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本編・きっかけはどうでも
37 Play ①
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「地方入試は面倒なことばかりで、その土地の名物を食べるくらいしか楽しみがないですよ」
三浦先生は微笑んで、どうぞと私に紙袋を差し出す。
10日ぶりの研究室は、なんだかとても温かくて、快適すぎて、却って居心地が悪い。
後期の授業は終わっているから、三浦先生は午前も午後も研究室から離れない。私がお昼を食堂で食べてきますと言ったら、不思議そうな顔をしておられた。いつもと違うことは、やっぱりするものじゃない。
「お裾分けです。生ものは消費期限が怖いので、干菓子ですが」
「ありがとうございます。今、開けて食べましょう」
「これは律さんに差し上げた分ですから。僕も研究室用に買っているので、そちらを一緒に食べましょう」
あまりにもにこやかに言われるので、断れなくなった。辞めると告げた後に、手元におみやげが残ったら、きっとつらい。だから、今ここで開けてしまいたかったのに。
「ありがとう、ございます」
「じゃあ、お茶、淹れますね」
先生はお茶の準備をし始める。コンポのCDが切り替わって、研究室で初めて聞いたバッハが流れた。
この、おかしなバッハも、もう聞くことはないんだな。私の生活に音楽なんてないもの。必要ないから。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
最後だから、きちんと味わおうと思う。カップに口をつけた瞬間、ふっと香る爽やかな香り。これは、最初に飲んだダージリンだ。研究室ではずっと、先生のお好きなアッサムティーだったから、わかってしまった。
私の人生が少し変わった、きっかけの香り。
「あの」
「なんですか?」
「お話があるんですけど」
「なんでもご遠慮なくどうぞ」
先生の笑顔がなんだかとても苦しくて、思わず静かに息を吐いた。
「バイト、辞めさせてください」
「律さん……?」
先生がひどくびっくりした顔をしている。辞めることがそんなに意外だったのだろうか。
ぽたりと床で響く音。見ると、歪んだ小さな水円ができていた。
「あ……」
声が上手く出なくて、鼻が通らなくて、頭がぼんやりして。頬にふれて、私はようやく、自分が涙を流していることに気づく。
元彼と別れた時にも、仕事を辞めた時にも、泣いたりしなかったのに。
「ごめんなさい……」
「泣くほど、このバイト、お嫌でしたか?」
先生は私にハンカチを差し出しながらそう言い、はっとしたように引っ込める。
「それとも、僕のことが、嫌いでしたか?」
先生の顔がひどく悲しげで、そんな顔を見たくなくて、否定しなければと思うけど、上手く言葉が出ない。
「……そうじゃ、なくて」
絞り出すように言うと、先生はほっとしたように、もう一度ハンカチを差し出してくれる。震えながら受け取り、目元に持っていくと先生の匂いがして、一瞬手が止まってしまった。
ああ、この匂い、好きだなあ。上質で清潔な匂い。
ネットで検索して、世界で一番古い薬局の石鹸だと知って、ロマンティストの先生らしいなと微笑ましく思った。そして値段を知って愕然とした。消耗品にかける意識が違いすぎる。石鹸一つでそんな風に思ってしまう人間は、先生にふさわしくない。
「そうじゃなくて、ここにいたら、いけないから」
「すごく助けてもらってますよ。いけないことなんか何も」
「だって……」
「だって?」
先生の顔を見ると、言葉に詰まってしまう。口を、開かなければ。きちんとした居場所を見つけないといけないと思ったからって。
がんばって口を開いた私は、次の瞬間、頭に浮かんでもいない言葉を口走っていた。
「だって、これ以上一緒にいたら、もっと好きになっちゃう……」
「え……」
すごくびっくりした先生の顔が目に入った。
言う気なんてなかったのに。どうして口に出してしまったんだろう。
三浦先生は微笑んで、どうぞと私に紙袋を差し出す。
10日ぶりの研究室は、なんだかとても温かくて、快適すぎて、却って居心地が悪い。
後期の授業は終わっているから、三浦先生は午前も午後も研究室から離れない。私がお昼を食堂で食べてきますと言ったら、不思議そうな顔をしておられた。いつもと違うことは、やっぱりするものじゃない。
「お裾分けです。生ものは消費期限が怖いので、干菓子ですが」
「ありがとうございます。今、開けて食べましょう」
「これは律さんに差し上げた分ですから。僕も研究室用に買っているので、そちらを一緒に食べましょう」
あまりにもにこやかに言われるので、断れなくなった。辞めると告げた後に、手元におみやげが残ったら、きっとつらい。だから、今ここで開けてしまいたかったのに。
「ありがとう、ございます」
「じゃあ、お茶、淹れますね」
先生はお茶の準備をし始める。コンポのCDが切り替わって、研究室で初めて聞いたバッハが流れた。
この、おかしなバッハも、もう聞くことはないんだな。私の生活に音楽なんてないもの。必要ないから。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
最後だから、きちんと味わおうと思う。カップに口をつけた瞬間、ふっと香る爽やかな香り。これは、最初に飲んだダージリンだ。研究室ではずっと、先生のお好きなアッサムティーだったから、わかってしまった。
私の人生が少し変わった、きっかけの香り。
「あの」
「なんですか?」
「お話があるんですけど」
「なんでもご遠慮なくどうぞ」
先生の笑顔がなんだかとても苦しくて、思わず静かに息を吐いた。
「バイト、辞めさせてください」
「律さん……?」
先生がひどくびっくりした顔をしている。辞めることがそんなに意外だったのだろうか。
ぽたりと床で響く音。見ると、歪んだ小さな水円ができていた。
「あ……」
声が上手く出なくて、鼻が通らなくて、頭がぼんやりして。頬にふれて、私はようやく、自分が涙を流していることに気づく。
元彼と別れた時にも、仕事を辞めた時にも、泣いたりしなかったのに。
「ごめんなさい……」
「泣くほど、このバイト、お嫌でしたか?」
先生は私にハンカチを差し出しながらそう言い、はっとしたように引っ込める。
「それとも、僕のことが、嫌いでしたか?」
先生の顔がひどく悲しげで、そんな顔を見たくなくて、否定しなければと思うけど、上手く言葉が出ない。
「……そうじゃ、なくて」
絞り出すように言うと、先生はほっとしたように、もう一度ハンカチを差し出してくれる。震えながら受け取り、目元に持っていくと先生の匂いがして、一瞬手が止まってしまった。
ああ、この匂い、好きだなあ。上質で清潔な匂い。
ネットで検索して、世界で一番古い薬局の石鹸だと知って、ロマンティストの先生らしいなと微笑ましく思った。そして値段を知って愕然とした。消耗品にかける意識が違いすぎる。石鹸一つでそんな風に思ってしまう人間は、先生にふさわしくない。
「そうじゃなくて、ここにいたら、いけないから」
「すごく助けてもらってますよ。いけないことなんか何も」
「だって……」
「だって?」
先生の顔を見ると、言葉に詰まってしまう。口を、開かなければ。きちんとした居場所を見つけないといけないと思ったからって。
がんばって口を開いた私は、次の瞬間、頭に浮かんでもいない言葉を口走っていた。
「だって、これ以上一緒にいたら、もっと好きになっちゃう……」
「え……」
すごくびっくりした先生の顔が目に入った。
言う気なんてなかったのに。どうして口に出してしまったんだろう。
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