真夏の夜の夢~絆~

百尾野狐子

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真夏の夜の夢~絆~

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《夏子》


『吸い込まれそう…』
今日は澄んだ青が美しい秋晴れの空だった。
思い出が詰まった公園を後にした夏子と成人は、駐車場に停めていた成人の白いワンボックスカーに乗って目的地へと向かった。
助手席に座って空を見上げていた夏子は、その青さに目を細めた。
『そういえば…八年前の私達はいつも夜空を見てた』
公園での逢瀬では、二人で星座を探した事もあった。
『成人君、星座詳しかったなぁ…』
少年だった成人の夜空を見上げる横顔の美しさに見惚れた、昔の自分を思い出して恥ずかしくなった。
「夏子さん?どうしました?」
ハンドルを握る成人の横顔に視線を移した夏子は、成長し威力の増した美しさに見とれた。
「夏子さん?」
「え?あ、ごめんなさい…ボーッとしちゃって」
夏子はパタパタと自分の頬を叩き、見惚れていた自分を誤魔化す様に笑った。
少年時代の成人は眼鏡を掛けていなかった。
今の成人は、パソコンを使っている時と車の運転時に眼鏡を掛けている。
『うぅ…格好いい…』
今まで気にした事も無かったが、実は自分が眼鏡好きだという事に最近気付いたばかりの夏子は、心の中だけで密かに眼鏡の成人に黄色い悲鳴をあげていた。
『…我ながら…恥ずかしい…』
成人と再会してからまだ一ヶ月も経っていない。
互いを想い続けていた期間は長いが、夏子と成人が同じ思い出を共有したのは全てあわせてもまだ三ヶ月にも満たない。
夏子は成人の事をまだ殆んど何も知らない。
知らなくても想いは変わらないが、知らなかった事を知るのは嬉しい。
「…もう直ぐです。あの四角い白と茶色の家、見えますか?」
成人は一瞬夏子に視線を走らせたが、夏子の挙動不審には触れずに目的地到着を教えてくれた。

婚約者となった二ノ宮成人にのみやなるひとの実家は、公園から車で五分程走った所にある住宅街の中でも一際大きな、白と茶を基調にした三階建ての一軒家だった。
白と茶色のレンガが嵌め込まれた塀。
芝生の庭は広く、一角には家庭菜園があった。
車庫には夏子でも知っているドイツの高級車と、家族向けのシルバーのワンボックスカーが停められていた。
成人は自分の車を、空いている車庫のスペースに入れた。
『どうしよう…また緊張してきた…』
鼓膜の裏でシュワシュワと音がする。心臓が早鐘を打ち、握っていた掌は汗で濡れていた。
「夏子さん…」
成人はサイドブレーキをしてエンジンを切ると、かけていた眼鏡を外し、青ざめた夏子の頬をそっと掌で包んだ。
「…一番大切な事は何ですか?」
成人の静かな問いに、夏子は泣きそうになった。
「…成人君を信じて、一緒にいること」
成人は強ばる夏子の唇に軽く口付け、優しく微笑んだ。
「正解…愛してます」
「…ありがとう…私も…」
愛してると言おうとして、夏子は運転席側のドアの窓に張り付く二人の少年の姿に気付いて固まった。
固まる夏子の額に軽く口付け、成人は短く息を吐いた。
ドアの窓を指でコンコンと叩き、少年達を退かせてからドアを開けた。
運転席から降りて助手席のドアまで歩き、当たり前の様にドアを開けて夏子の手を取る。
『…遅かれ早かれ、ご挨拶はしないといけないんだから…。大丈夫、私には成人君がいる』
夏子は覚悟を決めて成人の手を取り、車から降りた。
ヒラリと夏子の淡い紫のワンピースが揺れる。
好奇心に目を輝かせて夏子を見つめていた二人の少年は、静かに微笑む夏子を目の当たりにして頬を染めた。
杜人もりひと秀人ひでひと、挨拶」
成人は苦笑し、頬を染めながらモジモジしている二人の少年に声をかけた。
「初めまして。次男の二ノ宮杜人、十三歳、中一です」
「初めまして!三男の秀人、十一歳、小五です!」
「俺の弟達です」
成人は夏子に視線を向けて苦笑を深くした。
『うわぁ…綺麗…可愛い…昔の成人君みたい…』
弟達を見ると出逢う前の成人の成長過程が想像できて、夏子の顔の緊張がふわりと解れた。
「初めまして。西本夏子です。三十歳です。お兄さんとお付き合いをさせて頂いてます。宜しくお願いします」
相手が子供でも挨拶は疎かに出来ない。
接客業で培われた夏子のお辞儀を見て、弟達も慌ててお辞儀を返す。
「流石、成兄なるにい!付き合うならやっぱり年上だよな~」
秀人が成人の背中に飛び乗りながら、自分の言葉に頷く。
「どんなオバサンが来るのかと思ってたけど…夏子さん、成兄より僕にしませんか?若さなら負けませんよ」
中学生とは思えない色っぽい視線を夏子に投げながら、杜人も成人の腕に抱きついた。
「お前達…重い、降りろ、凭れるな、歩きにくい…」
弟達の親愛の表現に成人は溜め息を吐きながらも、振り払う事はしない。
『仲が良いんだなぁ…兄弟って良いな』
夏子は成人達を見て笑みを深くした。
「いいじゃ~ん、久し振りなんだし~!」
「今日は何時まで居られるの?」
「今日は挨拶をしに来ただけだから、済んだら帰るよ」
成人は苦笑しながら弟達をそのままに、夏子の背中に腕を添えて歩くように促す。
夏子は促されるまま、車庫からスロープのある家の玄関へと足を進めた。
「え~?!泊まっていきなよ~っ、俺、久し振りに成兄の唐揚げ食べたい!」
「秀…俺を何だと思ってるんだ」
「お母さん!」
「お前なぁ…、杜に作って貰え」
「たまには僕だって誰かの手作りが食べたいよ。成兄、僕は麻婆豆腐が良いなぁ…」
シミジミとした杜人の言葉に夏子は首を傾げた。
『成人君のお母様は料理が苦手なのかな…?成人君が母親代わりをしてたように聞こえるけど…』
夏子は口を挟まず、三兄弟の会話を不思議そうな眼差しで見守る。
夏子の視線に気付いた成人が、苦笑を深くした。
「母の家事能力は壊滅的なんです」
「そうそう!目玉焼きは炭にするし、豚肉はレアで出すし、洗濯物は色移り、アイロンかければ焦がすし、本当に凄いんだよ~」
秀人がケラケラ笑った。
「…ね、何か臭くない?」
杜人が眉を寄せて成人を見上げた。
『確かに…何かが焦げた臭いがする…家の中から?…まさかっ、火事?!』
夏子の顔色が変わるのを見た成人は、安心させる様に背中を優しく叩いてくれた。
「大丈夫です。多分母が何か焦がしたんです」
成人の言葉に秀人はまた笑い、杜人は溜め息を吐きながら先に家の中へ入って行く。
『え~っと…一体どんな方なんだろう…』
玄関の重厚な扉と成人を交互に見て、夏子は困惑して立ち止まる。
「夏子さん…」
扉を開けて夏子が入るのを待っていた成人は、立ち止まった夏子の腰に手を添えて入るように促した。
「取り込み中で、私がお邪魔しても大丈夫?成人君のお母様が用を済まされてからにするわ…、私は外で待ってます」
家の奥で杜人と秀人の声と、グラスが割れた音がする。その音に混じって、可愛らしい女性の慌てた声が聞こえてきた。
成人の両親に招き入れられたわけでも無いのに、勝手に入るわけにもいかない。
「夏子さん、大丈夫ですから」
夏子が玄関を出ようとした時、背後から成人より深い低音の声がかけられた。
「成人、上がって貰いなさい」
「ええ。夏子さん、外で待たせるわけないじゃないですか。父もこう言ってますから、一緒にいて下さい」
成人に手首を掴まれ、回れ右をさせられた夏子は、目の前に佇む長身の美貌の男性を見て目を見開いた。
緩やかに後ろに流された黒い髪は豊かで、理知的な面差しは端整で穏やかだった。
完成された大人の男の、その艶めかしさは一種の毒だ。揺るがない黒い瞳と視線が合っただけで、背中の辺りが落ち着かなくなった。
「夏子さん…夏子さん?」
「あ、はいっ」
成人以外の男性に目を奪われた自分に気付き、一瞬罪悪感が生まれる。
『この方が…成人君のお父様』
成人のいるだけで他を圧倒する存在感は、この父親の遺伝子を継いだからだろうか。
「父の和人かずひとです」
「初めまして。ご挨拶が遅くなり大変申し訳ありません。西本夏子と申します」
夏子が慌ててお辞儀をすると、和人は優しく微笑んだ。
「こちらこそ申し訳なかったですね。忙しい中、挨拶に来てくれたのに、こんなに騒がしくて…気を使わせてしまったね」
優しく笑う和人に、夏子の緊張も少し解れた。
それを見ていた成人が夏子の腰に腕を回して和人を牽制する。
「父さん、夏子さんは俺の婚約者ですから」
『成人君?』
突然告げる成人の真意を図りかね、夏子は困惑する。
和人は成人を面白そうに見つめた後、嬉しそうに微笑んだ。
「お前のそんな姿が見られる日が来るなんてな…」
和人の言葉に成人は渋い顔をして、夏子に上がる様に促した。
「…お邪魔します」
夏子は意固地に遠慮するのも返って失礼になると思い、促されるままに成人の実家に足を踏み入れた。
『…何となく分かっていたけど…成人君、やっぱり良家のご子息だったんだ…』
勤務医と聞いているが、成人の父親は医者だ。
この実家を見れば分かるが、生活水準の高さは明らかだった。
『あ…駄目、また弱気の虫が…』
鳩尾から這い上がってくる鉛のように重く、ざわざわとした感覚に、夏子は唇を引き結んで耐える。
広い玄関ホールを抜けて、夏子と成人は客間に通された。
濃い茶色のフローリングの洋間で、中央にクリーム色のソファーとテーブル。オフホワイトの壁にはさりげなく絵が飾られていた。
華美な装飾品は無いが、置かれている物はどれも質が良く、シンプルで居心地の良い空間を演出していた。
客間のソファーに座る様に促され、夏子は成人と共にソファーへ向かった。
『あ、そうだ、お土産を渡さないと』
緊張ですっかり忘れていたが、自分で握っていた紙袋にやっと気付いた夏子は紙袋から菓子折を取り出した。
「あの、成人さんのお父様、これ、皆様で召し上がって頂けたら」
夏子が差し出したお土産を見て和人は微笑んだ。
「ありがとう。頂きます」
「父さん!母さんが怪我した!」
和人が受け取った時、秀人が客間に飛び込んできた。
『怪我!?』
驚いたのは夏子だけで、和人も成人も苦笑を浮かべただけだった。
「破片で切ったか?」
「踏んづけた!杜兄が止血してるけど、少し深いから父さん呼べって」
「そうか。失礼、夏子さん、少し席を外します」
「あ、はい」
和人と秀人が客間を出て行くのを見送った夏子は、無意識に溜め息を吐いた。
「成人君、お母様の様子を見に行かなくて大丈夫?怪我されたみたいだけど、私やっぱりお邪魔してしまってるような気が…」
「夏子さん…」
成人は夏子の左手を手に取り、婚約指輪が光る薬指に口付けた。
「父が家に居る時は父が、居ない時は俺が、俺が居ない時は杜人や秀人が、母の面倒を見るといつの間にかそんな不文律が出来ました」
成人は苦笑しながら夏子を見た。
「母の要領の悪さは何時もの事です。夏子さん、邪魔をしているなんて思わないで下さい。母は大丈夫です、父がついてますから」
淡々と説明する成人の薄い茶色の瞳は、夏子を心配していた。
「…ごめんなさい…覚悟を決めたつもりだったけど…成人君の大切な人達に嫌われたくないって、つい欲が出ちゃって…変に緊張して…情けないわ」
しない様にしているが、自分が成人よりも年上で、育ちの不確かさが気になってくる。
「情けないなんて思わないで下さい…今日の夏子さんは、何時も以上に素敵です。俺としては、さっさと挨拶を済ませて…帰ってあなたと…」
夏子の耳殻に唇を寄せ、耳で輝くアメジストとダイヤのピアスにも軽く口付けた。
「このピアスも良く似合ってます。付けてくれて嬉しいです」
成人の囁きに、夏子の躰が震えた。腰に甘い感覚が走り、夏子は慌てて成人から距離をとった。
強姦未遂事件の当日が夏子の誕生日であったが、本人も成人もゴタゴタが重なって気持ちの余裕が無く、誕生日に気付かなかった。
夏子の耳に輝くピアスは成人から贈られた誕生日プレゼントだ。
一日遅れの誕生日は、夏子にとっては初めて成人と一緒に祝えた特別な日となった。
その特別な日の甘く淫らな記憶が成人の囁きで鮮明になり、夏子は羞恥で頬が熱くなってくる。
「…何を思い出したんです?」
成人が艶っぽい微笑みを浮かべて夏子を見た。
「知りません…っ」
夏子はまた少し距離を取りながら、成人から視線を外した。
『こんな所で、そんな顔、反則だから…』
昨夜も愛された躰が火照る。
平静を装い、夏子は何時も以上に背筋を伸ばして座った。
夏子の様子を面白そうに見ていた成人だが、不意にジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、立ち上がって窓際に立った。
「ちょっと、すみません」
「あ、はい」
『お仕事かな…?』
成人が医療器具の営業をしている事は教えて貰ったが、土日の仕事はどうも別の仕事をしている様に夏子には思えた。
秋晴れの青い空を見ているのか、成人は暫く遠くを見つめながら窓際に佇んでいた。
手にしたスマホを開き、片手で何か操作した後はまたポケットにしまった。
そしてまた門が見える窓から、庭の一部が見渡せる窓際にゆっくり移動する。
『何を見てるんだろう…?』
「成人君…?」
なんとなく不安になって、夏子は成人にそっと声をかけた。
「…すみません…」
成人は自分の顎に人差し指を添えて何度かノックするように動かしてから、夏子の隣に戻ってきた。
深く考え事をしている時、成人がよくする仕草に夏子は嫌な予感を覚えた。
夏子の不安そうな顔に気付き、成人は微笑んだ。
「…空が青くてちょっと驚いてました」
『…私には言えない事…?』
その理由が嘘だと言う事くらい夏子は分かる。
成人が理由を教えないと言う事は、今は知る必要が無いと言う事だ。
短い時間だが、成人と過ごした時間の中で夏子が学習した事の一つだ。
「成兄、夏子さん、お待たせ~」
ノックの後、秀人がお茶のセットを乗せたワゴンを押して客間に入って来た。
秀人の明るい雰囲気が部屋に落ちた重い空気を一掃した。
夏子は気持ちを切り替えて、秀人を手伝う為に立ち上がった。
「あ、夏子さんは座ってて。成兄のハニーに手伝わせるわけにはいかないんで」
『は、ハニー?』
秀人は慣れた手付きでお茶の用意をしている。
「夏子さん、座ってて下さい。秀、母さんは?」
成人の言葉に夏子は再びソファーに座った。
「結構深くグラスの破片が突き刺さってて、父さんが破片を抜いて消毒したよ。縫う程じゃないらしいけど、今包帯巻いてる」
『それは…大変なんじゃ…?』
「分かった、あ、秀、夏子さんは紅茶、ストレートだ」
「は~い。どうぞ、粗茶ですが~」
秀人はニコニコ笑いながら、陶器のカップを夏子の前に置いた。
「あ、ありがとうございます。頂きます…」
「あと、これ、杜兄が作った手作りクッキー」
お茶うけのお菓子も続けて置き、秀人は自分もマグカップを片手に夏子の隣に座った。
「凄い…杜人君が作ったの?」
売り物になるレベルの美味しそうなクッキーが小皿に乗せられていた。
「成兄の婚約者が来るって、今日の朝、杜兄が張り切って作ってたんだ。スカシて見えるけど、杜兄、成兄が大好きだからね~。お、も、て、な、し、ってやつ?」
秀人はケラケラ笑いながら、ミルクたっぷりの紅茶を飲んだ。
「なるほど…だから触発されて、母さんは隠れてクッキー作りに挑戦したわけか」
成人はクッキーを一枚手に取り、一口噛った。
「正解!結局消し炭を作っただけだけど~」
「本当に…懲りない人だな」
「なんか、成兄が選んだ人に出来るところをアピールしたかったみたいだよ。どうせ直ぐボロが出るのにね」
ケラケラと笑う秀人を嗜める事もせず、成人も溜め息を吐きながら頷く。
『二人とも…かなり酷い事を言っている気が…』
夏子は追随する事も出来ず、聞かなかった事にして紅茶を一口飲んだ。
暫くすると、客間の扉がノックされてから開いた。
「夏子さん、お待たせして申し訳ない。ほら、天音あまね
和人に支えられながら、客間に入って来た成人の母親は、年齢不詳、国籍不明に見える、可憐な女性だった。
『…この方が…成人君のお母様…』
亜麻色の髪と澄んだ青い瞳、陶器で出来ているかの様に白く滑らかな肌。
長身の和人と並ぶと更に小さく見える小柄で華奢な身体は、三人の男の子を産んだ様には絶対に見えなかった。
『ビスクドールみたい…。存在感が凄い…このご両親だから、成人君は成人君になったんだ…』
夏子はまばたきするのも忘れて、天音を見つめた。
「…和君、まさか、この方が成君の選んだ方…?」
天音は可憐な顔を不機嫌に変えて、和人を見上げた。
和人は夏子に優しい視線を向けた後、不機嫌な妻を嗜めた。
「天音、先ずはお待たせした失礼を詫びるのが先だろう?」
「…私、認めませんから」
天音は夏子にもう一度視線を走らせた後、和人だけを見て言葉を吐き捨てた。
「母さんっ」
成人が険しい顔で天音を見た。
『え…』
夏子は何を言われたのか分からなかった。
成人はソファーに座ったまま固まる夏子の肩を引き寄せた。
「天音、突然どうした?成人が選んだ人なら間違いないって、一番言ってたのはお前だろう?」
和人の言葉に益々不機嫌になった天音は、足を引き摺りながら踵を返した。
「とにかく嫌!特に顔!成君と…和君の馬鹿!」
『か…お…?』
夏子は部屋を出て行く天音の華奢な後ろ姿を茫然と見送った。
「馬鹿って…」
和人は後頭部に掌をあてて、深い溜め息を吐いた。
「顔…」
自分の頬に掌をあてて、夏子は思わず呟いた。
成人は夏子の蒼白になった顔を見た後、苦虫を噛んだ様な顔をしている和人を見て嘆息した。
「…父さん」
成人の責める様な視線に、和人は苦笑した。
「ああなってしまうと、暫くは駄目だな」
杜人も秀人も気まずそうな顔をして頷いている。
「…夏子さん、帰りましょう」
「え…あ…」
『特に顔が…嫌…』
まさか、そんな理由で嫌われる事があるとは思ってもみなかった夏子は、成人に促されるまま立ち上がった。
「夏子さん、本当に申し訳ない。後日、また時間を作って貰えないだろうか?妻があんな事を言ったのは恐らく私のせいだ…。私達は、君と家族になれる事をとても嬉しく思っているんだよ」
和人の言葉に夏子は頷こうとしたが、成人がそれを止めた。
「父さん、悪いけど、夏子さんが許しても俺が許さない。俺達は筋は通した。後はこちらの好きにします」
夏子の腰に腕を回し、成人は鋭い視線で和人を見た。
「母さんが詫びをいれない限り、俺達は二度とこの家の敷居は跨がない」
「成人君っ」
まさかの縁切り発言に夏子は驚愕した。
「成兄っ、そんな事言わないでよ」
「そうだよ、少し冷静になってよ。成兄らしくないよ」
成人は不安そうな秀人と杜人には、優しい眼差しを向けた。
弟達の頭を撫でてから、成人は夏子の腰に回した腕に力を込めて歩く様に促してくる。
『どうしよう…このままだと本当に成人君…家族と絶縁に』
夏子は成人の暴走をどうやって止めるか考えるが、頼りになりそうな和人は苦笑しながらも、何故か嬉しそうに成人と夏子を見ていた。
「夏子さん、行きますよ」
「あ、あの、ちょっと、ね、成人君」
歩かない夏子に嘆息して、成人は夏子の肩を掴んで部屋から出た。夏子は半ば引き摺られるように玄関を出て、挨拶も出来ずに車の助手席に押し込められた。
『私のせいで成人君が家族と本当に縁を切る事になったら…嫌だ…どうしよう…?!』
成人の母親に言われた事もショックだが、成人の絶縁宣言の方が夏子には重かった。
遠くなる成人の実家を振り返り、どうやって成人を説得するか考えを巡らす。
『…暴走した成人君に、今は何を言っても無駄ね…』
視界から成人の実家が見えなくなり、夏子は視線を自分の左手の薬指に落とした。
成人がどんな表情をしているのか、見るのが怖かった。
『私と家族になる事を望んでくれた成人君が…大切な家族と縁を切るなんて…本末転倒だわ…私にどれだけの価値があるの?』
車内には重い沈黙だけが落ちていた。
時折響くハザードランプのカチカチという音が、妙に現実的だった。
澄んだ青が美しかった空には、いつの間にか雨雲が垂れ込めていた。
助手席の窓にうっすらと映る成人の感情の見えない美しい横顔を見て、夏子の胸は引き絞られた。
『成人君…ごめんなさい…』
成人が選んだ相手が夏子でなければ、こんな事にはならなかったはずだ。
成人は事前に夏子の事を家族に話してくれていた。細かい話はしていないようだったが、夏子の年齢や家族と死別している話は伝えてあると知らされていた。
つまり、夏子は夏子自身の資質を認めて貰えなかったと言う事だ。
それを認めるのは辛いが、夏子が半ば覚悟していた状況でもあった。
『…顔が嫌なら…整形したら認めてくれるのかな…』
助手席の窓に映る自分の顔に気付き、見ていられなくてまた視線を薬指に移す。
地味だが、普通の顔だと思う。
今まで誰かに自分の顔について何か言われた事も無かったが、気づかないだけで誰かを不快にしていたのかもしれない。
『整形とか…問題はそんな事じゃない…なに考えてるの私は』
「…さん、…夏子さん?」
「え?」
夏子は突然頬を成人の掌に包まれて、顔の向きを変えられた。
「家の駐車場に着きました」
目の前に成人の眼鏡をかけた美しい顔があって、夏子は思わず息を飲む。
自分の考えに集中していて、マンションに到着していた事に気付けなかった。
成人の強い眼差しに、夏子は視線をさ迷わせた。
「夏子さん…逸らさないで、俺を見て」
優しいが否定を許さない声音に、夏子は成人の怜悧な瞳に視線を合わせた。
「一番大切な事はなんですか?」
数時間前に車内でされた同じ質問を成人は繰り返した。
「…成人君を信じて…一緒にいること…」
夏子は喜怒哀楽が混ざった複雑な感情で胸が苦しくなった。
成人は微笑み、夏子の唇に唇を触れ合わせた。
「…夏子さん、嫌な思いをさせて、すみません…」
夏子は首を横に振って、自分から成人の首に両腕を回して抱き寄せた。
「私が至らなくて…成人君に辛い思いをさせてごめんね…」
成人も夏子の背中に両腕を回して抱き締めてくれた。
「…成人君がご家族と縁を切ったりする事は…して欲しくない…」
「夏子さん…」
成人は夏子の躰を自分の方に更に引き寄せ、膝の上に乗せた。
「成人君?」
広いとは言えない車の中では躰が密着して、夏子は恥ずかしくなった。
「あの…」
「…恥ずかしいですか?」
「う、うん…」
「誰もいないです」
地下にあるマンション専用の駐車場には、確かに人の気配は無かった。
「いないけど…あの…部屋に戻ろ?」
夏子の腰を優しく撫でる成人の手の感触に、妖しい気配を感じた夏子は密着した躰を離そうとした。
成人の首に回していた自分の腕を外し、助手席に戻ろうとしたが、成人の腕が強く腰に巻き付いてきて動けなくなった。
「成人君…」
成人は夏子の首筋に口付けた。
「ん…」
服の襟元と皮膚の境からゾワゾワと甘い痺れが生まれて、夏子は内心焦った。
『まさか…車の中で?』
「成人君…本当に…駄目…」
一瞬脳裡に浮かんだあられもない自分達の姿に、夏子の躰は羞恥で火照った。
「何を想像したんです?」
成人が首筋から耳殻に唇を滑らせながら囁いた。
「や…あ…し、知りませんっ…」
ゾクゾクと腰に甘い痺れが蟠ってきて、夏子は成人の悪戯な唇を掌で覆って止めた。
「車の中では…嫌…」
羞恥の熱で瞳が潤んで、夏子の顔は嫌がるどころか成人を誘っているように見えるが、夏子本人にその自覚は無かった。


《成人》


追尾されている。
まさかの母親の暴挙に婚約の挨拶は頓挫した形になったが、今の状況を考えたら逆に好都合となった事に、成人は複雑な気持ちになった。
『夏子さん…すみません…』
成人の母親の失礼な態度に憤慨するどころか、夏子は恐らく成人の心配をしている様だった。
助手席のドアの窓に顔を向けた夏子の表情は見えないが、何時もの背筋の伸びた凛として頑なな後ろ姿が酷く頼りなく見えて、成人は抱き締めたくて堪らなくなった。
『お預けだけどな…』
成人は深く考え込む夏子に安心させる言葉をかけてあげたかったが、今は少し余裕が無かった。
バックミラーに視線を走らせ、一台車を挟んでいてくる黒い軽自動車を再確認して内心嘆息した。
『下手な尾行…素人か』
成人の実家に到着した時、不審な車の存在に成人は気付いた。
何処にでもある黒の軽自動車は、路肩に停車していた。運転席に座る男は野球帽子を目深に被り、黒縁眼鏡とマスクをして、競馬新聞を広げていた。
成人は直感的に怪しいと感じた。
実家に入った後も、周囲を確認していたが、目立った動きは無かった。
一度、さりげなさを装ってはいたが、門扉から中を覗き込む素振りで軽自動車の男は道を通り過ぎて行った。
実家を張っていると言う事は、十中八九狙いは母親だ。
国内外の政財界に影響力のある藤堂グループ総帥の末娘である母親が、それなりに名家ではあるが医学の道にのみ邁進し続けた二ノ宮家の、雇われ医師である次男坊と結婚した事は一握りの人間しか知らない事だった。
母親は幼い頃から深層の令嬢として、家族に溺愛され、守られて暮らしてきた。外出時には車とボディーガードが付き、学校はセキュリティの厳重なお嬢様学校である聖ヒルダス女学院に幼稚部から短大まで通っていた。
そんな中でも、母親は幾度も誘拐未遂に遇い、二度実際に拉致監禁された事があった。
大々的に母親の結婚を披露すると、その後の生活が脅かされる事を警戒した藤堂総帥と父親は、結婚を一部の親しい親族のみに知らせる極秘扱いにした。
幸い母親は社交界には興味を示さなかったお陰で、彼女の事を知る部外者は少なく、父との結婚で一般的な生活を送れる人生を手に入れた。
『どうやってこの場所を知ったんだ…?』
警戒する成人を夏子は不安気に見つめてきたが、詳しい事情をまだ話せない成人は、誤魔化すしかなかった。
『夏子さんは敏い…』
共に過ごした時間は短くても、夏子は恐らく誰よりも成人の内側を感覚的に理解している。
成人の誤魔化しも、何も聞かずに許してくれる。
それは夏子が年上だからと言う事もあるのだろうが、夏子の習い性の様に感じて切なくなる。
夏子はどれだけの事を諦め、他者を許して生きてきたのだろうか。
今はまだ夏子の優しさと強さに甘える事しか出来ない自分が、成人は悔しかった。
全て話して、夏子が自分の傍からまた去る事が怖い。
相変わらず夕方でも首都高は混んでいて、付かず離れずの距離で軽自動車は後を追いてくる。
『遠回りして、撒くか…』
幸い夏子は考え事をしている。
そもそも夏子は車の免許を持っていない。何処を走っているのか、見ていても直ぐには気付かないくらいには方向音痴でもある。
『早く帰って夏子さんを抱きたいのに…まったく面倒な…』
成人は溜め息を飲み込み、ハザードランプをつけて右に車線変更した。

「車の中では…嫌…」
普段は凛として隙の無い夏子が、成人の前では羞恥に躰を火照らせて黒曜石の様な瞳を潤ませる。
その媚態を見ているだけで、躰の奥が熱くなってくる。
自宅マンションの駐車場で最後までするつもりは無いが、直ぐに部屋に上がれない事情を悟らせないためにはもう少し夏子には車に居て貰いたかった。
「成人君…っ」
成人の好きな夏子の首筋は、成人の為に隠されていて愛撫がしにくい。
夏子の顎先に口付けて、成人の足を跨ぐ様に座らせる。
「もう…駄目だって言っ…ん…っ」
控え目な色味の口紅が塗られた夏子の唇に唇を重ね、歯列を舌で撫でた。
出来た隙間に舌を入れ、奥で蠢く夏子の舌を擦って絡めとる。
「ふっ…ん…っ…ん…」
力が入らなくなった夏子は成人の膝の上に座り、拒む事も積極的に動く事も出来ない様で、成人に翻弄される。
『夏子さん…愛してる…』
成人は夏子とする口付けが好きだった。
出逢った時から、口付けだけは受け入れてくれた夏子とは、既に数え切れないくらい唇を重ねてきた。
夏子を失い、想いに迷って他の女達と身体を繋げた過去の自分を振り返れば、成人は形式的に唇を重ねていただけだった。正直に言えば他の女とのキスは嫌いだった。
「ん…っ、な、成人…君っ…」
成人に吸われ過ぎて赤く濡れた唇を震わせながら、夏子は瞳を潤ませて成人の悪戯な手を押さえた。
成人は口付けながら、ワンピースのスカートを捲り、ストッキングに包まれた夏子の太ももに手を伸ばして止められたのだ。
「夏子さん…駄目…?」
成人は甘える様に、夏子の肩に頭を乗せて上目遣いに見つめた。
夏子は困ったように眉を下げ、赤く腫れた唇を引き結んだ。
『あ~…堪らないっ…早くあなたを抱きたい…』
「眼鏡、取って」
「…っ」
成人のお願いに、夏子は頬を染めながら従った。ゆっくりと眼鏡を外す夏子の指が震えている。
隠しているが、どうやら夏子は成人の眼鏡をかけている姿が好きな様だ。しかし、眼鏡は情事には邪魔で、成人は必要な時以外は外してしまう。
『ごめん、夏子さん』
気分を盛り上げる為の大袈裟な嬌声も喘ぎ声も、夏子は出さない。
羞恥心が強く、強情なところがある夏子は、理性的で快楽に流され難い。
だからこそ、固い結び目をゆっくりと解して、隠れていた媚態を引き出せた時の喜びは計り知れない。
『処女好きのスケベオヤジと感覚的には同じか…?』
成人の上目遣いに弱い夏子が、返事に困って出した答えは成人の手を自分の口元に運び、そっと口付ける事だった。
「…っ」
夏子の熱く柔らかな唇が手に触れただけで、成人の中心は立ち上がった。
『夏子さん…それは狡い』
嫌も駄目も成人に封じ込められると思ったのか、夏子は想いだけを動きで語ってきた。
夏子は成人の手に頬を寄せ、困ったように潤んだ瞳で成人を見つめてくる。
「…すみません…悪戯が過ぎました」
成人の膝の上に座った夏子は、成人の中心が硬くなっている事に気付いたのだろう。
「あの…」
言い淀む夏子に苦笑し、成人は夏子の背中に腕を回して抱き寄せながら背凭れに身体を預けた。
「格好悪いなぁ…俺…」
軽い戯れのつもりが、自分の方が熱くなっている。
「成人君…」
困ったように成人の名を呟く夏子が、堪らなく愛しい。
『…頃合いかな。そろそろ連絡がくるはず』
自分の胸に頬を寄せ、躰を預けてくれる夏子を守りたい。
実家で不審者を確認した時、成人は藤堂家とグループ全体のセキュリティを担っているセクションにメールで状況を報告していた。
首都高で軽自動車は撒いたはずだが、念の為成人のマンションにも危険が無いか調べる様に指示を出していた。
「あ…」
「すみません」
成人のジャケットの内ポケットに入っていたスマホの振動に気付いて、夏子は寄せていた頬を上げた。成人はスマホを取り出し、メールをチェックして直ぐにまたポケットに戻した。
「夏子さん、そろそろ部屋に戻りましょうか」
「え?あ…うん…でも…」
成人の言葉に夏子はぎこちなく頷くが、成人の状態が気になるのか、胸にもう一度頬を寄せて抱き締めてくる。
「夏子さん?」
成人の問いには応えず、夏子は成人の足元に身を滑らせ膝立ちになった。
何をするのか不思議に思って見ていると、夏子は成人の中心に手を伸ばしてきた。
『…嘘だろ?!』
スラックスの前をぎこちない手で寛げ、夏子は中心に唇を寄せた。
「夏子さん…っ」
「見ないで…」
夏子は顔を真っ赤にして、成人の硬くなった中心を下着から解放し、張り出した先端に口付けた。
『見ないでと言われても…』
夏子の小さな唇が、自分の滾った中心に優しく触れてくる。
ぎこちない手が滾る中心を擦り、おずおずと開いた唇から夏子の舌が伸びて先端を舐める。
触れられ、舐められる度に、成人の中心は硬く熱く脈打ってくる。
「夏子さんっ…無理しないでいいから…」
躰を繋げる事にもまだ慣れない夏子に、口淫を求めようなどとは思ってもみなかった成人は、嬉しいが無理をさせているのが分かって困惑する。
「…ごめんなさい…下手で…」
「そうじゃなくて…」
成人は夏子の頬を撫でながら、夏子を傷つけずに止めさせる言葉を思案する。
「その…良すぎて直ぐにイキそうなんで…」
冗談では無く、夏子に触れられただけで気を抜けば直ぐに射精出来る自信のある成人は苦笑した。
「…イッて…」
『だから…本当にあなたは…』
夏子は分かっているのだろうか?それがどういう事なのか。
夏子は中心を唇の奥まで飲み込み、ゆっくりと口でしごいた。
「…っ」
技巧など無い、下手で真っ直ぐな愛撫だが、これ程の快感を口淫で得た事は無かった。
余り長引いても、夏子が辛くなるだけだ。
成人は夏子の髪を撫でながら、ボックスからティッシュを数枚抜き取った。
「夏子さん…愛してます…っ」
「んっ…んっ…」
夏子の後頭部を支え、夏子の動きに合わせて成人は腰を強めに上下に動かした。
苦し気に眉を寄せ、瞳を閉じながら口をすぼめる夏子の表情は凶器だ。
「くっ、…出る…っ、離し、てっ…っ」
「ん、ふ、んっ…」
冷静に射精のタイミングを計っていた成人だが、夏子が自ら成人の滾りを奥まで迎き入れて離さず、図らずも夏子の口の中で射精してしまった。
「っ…!」
「んっ!」
喉の奥で放たれた成人の精を夏子は目尻に涙を溜めながら飲み込んだ。断続的に出る精を口で受け止め、全て飲み込もうとするがむせた。
「ちょっ、夏子さん!吐き出して」
イッたばかりでまだ速い自分の鼓動と息を感じながら、夏子の行為に慌てる自分が滑稽だった。
夏子は自分の唇を掌で覆いながら首を横に振った。
「いいから、出してっ」
「んっ…」
成人は強引に手首を掴んで引き剥がし、夏子の口に指を入れて飲み込めない白濁をティッシュに吐き出させた。
「何やってるんですかっ…誰が飲めって言いましたか?あなたはそんな事しなくて良いんですっ」
成人が怒ったと思ったのか、夏子は苦しさからではない涙を溢した。
「…ごめんなさい」
「いや、そうじゃなくて…っ、あぁ、もう、本当にっ」
成人は手早く衣服を整え、夏子を引っ張りあげると、自分の精で濡れる夏子の唇に構わず噛みつく様な口付けをした。
夏子も成人の首に腕を巻き付け、何度も角度を変えながら深い口付けに応えた。
『すみません…夏子さん…不安にさせて』
らしくない夏子の言動は全て成人のせいだ。
夏子の知りたい事は何も教えず、ただ成人だけを信じろと無理を通している。
夏子の想いに胡座をかいているようなものだ。
それに加えての今日の母親の態度だ。
『まだ全ては言えないが…少しでも不安が減るなら…』
成人は夏子の額に額を合わせて苦笑した。
「成…君…?」
夏子に成君と呼ばれると、躰の奥の熱が疼く。夏子が成人をそう呼ぶ時は、悦楽で理性が飛んでいる時だけだからだ。
「夏子さん…俺の父に見とれてましたよね…」
「え…?」
「婚約の挨拶に行って、婚約者の前でその父親に見とれるって、どういう事ですか?正直、ショックだったなぁ…」
「あっ…あの、違うの、私…」
夏子は誤魔化す事も出来ず、成人の顔から視線を落とした。
『ま、その件は後でお仕置きさせて貰うとして…』
成人は夏子の頬を掌で包み、鼻先に口付けて笑った。
「父は魅力的な人です。夏子さんが見とれるくらいに」
「…ごめんなさい…」
夏子は責められていると思ったのか、震える声で謝罪した。
「誤解しないで下さい。責めてるわけじゃない。事実を言ってるだけです。つまり、父は、ずーっと昔からイイ男だったわけです」
「成人君…?」
「それはもう驚く程モテたそうです」
「…はい」
成人の話しぶりに、夏子は何かを察した様だった。視線を上げて成人を見つめてくる。
成人は夏子のこういう何気無い会話の中で見せる察しの良い所も好きだ。
「母いわく、父に群がる数多の女達を蹴散らして、母は父を勝ち取ったと言っていました」
「…つまり…成人君のお母様は、お父様を熱烈に愛されている?」
「ええ。更に言うなら、父は既婚者になっても女性に誘われます。女性患者に迫られた事は数知れずです」
「…それは…お母様は心配ね…」
夏子は成人の母親に同調しているようで、苦しそうな顔をする。
成人は夏子の鼻先にまた口付けて苦笑した。
「だから母は父に近づく女性には敏感に反応します。特に、夏子さんの様なタイプの女性に」
「私…?」
夏子は自分の頬を指で触った。
『あ、やっぱり、相当気にしてたな…我が母親ながら、顔が嫌って…もう少し言い方があっただろうに…子供か…?』
「父が母と結婚する前に関係のあった女性の中で一番父と親密だったのが、夏子さんタイプの美人だったようで」
「え?あ…」
成人の言葉に夏子は反応に困って言い淀む。
これ以上の詳しい事情は、両親の名誉の為に伝える事は控えるが、成人が詳細を知っているのは高校生の時にその女性が両親の仲を引っ掻き回して母が家出する騒動があったからだ。
「父と俺の女性の好みが似ていたから、馬鹿発言が出たんだと思います。つまり、母は夏子さん自身が嫌なわけじゃなく、完全に夏子さんは、とばっちりを食わされた…本当に申し訳ないです」
成人は嘆息し、困惑顔の夏子に謝罪した。
『…母が夏子さんを見て、拒絶反応を見せるかもしれないと推測出来なかった俺のミスでもあるな…』
「…つまり…成人君は…ご家族と縁を切るとか、本気で思っていないって事?」
「それは、母の出方次第です。事情はどうあれ、夏子さんに失礼極まりない態度をとったのは事実ですから」
「成人君…」
夏子が哀しそうな顔をするので、成人は苦笑した。
「でも…恐らく、そうはならないと思ってます。父が動くと思うので、そのうち母から謝罪の申し出が来ると思ってます」
「…良かった…」
夏子は成人の胸に頬を寄せ、安堵の溜め息を静かに吐き出した。
「夏子さん…」
成人は夏子を抱き寄せて、額に口付けた。
「私なんかの為にご家族と縁を切るなんて…絶対にして欲しく無い…」
『あぁ…また、なんか、だ…』
本人は気付いていないが、まだ夏子は自分を卑下し蔑ろにする事がある。
夏子は、成人が選び愛した唯一無二の存在だ。例え本人であっても卑下する事はして欲しく無かった。
『どう言えば分かってくれる…?』
額に触れていた唇を滑らせ、瞼や鼻先、頬へと移し、最後は夏子の唇に重ねた。
「…ん」
「愛してます…」
毎日想いを伝えていくしかない。
「…私も…愛してます」
夏子も囁きながら言葉を返してくれるが、成人の真意が伝わるのはまだ先の様に感じた。
「…部屋に戻りましょうか」
「あ…はい…」
車を降りた成人は当たり前の様に助手席に回り、ドアを開けて夏子に手を差し出すと、夏子はクスクスと珍しく笑った。
『あ…反則だ…そんな可愛く笑って…』
「何です?」
差し出された手に手を重ねて車を降りた夏子は、くすぐったい様な微笑みを成人に向けた。
流れる様に助手席のドアを閉め、車をロックして夏子をエスコートする様に歩く成人に、また微笑みを深くした。
「成人君のお母様が車から降りる時も、お父様は手を差し出すんじゃない?」
「え?あぁ、そうですね」
「やっぱり」
「何ですか?」
エレベーターのボタンを押し、部屋のある十五階まで上がる。
「ご両親を見て育ったから、成人君は成人君になったんだなぁって」
「夏子さん?」
どういう意味か分からず首を捻る成人の腕に、夏子は珍しく自分から腕を絡めてきた。
「…新しい成人君の事が知られて、嬉しかった…挨拶は余り上手くいかなかったけど、ご家族に直接お会い出来て良かった…連れて行ってくれてありがとう」
「夏子さん…」
照れた様に微笑む夏子に、成人の胸は切なくて愛しくて堪らなくなった。
エレベーターの扉が開き、夏子に先に出てもらう。玄関の扉を開けて夏子に入る様に促し、扉を閉める前にもう一度周囲に視線を走らせた。
『…明日からまた仕事だ。夏子さんの側にいられない間はどうするかな…』
「成人君?どうかした?」
扉を閉めずに玄関で考えこむ成人に、先に部屋に上がった夏子が声をかけてくる。
「あ、いえ…夏子さん、明日の仕事は何番でしたっけ?」
後ろ手に扉を閉めて施錠し、成人も部屋に上がる。二人で当たり前の様にリビングに向かう事に、成人は幸せを噛み締めた。
「明日はA番だから、出勤が早いの」
ダイニングテーブルの椅子にバッグを置いて、夏子は台所の流しで手を洗うと冷蔵庫の扉を開けた。
「A番って事は出勤が七時ですよね…ホテルまで車で送りますよ」
成人も流しで手を洗い、一緒に冷蔵庫の中を確認した。
「大丈夫、電車で行くから。成人君だって仕事が」
「俺は明日取引先に直行ですから、朝は余裕があります。多分、夏子さんは電車で行く時間無いと思いますよ」
成人はチルドに入れた挽き肉を取り出した。
「だって今夜は、俺以外の男に見とれたお仕置きをするつもりですから」
「え…」
夏子は材料を取り出す成人を呆然と見上げてくる。
「今六時過ぎです。杜人が食べたがっていた麻婆豆腐にしましょう。時間が惜しいので、丼にします」
「あ、え?…はい…あ、お風呂!掃除してきますっ」
夏子は困った様に視線を泳がせ、逃げる様に主寝室専用の浴室に向かった。
首まで赤くした夏子が可愛くて、成人はクスクスと笑う。上機嫌で手早く調理の下準備をしながら、今後の事を考えた。
夏子の職場は、このマンションからは遠い。
このマンションは成人が日本の大学に通っていた時に二年ほど使用していた。アメリカから帰国する時に通勤の利便性を考慮してまたこのマンションに戻ってきたが、もう直ぐ出向先が変わる予定だ。
夏子と再会したあの日から、成人は夏子を自分の家に帰していない。
結婚したら、仕事は辞めて貰うつもりだが、それまでにはまだ少し時間がかかる。
『やっぱり、拠点を移すか…』
成人は自分が所有する不動産で、夏子の職場に一番近い家を思い浮かべる。
自分は車通勤に切り替えれば良いだけだ。
夏子を電車に乗せる事は絶対にさせない。それは狼の群れに羊を放り込むのと同じだ。
『二度と他の奴等に触れさせないっ』
着ていたジャケットを脱いで、ダイニングの椅子に掛け、インナーのシャツの袖を捲りながらキッチンの作業スペースに戻る。
『時間が足りないな…夏子さんとの時間が確保できない』
もっと長く一緒にいたい。会えなかった年数分を取り戻したい。
熱したフライパンに油を回しかけ、順番に材料を放り込んで調味料を入れる。仕上げに水溶き片栗粉を入れようとして、ジャケットに入ったままのスマホが鳴った。
嘆息し、一度火を止めてスマホを手に取った。個人投資関係の仕事の電話だった。
「…やっぱりもう少し仕事をセーブするか…」
成人は通話ボタンを押し、話ながら書斎に使っている部屋に向かう。途中で寝室から出てきた夏子に会った。
ワンピースの袖を捲った夏子の白い腕に目が行って、自分の中毒を自覚する。
『…触れたくて抱きたくて我慢出来ない…病気だな…』
通話中の成人に声は掛けてこず、夏子はキッチンに向かった。それを視界の端で確認して、成人は書斎の五台あるパソコンの一つを操作した。


《夏子》


「お早う!夏ちゃん」
「お早うございます、時子さん…今日は随分早いですね」
夏子の職場は、都心へは電車で三十分の地方都市に建てられた十五階建てのビジネスホテルだ。
オーナーはこの辺りで有名な地主でもある桜木家の三男で、時子の腹違いの兄だった。
時子の肩書きはホテルの経理課長だが、何でも屋でこのサクラホテルの実質的なリーダーだった。
「今日は10時から各支店を視察するから、書類を片付けちゃおうと思って。夏ちゃんこそ、早めの到着ね?まだ6時半よ」
時子は指に挟んでいた煙草を深く吸い、静かに吐き出した。綺麗に染められた茶色い髪は緩やかに波打ち、時子が動く度にフワリと揺れる。
手入れの行き届いた爪先は女性らしく華やかな色に染められ、ベージュのスーツに身を包んでいるが、豊満な胸元と括れた身体がセクシャルで、女の夏子が見ても艶やかだ。
「成人君が車で送ってくれたので…」
夏子は隣接する更衣室へと入った。
素早く制服に着替え、ロッカーの小さな鏡で自分の顔を確認する。
別れ際にされた口付けの感触が残る自分の唇を見て、ルージュがはみ出していないか確認してロッカーを閉めた。
「もしかして、ずっと成の家から通勤してるの?」
更衣室から出てきた夏子は、タイムカードを切ってから時子の座っているテーブルの向かいに座った。
「はい…あ、会社に届けないと駄目ですか?」
「このまま結婚するまで同棲するなら、なるべくね。保険関係とか交通費とかあるから」
「え?」
「それ。気張ったわね、成人も。あいつ、稼いでるのね~」
時子はニヤニヤ笑いながら夏子の左手の薬指を見ていた。
「あ!これは…その…」
成人から贈られた婚約指環をつけたままにしていた事に気付き、思わず右手で覆って隠してしまった。
「隠さなくてもいいわよ、おめでとう」
時子は華やかな美貌に優しい微笑みを浮かべて夏子を見た。
「…ありがとうございます」
「何かあった?普通、婚約指環贈られたら、有頂天になって自慢して周りの女に陰口立てられても気にしないくらいハイになるもんなんじゃないの?」
随分と偏った時子の言葉に夏子は笑った。
「そうなんですか?」
「そうよ。少なくとも、私の知ってる女達はね。で?何があったの?」
時子は上司だが、時に姉の様に、友の様に、夏子を気にかけてくれる。一見華やか過ぎて怖いが、実は面倒見が良くて優しい時子が、夏子は好きだ。
こんなに魅力的な彼女が何故未だに独身なのか不思議だった。
「…その…成人君のお母様に、嫌われてしまったようで…」
「は?天音さんに?え?何、成ってば、もう家族に紹介したんだ?早いわね~、やる事が」
時子は腕を組み、頷きながら感心している。
「成人君のお母様をご存知なんですか?」
「あ~…まぁね。ほら、瞬と成は幼稚園からの幼馴染みだから。私も学生の時はよく瞬の家に泊まりに行ってて、天音さんと会う機会もあって」
瞬は時子の甥で、成人の親友だ。尤も、その関係性を知ったのはつい最近で、夏子は成人と再会する前から時子を通して瞬と知り合い、比較的親しく付き合ってきた。
「そうなんですね」
「そうそう。天音さんに嫌われたねぇ…。う~ん、ま、大丈夫よ!直ぐ夏ちゃんの魅力にメロメロになる筈だから!」
時子のあっけらかんとした言葉に夏子は苦笑を浮かべながら頷いた。
「しかし…最近の夏ちゃん、色っぽさ全開だわ…少し抑えて貰わないと男どもの鼻の下が伸びきっちゃいそう」
「は?」
「毎日成に愛されちゃって、大変ね~」
「…っ」
時子にからかわれて、夏子は堪えきれずに赤面した。
「フフ、可愛い…ね?成って正直どうなの?」
「…どうとは?」
時子は煙草を灰皿に押し付けて揉み消し、身を乗り出して声を潜めた。
「あのスカした慇懃無礼な男が、夏ちゃんをどんなふうに抱くのか興味あるわ~。噂によると相当巧いらしいけど、実際どうなの?」
「なっ…」
まさかの質問に夏子は絶句した。
『そんな事、言えるわけない…。大体、成人君しか知らないのに…巧いとか下手とか、分かるわけ…。そもそも、噂って…誰がしてるの…?』
どう言えば良いのか分からず、赤面した自分の顔を掌で覆って俯く。
「も~、可愛いんだからぁ~」
時子はニヤニヤしながら立ち上がった。
「今日はここまでにしといてあげるわ」
からかわれているのは分かっているが、昔から親しい友人のいない夏子は下ネタ系の話をされるのが苦手で、上手い返しが出来ない。
「そのピアスも素敵よ」
時子は夏子の背後に立って身を屈めると、夏子の耳もとに小さく息を吹き掛けた。
「ひゃっ?!」
ビクンと肩を跳ね上げ、夏子は耳を押さえながら後ろを振り返った。
「いい反応~。成に沢山貢いで貰いなさいね~。おっ先~」
時子は豪快に笑いながら先に休憩室を出て行った。
『時子さん…』
夏子は耳を押さえながらテーブルに額をつけて大きな溜め息を吐いた。
昨日の夕飯の準備の途中で、仕事の電話が入った成人に代わって夕飯を仕上げた夏子は、食事の後も引き続き書斎に戻った成人に先にお風呂を使う様に言われた。
夏子が風呂から出た時も、まだ書斎で作業をしていた成人を待っていたが、一日緊張していた疲れが出たのかソファーで寝てしまった。
気が付いた時は寝室のベッドの中で、成人に包まれていた。
静かに寝息を立てる成人の寝顔が綺麗で、暫く見とれて、いつの間にかまた眠ってしまった。
成人に抱かれない夜を過ごしたのは、再会してから初めてで、夏子は不安になった。
朝も普通に起きて、食事をして、準備をした。
抱かれなかったのは不安だったが、成人の態度は終始穏やかで優しく、お仕置きの言葉は冗談だったのだと思って安堵した。
職場まで車で送って貰い、感謝の言葉を言って自分で車から降りようとした時、成人から今夜は家に戻れそうにないと伝えられた。
昨夜の成人の様子を見ていたら、仕事が忙しい事は嫌でも分かる。
今日はもう顔も見られないと知って、不安がまた振り返してきた。
夏子は「分かりました」としか言えなかった。
目が合えば不安な気持ちを悟られそうで、俯き加減で助手席のドアを開けようとして、手首を掴まれて引き寄せられた。
顎先を持たれて唇に唇を重ねられ、息を奪われる様な口付けをされた。唇が離れても夏子は直ぐに動けず、助手席の背もたれに身体を預けて息を整えていたら、いつの間にか成人がドアを開けてくれていた。
今日の成人は濃紺に、良く見なければわからない程細かな銀糸が織り込まれたスーツを着ていた。ブラウンのレジメンタルストライプのネクタイと、銀縁眼鏡に仕事仕様の髪型。薄い栗色の髪をきっちりと後ろに流して、真面目な印象を演出していた。
見とれながら、差し出された手を取って車を降りた夏子は、離れ難い気持ちを振り切る様に成人から離れた。
訝しげに名前を呼ばれたが、自分でもよく分からない感情が張り付いているだろう顔を見られたくなくて、振り返らずに職場に逃げ込んだ。
『あぁ…私って…面倒臭い女…。毎晩抱かれるのは躰がちょっと辛いなぁ…とか思ってたくせに、抱かれなかったら気持ちが冷めたのかと不安になるし…何かもう…色々面倒臭い…』
成人と再会する前は、ひっそりと暮らしてひっそり人生が終わる予定だったはずだ。来世は妖精になる予定で、老人ホームに入る為にコツコツ貯蓄に励んでいたくらいだ。
再会してからの怒濤の展開の数々に、夏子の神経は自分で思っているより疲れているようだった。
「あ…付け替えないと…」
自分の左手が目に入った夏子は、時計を確認して立ち上がった。
更衣室に急いで戻り、ロッカーを開けてバッグから指環のケースを取り出した。ケースには母親の形見の指環を入れていた。婚約指環を外してケースに戻し、母親の形見に付け替えると気持ちが切り替わった気がした。
「よしっ、仕事、仕事っ」
夏子は急いでロッカーを施錠し、更衣室を後にした。

「西山君、今日は体調が悪いの?」
夜勤担当の学生バイトである西山は、真面目な青年だ。成人と同じ年齢だが、まだ大学に在籍中なせいか何処となく子供っぽい所があるが、コツコツと仕事をしてくれるので頼りにしていた。
余りミスをしない西山が、今日は小さなミスを量産していた。
良く見ると何時もより元気が無くて、夏子は心配になった。
お節介かとも思ったが、何か悩み事があるなら話すだけでも気が晴れるかと思い、西山の仕事終わりに合わせて休憩を取った。
西山を休憩室に誘い、話を聞いて見る事にした。
「…すみません…」
テーブルに向かいあって座った西山は、疲れた顔をして頭を下げてきた。
「何か困っている事とか…悩み事でもある?」
夏子の問い掛けに西山は俯かせていた顔を上げ、驚く程真剣な眼差しで夏子を見つめてきた。
「…悩み事っていうか…実は…」
「はい」
「俺の知り合いが、ある男に犯り捨てられた事があるんですが…」
『ん?ヤリステ…?』
思わず首を傾げてしまった。
「ヤリ捨て…」
『犯り捨て…?』
予想していた悩み事とは大分違った話の内容に、夏子は気まずくなった。どうやら西山は夏子の苦手分野の悩み事を抱えていたようだ。
「そうなんだ…」
「その男っていうのが、俺の高校時代では知らない奴はいないくらい有名な、私立慶心高等学校って超有名高校の生徒だった、二ノ宮成人っていうんです」
「え?」
まさか成人の名前が出て来るとは思わず、夏子は目を見開いた。
この話は聞かない方が良いと、頭の片隅でもう一人の自分が囁いた気がした。
「その二ノ宮のことがまだ好きで、今度会って告白しようと思っているけど、どうしたら良いかって相談されて…俺もどうアドバイスしたらいいか悩んでて…」
『好き…?告白…?』
成人がモテる事は十二分に理解しているつもりだった。理解していても、実際に自分以外の女が成人と関係を持ち、そこに恋愛感情が絡んでいると知るのは嫌な気分だった。
「それは…困ったね…」
『その女の人は、いつ成人君と関係を持ったの…?私と再会する前?…後?まさか…でも…』
心臓が嫌な音を立てて脈打った様な気がする。足先からどんどん冷えてきて、顔が強ばってくる。
「どうすれば良いと思いますか?」
西山が身を乗り出して聞いてくる。
「え…あ…そうね…」
「俺的には、そんな最低な男はやめた方が良いと思うんですが、知り合いは好きだって泣くんですよ」
「…そうなの…」
「そもそも、その二ノ宮って男は、色んな女の人とそういう事になってて、本当に、そんな男と付き合ったって裏切られるだけなんだから止めた方が絶対いいと思うんです!」
「…そうね…普通に考えたら西山君のいう通りだと思う…」
『男の西山君には分からないのかもしれない…私達女にとって…裏切られても構わないと思える程…成人君が魅力的な男だって事は…』
「ですよね?!」
「ええ…」
夏子は冷えていく胸の痛みに耐えながら、静かに微笑む事しか出来なかった。

西山の話を聞いてから、夏子は極力成人の事を考え無いようにした。仕事に集中していれば余計な事を考えないで済む。
成人と再会する前は仕事と読書しかやる事の無かった夏子は、以前の自分に戻った様な感覚でサービス残業をした。
しかし、新卒で入社してきたフロントの女性社員の吉田に心配されて、夏子は仕方無く仕事を切り上げた。
成人が居ない事が分かっていて、成人のマンションに帰るのも妙な気がして、夏子は久しぶりに職場に近い自分の家に戻る事にした。
『あ…成人君からの着信…』
私服に着替えて自宅に戻る道すがら、バッグに入れっぱなしにしていたスマホを見て気がついた。
今まで携帯電話を持っていなかった夏子は、母親が他界してから必要に駆られて持つようになった。
持ち慣れていないからか、携帯電話を携帯する事もしばしば忘れる。
成人にも携帯しなければ、携帯電話と言わないと窘められた事があった。
液晶画面の時刻は夜の九時を過ぎていた。恐らく夏子の仕事が終わる七時過ぎに電話を掛けてくれたのだろう。
『ごめんなさい…成人君』
かけ直そうか迷ったが、今は成人と上手く話せる自信が無かった。更に仕事を邪魔してしまうかもしれないと思ったら、かけ直す事が出来なくなった。
『そういえば…いつの間にか成人君の番号が携帯に登録されてたけど…いつしたんだろ…?』
夏子はした覚えが無いから、成人がしたのだろう。
昔、定職に就けずに色々な仕事をしたが、恋人同士の携帯にまつわるトラブルをよく耳にした。
夏子は成人に無断で携帯を操作されても特に何も感じなかった。隠す様な事もないからだ。
それにあの日、そのお陰で直ぐに駆けつけて夏子を助けてくれた成人を思い出して、胸が締め付けられた。
『成人君…』
夏子が借りている職場から歩いて十五分の所にあるマンションは、時子が所有している女性専用のマンションで、セキュリティもしっかりしていた。
夏子が友達価格で安く借りている八畳のワンルームは六階にある。
久しぶりに帰った自分の部屋は、ガランとしていた。成人のマンションの部屋も物が少ないが、自分の部屋は更にその上をいく。
三段ボックスの上に母親の位牌と写真を置いていて、夏子は先ず母親に供えていた水の交換をした。
二週間以上取り替えていなかったグラスの中には埃が浮かんでいた。
「お母さん…ごめんね…」
台所の流しでグラスを洗い、新しい水を入れる。乾いた台布巾を濡らして、汚れの目立つ所を拭き始めたら止まらなくなった。
夜だが部屋を換気し、気が済むまで掃除を続けた。掃除の最中、またスマホが鳴ったが、夏子は気付かない振りをして風呂場に向かった。
シャワーで髪と身体を洗い、風呂場も掃除する。掃除をしながら涙が溢れてきた。
「何やってるの…私は…」
風呂場のタイルをブラシで擦りながら泣く自分が可笑しくて、泣きながら笑った。
『成人君…あなたを信じて、あなたの傍にいる事は…苦しい…』
例え夏子と再会する前の過去の話だったとしても、自分以外の女を抱いた成人がいた事が嫌だ。成人から逃げた自分が嫌だと思うのは自分勝手だと分かっているが、嫌な物は嫌だ。
成人は慣れた手管で夏子を籠絡し、簡単に悦楽の極みに落とす。そこには常に成人の過去が見え隠れして、内心嫉妬に焼かれていた事を成人は知らないだろう。
成人になら何をされても構わないと思っているが、自分を抱いているのに他の女を抱く事だけは許せなかった。
『もしも…今も私以外の女性がいるなら…私はどうするの…?』
婚約指環を貰い、家族に紹介された自分は、他の女の影を気にしながら結婚するのか?
「分からない…」
浴室のタイルの上で身を縮めて考え続けたが、答えが直ぐ出る筈もなかった。
「…寒い」
すっかり身体は冷えてしまったが、もう一度シャワーを浴びる気にはなれなかった。
浴室から出てバスタオルで身体を拭いて、久しぶりのパジャマに着替えた。
成人のマンションにいる時、風呂上がりはバスローブだった。
私物を持たずにマンションに連れて行かれたので夏子の替えの服が無く、成人は大量に夏子の為の衣類を購入してくれた。だが、その中にパジャマは無かった。
不思議に思って聞いた夏子に、成人は着る暇は無いから必要無いと微笑んだ。
「成人君…」
短い時間でも、夏子の中に既に沢山の成人との思い出があった。
『無駄に歳だけ食って…私は年相応の経験が乏しい…。成人君に釣り合う女になりたいのに…、どうなれるかも分からない。私も、成人君みたいに他の人と経験を積んでたら、西山君から聞いた話にも動揺したりしなかったのかな…』
例え愛人でも、成人の温もりの片鱗さえ感じられたら、幸せでいられるのだろうか。
成人の全てを欲する事は、子供じみているだろうか。
『昨日の車でも…頑張ってみたけど結局上手くできなくて、成人君に気を使わせてしまったし…』
車の中でされた口付けと愛撫に、また過去の成人を感じてモヤモヤした。過去の女と張り合って、車の中で最後まで抱き合う誘惑に駆られたが、やはり羞恥が勝って出来なかった。せめて成人だけでも快くしたくて、初めて成人の男性を口で愛した。
『…下手だっただろうな…』
長身だからなのか、成人の男性は大きい。
躰は成人以外を知らないが、夏子は数多の変質者達のグロテスクなモノを、幼少の頃から目の当たりにしてきた経験からの対比でそう思った。
口に入れるのも難しかった。
飲み込みながら舐めるなんて更に無理だった。
どうしたら気持ち良くなってくれるのか分からなくて、とにかく必死で咥えてみたが、結局成人が動いてくれて、射精してもらえた。
何だか分からないまま、成人の精を飲み込んだら怒られてしまった。
『成人君だって…私の…舐めたり吸ったりするくせに…自分がされるのは嫌なんて…狡い』
夏子は被せていたシーツを取って、布団を敷いた。玄関扉や窓の施錠を再確認して、スマホのアラームをセットする。
夕飯用に買ったコンビニの弁当とお茶を、何も入っていない冷蔵庫に入れて布団に潜り混んだ。
食欲が湧かない。
『メンタル…弱くなっちゃったな…』
成人と逢う前は何事にも揺るがない根性を自負していたが、成人と逢ってから夏子は変わった。
心は常に揺らぎ、不確かなモノに翻弄されている様な感覚に、いつも不安を感じている気がする。
成人を信じると決めたはずなのに、不安は波の様に寄せては返す。
共に生きると誓ったはずなのに、傍に居て良いのか迷い始める。
『確かなモノが欲しい…』
それが結婚だというなら結婚したい。
しかし、何かが違う気がする。
『成人君…』
夏子は自分の身体を抱き締めながら、胎児の様に丸くなって目を瞑った。


《成人》


仕事が終わる時間を見計らって電話を掛けたが、夏子は電話に出なかった。
心配になったが、スマホのGPSで位置確認をして、まだ職場にいるようで安堵した。
今日は取引先を五件回って、新規の契約を三件取り、営業部のパートナーとして一緒に仕事をする先輩の新倉と共に出向先の会社に戻ったのは午後八時を過ぎていた。
残った仕事は明日にして帰ろうとする新倉に冷たい一瞥を送って、成人は黙々と事務処理をした。
後一週間もすれば、成人が新しい会社に出向する事を新倉も知るだろうが、まだ部長以外には誰にも伝えていない。だからどんな仕事でも先伸ばしに出来ない。次の用事までに終わらせる為に黙々と作業を続ける。
「なぁ、二ノちゃん、もしかしてこの後デート?」
向かいの席でペロペロキャンディーを咥え、パソコンを操作しながら成人に話し掛けてくる新倉に、成人は内心で溜め息を吐いた。
「何故ですか?」
「めっちゃ時間とスマホを気にしてるから、おデートかなぁ~って」
成人は新倉の洞察力に少しだけ感心したが、パソコンの画面から目は離さずに肩を竦めた。
「秘密です」
「何だよ~、教えろよ~、俺お前の教育担当だぞ、先輩だぞ~?」
「…先輩、早く書類、プリントアウトして下さい」
成人は立ち上がり、プリンターから今作成した書類を取って確認する。
「え?早っ!ちょっと待てよ~」
「待ちません」
成人は最後に経理に提出する為の交通費の計算をして、自分の机回りを整理した。
「…なぁ、二ノちゃんて彼女いるのか?」
「俺の女性関係を聞いてどうするんですか?」
「そりゃ、お前を狙ってる女性社員達に情報を流して、オヤツをゲットするんだ」
「教えません」
「何だよ~。教えろよ~。可哀想だろ~」
新倉も立ち上がり、プリンターまで歩いてくる。
新倉は話し方こそ軽薄だが、成人より少し低いが長身で体格が良い。顔の造作は男臭いが、少し垂れた目が優しくて人に安心感を与えるタイプだ。
営業成績もこの会社では常に上位で、だからこそ成人の教育係を任されたのだろう。
「誰が可哀想なんです?」
「女性社員だよ。お前、近づくなオーラ出してて、好意を持ってる女子が飲みに誘う事も出来ないってさ」
新倉は書類を確認してファイルに入れ、机に戻って計算機を取り出した。
「先輩」
「お?サンキュー」
成人が算出した交通費の請求書を受け取り、写していく。
「なら、先輩から言っておいて下さい。恋人はいます。誘われても飲みには行きません」
「いないわけ無いよなぁ…。オッケー、伝えとく。あ、でも、俺とは飲みに行こうぜ~」
「…自分の肝臓を過信しないで下さい。プライベートでまで飲むのは控えた方が今後の為かと」
「あのさ~、二ノちゃんまだ二十三歳だったよな?もう少し、こう、ウェ~イって感じにならないのか?ガツガツして訳が分からなくなるような熱い感じ?」
見た目に似合わないチャラ男の仕草をした新倉に、成人は苦笑を浮かべた。
「訳が分からない、熱い感じですか…」
夏子の顔が浮かんで、苦笑を深くした成人を見た新倉は、思わず赤面した。
「お前…その顔反則~」
普段は怜悧に過ぎて近寄りがたい美貌が、酷く艶っぽく変化して新倉はドキドキした。
「何を言ってるんです。じゃ、俺は先に失礼します。お疲れ様でした」
成人は時計を確認して、自分の荷物を持った。
「え?何だよ~、一緒に駅まで行こうぜ~」
「急ぎますので、無理です」
成人は新倉を待たずに部屋を出て行く。
スマホを取り出して、もう一度夏子に電話を掛けるがまだ出ない。
「夏子さん…」
嘆息しながら、早足で会社を出てコインパーキングへ向かう。
今朝の夏子は少し変だった。何処か不安そうで、頼りなげだった。
昨夜は夕飯の準備中に仕事の電話が入ってから、間を置かず次々に仕事が増えて行き、夏子と過ごす夜を諦めた。
何とか一緒に夕食だけは摂ったが、明け方まで書斎に籠らざるを得なかった。
更に間の悪い事に、藤堂グループ総帥からの月一回不定期でかかる召集命令が来た。
藤堂本家を筆頭に、分家、遠縁と、優秀な者達だけを選り集めた藤堂グループの各々の分野のリーダー達を集め、グループ全体で問題点や改善点を共有する為に召集される会議という名の親戚の集まりだ。
次期総帥である従兄弟の右腕として勉強中の成人は、三年前からその集まりに強制参加させられていた。
表向きは新卒のサラリーマンであるが、三年前から藤堂グループ本社の株主の一人に加えられており、取締役の一人にさせられていた。
祖父の成人を逃がさないという執念を感じるが、夏子を取り戻す為になりふり構っていられなかった成人は全て受け入れるしかなかった。
『間が悪いが…不審者の件もある…。一日犠牲にするしかないか…』
職場まで夏子を送った時に重い口を開いて、一日会えない事を伝えた。
夏子は一言「分かりました」とだけ言って、車から降りようとした。
成人はそれが嫌で、反射的に夏子の手を掴み、強引に口付けた。
口付けたら、止まらなくなった。
驚きからか拒む様に成人の胸を押してきた夏子の動きを封じる為に、朝にしては濃厚に過ぎる口付けをした。
夏子の吐息も奪うように、甘い唾液を啜り、縮こまる舌を付け根から強く吸った。
夏子は苦しそうに眉を寄せていたが、聞こえる鼻息の甘さに成人の背中が総毛立った。
このまま続けたら間違いなく夏子を車中で犯してしまいそうな気がする程、成人の躰は夏子を欲した。
『一晩抱かなかっただけでこうなるなんて…存在自体が媚薬みたいな人だ…』
理性を総動員させて夏子から離れた成人は、車から降りていつもの様に助手席のドアを開けて夏子に手を差し出した。
夏子は艶っぽく瞳を潤ませ成人をぼんやりと見つめながら、反射的に差し出された手に手を重ねて車を降りた。
車から降りた夏子は我に返った様に顔を俯かせて、成人から直ぐに離れて行った。
表情が見えなくて不安になった成人は夏子の名を呼んだが、夏子は振り返ってくれなかった。
まるで逃げる様に自分から去る夏子を見て、嫌な感覚に鳩尾を押さえた。
『嫌な予感程、良く当たる…』
コインパーキングから車を出し、藤堂グループ本社へと向かう。
夏子に電話を掛けてもメールを送っても反応が無い。
夏子はスマホの存在を忘れる事が多く、一度離れると連絡が取り難い人だった。
故意では無く、携帯電話の存在に慣れていない事が原因なのは分かっていた。
しかし、今夜は違う。故意に連絡を絶っている。
GPSで位置を確認すると、職場から夏子の自宅に移動している。仕事は終わっているのにかけ直して来ないのは何故なのか。
「夏子さん…」
成人はやるせなく夏子の名前を呟いた。
「不安なのは…あなただけじゃ無い…」
共に生きると約束しても、普遍で確かなモノ等この世界には無い。
無いのが分かっているから、普遍で在ろうと努力するしかないのだ。だから想いを婚姻という名で縛り、不確かなモノを形にする。その婚姻だとて、解消する事ができるくらい儚いモノだ。
不安は尽きない。
「夏子さん…俺から逃げないで…」
元より逃がすつもりは無いが、もし今度また夏子が成人から逃げたら、成人は夏子を捕まえて閉じ込めるだろう。成人以外に逃げ場は作らせない。
犯罪染みて倒錯的な思考だが、それが成人の本心だった。
『我ながら、変質的で引くな…』
成人は自嘲した。
国会議事堂を通り過ぎ、皇城の鎮と謳われる神社の先に、遠目にも独特な色合いの高層ビルが見えて来た。
青と紫と白の絵の具が混ざりあったような、マーブル調の色合いが特徴のマハマブルーの、四十階建ての藤堂グループ本社ビルだ。
「恐れ入ります。許可証はお持ちですか?」
グループ本社ビルの地下駐車場に入るには、勿論許可証が必要だ。出入り口の警備員に、成人は役員専用の許可証を見せ、通されて駐車場に入った。
見知った車種が既に駐車されている事に気付き、成人は車を駐車して急いでエレベーターに向かった。
役員専用のエレベーターは目的の階で停まっていた。パネルを押してエレベーターを待つ。
もう一度夏子に電話を掛けるが、やはり出ない。
成人は深い溜め息を吐いた。
エレベーターが開き、成人は目的の最上階であるペントハウスを目指す。
役員専用のエレベーターは、一直線に上に登る。鼓膜が気圧の変化に耳鳴りを起こす。
眼鏡を指先で押して、視線を外に向ける。夜の高層ビル街の景色に、目を細めた。
『夏子さんは夜景は好きかな…?』
軽い電子音の後にエレベーターの扉が開く。
焦げ茶色の重厚な観音扉をノックし、返事も待たず扉を開けて入ると、既に全員揃って各々グラスを傾けていた。
「珍しく遅かったな」
ロマンスグレーの豊かな髪をオールバックにした、現藤堂グループ本社社長である伯父の鈴音すずねが、薄い茶色の瞳を細めて微笑んだ。
「すみません」
特に言い訳はせず、部屋全体を見回して目当ての人物が居ない事を確認し、一番奥のソファーに座るグループ総帥である祖父の下に歩みを進めた。
現在喜寿だが、祖父の宝良たからに老いは見えない。
白髪に澄んだ青い瞳。加齢による皺も、老いでは無く説得力を与える。
スリーピースのスーツを小粋に着こなして座る宝良は、今でも艶っぽくて美しい。
目の前に立つ成人に相好を崩し、両手を拡げてくる宝良に成人は苦笑した。
身を屈めて宝良と軽いハグをして、身体を離して頭を下げる。
「遅れて申し訳ないです」
「構わんよ、それより成、いつになったらお前のハニーを私に紹介してくれるんだ?」
仕事の時は成人でも冷や汗が出る時がある鋭さを見せる双眸を、今はいたずらっ子の様にキラキラさせて祖父は笑った。
成人は苦笑を浮かべて首を横に振った。
「何だ、まだ何も伝えて無いのか…」
宝良も苦笑して、成人を自分の隣に座るように視線で促す。成人は素直に従った。
「ほら、成」
鈴音からブランデーが入ったグラスを渡され、成人はまた苦笑を深くした。
「帰して貰えないみたいですね…」
「当たり前だろ。和人から聞いたぞ、匂い立つ色気の知的な美人らしいな」
「何だ?何の話しだ?」
銀髪でグレーの瞳をした、本家長男の現アメリカ支社長である司音しおんが、面白そうな顔をして話しに割り込んできた。
「成が選んだハニーの話だよ、しお兄」
「Fantastic!和がそう言うなら、相当な美人だな」
「あいつは昔からスレンダーでスタイルの良い知的な美人が好みだったからな。それなのに何故、正反対の天音と結婚したのか、未だに謎だよ」
鈴音は父親とは同い年で、親友を自負しているせいか、言葉に遠慮が無い。
「天音の魅力が分かる和人は、慧眼の持ち主だよ…彼が承知さえしてくれれば、私も引退して隠居出来た筈なんだがな…」
宝良の遠くを見る眼差しに、過去の父親の姿が見えた気がした。
二ノ宮家は、藤堂家とはかなり遠いが縁戚関係があり、その縁で和人は鈴音と親しくなり、天音と出逢ったと聞いていた。
当初祖父は、和人に藤堂グループを継いで貰いたかった様だが、和人に断られたそうだ。
「父さん、酷いなぁ」
「そうそう、私達だって、そう捨てたモノじゃないですよ?」
「不安だから成人を抜擢したんだが?成人がグループ経営に関わる様になってから、伸び悩んでいた各々の分野の業績が伸びて来ている。僅か三年でだ」
宝良の厳しい視線に、鈴音と司音が気まずそうに笑った。
「この際、成に総帥を譲ってみては?」
司音の提案に成人は嫌な顔を隠せなかった。
「そんな嫌そうにするなよ、成」
鈴音は吹き出した。
「晶のサポート役だから引き受けたんです」
成人の冷たい視線に、伯父達は肩を竦めた。
宝良も苦笑し、成人の背中をあやすように叩いた。
「分かっているよ。お前にこれ以上無理は言わない。本当に…そう言う所も父親によく似ているな…。それに、成人は統べるより、裏で暗躍してこそ真価を発揮出来るタイプだ」
宝良の言葉に、伯父達も頷いた。
持って生まれたカリスマ性と高い知能指数に加えて真面目な努力家であるが、成人は汚い事でも必要な事なら割り切って出来る非情さも備えていた。共に仕事をしてみて分かった、甥っ子の恐々とする資質に早くから気付いていた宝良の慧眼こそ、恐ろしいともいえる。
「お話し中失礼致します、不審者の件でご報告に参りました」
成人は近づいて来る長身の美丈夫に視線を移した。
『やっと来た』
成人が待っていた男は、藤堂グループの防犯警護、情報セキュリティを一手に担う、トータルセキュリティーセクション統括部長である橘だった。

「…疲れた」
いつもこの集まりの後は疲労を感じる。皆、成人を可愛がり、若輩でも対等な協力者として尊重してくれる。しかし、誰も彼もが海千山千、百戦錬磨の実力者達だ。気を抜けば骨の髄まで食らい尽くされる緊張感の中、必要な情報を引き出し、又は与え合う。
必要な話し合いは夜中の三時までかかり、その後は自由解散となった。
引き留める伯父達を振り切り、成人は本社ビルを後にした。
夏子の家に行くつもりで車を走らせていたが、ジャケットの内ポケットに入れていたスマホが震えた事に気付いて一旦コンビニの駐車場に入った。
スマホを手に取り、夏子からのメールの着信を確認して嫌な予感に眉を寄せた。
「…どういうつもりですか…夏子さん…」
メールには、連絡をしなかった謝罪と、暫く一人で考えたい事。成人のマンションには戻らないとだけ書かれていた。
疲労感と焦燥感で頭痛がしてくる。
成人は眼鏡を取り、目頭を指で押さえながら運転席の背凭れに背中を預けて溜め息を吐いた。
『何だか…溜め息ばかり吐いている気がする…』
捕まえても直ぐに夏子は逃げて行く。
「何があったんだ…?」
昨日別れる時から、夏子の様子は変だった。そして、一人で考えたいと思う何かが職場で起こった。
もう一度溜め息を吐き、成人はどうするか考えを巡らす。
今日のところは夏子の気持ちを尊重しよう。成人としても、今日中にやっておきたい事が沢山ある。
スマホを見つめながら、夏子に連絡するか迷い、結局諦めた。
連絡しても夏子が出ない事は分かっていた。
『変に強情だからな…あの人は…』
成人は口を歪めて笑い、再びエンジンをかけて車を走らせた。
夏子のいないマンションに帰宅した成人は、部屋の暗さに悪寒が走った。
夏子の気配が無いだけで、部屋は牢獄のようだった。
『よく今まで俺は何年も耐えていられたな…』
明日は必ず夏子を捕らえて離さないと、成人は決心した。

『ここの桜も見事だな…』
翌日、決心した通り成人は夏子の仕事が終わる時間を見計らって、職場まで迎えに来た。
予定では午後八時に夏子の勤務は終わる事になっていたが、二時間待っても出てこない。
夏子は何かあると仕事に逃げる傾向がある事が分かった成人は、職場に姿を見せて夏子にプレッシャーを与えた。
『逃げられないですよ…夏子さん』
フロントにいた、夜勤バイトの西山という男の嫉妬心に気付いた成人は、夏子が何かに悩む原因を作ったのが誰か推測できた。
駐車場で待っていると伝言をもう一人の女性従業員に頼み、駐車場に戻った成人は自分の車に凭れて桜を見上げた。
桜木家本家の庭園から伸びる桜の枝振りの見事さに成人は見惚れた。
夏子もここの桜に誘われたと言っていた事を思い出す。
今日は半月だが、驚くほど月明かりの強い夜だった。
『…それで隠れているつもりか…?』
従業員出入口の側にある物置小屋の影に隠れて成人を伺っているのは、フロントにいた西山だ。
『夏子さんに何を吹き込んだのか…花に群がる虫は駆除しないとな…』
成人は気付かない振りで桜を見上げたまま、策略を練り始める。
コツコツと女性の軽い足音がして、成人は従業員出入口に顔を向けた。
階段を上がってくる夏子の姿を見つけて、成人の鼓動が跳ねた。
いつも通りに艶やかな黒い髪は一つに纏められアップにされている。黒曜石の様な瞳は不安気に揺れて、成人の嗜虐心を煽る。
シンプルな服は定番のシャツとジーンズで、二日ぶりに見る夏子は変わらず綺麗だった。
『…でも、少し痩せたか?』
「お疲れ様でした。…今日は俺と一緒に帰ってくれますか?」
成人は車に凭れたまま、夏子に静かに聞いた。
「…ごめんなさい」
夏子は成人に気付くと、歩む速度を落としながらも、律儀に成人の前まで来た。
「もう少し…一人で考えたい」
俯く夏子を見下ろしながら、成人はわざと夏子に聞こえる様に大きな溜め息を吐いた。
夏子の肩が揺れる。
「せめて、何があったのかくらい教えて貰えませんか?何を考えたいんですか?」
俯く夏子の細いうなじに目が行く。夏子の首筋に口付けたい欲求を抑えるため、成人は一旦夏子から視線を外した。
西山がソワソワしながら様子を伺っているのが見えて、成人は皮肉げに微笑した。
「…言いたくない」
『言いたくないときましたか…』
「夏子さん…」
成人の小さな溜め息に、夏子は俯けていた顔を上げ、涙で潤んだ瞳を必死に見開いて真剣な顔で成人を見つめてきた。
「…私…あなたが好きなの…だから、どうしたら良いのか分からないの…」
震える声で精一杯の言葉を伝えてくれた夏子を、成人は愛しげに見つめて微笑んだ。
「なるほど…何があったのか大体察しがつきました」
成人は夏子の少し細くなった肩を掴み、自分の胸に引き寄せた。
「今日は無理にでも一緒に帰って貰います」
「成…っ…んっ…」
それほど強く抱き締めてはいないが、夏子は逃げずに成人の唇を受け入れてくれた。
二日ぶりの夏子の甘い唇を貪る。
物影に隠れて見ている西山の悔しげな視線を受けて、わざと視線を一度合わせた。
何度も角度を変えて、歯列を舐め、上顎を擽り、舌を絡めて吸う。
「ん…っ…はっ…」
夏子は苦しそうに眉を寄せ、脚が小刻みに震えて立っているのが辛そうだった。太ももを絞めて、夏子の腰がカクンと跳ねた。
成人は夏子が口付けに感じて、軽くイッた事に気付いた。
「おっと」
へたり込みそうになる夏子を横に抱き上げた。
羞恥に頬を染めて、潤んだ瞳をさ迷わせる夏子を車の助手席に座らせ、素早くシートベルトを締めた。
運転席に座り、成人はエンジンをかけて車を走らせた。
夏子は恥ずかしそうに目を伏せて、拳を握りしめていた。握られた左手には、夏子の母親の形見が填められている。半ば予想していた事だが、成人は切なかった。
『とりあえず…俺に触れられても拒絶反応が無い事は分かった…』
夏子の職場から最寄りの駅までは一本道の道路を進み、右折して三十秒程車を走らせ、建ったばかりのマンションの地下駐車場に車を入れた。
夏子が逃げないように素早く車を降りた成人は、助手席のドアを開けて手を差し出す。
夏子はその手をじっと見つめ、躊躇しながらも手を重ねた。
車から降りた夏子の腰に腕を回し、助手席のドアを閉めてロックする。
「こっちです」
エレベーターの方に促し、パネルを押す。
「あの…ここは?」
夏子が不安気に聞いてくる。
「俺達の新居です」
「え?」
エレベーターのドアが開き、成人は夏子を中に促して最上階のパネルを押した。
「新居って?え?何で?あのマンションは?」
普段の落ち着きは霧散し、困惑する夏子の様子を見て思わず成人は笑ってしまった。
『可愛いな…夏子さん…』
クスクスと笑う成人を見て唇を引き結び、夏子は成人から顔を背けた。
「駄目です」
成人は夏子の顎先を掴んで上向かせた。
眉を寄せて唇を引き結んで成人を見つめる夏子の額に口付けを落とした。
「…もう…狡い…」
夏子は悔しそうに呟き、観念したように自分から成人の胸に顔を埋めた。
「夏子さん…」
成人は夏子の髪に鼻先を埋め、背中を抱き締めた。
「…もう何番目でもいい…」
『…はっ?』
夏子の消えそうな呟きが聞こえ、成人は目を見開いた。
『…どういう意味だ?』
エレベーターが目的の最上階に到着し、軽い電子音を立てて扉が開いた。
夏子の腰に手を添えながら、エレベーターを降りて一つしか無い扉の前に立った。
新しい鍵で施錠を解除し、扉を開くと真新しい部屋の匂いがした。
「…入って下さい」
「…お邪魔します」
夏子は遠慮がちに玄関の三和土まで足を進め、中を伺った。部屋の作りは住んでいた都内のマンションと余り変わらない。
「…ただいま、です」
成人に訂正されて、夏子は成人を見上げた。
「ただいま…、あの、本当に…今日からここに住むの?」
「ええ、荷物は全て移してあります」
「本当に…?」
「確認してみて下さい」
夏子は成人と部屋の奥を交互に見て、靴を脱いだ。
キョロキョロしながら部屋の奥に進んで行く夏子の背中を見送り、成人は玄関扉を施錠した。
『さっきの言葉は何だ…?何番目でもいい?…あの虫、何を夏子さんに吹き込んだ?』
「うわ~」
奥で夏子の声がして、成人は沈みそうになる思考を浮上させた。
靴を脱いで部屋の奥に急ぐ。
リビングの奥のルーフバルコニーに夏子はいた。
「成人君、綺麗だよ」
都内のマンションのバルコニーの景色は建物ばかりで、景観が良いとは言えなかった。
都会と田舎の入り交じったこの場所は、まだ余り高い建物も多くは無い。バルコニーから見る夜景の灯りは穏やかで、心地好かった。
「本当だ…綺麗ですね」
車の音を遠くに聞きながら、成人は眼鏡を外した。ポケットに眼鏡を入れながら、指の腹で目頭を揉む。
「…ごめんなさい…疲れさせて」
夜景を見ていると思っていた夏子は、成人を哀しそうな瞳で見つめていた。
二歩の距離をおいて立つ二人の間に、見えない溝を感じて成人は天を仰いだ。
『夏子さんとまで腹の探り合いはしたくない…』
成人は夏子を真っ直ぐに見つめた。
「何番目でもいいって、どういう意味ですか?」
「え?」
「エレベーターの中で言ってましたよね」
「あ…っ」
夏子は自分の口を掌で覆った。その仕草に無意識に出た言葉だと分かった。
「俺が、あなた以外の女と関係を持ってると思ってるんですか?」
「…違うの…?」
夏子は俯いて呟いた。
沸々と沸き上がる怒りを、成人は必死で抑えた。
「あなたしか要らない…あなただけを愛してるって…俺の言葉も想いも届いていなかったんですね…」
「違うっ…ちゃんと」
「ちゃんと届いていたら、何番目なんて考えたり出来ないですよね?他の女を抱いてるとか、考えたりしないですよね?何番目でもいい?俺の事をどんな男だと思ってるんですか?」
成人に矢継ぎ早に責められて、夏子は子供の様にしゃがみこんで叫んだ。
「だって!犯り捨てた人、沢山いたって!」
「は…?」
夏子の叫びに成人は虚を突かれて冷静になった。
夏子の口から出た、らしくない言葉に、虫の存在を感じた。
「誰が言ってたんですか?」
成人はしゃがむ夏子の前まで進み、自分もしゃがんだ。
「バイトの…西山君…」
『やっぱり…あの虫め…』
成人は苦々しい顔をして、溜め息を吐いた。
「…夏子さんは俺より彼を信じるんですね…」
「違うっ…」
夏子は慌てて顔を上げた。
涙で濡れて目元が赤くなっている夏子の目尻に、成人はそっと指を滑らせて涙を拭った。
『俺に増えたのは溜め息…夏子さんは泣き顔…。駄目だな…全然守れてない…寧ろ泣かせてばかりだ』
「過去の自分は確かに…あなた以外を抱きました」
「…っ」
成人の言葉にまた夏子の瞳から涙が溢れる。
「正直…あなたを想い続けるのは辛かった…想いを断ち切ろうと努力してみた事もありました」
成人は夏子の溢れてくる涙をまた指で拭って苦し気に微笑んだ。
「他の女を知れば…想いを断ち切れるかもと、浅はかに考えてみました…でも結局、誰を抱いても夏子さんに思考は繋がって…想いが募って…」
成人は夏子の頬を掌で包んだ。
「夏子さんの肌はどんなだろう…抱いたらどんな声を上げるのか…躰の奥はどれだけ熱いのか…そんな事ばかり考えながら他の女を抱いてました…最低だったのは認めます。でも…正直…犯り捨てた覚えは無いです」
「…捨てて無いの?」
夏子は成人の掌に自分の掌を重ねた。
「…言い訳に聞こえるかもしれませんが…恋愛感情抜きの割り切って遊べる女性としか関係しませんでした…一度だけの関係です。それを約束出来ない人とは関係を持たなかった。…そんな事をしてたのも高校生の時だけで、あなたを想い続けると決めてからは誰とも寝ていません」
「…高校生の時の話なの?」
「ええ…あなたと再会するまでの四年間、誰とも寝てません」
「え?あの…じゃ…えぇ?」
夏子の百面相を成人は苦笑しながら見つめた。
『あの虫…過去と現在を上手く脚色して話したか…この礼は高くつくからな…』
「あの…でも…成人君にとってはそうでも…相手の女性達はそうじゃなかったんじゃ…ない?」
「…それを言われると…そういう人もいたのかもしれませんが…正直、そこまで責任は持てません。俺は一晩だけの遊びと明確に伝えてました」
成人の非情な言葉に、夏子は重ねた成人の掌を握った。
「…最低」
「はい…最低です…嫌いになりましたか?」
「…なったと思う…?」
「思いません」
夏子は泣きながら笑った。
「…本当に…昔はもっと可愛かったのにな…」
「…可愛かったですか?」
成人はバルコニーのタイルの上に胡座をかき、夏子を膝の上に乗せた。
『そういえば…俺のどこを気に入って、受け入れてくれたのか聞いた事が無いな…』
「可愛かったよ…真っ直で、一生懸命で…」
夏子は成人を見上げながら、昔の成人を見るような眼差しをした。
何となく面白くなくて、成人は唇を引き結んだ。
夏子は成人の頬を掌で包み、微笑んだ。
「それなのに、今はこんなに斜めな性格になっちゃって…意地悪だし、嘘つきだし…」
「酷いですね…そんな男をあなたは愛しているんですか?」
夏子は自分から成人の唇に唇を重ね、直ぐに離して成人の頬を指で摘まんだ。
「…二日間考えてみたけど、結局、何があっても何をされても、あなたを失いたく無いって事しか考えられなかった…でも、今も、私以外を抱いてるなら耐えられないって…でも、失いたくなくて…もう、自分でもどうしたいのか、どうすれば良いのか分からなくなって…成人君に逢うのが怖くなって…」
涙を溢しながら、震える声でゆっくりと想いを告げる夏子を、成人は静かに見つめた。
「それで…出た答えが、何番目でもいい?」
「…ごめんなさい」
夏子は成人を見ていられなくなったのか、成人の胸に顔を埋めた。
「お願いします…俺を信じて」
成人は祈る様な思いで、静かに告げた。
「…はい」
成人の胸に顔を埋めながら頷いた夏子のこめかみに口付けを一つ落として、成人は小さく苦笑した。
「…下世話ですが…今さら夏子さん以外の女に役に立つとは思えないですし…安心して下さい」
「…役に立つ…?…何が?」
夏子が不思議そうな顔をして成人を見上げてきた。澄んだ瞳が眩しくて、成人は天を仰いだ。
「あ~…、すみません、今のは忘れて下さい」
『本当に…見た目と中身のギャップが凄すぎてクラクラするな…この人を箱入りに育てた夏子さんの母親に感謝するべきか恨むべきか…』
「成人君…?」
訝し気に成人を見上げてくる夏子に誤魔化す様に微笑み、成人は夏子の膝裏と背中に腕を回して立ち上がった。
「わ…っ、あ、あの、成人君、重いでしょ?歩けるから降ろして」
横抱きにされて成人の肩にしがみつき、夏子は顔を赤くした。
「夏子さん、少し痩せましたよ?ちゃんと食べてましたか?睡眠は?」
「…食べてたよ?コンビニのお弁当だけど…。ちゃんと睡眠も…」
「ほ~?」
夏子を横抱きにしながらバルコニーからリビングに戻った成人は立ち止まった。
「これからどうするか、夏子さんに選ばせてあげます」
「え?」
「寝室に行くか、風呂場に行くか、どちらにしますか?」
成人はポーカーフェイスの優しい微笑みを浮かべて夏子を見つめた。


《夏子》


『し、寝室って…言えば良かった…』
優しい微笑みを浮かべた成人に見とれて、何も考えずに風呂場を選択した事を夏子は後悔した。
リビングから風呂場に横抱きの状態のまま連れて行かれ、広い脱衣場で降ろされた。
自分で脱ぐか、成人が脱がせるかの選択肢を与えられ、夏子は成人の目の前で自分で服を脱ぐ羽目に陥った。
『は、恥ずかしい…あんまり見ないで…っ』
日常の延長で、理性のある状態で、好きな人の前で裸になる事がこれ程恥ずかしいとは思わなかった。
「ほら、手が止まってますよ?」
「…見ないで」
成人に背中を向けてシャツのボタンを外していると、後ろで成人が小さく笑った事に気付いて視線を上げた。
『か…鏡…』
シャツのボタンが外れ、インナーのタンクトップが見えている自分の背後に、成人の長身がしっかり映っていた。
鏡の中で目が合って、夏子は赤面した。
『色っぽい…』
濃いブラウンのスーツのジャケットは既に脱いでいて、成人は慣れた仕草で深緑色のネクタイを外した。白いワイシャツのボタンを外しながら、成人は夏子を面白そうに見た。
「ほら、また手が止まってる。競争しましょうか?どっちが早く脱げるか」
「えっ?」
「十秒数えても脱ぎ終わらなかったら罰ゲームですよ。はい、いーち、にーい」
そう言いながら脱ぐ速度を早めた成人を見て、夏子も慌てて服を脱ぐ。
シャツを脱ぎ、タンクトップを脱いでジーンズを下ろしたところで我に返った。
成人が声を殺して笑っている事に気付いて憤慨する。
「もう!成人君!からかってばっかりっ」
しゃがみ込んだまま怒っても迫力は無いが、言わずにはいられなかった。
「すみません…、この手が夏子さんにも通用するとは思わなくて…」
上半身だけ裸になっていた成人が、珍しく楽しそうに笑っているのを見て、夏子の頬も緩んだ。
「この手?」
「ダラダラしてる弟達を急かさないとならない時に使ってた手です。タイムリミットを設けて、競わせると、何故か子供って早くやろうとするんです。面白いですよね…」
弟達の事を話す成人の顔は優しくて、夏子は成人が更に愛しくなった。
「成人君…お母さんみたい」
「…せめてお父さんと言って下さい」
照れたように苦笑する成人を見上げて、込み上げてくる優しい気持ちに夏子の顔も優しくなっているようだ。自然に口角が上がって、先程までの羞恥心も吹き飛んでしまった。
夏子は床に落ちた自分の衣服を拾って立ち上がると、成人に突然抱き締められた。
「な、成人君…?」
「反則です…その顔…」
「えっ?あっ…」
ブラジャーとショーツだけになっている夏子の躰は無防備で、成人の手が背中に触れただけで躰がビクンと反応する。
「背中、弱いですよね…本当に…」
「あ…やっ…んっ…」
優しく背中を撫でられているだけなのに、躰が敏感に反応する。
成人の唇が首筋を撫で、ゆっくりと吸われただけで、躰の奥がギュッと収縮したように感じた。
背中を撫でていた成人の手が滑る様に双丘を撫で、脚のつけ根を掴んだ。
「んっ」
ザワザワと妖しい感覚が沸き起こり、夏子は息を飲んだ。
自分の躰の奥が切なく蠢いて、トロリと奥から熱いモノが溢れ出してくるのを感じた。
『あ…やだ…』
躰を撫でられているだけで濡れてくる自分の淫らな躰に羞恥を感じて、夏子は成人から離れようとした。
硬く引き締まった成人の上半身は裸で、触れていいものか迷いながら胸に手を当てて押した。
「あ…あの…離して…」
「嫌です…」
「やっ…!」
成人は夏子の腰を掴み、空いた手で脚のつけ根から、ショーツのクロッチの部分をずらして直接秘部に触れた。
成人の長くしなやかな指が、夏子の塗るついた秘裂を撫でる。
「…凄い…ぬるぬる…下着もびしょびしょですね」
「嫌っ…」
『そんな事言わないで…っ』
「嫌ですか…?嫌そうには思えないけど…」
成人の人差し指がゆっくりと夏子の秘裂の襞を掻き分けて、切なく収縮する奥に埋め込まれた。
何かを探すように蠢く指の感触に、夏子の下半身が震えた。
ホテルの駐車場で成人に口付けられた時、信じられないくらい躰が喜んで腰が砕けたように力が入らなくなった。下着が濡れた感触に夏子は消えたくなった。
『いやらしい女だって思われたくない…』
昔から年配の男性や変質者達に性的な目で見られている事は分かっていた。
なるべく目立たない様に、女として見られないように気をつけて生きてきたつもりだ。
成人に触れられるだけでいやらしく躰を濡らす自分は、だから変質者達に性的な目で見られるのかと思ってしまう。
「んっ…やっ…」
また指が増やされて、躰の奥に埋め込まれた。
指が上下に出し入れされ、グチュグチュと水音が立って夏子は首を横に振った。
「も…本当に…嫌…」
「何が嫌なんですか…?指が嫌?」
何が嫌なのかよく分からない。ただ淫らになる自分が嫌なだけだが、とにかく止めてくれるならと、必死に頷いた。
「本当に…迂闊な人だな…」
「えっ?ひゃぁっ!」
指を引き抜かれ、躰を返されて洗面台にしがみつく格好をとらされた。
「や、嫌ぁっ」
成人は夏子のショーツを下げて突き出た双丘を割り開いて、秘部を顕にした。
後ろから熱く蠢く舌に襞を舐められる感触に、夏子は首を振った。
「これなら良いですか?」
「や、嫌ぁっ…あ…うっ…んんっ…」
舐められる度に奥が切なく収縮して、またドロリと熱い蜜が溢れた。
舌が差し込まれ、浅く何度も出入りする。その動きに合わせて成人の指が、秘裂の上の充血した秘芽を刺激する。
ガクガクと開かされた脚が震える。
「嫌っ…や…後ろからは…嫌っ…」
成人の姿が見えない態勢は、まだ怖い。そう言えば成人が止めてくれると夏子は知っている。
案の定、成人は舌を抜いて立ち上がった。
夏子はほっとして、強い快楽の刺激に緊張していた躰を弛緩させた。
「こうすれば…怖くないですよね?」
成人は夏子の顎を掴み、俯けていた顔を上げさせた。鏡越しに艶っぽく微笑まれ、夏子は全身を朱に染めた。
「ちゃんと俺を見てて下さい…。あなたに触れているのは誰ですか?」
成人は夏子を背中から抱き締めながら、鏡越しの夏子を見て囁いた。
「な…成人君…」
「そう…俺です…」
成人は夏子の耳殻を甘噛みしながら、ブラジャーのホックを外した。
「や…」
下着から解放された乳房が鏡に映って、夏子は顔を俯かせた。
「駄目ですよ…ちゃんと見て」
「あっ…」
耳殻から首筋に唇を滑らせながら、成人は夏子の揺れる乳房を掌で包んだ。
「すっかり硬くなって、尖ってますね」
「嫌っ…言わないで…」
『もう嫌っ…恥ずかしいよぉ…』
せめて暗い寝室でなら耐えられるが、明るい脱衣場で、鏡に映った自分の愛されている姿を見せられるのは、慣れない夏子には辛かった。
「綺麗です…夏子さん…」
「あぁ…」
両手で乳房を掴まれ、円を描くように揉まれる。かと思えば、両サイドから挟むように揉まれ、タプタプと音を立てて乳房を愛撫された。
硬くなった先端を摘ままれ、引っ張られて肩が跳ねた。強く弾かれた後に優しく撫でるように刺激されて、放置された秘裂がズクズクと疼いた。
『嫌だ…こんな顔…見たくないのに…』
成人の愛撫に興奮している自分の淫らな顔が鏡に映っている。
せめて声だけは出したくなくて、唇を引き結ぶ。
「んっ…!」
首筋を強く吸われ、チクリとした痛みの後にチリチリとした快感が生まれて夏子は眉を寄せた。
躰の奥の淫らな熱がどんどん膨らんで、溢れ出る蜜が太ももまで濡らす。
『欲しい…けど…こんな所でなんて…でも…』
唇を噛み、鏡越しに成人の艶っぽい美貌に視線を向けた。成人は夏子を誘うように見つめながらも、特別熱くなっているようには見えなかった。
『私だけ欲しがって…言えない…どうすれば…』
二日ぶりに成人に触れて貰えて夏子の躰は歓喜しているのに、成人は冷静で、夏子は恥ずかしくて消えたくなった。
「そろそろ欲しいですか?」
夏子の心を読んだように囁いてくる成人の声に、躰はまた感じて濡れた。
立っているのも辛くて、夏子は洗面台にしがみつきながら頷いた。
『欲しい…早く…入れて…っ』
成人はベルトのバックルを外し、特に急ぐ事もせずにスラックスの前を寛げた。
「…っ」
硬くそそり立った成人の男が、夏子の秘裂に当てられた。
期待に喜んだ最奥のうねりを感じて、夏子は瞳を閉じた。
「…奥に欲しいですか?」
「んっ…」
夏子は頷く。
「駄目ですよ、ちゃんと鏡を見て」
「成人…君…っ」
『お願い…早く…』
夏子は言われた通り、鏡に映る成人を見つめた。
「まだお仕置きが済んでいませんでしたよね?」
「…っ」
まさかの成人の言葉に、夏子は泣きたくなった。
『何で意地悪するの…』
「今夜は、俺以外に見惚れたあの日の分です」
「成人君…ごめんなさい…だから…もう…」
成人はほつれた夏子の髪を指に絡め、そっと口付けながら微笑んだ。
『こんなに熱くなってるのに、なんでそんなに余裕なの…っ』
濡れそぼった秘裂の入り口を、張り出した部分で撫でるだけで、成人は入れようとしない。
「成人君…っ、成人君…お願いっ」
「そんなに欲しいですか?びしょびしょで、大洪水ですよ」
「もう…嫌ぁっ」
とうとう夏子は涙を溢した。
「ほら、泣かないで…欲しいんですよね?今日はお仕置きなんですから、頑張って下さい」
泣いても続く生殺しのお仕置きに、夏子は成人の本性を垣間見た気がした。
年上の矜持も忘れてグスグスと泣き始めた夏子に苦笑した成人は、慰めるように夏子の背中に口付けを落とした。
「仕方無い人ですね…そんなに我慢できませんか?」
「もういい…しないで…」
口は強がっているが、躰は成人が欲しくて泣いている。
「自分で広げて下さい。そうしたら入れてあげます」
『狡い、狡い、そんな顔で…そんな優しい声で…』
言っている事は鬼畜だが、成人の顔は涼しげで情事に耽っている顔では無かった。
「うぅ…っ…も、嫌いっ…」
夏子は泣きながらも、言われた通りに両手を自分の双丘に回し、腰を突きだして自ら秘裂を顕にした。
「…っ…」
成人の息を飲む気配を感じたが、硬く目を瞑った夏子には成人の表情を見る余裕は無かった。
「よく出来ました…愛してます…夏子さん」
蕩けそうに甘い成人の囁きの後、熱く長大な成人の滾りが夏子の秘裂の襞を掻き分けて埋め込まれた。
「ああっ…!」
焦らされ続けた秘裂は、瞬く間に熱くなって無意識に成人を引き絞った。
「凄い…っ…」
「ああっ…っ…んんっ…やっ、待って、そんな…っ」
涼しげな顔で夏子を焦らし続けた男とは思えない、情熱的な腰の動きに、夏子は堪えきれず嬌声を上げた。
「はぁ、っん!ああっ!」
みっちりとした充足感で夏子の秘裂を満たす成人の滾りに、襞が喜んでうねうねと絡み付く。
「…っ!」
絡み付きながらも、張り出した部分と根元を締め付けて、成人は苦し気に眉を寄せる。
「この躰以外、欲しいなんて思えるわけがないでしょう?」
苦し気に囁く成人の声に、夏子はまた感じて自らも腰を振った。
「夏子さんっ…夏子っ」
「ああっ…!成く…んっ!」
肌と肌がぶつかり合って立つ淫靡な音。
荒い息遣いと、秘裂を割り開き夏子の最奥を貫く時に出る粘度の濃い水音。
背後から男を受け入れる動物的な体位は、犯されている様な感覚になる。
『あ、やだ、怖い、何?!』
躰の中で渦巻く熱い快楽の奔流が、出口を求めて荒れ狂い、成人に貫かれる度に決壊しようとする。
「はっ、あっ…っ!いっ…んんっ…!」
「くっ…もう…っ」
いつもは乳房や秘芽を同時に愛されて最後を迎えるのだが、今日の成人は夏子の腰を両手で掴み、乱暴ではないが酷く荒々しい動きで夏子の最奥を蹂躙した。
子宮を突かれ、ずんずんと当たる成人の熱い滾りがもたらす愉悦の波に、夏子の全身は溺れた。
「あ、あ、あ、や、ん~…っ!」
「夏子っ!」
「っっ…!」
「くっ…!」
ズクンと、成人の熱い精の迸りを感じて、夏子は声を詰まらせて登りつめた。
自分の中が、成人の滾りに貪欲に絡み付くのが分かった。
何度も精の迸りを受けて、最奥が歓喜していた。
「…夏子さん…」
崩れ落ちそうになる夏子の躰を背後から抱き締めながら、成人は蕩けそうに甘く優しい声で夏子の名を呼んだ。
『成人君…』
愛してると言いたいが、息が乱れて何も言えなかった。洗面台に躰を預けているから立っているが、登りつめた快感の余韻で躰に力が入らない。
「俺のだけで、上手にイけましたね…」
「…っ…」
耳殻に口付けられ、成人に囁かれて羞恥でまた全身を熱くした。
「あ…っ…」
ゆっくりと成人の男が夏子の最奥から抜き出て行き、秘裂から溢れる精の熱い感触と成人の熱を失った消失感に躰を震わせた。
「愛してます…夏子さん…」
「っ…」
軽々と横抱きにされ、夏子はぐったりと成人の胸に身を預けた。
『意地悪でもいい…愛してる…』
成人はクスッと笑い、夏子の額に口付けを落として浴室の中に入った。
一度に五、六人は入れそうな広い浴槽にはたっぷりと湯が張られていた。
成人は夏子を洗い場の椅子に座らせて、温かいシャワーをかけてくれた。
「あ…自分で…」
「駄目ですよ、まだ力が入らないでしょう?」
そう笑って、成人は石鹸を泡立てて夏子の躰を洗い始めた。
「や、成人君…本当に…自分で洗うから」
洗う目的以外の不穏な気配を察して、夏子は緩慢な動きで成人の魔の手から逃げようとした。
「駄目ですよ、まだお仕置きは終わってませんよ?」
「う…」
優しい微笑みが、夏子には悪魔の微笑みに見えた。

「ん…」
躰が怠い。
ゆっくりと閉じていた瞼を開き、ぼんやりする視界で周りを見る。
薄暗い部屋。
見慣れないクリーム色のカーテンは、しっかり役目を果たして外の光りを遮っている。
『今、何時?』
重い躰を起こして、ベッドから寝室を見回す。
しんと静まり返った部屋に寒さを感じて、夏子は自分の肩を抱いた。
「あ、服…」
全裸でいる事に気づき、夏子は頭を抱えて深い溜め息を吐いた。
昨夜の成人は嘘みたいに意地悪で淫らだった。
脱衣場で繋がった後は浴槽の中で愛された。
何度も絶頂に登らされ、その後は寝室のベッドで啼かされた。
最後をどう迎えたのか覚えていない。
全身に付けられた成人の所有の印を指でなぞり、夏子は恐る恐るベッドから下りた。
「わっ…」
腰に力が入らず、床に思わずへたり込んだ。
躰の奥に注がれた成人の精を感じて、秘部が疼いた。
夏子は四つん這いで、寝室に隣接している浴室へと向かった。
新しいマンションは、成人と過ごした都内のマンションより広かった。
十五階建てのマンションだが、成人はエレベーターの操作パネルの一番上のPHと表示されたパネルを押していた。
突然新居と言われて驚いたが、昔から引っ越しに慣れている夏子は順応力が高い。
成人に荷物は全部移したと言われ、家の中をざっと確認して、夏子の私物が本当に有った事に驚いた。
メインの浴室は昨夜愛された所で、主寝室であるこの部屋にも浴室がついていた。
なん平米あるのか分からない広いリビングやダイニングには、備え付けの家具が入っていて、モデルルームのようにまだ生活感が無かった。
「本当に…何をしてる人なの?」
成人がただの新人サラリーマンとは最初から思っていない。
短い時間しかまだ共有していないが、成人の仕事量は普通じゃない。
名刺を貰ったので、医療器具の営業をしているのは本当なのだろうが、それだけでは無い。
家にいる時も、基本いつも仕事をしていた。
頻繁に掛かってくる海外からの電話。
夏子を抱いた後も、気付けば書斎にいて仕事をしている。
一緒に住んでいても、成人の寝顔を見た事は数えるほどしか無かった。
その忙しい中でも、常に夏子に気を配り、愛してくれている。
「…指環」
シャワーを浴びて情事の名残を流し、夏子はバスローブを着て寝室を出た。
最初は慣れなかったバスローブも、慣れれば愛着が湧く。ビジネスホテルの薄いローブでは無く、吸水性にも優れて肌心地が優しいこのローブが、今では夏子のお気に入りになりつつある。
夏子のバッグはダイニングテーブルに置かれていた。
「ん?」
バッグの横に添えられた成人のメモに気付き、手に取った。
「良く寝ていたので起こしませんでした。今日は21時の帰宅になりそうです。先に食事を摂っていて下さい。愛してます…成人…って、字が上手いなぁ…」
夏子は何度も成人のメモを読み返し、美しい文字に見惚れる。
夏子は大事に折り畳み、バッグの中の手帳に挟む。バッグの底に有る指環のケースを取り出して、そっと開いた。
光りを反射させて煌めくダイヤと周りを彩るきらびやかな宝石達。
母親の形見を抜き取り、成人からの指環を嵌めた。
「俺を信じて…か…」
信じたいが、信じきれないのは夏子自身の自信の無さのせいだと気付く。
自分が成人の愛を注がれるに足る存在であるのか、常に疑って迷っている。
「だから重く感じるのかな…」
薬指の指環を掲げ、じっと見つめた。
どれだけ愛されても、自信は直ぐに揺らぐ。
失った時の恐怖は想像するだけで身が凍る。
この指環は、夏子と成人のこれからを約束する絆。
夏子は掲げていた手を下ろし、伸びてきた髪を手で掻き上げて払った。
溜め息が出る。
躰が怠い。腰が重い。愛された余韻なのか、まだ躰が熱を持っているような気がした。
「何か食べなきゃ…」
リビングの壁時計を見ると、既に昼の一時を過ぎていた。
「そうだ…成人君の夕飯、作っておこう」
今日は休みだ。
特に予定も無い夏子は、夕飯を作ったらバッグに入れた読みかけの本を読みながら躰を休ませる事にした。
台所の大きなシルバーの冷蔵庫を開けてみる。
「ん…?」
真新しい冷蔵庫だからか、開けた瞬間の臭いが気になったが、食材を確認するのが楽しくなって直ぐに気にならなくなった。
「成人君の好きな茶飯のお握りにしようかな…」
成人は、ほうじ茶で炊いた茶飯が好きだ。
主食を決めて、おかずを考える。
成人は見た目は西洋料理が似合うが、和食や中華の方が好きだった。
焼き魚に煮物に茶碗蒸し。
「汁物は…しめじと豆腐のお吸い物にしようかな…よしっ」
夏子はメニューを決めて早速調理に取りかかった。成人の為の調理は楽しかった。

最寄りの駅へは徒歩三分、職場へは徒歩八分の立地のマンションは暮らしやすかった。
突然連れて来られた新居だが、二週間経過した今は広過ぎるということ以外何の違和感も無く快適に過ごせていた。
成人との関係も良好だ。
ただ最近出向先が変わり、成人の帰宅が遅いのが心配だった。この三日間は、すれ違いで顔を見れていない。
貰った新しい出向先の名刺は、夏子でも知っている大手の冷凍食品で有名な会社の物だった。
仕事は忙しそうだが、楽しいらしく、成人は生き生きしている。
しかも、躰道たいどうの稽古も週に一度は必ず時間を作って続けている。
忙し過ぎて身体を壊すのではと、夏子の心配は尽きない。
職場に近いマンションになった事から、成人は夏子が住んでいたマンションを解約した。
ずっと部屋にあった母親の位牌も、霊園の永代供養墓に安置する手配をしてくれて、夏子の心の重みが少し取れた気がした。
「…駐車場の掃除、少し早いけどしてくるわね」
木々に囲まれた職場のホテルの駐車場は、定期的に掃き掃除をしなければ落ち葉に埋め尽くされてしまう。
特に秋から冬に移ろう今の時期は大変だ。
駐車場の掃除は、基本男性従業員の仕事になっていたが、夏子は駐車場から見えるお気に入りの桜を眺めながらする掃除が好きで、暇が出来れば掃きに行っていた。
今日はチェックインが早く、午後六時の時点で残りのチェックイン数が三つだった。
「主任、私が行きますよ?最近調子悪そうですし」
女性社員の吉田が可愛らしい顔を曇らせて、夏子を心配そうに見上げてきた。
「ありがとう、大丈夫よ。夏場の疲れが今頃出て来たのかしら…三十路になると回復するのも遅くなるって聞いてたけど、本当ね」
夏子は苦笑しながら、バックヤードの駐車場に直接行ける裏口のドアを開けた。
「何かあったら呼んでね」
「…はい。じゃあ、宜しくお願いします」
吉田は仕方なさそうな顔で頷いた。
夏子は従業員出入口の物置小屋から箒と塵取りとゴミ袋を取り出し、早速掃除に取り掛かった。
「…ふぅ」
確かに吉田の言う通り、最近調子が悪い。
身体の怠さが抜けないのだ。
お腹も余り空かなくて、成人がいなければ食事を抜く事もしばしばだ。
そのせいか、成人と会えない三日間で少し痩せてしまった。
制服のスカートのウエストが緩くなっている。
「…あの、夏子さん?」
「え?」
塵取りに落ち葉を入れていた夏子は、背後から掛けられた可愛らしい声に振り返った。
「あっ…」
夏子に声を掛けたのは成人の母親の天音だった。
「お仕事中、ごめんなさい」
「あ、いえ、あの…?」
突然の天音の来訪に、夏子は困惑した。
「わざわざ挨拶に来てくれたのに…私、先日はとても失礼な態度を取りました…本当にごめんなさい」
天音は深々と頭を下げた。
夏子は突然謝罪され、驚いて固まった。
『そのうち謝罪に来るって成人君、言ってたけど…』
まさか一人で夏子の職場に来るとは思っていなかった。
「あ、あの、頭を上げて下さい!私、あの…」
何をどう言えば良いのか分からず、夏子は慌てた。
天音は夏子より背が低く、一見すると二十代に見られる程可愛らしい。
夏子は歳相応の見た目を自負している。
端から見たら、夏子が意地悪く天音に謝罪にさせているように見えるだろう。
「成人さんのお母様のお気持ち、分かりますから…」
「え?」
夏子の言葉に、天音は下げていた頭を上げて見上げてくる。
澄んだ青い瞳が硝子みたいで、本当に人形みたいに可憐だと夏子は見惚れた。
「成人さんから少しだけ事情を聞きました。嫌な思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
「やだ、夏子さんが謝らないで!謝りにきたのは私なんだから!」
天音に手を握られ、ブンブン振られて夏子はまた困惑した。
「よく見たら、全然似てないの!確かに雰囲気は似てるけど、夏子さんの方が綺麗だし、色っぽいし、流石、成君が選んだ女性だわ!」
『掌を返した様な態度って…こういうのかな…?なんか…成人君のお母様…ちょっと天然…?』
あんなに悩んだのが馬鹿馬鹿しくなるほど、天音の態度は罪がなかった。
思わず微笑んでしまった夏子を見た天音は、握った夏子の手を益々強く握って破顔した。
「うん!間違いないわ!ね、いつ籍を入れるの?結婚式は?披露宴はどこでする?」
「え?あの、いえ、まだ具体的には」
「何よ~、成君たら、トロトロしちゃって。あ、お仕事終わった後は何か用事はあるかしら?」
「いえ、特には」
『成人君、今日も遅いみたいだし…』
「成君、帰り遅いの?」
天音が夏子を見上げながら小首を傾げた。
「あ、はい、今仕事が忙しいみたいで」
「益々ダメダメねっ、愛しい婚約者を放っておくなんてっ!じゃ、今日はうちにご飯食べに来て?ね?杜君も秀君も夏子さんに会いたがってるのよ」
「あ、でも、あの」
「ね?ねっ!」
「は、はい…お邪魔させて頂きます」
『す、凄い…押しの強さ…』
「良かった!」
夏子の返事に素直に喜ぶ天音を見て、何故成人の父親がこの女性を選んだのか分かったような気がした。
「お仕事、何時に終わりそう?」
「今日は七時に終わります」
「あら、じゃ、もう直ぐね。ロビーで待たせて貰ってもいい?」
「はい、ご案内します」
「いいわ、お掃除中でしょ?場所は分かるから、また後で」
明るく笑う天音に見惚れながら、夏子は言われるままに頷いた。
定時に夏子は仕事を終わらせ、素早く着替えてロビーで待つ天音の下に向かった。
ソファーに優雅に座る天音は可憐で、フロントに立つ夜勤のバイトや吉田の目を釘付けにしていた。
人の視線には慣れているのか、見られていても気にする素振りもない。
「お待たせしました」
「いいえ、あ、タクシー呼んで貰ったの。もう来たかしら」
夏子に気付いて立ち上がった天音は、カウンターの吉田達に手を振りながら自動ドアに向かって歩き始めた。
「あ、危なっ…」
「ふぁっ?!」
夏子は咄嗟に天音の肩を掴んで後ろに引く。
ホテルの自動ドアの横に手動で開くガラス扉がついており、天音はそこに激突しそうになった。
「すみません、大丈夫ですか?」
「あら、ここ、自動ドアじゃ無かったのね。ありがとう、夏子さん」
にこやかに笑う天音を見て、夏子は挨拶に行った時の天音の様子を思い出した。
「いえ、あの、その後の足のお怪我はいかがですか?」
危険が無いか確認しながら、夏子は天音の横に付き従う様にして歩く。
「もう大丈夫よ。ありがとう、私、そそっかしいってよく言われるの…あ、あのタクシーかしら?」
ホテルの自動ドアを潜って表に出た夏子達を待っていたかの様に、タクシーが駐車場の出入口に入って来た。
『…個人タクシー?…ホテルで契約して使っているタクシーとは違うと思うけど…成人君のお母様が指定されたのかな…?』
白い個人タクシーは、ドアを開けて停まっている。
「ほら、夏子さん、乗って」
天音に背中を押されて先にタクシーに乗った夏子は、運転手の小さな舌打ちを聞いたような気がした。
『何か変…』
天音がタクシーに乗り込もうとして、夏子は天音の肩を押さえた。
「夏子さん?」
「すみません、運転手さん、用事を思い出したので、キャンセルします。お幾らですか?」
夏子はバッグから財布を出そうとした。
運転手の男が天音に向かって手を伸ばし、黒い何かを当てようとするのを視界に捉えて叫んだ。
「逃げてっ!」
「えっ?!」
天音は反射的に後ろに下がり、夏子は運転手の腕を掴んで叫ぶ。
「早く!逃げて!」
「くそっ!」
運転手は夏子の二の腕に黒い何かを当てた。
「…っ?!」
バチバチ、という電気が爆ぜる音と、強烈な痛みに夏子は叫ぶ事も出来ず蹲った。
「夏子さん!」
天音が叫ぶのとタクシーのドアが閉まるのは同時だった。
タクシーはタイヤを軋ませながら急発進した。


《成人》


『たがが外れた…』
お仕置きと称され、散々成人に哭かされ、貫かれ、愛撫に乱れた夏子は、最後は焼き切れた様に意識を手放した。
淫らに濡れた夏子の躰をタオルで拭き清め、新しいシーツの上に寝かせた時、時刻は午前六時になっていた。
仕事など放り出して、夏子の温もりを抱き締めて眠りたいが、今は出来ない事情がある。
「…愛してます」
疲れきって眠る夏子の顔を見つめ、成人は陰の落ちた夏子の薄い瞼に触れた。
禁欲的な色気が、ただ寝ているだけでも匂い立つ夏子の艶に成人は目を細めた。
『出逢った時より威力が増してる気がする…』
成人は寝乱れた自分の髪を掻き上げながら、天井を見上げた。
自分に溺れて欲しいのに、成人の方が夏子に溺れている。
『昔も今も…』
成人は嘆息し、立ち上がった。
もう一度夏子を見下ろし、身を屈めて額に口付けた。シーツに拡がる夏子の艶やかな髪を一筋取り、口付けた。
成人の想いを信じきれない夏子は、成人の腕をすり抜けていなくなってしまいそうな危うさが常にある。
『…あの虫の言葉に簡単に心を乱して、俺から距離を置こうとした…。一瞬でも俺と別れようと考えられたあなたには…やはり物理的にも俺無しではいられない様にしないと駄目なのかもしれない…』
「ほだし…」
罪人を拘束する手枷、足枷。
心を拘束出来る物理的な枷は無い。あるのは絆と呼ばれる不確かで手に取れないものだけだ。
『あなたを縛れるものなら縛りたい…拘束して、閉じ込めて、俺だけを見て、考えて、笑って欲しい』
そんな非現実的な妄想を何度も抱いてきたなんて、夏子には知られるわけにはいかない。
夏子の心を傷付けてきた変質者達と、成人との違いなど紙一重だ。
独りよがりに想いを夏子にぶつけるか、ぶつけないかの違いだけ。
昔の自分はまさに、変質者と同じだったが。
ただがむしゃらに想いをぶつけた。
夏子が受け止めてくれなかったら、どんな自分になっていたのだろうか。
「…想像したくないな…」
成人は悪寒を感じ、腕を擦りながら夏子から離れた。
機械的に身支度を整えながら、目まぐるしく思考を回転させる。
先ずは、夏子の回りを飛ぶ虫の駆除だ。
徹底的に駆除しては、夏子が傷つく。
誰も傷付けず、精神的に駆除出来る方法を幾つか考えて、成人は口角を上げた。
スーツを身に纏い、眼鏡を掛けた自分は、真面目で理知的な青年に見えるだろう。だが、中身はどうだろうか。夏子が知ったら逃げ出すかもしれない。
『逃がさないけどな…』
ダイニングテーブルに夏子のバッグとメモを置き、成人はスマホを操作する。
耳に当てて呼び出し音を聞きながら、ビジネスバッグを持って玄関に向かった。
「…お早う、瞬。お前好みの話があるんだが?」
電話の向こうで瞬が柔和に微笑んでいるのが容易に想像出来る。
幼馴染みの桜木瞬との間には、絆が存在している。長い年月、共に共有した思い出が信頼となって、絆になった。
『…俺と夏子さんに足りない物は…時間か…?共有する時間があれば、或いは絆で身も心も縛れるのか…?』
確かに自分は焦り過ぎているのかもしれない。
根底には、やはり夏子を失った過去の傷がまだ癒えていないからかもしれない。
「ああ、じゃ、また夜に」
瞬との通話を切って、玄関の扉を施錠する。
眠る夏子に想いは残るが、頭を振って気持ちを切り替えた。
理由はどうあれ、自分が選んだ道だ。
藤堂グループ。
その巨大な枷は気を抜けば成人を潰す。
「さて、先ずは地道に仕事だな…」
成人はエレベーターに向かって足を踏み出した。
既にグループ経営の一端は担っているが、総帥の右腕になるためには全てを把握する必要があった。
高みからグループを統べるには、まだ成人には経験値が足りない。
先ずは、実際に身を粉にして、自分の足を使って、グループを支える根っ子を知る事。
祖父から与えて貰った学ぶ時間を、一秒たりとも無駄にするわけにはいかない。
エレベーターで地下の駐車場まで降り、車に乗って出向先に向かう。
新居から職場まで車で一時間。
物理的な距離は遠くなったが、安心して夏子を仕事に送り出せるようになる。
「それもわずかな間だが…」
夏子は仕事人間の部類に入る。その夏子に仕事を辞めさせるのは偲びないが、辞めざるを得ない状況を作る。
先ずは法的に縛りたい。
ただ、今の状況で婚姻届を出すのはタイミング的に不安を感じる。
不審者の行方が分からないからだ。
藤堂家、藤堂グループの防犯警護、情報セキュリティを一手に担うセクションは特殊だ。
子会社に出来る規模と人材を有していながら、本社のセクションに留めているのは、総帥の指示だ。
成人も全面的にそれを支持している。
外部の手が入れば、必ず秘密は漏れるリスクが生じる。
トータルセキュリティセクションの統括部長である橘は、総帥の妻の親族だ。つまり、成人の祖母の親族で、成人とも縁戚関係だ。
祖母の実家である橘家は特殊な一族だった。
古文書にも載らない、禁忌の一族。
歴史の中で暗躍した忍びとは違う、闇の闇の中で暗躍し日本の中枢を支えてきたという。
成人は宗教を否定はしないが、信じてはいない。だが、この世には人智も及ばぬ力が存在している事を知っている。人はそれを神と呼ぶのだ。
橘家は神の声を聴き、力を使える一族だった。
統括部長の橘は、若い頃は藤堂家の警護をしていた。特にトラブルメーカーの母親の警護を任され、母親の結婚を期に、グループ全体のトータルセキュリティを任される事になった。
成人が総帥の召集命令でグループ本社に出向いた際、待っていた相手が橘だった。
成人は、橘に依頼した不審者の情報を知りたかったのだ。
橘からの報告は、半分はある程度予測していた内容だった。不審者の男は、藤堂グループの子会社である開発会社によって進められた土地開発の煽りを食って倒産した店の経営者だった。
元々いつ潰れてもおかしくはない経営状態で、ギャンブルでも多額の借金を作り、いつも金に困っていたようだ。
完全なる逆恨みだが、その矛先はグループ総帥の良心と謳われた末娘の天音に向けられた。
この動機はよくある流れで、天音は今まで何度も標的にされてきた。
しかし結婚して、表向きは藤堂と距離が出来たはずの天音の居場所をどうやって知ったのか。
橘は成人の期待以上の情報を持ってきてくれていた。
男は、二十四年前、天音が拉致監禁された事件の犯人の親族だった。
天音を当時拉致したのは、学生時代の天音の家庭教師をしていた男だった。天音は橘と和人の手によって無事助け出され、犯人は逮捕された。
総帥の逆鱗に触れた男は、自分の人生だけではなく、家族や親族の人生をも狂わせたようだ。
経済状況の悪化、周囲の差別的な眼差しを受けながら日々を生きる事の辛さは想像に難くない。罪人を出した一族は、いつしか藤堂を憎むようになっていった。
和人の存在を知っていれば、居場所を特定する事は難しくは無い。
男は、自分の不遇を藤堂のせいにした。店が潰れたのも、金に困っているのも藤堂のせい。男は積年の恨みと金の為に末娘の誘拐を短絡的に考えたのだ。
だから天音の居場所をつきとめ、周囲を張っていた。拉致出来る瞬間を探して。
しかし、成人が不審者を発見してからは、二ノ宮家の警護は強化され、畏れと犯行は実行できなくなったはずだ。
父親には真実を伝えた。
和人は母親に藤堂グループで問題が起きており、親族にも危険が及ぶ恐れがあると脚色して伝えていた。決して独りで外出しない事を約束させたが、母親が何処まで言うことを聞くかは分からなかった。
本人に悪気は無いのだが、昔から後先考えずに行動して周囲をトラブルに巻き込むのだ。
母親は夏子への態度を既に反省し直接謝りたいと言っているが、今はタイミングが悪い。
夏子が間接的にしろ藤堂家と関わりがある人間だと知られるわけにはいかない。
ただでさえ、挨拶に行った日に夏子の姿は見られているはずだからだ。
橘は成人の要請を承け、人脈を使って警察を動かした。男を捕らえる為にまだ起きてはいない事件の重要参考人にしたのだ。
男は勘づいたのか、行方をくらませた。
男を捕らえる迄は気を抜けない。
「夏子さん…」
成人が身を置く世界は綺麗事だけでは渡って行けない。誰かを守るためなら、汚い事もやる。今まで何人の人間が、成人が下した決断で辛酸を舐めただろう。敵は排除し、身内は護る。藤堂家が力を伸ばしてこれたのはそれを徹底してきたからだ。
だが、まだ成人には迷いがあった。
排除する事で生まれる負の連鎖は、最終的には自らの首を絞める。
従兄弟の晶がグループ総帥の立場に就くのはまだ先の話だが、祖父がいつまで現役でいられるのかは分からない。
代替わりをスムーズに行える為に、成人はいる。
迷う自分が果たして何処までこの重責に耐えられるだろうか。
「夏子さん…あなたがいるから…俺は耐えられるんですよ…」
低く呟きながら、ハザードランプを点けてハンドルを左にきった。
コインパーキングに車を駐車し、時計を確認して溜め息を吐いた。
「…行くか」
車を降りて会社へと成人は向かった。

新居に越してから二週間経った。
夏子との関係も良好で、成人は少しずつ夏子の逃げ場所を減らして行く。
夏子が住んでいたマンションを解約し、二ノ宮の縁戚が経営する霊園に夏子の母親の遺骨を納めた。
一週間前に出向先も変わり、冷凍食品で有名な藤堂グループ子会社の企画開発部に成人は配属された。
新しい分野の仕事は面白かった。
夏子はこの三日間、成人の帰宅が遅いのは、新しい職場に変わったばかりで慣れないからだと思っているようだった。
本当の理由は、仕事を定時で終わらせて本社ビル内にあるセキュリティセクションで不審者の情報を照査していた。
膨大な量の仕事を抱えている橘の負担を減らす為だが、酷く神経を使った。
「珍しいね、二ノ宮君が溜め息吐くなんて」
企画開発部で成人の指導係りに付いた牧野が、隣の席からまじまじと成人を見つめてくる。
「そうですか?」
パソコンの画面から視線を外し、成人は眼鏡を取って目頭を指で押さえた。
連日、防犯カメラの映像確認をやり過ぎて、目が霞む。
「…凄い…、目を揉んでるだけなのに…見てよ、女子達の目がハートになってる」
牧野に言われて部屋を見渡すと、女性社員達と目が合った。成人と目が合った社員達は、頬を染めて慌てて視線を外していく。
成人はポーカーフェイスの微笑みを浮かべて、特に何も言わずに眼鏡をかけ直した。
配属された部署は女性社員が多く、違う意味でやり難い。
指導係りの牧野も女性だが、既婚者だ。明るくてさばさばした姉御肌で、皆から慕われていた。
成人も余計な秋波を送られずに済むので、牧野とだったら安心して仕事に集中できた。
「先輩、こちらの書類に目を通しておいて頂けますか?それから、今、データを送ったのでチェックして下さい」
成人はクリアファイルに入れた書類の束を牧野に渡し、またパソコン画面に視線を戻した。
「え?もう出来たの?早っ、え?あ、これ欲しかった対比データ!よく見つけたわね~」
牧野は驚いたり、喜んだり忙しい。
夏子と同じ歳だと聞いているが、年齢より若く見える。
夏子は年齢不詳だった。年齢が想像出来ないのだ。
一目惚れしたあの時は、流石に十代には見えなかったが、今の夏子を見て三十歳と思う人が何人いるだろうか。
夏子の顔を思い浮かべて、早く会いたくて抱きたくて堪らなくなった。
連日すれ違いで、寝顔は見ているが起きて笑っている夏子を見ていない。
『それに…最近調子が悪そうだ…。余り食べていないようだし…もしかしたら…』
「ね、そのネクタイ、もしかしてプレゼント?」
「…そうですが、それが何か?」
成人は牧野に視線を向けた。
「やっぱり~。今日はネクタイに触れる回数が多いから、彼女の事でも考えてるのかな~と思って」
牧野は、自分の襟元を指でつついて笑った。
確かに今も、成人はネクタイに触れていた。
夏子から贈られた物だ。
黒と緑と黄色の配色が絶妙のレジメンタルストライプのネクタイは、婚約指環を贈った後に夏子に連れて行かれたデパートの紳士売り場で一緒に選んだ物の一つだった。
「目敏いですね」
「女は鋭いのよ?でも、彼女って、否定しないって事はいるんだね~」
「…この際、指環でもしておきましょうか」
成人は吐息を洩らし、左手の薬指を見た。
「あ~、それって結婚間近って事?」
「そうです」
端的に頷いた成人は、内ポケットのスマホが震えた事に気付いて取り出した。
杜人からの電話に成人は嫌な予感がした。
「すみません」
立ち上がり、牧野に断ってから部屋を出た。
「もしもし?杜、どうした?」
「成兄!母さんが家にいない!」
「え?」
「俺、今学校から帰ってきたばっかりなんだけど、いないんだ」
「秀は?」
「あいつは、友達の家に遊びに行ったみたいで。秀が帰宅した時はまだいたって言ってた」
「母さんに電話は」
「母さんのスマホは、家に置いたままだよ。バッグと靴が無いから、多分抜け出したんだ」
「…父さんに連絡しろ。今会社だから、一時間はかかるが、俺もそっちに行くから」
「母さん、大丈夫かなっ?」
「…あの人、悪運強いからな」
通話を切って、成人は部屋に戻った。丁度業務終了の時間になり、成人はパソコンだけシャットダウンさせてバッグを取った。
「すみません、お先に失礼します」
「え?あ、はい、お疲れ様…」
牧野の返事を待たずに成人は踵を返した。
『本当に嫌な予感程よくあたる』
車を走らせる前に、橘にメールをした。
天音、逃亡、とだけ送ったが、これだけで橘は分かるだろう。
昔から、母親は護衛を撒くのだけは上手かったと聞いている。
あの母親が家で大人しくしているわけがなかったのだ。
『まったく…いつまで経っても子供みたいに…』
成人は溜め息を吐き、法定速度ギリギリのスピードで実家へと急いだ。
成人が実家に到着した時、既に父親は帰宅していた。
「父さん、発信器は?」
「今確認している」
ダイニングのテーブルでパソコンと連動させて、天音に秘密で取り付けてある発信器の位置情報を確認する。
「父さん、変わるよ」
「お前の方が早いな」
和人は苦笑して、成人と場所を入れ替わった。
「…ここは…夏子さんの職場か」
「ですね」
「…母さん、夏子さんに直接逢って謝りたいって…ずっと言ってたから」
杜人も困ったように溜め息を吐いて、珍しく険しい顔をした成人を見た。
秀人はソファーに体育座りをしながら、じっと静かに成人達の様子を窺っている。普段は明るくて賑やかだが、秀人は場の空気を読む。
成人は時間を確認した。
「…今ならギリギリ間に合うかもしれないな」
立ち上がった成人は、和人を見ながらパソコンを指差す。
「母さんの位置を確認してて。職場から動くようなら連絡して」
「分かった」
「成兄…っ」
心配そうに後を追いかけてくる杜人の頭を撫でて、成人は微笑んだ。
「お前のせいじゃない。母さんを一人にしないように、部活も切り上げて早く帰宅してくれてたんだろ?」
「知ってたの…?」
「あの時間に電話してきたから、そうなんだろうな、って。ごめんな、お前達まで巻き込んでるな」
「母さんの子供に生まれたんだから、諦めてるよ」
杜人の言葉に成人は吹き出した。
「偉い偉い」
笑いながらまた頭を撫でて、成人は玄関の扉を開けた。
「あ、秀人もお前と同じで、自分を責めてる。フォローしといて」
成人の言葉に杜人は頷いた。
「行ってらっしゃい…気をつけて」
「あぁ、頼むな」
実家を後にした成人は夏子の職場に車で向かった。今日は、午後七時に仕事が終わるシフトだ。急げば天音と夏子の接触は防げるかもしれない。
「混んでるな…」
帰宅ラッシュで道路も渋滞している。
二駅の距離だが、想定よりも時間がかかった。
「十五分か…まだいるか?」
ホテルの駐車場が見えてきた。
『あれは…母さんか?』
白いタクシーから後ずさるように離れた母親の姿が目に入った。
タクシーはタイヤを軋ませてドアが閉まるのと同時に猛スピードで反対の出口から走り去った。
嫌な予感に身体が震えた。
「母さん!」
道路脇に車を停車させ、助手席の窓を開けて天音を呼ぶ。
「成君!どうしよう!夏子さんが!!」
蒼白になりながら、天音が叫ぶ。
「ホテルに入って父さんに電話して!」
指示だけ出して成人は直ぐにタクシーの後を追った。
「くそっ」
渋滞した道が、追跡を困難にした。
自分の身体がガタガタと震えている事に気付いて、ハンドルを強く握った。
天音に巻き込まれて、何度か犯罪の修羅場を経験したが、これ程恐怖で身体が震えた事は無かった。
頭が真っ白になって、思考が空回りする。
「落ち着け…落ち着け…」
赤信号でブレーキを踏み、成人は一度強く目を閉じた。脳裏に夏子の顔が浮かんだ。
「発信器…」
青信号に変わり、アクセルを踏む。
進行方向にあったコンビニの駐車場に入り、車を停車させた。
震える手でバッグからノートパソコンを取り出して起動させる。起動が終わるまで、スマホで夏子の位置情報を確認した。
「良かった…まだスマホは夏子さんの側にある」
成人は細く息を吐き、パソコンを操作した。
夏子に贈ったピアスの中に、超小型の発信器を埋め込んであった。
橘に依頼して、万が一に備えて特別に作って貰ったのだ。
天音にも同様の物が、ピアスの中に埋め込まれている。
ただ、送られてくる位置情報が遅いのが欠点で、ピアスの発信器だけの情報だけでは不安だった。
夏子に無断で発信器をつけている事に罪悪感はあったが、今はこの情報だけが頼りだった。
スマホとピアスの位置情報を照らし合わせ、行き先を推測する。
「夏子さん!必ず助けるからっ!」
成人は秩父方面に車を走らせた。


《夏子》


『今何処にいるの…』
急発進したタクシーの中で痛みに身体を蹲らせていたが、暫くすると身体の痺れが薄れてきて様子を窺う余裕が出てきた。
運転手はイライラしながら、猛スピードで車を走らせていた。
『一体…何が起きてるの?』
震える身体を叱咤しながら、そっとドアの鍵に腕を伸ばした。予想はしていたが、やはりロックされていて開かなかった。
バックミラーで夏子の動きを確認したのか、運転手の男は舌打ちをして怒鳴った。
「大人しくしてろっ!」
夏子は言われた通り、動くのを止めた。左の二の腕がヒリヒリと痛んだが、拳を握って耐えた。
『この人は、成人君のお母様を狙ってた…何故?』
俯いてなるべく顔を見られない様にしながら、視線だけを窓に向ける。
いつの間にか信号の無い道路を走っていた。
『…高速道路?何処に行くつもり?』
運転手の男はイライラしながら煙草に火を点けた。途端に車の中が煙くなり、鼻につく臭いに吐き気を覚えた。
胃液が上がってきて吐きそうになったが、口もとを掌で押さえて耐える。
『どうしよう…このまま大人しく座ってるだけでいいの?』
「おい、あんた」
「…はい」
「携帯持ってんだろ?」
「…っ」
夏子が返事をしないと、男はまた怒鳴る。
「てめぇ、なめてんのか!持ってんだろ!」
「…はい」
「寄越せ」
「…っ」
「早くしろ!」
夏子はバッグの中からスマホを取り出し、男に差し出した。
男は引ったくると、助手席側の窓を開けて夏子のスマホを外に投げつけた。
『成人君!』
新居に越してから、成人から夏子のスマホに内緒で追跡アプリを入れた事を伝えられ、勝手にスマホを弄った事を謝罪された。
夏子は隠す事は何も無いからと、成人の謝罪を笑った。
スマホを持っていれば、あの強姦未遂事件の夜のように成人が助けに来てくれると思っていた夏子は、捨てられて足元が冷えてくるのを感じた。
『駄目だ…待っていても助けは来ないかもしれない…。この人がどういうつもりでいるのか分からないけど…無事でいられるとは思えない…』
夏子は拳を握り締めた。
「私をどうするつもりですか」
「あぁ?!」
「降ろして下さい」
夏子の言葉に男は笑った。
「大人しそうな顔して、姉ちゃん、気が強いなぁ。降ろすわけ無いだろ」
「どうするつもりですか」
「さぁて、どうするかね…。なぁ、あんた、藤堂の末娘とどういう関係なんだ?」
「藤堂…?」
夏子はバックミラーに映る運転手の顔を見た。
『五十代半ば…嫌な目付き…』
「なんだ?あんた知らないのか?くそっ、ついてねぇ」
男は夏子が天音とは無関係の人間だと思ったようだった。余計な事は言わないように夏子は唇を引き結んだ。
『藤堂…藤堂?…藤堂!』
夏子の頭の中でパズルのピースが填まっていく。
貰った成人の二枚の名刺。天音の立ち振舞い。成人のマンション。連れて行かれた宝石店。婚約指環。
『藤堂グループ?』
夏子でも知っているその名前。
夏子は左手の薬指に視線を落とした。
『…成人君…ごめんなさい…だから言えなかったんだね』
言えば夏子はまた成人から逃げると思ったのだろう。確かにそうだ。知っていたら、自分には成人の傍にいる資格が無いと及び腰になったはずだ。
『俺を信じて…って…どんな気持ちで私に言ってくれてたの…?ごめんなさい…成人君にばかり気を使わせて、負担をかけて…』
瞼が熱を持ってくる。鼻の奥がつんと痛む。
『馬鹿!泣いてる場合じゃない!何とか逃げて、成人君に謝らないと!』
高速道路の右側の車線を猛スピードで走る車。周りの車は、左に避けていく。
『飛び降りたら死ぬよね…』
夏子はもう一度聞いてみた。
「…私を降ろして下さい…あなたの事は誰にも言いません。まだ間に合います」
「うるせぇ!奴等はそんなに甘くねぇ!今頃は俺を探しにサツも動いてる」
『サツ…警察?』
「ったく、ホントについてねぇな、藤堂の関係者なら利用価値もあったのに…」
バックミラー越しにまた嫌な視線を感じて夏子は顔を附せた。
「お前、ホントに関係無いのか?どっかで見た顔だぞ…」
背中に冷たい汗が伝った。
恐らく成人の実家へ挨拶に行った時に、男は夏子を見たのだろう。服装や髪型が違うから、幸いにもまだ気付かれていない。
『気付かれたら駄目。この人、成人君のお母様を金銭目的で誘拐しようとしたんだ。関係が少しでもあると分かれば、私を使ってお金を要求するはず…お金なら…』
「…幾ら払えば自由にしてくれますか?」
「あぁ?姉ちゃん、面白い事言うなぁ…幾ら持ってるんだよ」
「…五千万なら用意できます」
夏子の言葉に男は下卑た笑い声を上げた。
「話にならねぇな!億だよ!藤堂なら末娘に何十、何百億だって出す!ま、今回は失敗だから、またほとぼりが冷めたらやるさ。姉ちゃんは、暫く俺といてもらうぜ。違う使い道がありそうだしな…」
男の言葉に鳥肌が立った。
このまま大人しく連れて行かれたら犯される。長年変質者達からそういう目で見られてきた夏子には分かった。
『死んだ方がましよ』
夏子は座席のヘッドレストを抜き取ろうとした。
「てめぇ、なにやってんだ!大人しく座ってろ!」
怒鳴る男を無視して夏子は抜き取り、ドア窓の隙間に金具部分を差し込もうとした。
気がつけば車は料金所を通り抜け、公道を走っていた。相変わらずスピードは速いが、高速道路程では無い。
以前成人に車に閉じ込められたら、道具が何も無ければドア窓の隙間にヘッドレストの金具部分を差し込んで、テコの原理を使うと窓ガラスが割れると教えて貰った事があった。
「てめぇ、大人しくしてろっ!」
「つっ!!」
肩にまた衝撃が走って、痛みにヘッドレストを取り落とす。
車は路肩に急停車し、男は一度車から降りて痛みに蹲る夏子がいる後部座席に移った。
ガムテープで夏子の腕を後ろ手に縛りつけ、両足首にも巻き付ける。
夏子の髪を乱暴に掴んで顔をじろじろと見て、また下卑た笑い声を上げた。
「やっぱりな、お前、あの家の息子の女だろ。家に入って行くのを見たぞ」
男の言葉を夏子は否定する。
「人違いですっ…離して…」
「なめんじゃねぇ!」
いきなり頬を殴られて、夏子は衝撃に目を瞑った。頭がクラクラする。
男はガムテープを夏子の口もとにも張り、後部座席から運転席に戻って車を走らせた。
『成人君…失敗しちゃった…でも、まだ諦めないから…』
拘束されて座席に横たわりながら、窓の外を見る。夜空と電線しか見えなかった景色が、やがて木の葉や枝に変わって行く。
『道も悪いし…山の中に入った?』
バタバタとヘリコプターの飛ぶ音が聞こえた。
夜の山の上で旋回しているような音だった。
『自衛隊の演習…?やけに低く飛んでる』
暫くうねる道を登り、突然車は停まった。
男は運転席から降りて、車から離れて行く。足音が遠ざかって行くのを聞きながら、どうにかして抜け出そうともがく。
ガムテープで拘束されてからずっと両手を何度も開いたり閉じたりした。こうする事で筋肉の収縮を利用して僅かでも隙間が出来ると、成人に聞いた事があった。
いざという時の対処法を、成人は普通の何気無い会話の中に織り混ぜて教えてくれていた。
『もしかしたら、成人君に、いざという時があったからかもしれない…』
腕は痺れて怠くて限界に近かったが、建物に連れ込まれたら逃げるのは難しくなる。今がチャンスと、力を振り絞ってガムテープから腕を引き抜いた。
『凄い!本当に抜けた!』
男の足音が近づいてくるのを感じて、夏子は急いで口元と足のガムテープも剥がした。後部座席のドアはロックされていて開かない。助手席に身を乗り出して移り、音を立てない様に開いて車から脱出した。
身を屈めながら走り、草むらの中に入って今度は全速力で走った。
『苦しい…』
夜の山の中、あてもなく走って逃げるのは自殺行為に近かった。しかし、男に捕まって犯されるくらいなら野垂れ死んだ方がましだった。ましてや、夏子のせいで成人達に迷惑はかけられない。成人の事だから、きっと夏子を助ける為ならお金を用意してくれると分かっているから尚更だ。
『あんな男のために、成人君が頑張って働いて稼いだお金を遣わせるなんて嫌!』
どれ程走ったのか分からないが、気がつけば舗装された道路に出た。
「ここじゃ見つかっちゃう…どうしよう」
追いかけてくる可能性も考えて、夏子は敢えて蔦や木が生い茂げる中に分け入った。
枯れ葉が地面に沢山落ちてふかふかしていたが、傾斜があって滑る。
疲労から歩く事も出来なくなり、木の影に隠れようとして何かにつまづいて転んだ。
「痛…っ」
膝を打って顔をしかめた。
大人になってから転ぶ機会など滅多に無い。
『子供の頃は転んだって大した事無かったのに…大人になって転ぶと痛いものなのね…』
立ち上がって足を踏み出した時、下腹部に鋭い痛みが走ってまたしゃがみ込んだ。
『何…?』
何かがショーツを汚した気がした。
『あ、そういえば…生理が暫く来てない…まさか今?!』
元々生理不順で、予定通りに来た事が無いので普段から余り意識していなかった。
『私、生理痛は無い方なんだけど…痛いかも…』
呑気な感想を抱いているが、脂汗が出る程痛かった。
「う…っ…」
下腹部を押さえながらしゃがみ込んでいると、パトカーのサイレンが聞こえた。夏子は痛みを堪えて道路に視線を走らせた。
『え?!成人君?!』
一瞬で通り過ぎたパトカーの後部座席に成人がいた様に見えて思わず立ち上がった。
後を追いかけようとして、また何かに足を引っかけて転びそうになった。
今度は足を踏ん張ったが、落ち葉に滑ってバランスを崩した。
身体が傾いで、そのまま後ろに転がった。
「…っ!」
どれ程の高さから落ちたのかは分からなかったが、地面に肩から落ちて、頭に衝撃を感じた。
『成人君!』
死ぬ時は走馬灯の様に、今まで生きてきて起きた出来事が脳裏を駆け巡ると物語にはよく書かれていた。けれど、夏子の脳裏には成人の美しい顔が過っただけだった。
『…大丈夫…私はまだ生きてる…』
全身が痛むが、意識はまだあった。起き上がろうとしたが、無理だった。
「…成人君…」
月も星も見えない暗い夜空を見上げて、夏子は小さな吐息を洩らした。


《成人》


「くそっ」
夏子のスマホからの位置情報が途絶えた。
成人は位置情報を頼りに高速道路を走っていた。
『頼むから…無事でいてくれ』
頼みの綱は夏子のピアスからの位置情報しか無い。
『俺は何をやってるんだ!守りたいなんて思ってたって、いざとなったら何も出来ないじゃないか!』
料金所を通過した所で、スマホから着信音が流れた。液晶画面には、橘の名前が表示されていた。
成人は料金所の脇にあるスペースに車を停車させてから電話に出た。
「はい」
「大変お待たせ致しました。今犯人の車を見つけました」
成人は拳を握り締めた。
「…良かった。俺の位置から割り出せたか」
「ヘリの手配に少し手間取りました。成人様の位置情報より先回りしたところ、白いタクシーを発見。現在長瀞方面に向かっている模様」
「警察には」
「手配済みです。そこでお待ち下さい。パトカーが向かっております。では、また後程」
端的に話して、橘は通話を切った。
成人は運転席の背凭れに背中を預けて細く長い溜め息を吐き出した。
「夏子さん…今助けるから…無事でいてくれ」
ハンドルに額をつけて、掌を組んで祈った。
ほどなくして、パトカーが到着した。
成人は荷物を持ってパトカーに移動した。
制服を着た警察官は敬礼し、直ぐにサイレンを鳴らしながらパトカーを走らせた。
成人は夏子の位置情報を見て、少しづつ移動している事に気付いた。
パトカーの無線が鳴り、犯人の男の身柄を拘束した連絡が入る。更に続いて、被害者の女性の姿が無いと連絡が入って、成人の背中が冷えた。
『夏子さん…逃げたのか?何処に?この山の中…っ』
道路に点在する灯りと車のヘッドライトの灯りしか無いこの山の中に、夏子は一人でいる。
恐らく夏子は人目の付きやすい場所を避けて逃げている筈だ。
夏子の位置が止まっていることに気付いた。成人は周囲の景色とパソコンのモニターを何度も見て、顎を人差し指でノックした。
「すみません、少し戻って下さい。出来ればゆっくり走って下さい」
「は?あ、はいっ」
パトカーは、成人の指示で速度を緩めてUターンした。
『この辺りから真っ直ぐ北上すると、男が確保された現場がある。夏子さんは山道に慣れてるとは思えない。単純に下を目指す筈だ』
「すみません、停めて下さい」
パトカーは停車し、成人は車から降りて辺りを窺う。スマホのライトをつけて草むらを照らした。
「こちらをどうぞ」
警察官が懐中電灯を渡してくれた。
「ありがとうございます。確証は無いですが、私の婚約者はこの辺りにいる可能性があります」
「直ちに応援を呼びます」
警察官は無線で応援を要請した。
成人は懐中電灯を照らしながら草むらに足を踏み入れた。
「滑る…」
革靴だから余計に滑った。落ち葉が多く、少し先を照らすと意外に傾斜が強い。
「夏子さんっ!」
暗闇に向かって名前を叫んだ。
返事は期待していなかったが、夏子の声が聞こえた様な気がしてもう一度名前を呼んだ。
「夏子さん!」
「…な…くん…?」
『声が!何処だ?!』
微かに夏子の声が聞こえた。滑らない様に注意して斜面の下を除き込むが、暗くて見えなかった。
もう一度懐中電灯で照らしてみると、懐中電灯の光を反射して一瞬光が揺れた気がした。
「夏子さん!返事をして下さい!」
反射した光の場所を懐中電灯で照らして目を凝らす。
「成…く…」
「夏子さん!今行きます!」
夏子の姿が目に飛び込んできて、成人は反射的に駆け寄ろうとした。
「駄目っ!」
夏子は叫んだ後、呻いた。
確かに足元は危なかった。落ち葉に隠れて見え難いが、傾斜が強く、夏子が止めなければ成人も落下したかもしれない。
「夏子さん!待ってて下さい」
だからといって、夏子を一人のままには出来ない。
「もうすぐ応援が来ます」
背後から警察官が声をかけてくる。
「後を頼みます」
「え?ちょっ、危ない!」
成人は懐中電灯で足元を照らしながら滑る様に斜面を降りた。
「夏子さんっ!」
「なる…君っ」
泣き笑いの様な顔で夏子は成人を見て、小さく名前を呼んだ。
「動かないで下さい」
成人はスーツのジャケットを脱いで夏子に掛けた。額に赤い筋が見えた気がして、夏子の頭を照らす。
『血が…裂傷か』
血で濡れた髪の毛の奥を照らしながら目を凝らす。
成人はジャケットのポケットからハンカチを取り出して傷口に当て、締めていたネクタイを外してハンカチを強めに固定した。
「痛っ…」
痛みに呻く夏子を見て、成人も眉を寄せた。
足先から怪我の確認をして、夏子の顔を見て瞠目した。
「夏子さん…腫れてる…」
夏子の左の頬は腫れ、唇の端が切れているのを見て成人は顔から表情を消した。
震える指で腫れた頬を撫でた。
夏子は成人を見上げながら笑おうとしたが、出来なかった。
「あの男に殴られたんですね…」
夏子は返事はせず、ゆっくりと左手を上げて、成人の頬に触れようとした。成人は夏子の手を取って頬に当てる。薬指の婚約指環が煌めいて、先程懐中電灯の灯りに反射した物の正体が分かる。
『冷たい…っ…急がないと…』
「成人君…」
小さな声で、苦し気に夏子は成人を呼んだ。成人は身を屈めて夏子の口もとに耳を寄せた。
「…ごめんなさい」
「え?」
「もう…逃げないから…成人君の事…全部…教えて…?」
「全部…?」
意味が分からず夏子の瞳に視線を合わせた。
「家の…こと…。お母様…藤堂の…」
夏子はまた小さな声で囁いた。
成人は何も言えなくなり、夏子を見つめた。
『…知られたのか…』
「…何があっても…何を知っても…俺の傍にいてくれますか…?」
成人の不安気な声に夏子は小さく苦笑した。
「怖い…なぁ…、でも…はい…です…」
夏子は苦笑した後、顔を歪めた。
「夏子さん?!何処が痛むんですか?!」
「…お腹…痛いっ…」
『お腹?!内臓損傷か!』
成人は蒼白になって夏子の腹部に掌を当てた。
「成人様!担架を降ろします!レスキュー隊到着しました」
頭上から橘の声が聞こえ、成人は叫んだ。
「急げ!」
レスキュー隊によって夏子は瞬く間に救助され、救急車で近くの救急指定病院に搬送された。
成人も婚約者として救急車に同乗した。
頭部の裂傷はそれほど深くは無いようで、成人も胸を撫で下ろしたが、問題は内臓だった。
救急車に乗っている間も、夏子は意識はあるがぐったりとしている。点滴を打たれ、酸素マスクをした夏子を目の当たりにして、成人は失う恐怖に震えた。
「…る、くん…」
夏子が成人に向かって手を伸ばす。
「夏子さんっ」
成人は伸ばされた手を両手で包んで、祈る様にその手を額に当てた。
『震えが止まらない…情けない…夏子さん…すみません…っ』
成人に関わらなければ、夏子はこんな状況に身を置く事など無かったのに、夏子は今も成人の事ばかり心配してくれている。
卵が先か、鶏が先かの違いで、タラレバばかりが脳裏を駆け巡る。
夏子に逢わなかったら。
惹かれなければ。
母親が脱け出さなかったら。
夏子が逃げなければ。
藤堂と関わらなかったら。
「成…君…」
小さな夏子の声に、項垂れていた頭を上げた。身を屈めて、夏子の口もとに耳を近付けた。
「嘘つきでも…意地悪でも…あなたを…愛して…ます…あなた…だけ…」
夏子の小さな告白に、成人は目を見開いた。
視線を夏子の瞳に合わせると、夏子は今までで一番幸せそうな微笑みを浮かべていた。
「…ありがとう…ございますっ…愛してますっ」
『夏子さん…夏子さんっ…夏子さん!』
成人は目頭が熱くなり、瞼を強く瞑った。
『どんな俺でも愛してくれるなら…俺はもう迷わない…っ』

救急車が病院に到着し、夏子はストレッチャーに乗せられて奥に連れて行かれた。
成人は救急の受付で事務手続きをした後、手術室の前の椅子に座って夏子を待っていた。
掌の中には夏子に贈ったピアスと指環があった。
検査や手術には邪魔になるので、看護師から渡されたのだ。
『何が正しいのかなんて…結局分からないんだ…枷は自由を奪うが、奪われた方が幸せになる事もある…』
夏子には枷が必要だ。
不安なら、束縛して拘束して不安さえ愛してしまえば良い。
『あなたさえいてくれたら…俺はどんな事でも出来る…』
昔も今も、成人は夏子をこうして待っていた。昔も今も思う事は同じだった。
成人にも枷が必要だ。
夏子という枷が。
不意に椅子に置いたジャケットのポケットからスマホの着信音が鳴った。
成人はスマホを取り出し、手術室の前から少し離れた窓際に移動して電話に出た。
窓の外は漆黒の闇だった。
「成人様、お待たせ致しました」
「結果は?」
「あの男の処遇は、ご指示の通りに。万事滞りなく」
「ありがとう」
「西本様は…」
「今手術中だ」
「…貴方が選んだ女性は大した方ですね」
珍しく橘は親しみを込めた声音で話す。
「…見た目は落ち着いているけど…無茶をするところがあって目が離せない…」
成人もそれを受けて、昔に返る。成人が藤堂グループに関わる以前は、橘と成人は年齢の離れた友人の様に親しくしていた。
「ガムテープでですが、両手足、口と拘束されていたところを自力で脱出されたようです」
「え?」
「男の取り調べが終わり、その様に報告がきております。スタンガンは二度使ったと言っておりました。男は、西本様が逃げたと分かって追いかけたそうですが、夜の山の中です。直ぐに追うのを諦めたようです。山荘の中に入ろうとしていたところを我々が確保致しましたが、逃げなければ、恐らく最悪な事態になっていたかと」
橘の報告を聞いて、成人の顔から表情が消えた。
「刑務所じゃなくて、死刑台に送るべきだったか…」
「…今からでも手配いたしますが…如何なさいますか?」
成人は夏子の顔を思い浮かべた。
「…いや…止めておく…あの人はそれを望まないだろうから」
「…承知致しました」
橘がふと笑った様な気がした。
「今手術が終わったようだ。また何かあれば頼む」
手術中の赤いランプが消えたのを確認した成人は、
橘にそう告げて通話を切った。
手術室の前の椅子に戻った時、看護師が先に出てきて別室に案内された。
『…何だ?何があった?』
不安がまた成人の胸を冷たくする。
「すみません、お待たせして」
三十代半ばの、穏やかな顔をした男が白衣を羽織り直しながら部屋に入って来た。
「いえ、何か問題でも?」
立ったままでいた成人に椅子を勧めた医者は、机の上にあるパソコンを操作した。
「頭の傷はそれほど深くはありませんでした。検査結果にも異常は見られませんでした」
「はい…」
頷きながら、成人も椅子に座った。
パソコンのモニターに映る夏子の脳の画像を見る。
「二メートル程の高さから落ちたと言う事ですが、落ち葉がクッションになったみたいですね。骨折はされていません。ただ、右肩を強く打っています。それから膝。この二ヶ所は打撲です」
「はい」
「頬の骨にも異常はありません。口の中が少し切れています。暫く飲食の際は染みると思います。それから二の腕と肩の火傷は…もしかしたら、痕になってしまうかもしれません」
「…はい」
「で…問題は」
医者はモニターを切り替えて、成人にも見えやすい角度にして説明を続けた。
「母体、胎児の状態が余り良くないと言う事です」
医者の言葉に成人は目を見開いた。
モニターには小さな胎児のエコー画像が映っていた。
「出血が確認されてます。今はまだ妊娠七週目といった辺りで、妊娠初期ですので、安静にして妊娠を継続させるためのホルモン剤を使用しないと流産の恐れがあります」
『夏子さん!』
成人は一度天井を仰ぎ見た。
「二ノ宮さん?」
「…すみません、彼女が妊娠していると…今知ったので…」
成人は苦笑を浮かべた。
『もしかしたら…と思っていたが…本当に…?』
足元が妙にふわふわとした感覚を覚え、成人は一度落ち着く為に息を吐き出した。
「あ、それは…」
医者が戸惑った顔をしたので、成人は微笑んだ。
「勿論、薬の使用をお願いします」
成人の言葉に医者も安堵したようだ。
「血液検査の結果が、余り良くないです。貧血がこのまま酷くなると、日常生活にも支障が出るはずです。怪我もされていますし、数ヶ月は長期入院をした方が良いと思っていますが…」
医者の言葉に成人は頷いた。
「かかりつけがあるので、出来たら転院を希望します」
「明日起きた時に問題が無ければ、転院されても大丈夫です」
「分かりました。…ありがとうございます」
成人は医者に深々と頭を下げた。

月も星も見えない夜空だったが、今は稜線の彼方に暁の空が病室の窓から窺えた。
ベッドで眠る夏子の顔は美しかった。
音を立てない様に近付き、身を屈めて夏子の紅い唇に唇を重ねた。
優しく一度下唇を吸って、離れた。
ガーゼが当てられた頬と切れて腫れた唇の端の傷が痛々しくて、成人は眉を寄せて唇を引き結んだ。
掛け布団の上から、そっと夏子の下腹の辺りを撫でた。
涙が自然と溢れて頬を伝った。
夏子を縛る為に欲した事もある生命の存在。
自分の打算的な想いは、生命の尊さの前では塵以下だった。
単純に、愛した女が自分の子供を身籠ってくれた歓びと僥倖に、感謝の念しか抱けない。
「…あなたは、どんな顔をするのかな…」
勿論、まだ妊娠初期で余談は許さない状態である事は分かっていた。
成人は点滴の管が繋がっている夏子の左腕を見て、そっと少し痩せて細くなった指に自分の指を絡めて握った。
『驚いて…その後は?』
成人は祈る様な気持ちで夏子の指に口づけた。


《夏子》


夢を見ていた。
薄い栗色の髪に薄い紅茶色の瞳。
白く滑らかな肌としなやかな肢体を持つ少年が夏子に優しく笑いかける。
彼は誰?
昔の成人のようにも見えるが、別人のようにも見える。
少年は両手を広げて夏子を呼んでいる。
『何…?何て呼んでるの?』
耳を澄まして少年の言葉を聞こうとしたが、聞きとれなかった。
「…あなたは、誰…?」
夏子は自分の声で目を覚ました。
白い天井が目に入った。
何度か瞬きをしてから、頭を動かそうとした。
「…うっ…っ」
右の側頭部と肩に痛みが走って、呻きながら動きを止めた。
『生きてる…』
目線を横にすると管が見えて、ゆっくりと首を動かした。少し痛むが、ゆっくり動けば態勢を変えられる事が分かってホッとした。
管の先に点滴が見えて嘆息した。
自分の左腕に刺さった点滴の針に視線を走らせ、カーテンから洩れる光の方に視線を移動させた。
「成人君…?」
成人は昨日の服装のままパイプ椅子に座って、腕を組みながら目を瞑っていた。
普段は後ろに流されている栗色の艶やかな髪は、秀でた額と理知的な双眸を隠していた。
白いワイシャツから覗く鎖骨の艶かしさに、夏子の鼓動が跳ねた。筋張って、しなやかな成人の手の美しさに見惚れ、触れたくて堪らなくなった。
『寒そう…風邪引いちゃうよ…』
秋の朝は肌寒い。
それほど広くはないが、個室の病室は薄暗くて寒々しかった。
「…っ」
何か肩に掛けてあげたくて、痛む身体を起こしてベッドから降りようとしたが、上半身を起こしただけで目眩がした。
「…何やってるんですかっ?」
寝ていた筈の成人が、椅子から立ち上がって夏子の背中を支えた。
「ほら、大人しくしてて下さい…」
ゆっくりと夏子の身体をベッドに戻し、成人は掛け布団をかけ直した。
「…ここは」
「病院ですよ…覚えて無いんですか…?」
成人が不安そうな顔をして夏子の額に触れてきた。成人の温もりに触れて、夏子は安堵した。
「…覚えてる…うん、ちゃんと覚えてます」
タクシーで連れ去られてから病院に搬送されるまではしっかり記憶があった。
「でも、手術室に入ってから記憶が…」
「手術は部分麻酔でしたが、その後、鎮痛剤の効果もあって熟睡してましたから…痛みますよね…」
成人はベッドの端に座って、夏子の頭部のガーゼに触れた。
「うん…でも大丈夫…私、痛みには強いのよ」
呑気に笑う夏子を見て、成人は疲れたような深い溜め息を吐いた。
「成人君…?」
額に掌を当てながら天井を仰いだ成人は、一度嘆息して夏子に視線を向けた。
「夏子さん…」
「はい…?」
「…自分の身体が今どうなっているか、分かってますか?」
「え?…うん?」
夏子は困惑しながら、真面目な顔をする成人を見上げた。
『満身創痍なのは分かってるけど…』
小首を傾げる夏子を見て、成人はガックリと項垂れた。
「成人…君?」
『何…?どうしたの?』
項垂れながら額の前で指を組む成人の背中を、夏子は困惑しながら見上げた。
「まったく…あなたは本当に…」
怒っているのか笑っているのか分からない声音で、成人は呟いた。
不意に成人は立ち上がると、小さなテーブルの上に置いたビジネスバッグを開けて、薄い紙を取り出した。暫くその紙を見つめていた成人が、紙を手にしてベッドの横に戻ってきた。
ベッドの端に座り、夏子に紙を開いて見せた。
「…これ」
薄い紙は婚姻届だった。
夫になる人の欄には、既に成人の美しい字で必要次項が記入され捺印までされていた。
夏子は成人を見上げた。
「今日提出します…後は夏子さんの名前を記入するだけです」
婚姻届をベッドの枕元に置き、成人は点滴の針が刺さった夏子の左手を手に取った。自分の小指に嵌めていた夏子の婚約指環を外して、夏子の薬指に指環を嵌め直した。
夏子は指環を見つめて、静かに微笑んだ。
「…はい」
成人は夏子が素直に承諾したのが信じられなかったのか、珍しく驚いた顔をして夏子を見つめた。
「…本当に?」
「本当に…」
夏子は何となく成人から一本取ったような気がして、思わず笑ってしまった。
「母は藤堂グループ総帥の娘です。俺は外孫ですが…事情があってグループ経営に携わっています。今回みたいな…危険に、あなたを巻き込んでしまうかもしれません…それでも…俺を受け入れてくれるんですか…?」
不安気に夏子を見つめ、成人は視線を落として夏子の手を握った。
成人の手が震えているような気がして、夏子は笑みを深くした。
『成人君の不安は…私のせい…』
「怖いし…不安だし…逃げ出したい…」
夏子の言葉に成人は顔を上げて眉を寄せた。
「…でも…あなたの傍にいたい…」
「夏子さん…」
「私…面倒臭い女でしょ…?年上のくせに何も知らなくて…成人君にばかり負担をかけて…正直…私が男だったら、私みたいな女は嫌だわ…」
「…何言ってるんです」
成人がムッとした顔をしたので夏子はまた声に出して笑った。
「成人君のそういう、色々な顔が見たい…ありのままのあなたを知りたい…結婚したら、誰に何を言われても、一緒に時間を共有する優先的な権利が手に入れられる様な気がするの…そうしたら、私にも少しは自信がつくのかな…って…山の中で動けない時に考えたの…」
「夏子さん…」
「迷って…また成人君を傷付けてしまうかもしれないけど…成人君に釣り合う様な…素敵な人になれる様に頑張るから…私を…信じて…?」
「…っ」
成人は夏子の手を右手で強く握って、左の掌で自分の顔を隠した。
成人の引き結ばれた唇が震えていた。
「成人君…?」
起き上がって抱き締めたいが、起きたらまた怒られるので誘ってみた。
握られた手を動かして、指で成人の手を撫でる。ピクッと成人の肩が震えた。握る力が少し緩んだのが分かり、夏子は手を動かして成人の腕を舐めるように撫でた。
「夏子さん…っ」
成人は夏子の悪戯な手を掴み直し、赤くなった目もとを細めた。
「何やってるんです」
「…ギュってして欲しいな~って…」
悪戯が見つかった子供の様に夏子は微笑んだ。
夏子を驚いた様に見て、成人は珍しく頬を染めた。
『うわっ…か、可愛い…』
「…あなたには…敵わないな…」
成人は夏子の顔の横に手を突いて、鼻先に口付けを一つ落とした。
「残念ですが…暫くはお互い禁欲生活に突入しますよ」
額と額を合わせながら、成人は囁くように告げた。
「え?」
夏子は意味が分からずに瞬きを繰り返した。
成人は夏子の下腹部に掌をそっと当てながら、苦笑した。
「夏子さん、自分の身体の事、これからはちゃんと気にして下さいね…今、七週だそうです」
「七週?」
「…最近体調不良でしたよね?生理、遅れてませんでしたか?」
「せ、生理?あの…元々不順な方だから…」
『何でそんな事…?え?七週?…えぇっ?!』
困惑していた夏子の顔が驚愕に変化したのを見て、成人は複雑な顔をして、最後には吹き出した。
「何で笑うの…っ」
「すみません…本当に…あなたは…」
「あなたは、何?」
成人は、よくそう言って言葉を濁して何を感じたのか教えてくれない。
「…秘密です」
クスクス笑って、今度は夏子の唇に軽く口付けを落とした。
「ここに、あなたと俺の…かけがえのない絆が在ります」
優しく成人は夏子の下腹を布団の上から撫でた。
『絆…』
夏子は真剣だが、どこか不安気な瞳をした成人を不思議な思いで見つめた。
『何が不安なの…?私が…望んで無かったと思ってるの…?』
夏子は自分の妊娠を、自分でも驚く程自然に受け入れていた。
体調不良の原因が分かって寧ろホッとしているくらいだ。
「成人君は…嬉しい?」
「当たり前です!…夏子さんは…?」
成人は断言したが、夏子への問いは不安気だった。
「とっても…嬉しい!」
色々言いたい事はあるが、シンプルに飾らない言葉を選んで成人に伝えた。
嬉しくないわけがない。この世でただ一人夏子が愛した男の子供を身籠ったのだ。
成人は唇を引き結び、夏子を見つめた。
「…成人君?」
成人はまた瞳を強く閉じて、唇を震わせた。
夏子は左手を成人の頬に伸ばした。
微かに触れた成人の頬の感触は、夏子の指先を痺れさせた。
『誰よりも、何よりも、愛しくて、大切な人…』
成人は出逢った時と同じ、真っ直ぐで熱を孕んだ眼差しで夏子を見てくれる。
真夏の夜の夢の様だった成人との関係が、時を経て確かな絆が生まれ深まっていこうとしている。
『不安にならないで…私はあなたが私を必要としてくれるなら、何があっても、もう逃げたりしないから…』
成人は伸ばされた夏子の指に指を絡め、忠誠を誓う騎士の様に夏子の指に口付けた。
「ありがとうございます…愛してます、夏子さん」
「…ありがとう…私も成人君を…愛してます」
夏子の言葉に、成人は優しい微笑みを浮かべた。

病室のベッドのプレートには二ノ宮夏子と表記されている。
救急搬送された病院から、二ノ宮家が経営する病院に転院した時、夏子の名前は二ノ宮に変わった。
成人は用意周到に全ての書類を揃えていて、本当にその日のうちに婚姻届を役所に提出してくれた。
夏子の夫となった成人には、夏子の知らない秘密が沢山あって、一朝一夕ではその全てを知る事は出来そうもなかった。
今回の拉致事件や前回の強姦未遂事件は警察が介入していて、普通なら調書を録られたり、裁判で証言したりとする事は沢山あるはずだが、夏子は何もしていない。
成人に聞いても、またいつもの様にポーカーフェイスの微笑みで煙に巻かれるだけだった。
流産を避けるために絶対安静を命じられている夏子は、二ノ宮家の病院の個室に長期入院させられていた。
成人は病院と家と会社に何度も行き来する事が面倒になったと、今では夏子が過ごす個室に簡易ベッドを入れて自分も病院から会社に行く日々を送るようになった。
基本トイレ以外は絶対安静を言い含められている夏子は、入院して一ヶ月経過したが個室から一度も出ていなかった。
流石に息が詰まるため、打撲の痛みが和らぐようになってからは大きめの窓から外を眺めるのが習慣になった。
夏子がいる個室は五階にある。病院の周囲は夏であれば緑が豊かなのだろう。今は落葉が進み、枝が寒そうだった。
「あの桜も立派だなぁ…」
窓を開けて、冷たくなった風に伸びた髪を弄ばれながら、点在する桜の木に目を細めた。
今日の空は見事な曇り空で、今にも雨が降りだしそうだった。
『成人君…今は何をしてるのかな?』
時計を見ると午後三時だった。
今日は土曜日で本来は休みの筈だが、成人は別の用事があって朝から出掛けている。
以前よりも増えた気がする成人の仕事量に、夏子の心配も増した。
「…仕事、どうしようかな」
長期入院に加えて妊娠が分かった為、夏子は現在休職している。成人は退職して欲しそうだったが、時子が籍だけは置いておくようにと電話で夏子に進言してくれた。
頼る親戚も無く、職まで失ったら、成人が浮気した時に逃げ場所が無くなると、冗談半分で言っていたが、何となく納得してしまって時子の言う通りにしたのだ。
自分のスマホは男に壊されて無くなってしまい、成人のスマホを借りて時子と話をしたので、成人にも会話の内容は聞かれていた。その時の成人の憮然とした表情が可笑しくて、夏子は思い出し笑いをした。
入院してから、病院スタッフと成人以外の人と会話したのは時子とだけだった。親しい友人もいないため、夏子を見舞う人はいない。入院している事を時子以外には伝えていないのだから当たり前なのだが。
夏子はそれを寂しいとは思わない。
人と距離を作って生きてきた結果なのだから、それが当然だと思ってしまう。
風が雨の臭いを運んできた。
軽いノックの後、病室のドアが開いて成人が入って来た。
「ただいま、夏子さん」
「あっ、お帰りなさい…早かったのね」
窓際に立つ夏子を見て、成人は困った様な顔をして近付いてきた。
今日も仕事仕様の濃紺のスーツに青と白のドット柄のネクタイを纏い、髪はきっちり後ろに流して眼鏡までかけている。
『か、格好いい…素敵過ぎる~』
夏子は成人の眼鏡をかけたスーツ姿を見ると、普段より脳内が乙女になる自分が恥ずかしかった。
夫婦になったとはいえ、実際には付き合いたてのカップルと大差は無いのだ。
雨が降り出した外に視線を向けて息を吐いた成人は窓を閉めた。
夏子は何となく恥ずかしくなって、成人から少し距離を取ろうと小さく後ろに下がった。
「何で離れようとするんですか」
夏子の手首を取った成人は、自分の方に引き寄せて夏子の腰に腕を回した。
成人のスーツのジャケットに顔を埋めて、優しく抱き締められて夏子は耳が熱くなってきた。
『あ…成人君の匂い…』
妊娠が分かってから臭いに敏感になっている夏子だが、以前にも増して成人の匂いが快く感じる。
『いい匂い…何か私…変態みたい』
思いっきり成人の匂いを吸いたい衝動を堪えながら、顔を上げて成人を見た。
眼鏡の成人と目があって、慌てて目を逸らす。
夏子の手首から手を離した成人は、その手を夏子の顎先に滑らせた。
「好きなだけ見てくれて構わないですよ?」
夏子の顎先を持って顔を上げさせた成人は、誘うように微笑んで夏子を見つめた。
眼鏡越しの成人の瞳が綺麗で、夏子は一瞬吸い込まれそうになって我に返った。
『…もしかして…バレてる?』
首の後ろから火照ってきて、夏子は目を逸らした。
『もう…本当に…意地悪…』
成人は小さく笑って、夏子の額に口付けた。
「身体が冷えてます。ベッドに戻って下さい」
「…はい」
成人に付き従われてベッドに戻った夏子は、曲げるとまだ痛む膝に眉を寄せた。
「痛みますか…」
自分が痛むように成人も眉を寄せて夏子の膝にそっと掌を添えた。
「もう大丈夫」
心配させたくなくて笑う夏子を、成人は困ったように見てまた小さく笑った。
掛け布団を夏子に掛け、手土産のところてんを夏子に見せた。
「これで良いですか?」
「ありがとう!」
それほど悪阻は酷く無いが、夏子はとにかく食べ物が喉を通らなくなってしまって困っていた。無理に飲み込むと吐いてしまうので、喉越しの良い物を選んで食べるしかなかった。最近はところてんが身体に合うらしく、成人に頻繁に買い物を頼んでしまっていた。
医者にも体重が減って怒られているので、とにかく食べられる物を考える事に一日を費やしているのが今の現状だった。
「…悪阻ってドラマとかで、手を押さえて洗面所に駆け込むイメージだったんだけど…私はところてんなんだから…絵にならないなぁ…」
点滴をしているので、極端に体重が減る事は無いが、やはり自分で食事をして栄養をお腹に届けたい。
成人は夏子の頬を指で撫でて笑った。
「個人差があるようですから…少し前はミネストローネ、今はところてん、次は何ですかね?何でも言って下さい、どんな物でも用意しますよ」
そう言いながら、バッグの中から二つの箱を取り出した。
「お待たせしました。新しいスマホです」
成人と同機種のスマートフォンを夏子は渡されて驚いた。
「設定はしました。俺の番号だけ登録してます」
「ありがとう、いいの?」
「連絡手段が少ないのは俺も困りますし、時子さんがとにかくうるさいんですよ…あ、携帯は携帯しないと意味が無いんですからね?」
「はい…気を付けます」
「それから…」
成人は小さな箱を開けて、金色のリングを手に取った。
「今日出来上がったので、取りに行って来ました」
「わぁ~…可愛い…」
直接店舗に出向いて選べない夏子の為に、カタログやネットからデザインを集めた成人は、夏子と共に結婚指環を選んだ。二人で選んだ指環は石も何も付いていないシンプルなラインが入ったピンクゴールドの指環だった。
「まだ暫く式はできませんが…せめて指環だけでも、ね?」
成人に言われて夏子は頷いた。
「婚約指環…どうすればいいのかな?」
「一緒に嵌めても良いし、右手に付け替えても良いし、外出時にお洒落として楽しむのも良いそうです。つまり、決まりは無いんですよ。夏子さん次第です」
成人の言葉に少し考えた夏子は、婚約指環を外した。
「普段使いは怖いから、お洒落用にする…良いかな…?」
「勿論です」
婚約指環を受け取った成人は、一旦ケースに指環をしまった。
夏子の左手を取り、薬指に結婚指環を嵌めて成人は微笑んだ。
「成人君…」
夏子に呼ばれて成人は自分の指環を夏子に渡した。夏子は成人の左手を手に取り、しなやかな指に見惚れながら指環を薬指に嵌めた。
「ちょっとフェミニン過ぎるかな…と思ったけど、成人君、色が白い方だから似合うわ」
夏子は感嘆しながら、成人の左手を見た。
成人は、夏子の左手に自分の左手を併せ、少し考えてから徐に口を開いた。
「…汝、二ノ宮夏子は、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も、成人を夫として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
成人の静かな声音に、夏子は顔を引き締めて成人の瞳を見つめた。
「汝、二ノ宮成人は、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も、夏子を妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
夏子の瞳を見つめた成人は、今までで一番幸せそうに笑った。夏子も笑う。二人は同時に言葉を紡いだ。
「誓います」
笑いながらゆっくりと顔を近付け、慈しむ様に唇を重ねた。
「ん…っ?」
誓いのキスのつもりだった夏子は、成人の舌がゆっくりと唇の間に潜り込んできて目を開いた。
「ん…ま、待って…成人く…んっ」
全く待ってくれず、成人の舌と唇は夏子の口腔を犯す様に深く口付けた。
「ふっ…はぁ…あっ」
息が続かず、苦しい。唇を吸われる度にぞくぞくと背中に快感が走って躰の奥が切なく疼いた。
「はぁ…参ったな…」
成人は唇を触れ合わせたまま苦し気に呟いた。
「あなたを抱きたくて堪らない…」
「成人君…」
夏子は困ったように笑った。
『私だって、同じだよ…』
成人は夏子の下腹に掌を当てて、優しく擦った。
「我慢してるんだから…頼むから、健やかに育って…」
成人の言葉に夏子は切なくて愛しくて泣きたくなった。
「大丈夫…成人君の子供だもん…強い子よ」
言いながら、夏子の脳裏に夢で見た少年の姿が過った。
自分の下腹を掌で包んでくれている成人の手に夏子は自分の手を重ねた。
生まれた絆を護るように。
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