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肆、うまくはいかないものでした
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郷試を受ける学生たちがいなくなると、少しだけ寂しくなった。けれど今年の新入生もだんだんとやってくるようになり、酒楼はまた忙しくなった。
暑い夏が過ぎ、中秋も過ぎて涼しくなってきたある日の昼下がり、酒楼の前に一台の馬車が止まった。それは乗合のどこででも走っているものではなく、一見質素ではあったが身分のある者が乗っているもののように見えた。そして馬車から下りてきたのは、乌纱帽を被り朱色の官僚の服を身につけた青年だった。彼が懐かしそうに店を見上げた時、花月の妹が店から出てきた。
「こんにちは、林姐はいらっしゃいますか」
「は、はい」
「王淋が来たとお伝えいただけますか」
「は、はい!」
丁寧に言われ、妹は慌てて店の中に取って返した。
「姐姐! 姐姐!!」
「なぁに? 小妹、慌てて……」
「王淋が来たよ! 来た!」
「ええっ?」
昼休憩に入る前の片づけをしていた花月は、妹に手を引っ張られ転げそうになりながら店の表に出た。
「林姐、お久しぶりです」
「貴方は……」
花月は思わず両手で口を押えた。それは三年以上も前に、郷試を受ける為に書院を卒業していったかつての学生だった。その彼が今官僚の服装を身に纏い、目の前にいる。
「科挙に、無事受かられたのですね……」
「はい」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。少し、よろしいでしょうか」
花月は一も二もなく頷いた。王淋にもかつて绣荷包は渡してあった。もしかしたら、もしかするかもしれないと花月の胸は躍った。
馬車には乗らず、すぐ近くの池のほとりで二人は今までのことを簡単に話した。
「あの頃の私は決して真面目な学生とはいえませんでした。ですが林姐の学識の深さに私は目覚めたのです。あの時のご恩は絶対に忘れませぬ。どうか……」
「は、はい!」
期待の眼差しで王淋を見つめた花月だったが、その手を取られたかと思うと、何やら重たい荷包を乗せられた。
「え」
「心ばかりではありますが受け取ってください。妻も、納得してくれました」
「妻?」
林姐が視線を巡らせる。その先には先ほど店の前に止まった馬車があり、扉から中が伺えた。
「息子も生まれました。いただいた绣荷包は息子に渡しました。いずれ息子も私のように無事官僚になれるようにと」
「あ……そう。奥さまだけでなく、息子さんもだなんて……本当に、おめでとう」
「ありがとうございます」
花月はどうにか表情を取り繕い、馬車の中にいる女性に会釈した。王淋ははにかんでいた。
「きちんと働いて、奥さまに苦労をさせないようにしてくださいね」
「はは……林姐は手厳しい」
王淋たちは笑顔で帰っていった。振られる手が見えなくなるまで手を振り返したが、馬車の姿が見えなくなると花月は深いため息をついた。そうして顔を上げると、思いがけない人の姿を柳の陰に認めて目を見開いた。
「お前……店の仕事は終わったの?」
「終りました」
「そう」
花月は平静を保つのに精いっぱいだった。何事もなかったように店に戻ろうとしたら、店に勤めている青年に腕を取られ花月はむっとして顔を上げた。今度は何を言うつもりなのだろう。
「貴女は、あの男が好きだったのか?」
「何をふざけたことを言っているの」
恋だの愛だの物語の中の出来事にうつつを抜かしている時間はない。花月は青年を睨みつけると無理矢理腕を外させ逃げるようにして店に戻った。
その夜、店じまいをした後花月は帳簿をつけていた。赤字がないだけ優良だと彼女は思う。昼間もらった荷包の中には少なくない金子が入っていた。金子も確かに嬉しいが、彼女が本当に求めていたのはそれではなかった。
それよりも卓を拭き、椅子を持ち上げながらこちらを窺っている青年の視線が煩わしかった。あえて無視していたが、働きに来ている女の子を帰し、兄と妹が席を外すと青年は意を決したように口を開いた。
「林姐、貴女は誰にでもあの、绣荷包を渡していたのか」
「……だったらなんだっていうの」
「……この街では貴女のよい噂しか聞かない。頭の弱い兄を立て、妹を養いながら店を経営し、聡明で、貧民たちへの思いやりも深いと。彼らは一様に貴女を女神さまや仙女さまと言う。……だが、その中身は他の女たちと何も違わなかったのだな」
花月からしたら頭の弱い兄というのは言い過ぎだと思うし、妹もそろそろ手が離れるだろう。貧民たちへの食事の用意は他人事ではなかったからだ。花月は決して自分を女神や仙女などと思ったことはない。そこまでは冷静に聞いてられたが、最後の一言には腹が立った。
違わないからなんだというのだ。勝手に理想を押し付けて、その通りでないからといって何故吐き捨てるように言われなければならない。
「……お前なんかに……衣食住も恵まれて、勉強もさせてもらって、書院に入れるお前なんかに私の何がわかるっていうの?」
花月の絞り出すような声に青年ははっとしたような顔をした。
「勉強が多少できたって女では書院に入ることも、科挙を受けることもできないのよ? 女が女の幸せを求めて何が悪いの? 私は、少しでも身分のある、裕福な相手と結婚したいと思ってはいけないっていうの!?」
「林姐……」
「帰って。もうここにはこないで」
「林姐!」
「……お前の女神じゃなくて悪かったわね」
青年の手から雑巾をひったくり、ぐいぐいと押してどうにか店から叩きだした。
「荷物と給金は明日寺に届けさせるわ」
「林姐!」
なんて今日は散々な日だったのだろう。扉を閉め、がんがんと叩く音を無視して花月は残りの仕事を一人で終らせた。
ーーーー
乌纱帽 (昔の文官のかぶる)黒い紗で作った帽子
暑い夏が過ぎ、中秋も過ぎて涼しくなってきたある日の昼下がり、酒楼の前に一台の馬車が止まった。それは乗合のどこででも走っているものではなく、一見質素ではあったが身分のある者が乗っているもののように見えた。そして馬車から下りてきたのは、乌纱帽を被り朱色の官僚の服を身につけた青年だった。彼が懐かしそうに店を見上げた時、花月の妹が店から出てきた。
「こんにちは、林姐はいらっしゃいますか」
「は、はい」
「王淋が来たとお伝えいただけますか」
「は、はい!」
丁寧に言われ、妹は慌てて店の中に取って返した。
「姐姐! 姐姐!!」
「なぁに? 小妹、慌てて……」
「王淋が来たよ! 来た!」
「ええっ?」
昼休憩に入る前の片づけをしていた花月は、妹に手を引っ張られ転げそうになりながら店の表に出た。
「林姐、お久しぶりです」
「貴方は……」
花月は思わず両手で口を押えた。それは三年以上も前に、郷試を受ける為に書院を卒業していったかつての学生だった。その彼が今官僚の服装を身に纏い、目の前にいる。
「科挙に、無事受かられたのですね……」
「はい」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。少し、よろしいでしょうか」
花月は一も二もなく頷いた。王淋にもかつて绣荷包は渡してあった。もしかしたら、もしかするかもしれないと花月の胸は躍った。
馬車には乗らず、すぐ近くの池のほとりで二人は今までのことを簡単に話した。
「あの頃の私は決して真面目な学生とはいえませんでした。ですが林姐の学識の深さに私は目覚めたのです。あの時のご恩は絶対に忘れませぬ。どうか……」
「は、はい!」
期待の眼差しで王淋を見つめた花月だったが、その手を取られたかと思うと、何やら重たい荷包を乗せられた。
「え」
「心ばかりではありますが受け取ってください。妻も、納得してくれました」
「妻?」
林姐が視線を巡らせる。その先には先ほど店の前に止まった馬車があり、扉から中が伺えた。
「息子も生まれました。いただいた绣荷包は息子に渡しました。いずれ息子も私のように無事官僚になれるようにと」
「あ……そう。奥さまだけでなく、息子さんもだなんて……本当に、おめでとう」
「ありがとうございます」
花月はどうにか表情を取り繕い、馬車の中にいる女性に会釈した。王淋ははにかんでいた。
「きちんと働いて、奥さまに苦労をさせないようにしてくださいね」
「はは……林姐は手厳しい」
王淋たちは笑顔で帰っていった。振られる手が見えなくなるまで手を振り返したが、馬車の姿が見えなくなると花月は深いため息をついた。そうして顔を上げると、思いがけない人の姿を柳の陰に認めて目を見開いた。
「お前……店の仕事は終わったの?」
「終りました」
「そう」
花月は平静を保つのに精いっぱいだった。何事もなかったように店に戻ろうとしたら、店に勤めている青年に腕を取られ花月はむっとして顔を上げた。今度は何を言うつもりなのだろう。
「貴女は、あの男が好きだったのか?」
「何をふざけたことを言っているの」
恋だの愛だの物語の中の出来事にうつつを抜かしている時間はない。花月は青年を睨みつけると無理矢理腕を外させ逃げるようにして店に戻った。
その夜、店じまいをした後花月は帳簿をつけていた。赤字がないだけ優良だと彼女は思う。昼間もらった荷包の中には少なくない金子が入っていた。金子も確かに嬉しいが、彼女が本当に求めていたのはそれではなかった。
それよりも卓を拭き、椅子を持ち上げながらこちらを窺っている青年の視線が煩わしかった。あえて無視していたが、働きに来ている女の子を帰し、兄と妹が席を外すと青年は意を決したように口を開いた。
「林姐、貴女は誰にでもあの、绣荷包を渡していたのか」
「……だったらなんだっていうの」
「……この街では貴女のよい噂しか聞かない。頭の弱い兄を立て、妹を養いながら店を経営し、聡明で、貧民たちへの思いやりも深いと。彼らは一様に貴女を女神さまや仙女さまと言う。……だが、その中身は他の女たちと何も違わなかったのだな」
花月からしたら頭の弱い兄というのは言い過ぎだと思うし、妹もそろそろ手が離れるだろう。貧民たちへの食事の用意は他人事ではなかったからだ。花月は決して自分を女神や仙女などと思ったことはない。そこまでは冷静に聞いてられたが、最後の一言には腹が立った。
違わないからなんだというのだ。勝手に理想を押し付けて、その通りでないからといって何故吐き捨てるように言われなければならない。
「……お前なんかに……衣食住も恵まれて、勉強もさせてもらって、書院に入れるお前なんかに私の何がわかるっていうの?」
花月の絞り出すような声に青年ははっとしたような顔をした。
「勉強が多少できたって女では書院に入ることも、科挙を受けることもできないのよ? 女が女の幸せを求めて何が悪いの? 私は、少しでも身分のある、裕福な相手と結婚したいと思ってはいけないっていうの!?」
「林姐……」
「帰って。もうここにはこないで」
「林姐!」
「……お前の女神じゃなくて悪かったわね」
青年の手から雑巾をひったくり、ぐいぐいと押してどうにか店から叩きだした。
「荷物と給金は明日寺に届けさせるわ」
「林姐!」
なんて今日は散々な日だったのだろう。扉を閉め、がんがんと叩く音を無視して花月は残りの仕事を一人で終らせた。
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乌纱帽 (昔の文官のかぶる)黒い紗で作った帽子
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