祝福されし太陽の神子と夜の従者の最期

伊藤クロエ

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祝福されし太陽の神子の役目

09 不穏な気配

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 幸いあれから再び誰かが俺のベッドにやってくることはなかった。
 毎晩俺はアトラと一緒にベールに囲まれたベッドに閉じこもる。アトラは相変わらず俺の足元に胡坐をかいて座っているが、今その視線は俺ではなく布の向こうに向けられている。その姿はまるであの女や祭司長がやって来ないか見張ってくれているように見えた。

 ある日、俺は日中初めて神殿の外に出た。相変わらずアトラに抱き上げられて自分の足で歩くことは許されなかったが、それでも初めて見る外の景色に目は釘付けだった。

 神殿の周りは意外にも緑豊かで、下の方には神殿と同じ石造りの簡素な建物がたくさん並んでいた。そして後ろを振り向けば神殿の向こうに遥か上へピラミッドのように続く長い階段がある。恐ろしく急な階段のてっぺんに何があるのかはよく見えなかった。

 神殿から下の町へ降りると、行きかう人すべてがトナティルの姿を見るとパッと顔を輝かせ、それはそれは嬉しそうに微笑んでお辞儀をする。中には俺を抱えて歩くアトラの足元に花を撒いたり、トナティルを《***の太陽》と呼んでその美しさや幸運を褒め讃える人たちもいた。

 でもその日最も心に残ったのは、アトラと一緒に神殿から眺めた夕陽だった。
 この国では太陽は特別な意味を持っているらしい。夜明けと日没の時間、人々はあらゆる仕事の手を止めこうべを垂れて祈る。町の上にある神殿から彼らを眺めていると、不意に俺の脳裏にトナティルの記憶が蘇る。

 この国の人々は太陽の王を心の底から崇めている。
 この地を照らし、この地を育み、この地を支配している神。
 神を崇めよ。神を畏れよ。神を怒らせてはいけない。神は人知を超えて遥かに強大で、残酷だから。

 不意に身体を揺すられて我に返る。見るとアトラが抱き上げた俺を見ていた。大丈夫、という気持ちを込めて頷いて顔を前に向ける。
 この乾いた石の神殿の足元には濃い緑の熱帯雨林が広がっている。その向こうには赤茶けた大地、さらにその向こうに地平線とそこに沈んでいく太陽が見える。
 高い高い青い空は日没とともに色合いを変え、今、西の空には美しい紫と青が交じり合っている。やがて東の空から夜がやって来て大地は闇に覆われるだろう。
 人々は家に籠って火を灯し、息を潜めて沈黙を守り夜の王に見つからぬように隠れて過ごすのだ。朝になり再び太陽が大地を照らすまで。

 日が完全に沈むと急に空気が冷えていく。少し肌寒くて身を縮めるとすぐにアトラが気づいて俺を抱く腕に力を込めた。そのまま神殿の中に戻り女たちが持って来た厚手の布で包んでくれる。
 柄にもなく夕焼けなんて眺めたせいか、今夜はなんとなく人恋しい気分だった。だから夕食の席に座らされた時、わざとアトラの腕を取って離さなかった。するとアトラは少し困った顔をして、隣に座ってくれた。
 次から次に運ばれる木の大皿から肉を取りアトラに渡す。日本人の俺からするとちょっと硬くて食べにくいと感じる肉の塊を、アトラはあっという間に食べてしまった。そして今度はアトラが果物を手に取り俺の口元に運ぶ。それを受け取って食べると、なんとなく昨日よりも甘く感じた。


     ◇   ◇   ◇


 翌朝目覚めた時もアトラはちゃんとそこにいた。でも目覚めた俺と目が合った時に浮かんだ笑みは、今までよりずっともっと柔らかかった。だから俺もニッと笑って見せる。
 すぐに祭司長がやってきていつもの朝の挨拶をした。あれ以来祭司長からは何も言われていない。
 喉元過ぎれば熱さを忘れるというか、今となってはハーレム展開がなくなったことがちょっと残念にも感じるが、所詮童貞の俺じゃビビッて大したこともできそうにない。
 風呂場でも毎回洗ってくれる彼女たちの手つきに反応してしまうのもやっぱり恥ずかしくて、わざと厳しい顔をして身をよじるとちゃんと配慮してくれて無理矢理俺をイかせるようなことはしなくなった。

 そんなある日の朝、またあの祭司長がやって来た。この日は周りが妙に浮足立っているような気配がして、俺は内心不思議に思う。何か特別な行事でもあるのだろうか。
 俺が女たちに囲まれて身支度をしている間、珍しくアトラが席を外す。替わりに祭司長が傍に立って女たちにあれこれと指図をしていた。
 俺は首や腕や足首にいつもより多くのビーズや宝石の飾りをつけられ丁寧に髪を櫛けずられる。おまけに唇に赤い汁のようなものまで塗られて飾り立てられた。
 どうしよう、何か神事のようなことでもするんだろうか。俺は必死に頭の中のトナティルの記憶を探る。

――――祭りだ。ついに祭りの前の七日間が始まる。

 不意に浮かび上がる言葉。祭り? なんの祭りだろう。
 そう思った時、宝石を繋ぎ合わせた細工にリボンを通したものを俺の首に結ぼうとしていた召使いの女が、うっかり手をすべらせてそれを落としてしまった。

「ヒッ」

 彼女の喉から押し殺した悲鳴のような声が漏れる。隣で耳飾りを載せた盆を持っていた女も真っ青な顔をして息を呑んだ。次の瞬間、司祭長が飾りを落とした女の腕を掴んで床に引き倒した。

「何をしている、愚か者めが!!」

 司祭長が激怒して女を怒鳴りつける。思わず俺までビクッと肩を跳ね上げて硬直した。女は涙を流しながら石造りの床に這いつくばり、必死に額を擦りつけて何度も何度も繰り返し謝罪する。けれど司祭長はその女を蹴り飛ばすと、顔を上げて誰かを呼んだ。
 現れたのは上半身裸で腰に布を巻いた褐色の肌の見知らぬ大男だった。その男は女の細い首を片手で掴み高々と持ち上げた。

「…………ッヒ…………グ…………ッ」

 暴れる女の顔が真っ赤になり、眼球が飛び出しそうにせり出す。女は首を掴む男の手に必死に爪を立てたが、男の無表情はまるで変わらない。ビクビクと痙攣していた女の身体からふいに力が抜け、だらりと両手が下がった。
 男が手を離すと女の身体が壊れた人形のように床に落ちる。
 あまりにも突然のことに俺は声一つ出せなかった。けれど首飾りを床に落としただけで縊り殺された女のひっくり返った白目とだらりと垂れさがった長い舌を見た途端、せり上がる胃液を堪え切れず、吐いた。

「う、ぐ…………ぇっ」

 祭司長が鬼のような形相で俺を見る。

「なんということだ! 急ぎ沐浴場へお連れし、**の身を清めよ!」

 先ほどの巨漢の男に腕を掴まれ、力づくで抱え上げられた。ヒッ、と喉の奥が鳴る。
 そして俺はいつもの風呂場へ連れていかれ、その大男に肌が赤くなるほど強く全身を擦られた。その手つきはいつも俺を洗う女たちの羽根のように軽い指先とは真逆のような乱暴さで、同じくらい大きなアトラの手と似ても似つかぬほど荒々しかった。
 あまりにも突然すぎる嵐のような出来事に思考が追いつかず、俺は愕然としてびしょ濡れのまま床に縮こまる。再び男にぐい、と腕を掴まれて悲鳴が漏れそうになった。
 その時、誰かが近づいてきてその男を突き飛ばした。そして勢いよく俺を抱き上げて歩き出す。

「な……っ、なに、あれ、なに……っ、うそだろ……っ」

 自分でも何を呟いていたのかわからない。でも怖くて怖くて、黙ってはおれなかった。
 ふと気づくと俺はいつものベッドにいた。まだ衝撃から立ち直れずにガタガタ震えている俺の上に柔らかな布が被せられる。そして誰かが濡れた髪や身体を拭き始めた。

「なんで、なんなんだよ、ここは、この世界は、いいのか、あんなの」

 俺は混乱したままぶつぶつと繰り返す。

 見上げるほどの大男に首を掴まれてだらんとぶら下がった女の細い手足。血が回らずどす黒く染まった顔にぼかんと開いた口。

「なんで、あんなことで、まさか殺すなんて……っ!!」

 驚愕と恐怖とで闇雲に叫びそうになった時、強い力に抱き寄せられ、手で口をふさがれた。暴れる心臓と鼓動がガンガンとこめかみを叩く。瞬きも忘れて見開いた俺の目にアトラの顔が映った。アトラは俺の口を押さえて小さく首を横に振る。急に眼の奥が熱くなって涙が滲んだ。

「アトラ」

 アトラの大きな手の中で彼の名を呟く。ぎゅうっと渾身の力で彼にしがみつくとアトラはそっと俺の口から手を離した。それからアトラは呆然としたままの俺の髪や手足を拭いてから、色鮮やかに織られた布で俺を包む。そしてぎゅっと抱きしめたままベッドに横になった。
 俺は子どもみたいに小さく丸まってアトラに身を寄せる。トナティルより一回り大きなアトラの身体はトナティルよりも体温が高い。その熱と回された腕の重みが泣きたくなるほど心強かった。

 後から思い返せば、この時俺が口走った言葉はトナティルとして明らかに不自然だったに違いない。でもアトラは何も言わなかった。そしてこのことを誰にも告げ口しなかった。
 翌朝俺のところに現れた祭司長は、まるで昨日のことなどなかったかのようにいつも通りの顔をして恭しく頭を下げた。



     ◇   ◇   ◇



 夜が来るたびに俺は夢を見る。
 これはきっとトナティルの記憶。もしくはこの世界の常識。

 乾いた荒れ野で、巨大な岩が切り立つ崖で、木々が生い茂る蒸し暑い森で、男たちが戦っている。
 彼らが持っている武器はひどく原始的で、太い棍棒で殴りつけて相手の手足を折り、網に石をいくつも詰めて振り回し、敵の頭蓋を叩き割る。
 噴き出す血に飛び散る脳髄。不自然に折れ曲がった首。大地に響く怒号と断末魔。

 この不思議な異世界で神様や王様のように持て囃されて浮かれていた俺が馬鹿だった。
 この世界で人の命は恐ろしく軽い。

 もしも、彼らが神のように崇めるトナティルの中身がまったくの別人だと知られたらどうなるんだろう。きっと俺もあの召使いの女のように殺されてしまう。いや、もっと酷い目に遭うかもしれない。

 絶対に俺の正体を気取られてはいけない。
 こんなにも朝、目が覚めたくないと思ったのは生まれて初めてのことだった。

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