が数人立っていた。陛下は寝所で休まれている、とだけ告げて宮女が扉を開ける。濤允は、いつものように黄金宮の最奥にある寝所を目指した。皇帝の宮は、寝所一室さえも驚くほど広い。濤允は寝所の入り口に立つと、奥の寝台に向かって「陛下」と言った。


「おお、来たか。……っ、早かったな、濤允。少し待て」


 薄絹の帳の向こうから、いつものように息を弾ませたちょう高僥こうぎょうの声が返ってくる。濤允は、床に両膝をついて胸の前で両手を組むと、顔を伏せて高僥のお出ましを待った。宮女たちは皆さげてあるらしい。静かな部屋に、ぎしぎしときしむ木製の音が響く。それから、女の甲高い喘ぎと男の短い呻き声も。これも、いつものことだ。

 昼前だというのに、呼び出されたのが外廷ではなかった時点で容易に予想できた。兄上が情事の最中であることは。具合が悪いと偽って、朝議の途中で後宮へ戻ったのだろう。

 濤允は礼をとったまま、静かにため息をつく。高僥は、少しでも不安や怒りが心に巣食うと、性的な欲求に全身を支配されて女を抱かずにはいられない病的な色狂いだ。まだ、妃嬪から外朝の人事などへの容喙ようかい女謁じょえつがないだけよい。しかし、高僥の性格上、それも時間の問題であろう。

 しゃらりとが揺れて、真っ白な絹の汗衫はだぎを雑に着た高僥が小走りで近づいてくる。高僥は、膝をついて拝礼する濤允を立たせると、弟の引き締まったに勢いよく抱きついた。


「何事かございましたか? 兄上」


 濤允は、奥の寝台でのそりと体を起こす全裸の女を高僥の肩越しに見ながら、感情のこもらない口調で言った。あれは妃嬪ではない。見知らぬ女……、宮女だろうか。


「朕を見捨てるな、濤允」
「どういう意味です?」

「宇宰相の娘を手に入れて、朕と距離をおく気であろう」

「まさか。俺が兄上を大切に思っていることは、兄上が一番よく分かっておられるはずです。俺たちの間柄は、これまでどおりなにも変わりませんよ」

「……不安なのだ。臣の中には、いまだにお前こそ帝にふさわしいと考える者がいる。いつかお前が朕を討つのではないかと、怖くて怖くてたまらない」


 間もなく二十六になるというのに、二つ下の弟にしがみつく高僥は図体のでかい幼子のようだ。


「兄上、女が聞き耳を立てております。滅多なことは口になさらないほうが宜しいのではありませんか?」

「よい。あれは、あとで処分しておく。誓え、濤允。誰よりも朕の味方でいると、今ここで誓え。朕にはお前しかいない。お前だけがよりどころなのだ。頼む、濤允……っ!」


 高僥が、濤允の背に回した手ですがるように安物の衣をつかむ。その呼吸は大きく乱れていて、空腹の獣じみたうなりを伴っている。そのうち頭の血がはじけて、死んでしまうのではないかと濤允は思った。まぁ、腹上死なら兄上に似合いの最期だ。


「父上の後宮で、兄上の子が何人生まれましたか?」
「……知らぬ。数えたこともない」

「長子継承の理に反して、国を乱す気はありません。無用な争いを避けるために、俺は兄上の罪をすべてこの身に引き受けたのですから」

「恨んでいるのか?」
「いいえ」

「よいか、濤允。お前が暮らしに困らぬよう、朕が便宜を図る。だから、朕を見捨てるな。裏切るな……っ!」

「はい、兄上。おおせのとおりに」


 濤允の意思を確認して安堵したのか、落ち着きを取り戻した高僥が「さがってよい」と言って離れる。高僥に退室の礼をとる間際、濤允は寝台の女を一瞥した。その目に浮かぶは、女への憐みの色だ。事情は様々あれど、後宮で妃嬪や宮女が姿を消したり命を落としたりするのは、決してめずらしいことではない。

 黄金宮を出ると、真昼の太陽がさんさんと地を照らしていた。蓮珠は今ごろ、なにをしているだろうか。濤允は、蓮珠を思いながら皇太后の宮へ足を向ける。皇宮へは、高僥の許しなくては入れない。最近、母親の具合がよくないと聞いたので、この機に顔を見て帰ろうと思ったのだ。
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