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◇
国道を駅の方に向かって歩いて、途中で旧唐津街道に入る。古い街並みが残る商店街で、黒塗板壁の和菓子屋さんやら、煉瓦造りの酒蔵なんかが並んでいる。観光客向けのお土産雑貨屋さんや、ガラス張りのおしゃれカフェには若い女性客が出入りしていて華やかだ。
凛はその中の一つを指さした。
「あのパスタ屋さんにしようよ」
古い商家の蔵を改装したイタリアンレストランだった。
「高そうじゃん」
「ランチセットで千円だってよ」
凛が店頭のボードを指す。
うーん、正直、高校生のお昼には高いと思う。女子にはふつうなのか?
「先輩はお金持ってるんですか?」
「ない。お金とは何だ?」
さすが幽霊だ。だったらお店に入れないよ。他に行こうよ。コンビニのパンで良くないか?
「朋樹が先輩の分をおごりなよ。あたしは自分で払うから」
いや、自分のだけでも高いのに、二千円なんて出せないよ。あるけど、使っちゃったら、終わりだよ。クリスマスとお年玉が出るまで息を止めていなくちゃならなくなる。
先輩が店頭のボードを眺めている。
「この日替わりランチセットでいいぞ」
いいぞって言われても、困るんですけど。
「いいってよ、朋樹。先輩とデートできるなんてうらやましいぞ、コイツ」
何を言ってるんだよ。三人じゃないか。デートじゃないよ。
凛がお店のドアを開けて先輩を先に中に入れてしまった。しかたがない、あきらめよう。
店内は暗く、足下の小さな明かりだけだった。大人の来るお店だろ、これ。
僕ら三人は店の奥の席に案内された。他には地元の年輩奥方達のグループと若い子供連れのママ友ランチ組がいた。
テーブルには天井からの淡い光が円を投射していた。僕と凛が並んで座り、先輩が向かい側に一人で座った。
水が運ばれてきて、凛が日替わりランチを三つ頼んだ。ウェイターさんが日替わりパスタのメニューを光の輪の中に広げた。
凛はなすとほうれん草のパスタにオレンジジュース。先輩は凛のオススメでパルメザンチーズたっぷりのエリンギ入りボロネーゼとコーヒー。僕も同じ物にした。
ウェイターさんが去った後で凛が言った。
「先輩は今暗いところにいるけど、消えたりしませんね」
「夜になると消えるんだろう」
「そうなんですか。暗いからっていうわけじゃないんですね」
僕は思いついたことを言ってみた。
「太陽のセンサーでもあるんですか」
「さあ、私にも分からない」
他のテーブルのお客さんに聞かれたら気味悪がられそうな会話だった。
なんとなく話が途切れたところで凛が話題を変えた。
「先輩は誰かと喧嘩をしたことってありますか?」
「喧嘩とは何だ? 喧嘩というものをしたことがないから分からない」
「人と仲が悪くなることですよ」
「仲が悪くなるとは何だ?」
「その人のことが嫌いになる……、同じか。なんて言ったらいいんだろうね」
凛に話を振られても僕にも分からなかった。
先輩がテーブルに両手のひじをついて手に顎を載せた。
「一緒にいるから喧嘩になるんだろう」
「そうですね」
「幽霊は独りだからな。喧嘩にならない」
なるほど。
「でも、今、うちらと一緒じゃないですか」
「そうだな。じゃあ、喧嘩をするのか」
僕も凛もちょっと笑ってしまった。
「しませんよ。うちら三人仲良いじゃないですか」
先輩が目を細めて凛に尋ねた。
「嫌いの反対は何だ?」
「好き、です」
「好きとは何だ?」
凛の顔が赤くなった。僕はそんな凛をじっと見てしまった。火照った頬が桃のようだ。意外と肌が透き通るように白くて、照れるとこんなに赤くなるんだ。こんなに細かくはっきりと凛の顔を見たのは初めてだった。僕ははっきりと凛のことをかわいいと思った。『好き』について考えている凛はずっと見ていたくなる表情だった。
凛が僕に話を振る。
「ねえ、朋樹、好きってどう説明すればいいの?」
顔が熱くなる。今度は僕が汗をかく番だった。
凛にそんな質問をされて、動揺している自分を自覚するともっと動揺してしまう。
好きって何だよ。
頭の片隅にいやらしいことが浮かびそうになってあわてて消す。
違う、今はそういう話じゃない。
僕たち二人の動揺を見て、先輩が静かにつぶやいた。
「嫌いになるのは好きだからだな。好きでないならば嫌いにはならないからな。好きでないものはどうでもよいものだから嫌いにもならないだろう」
確かに理屈ではそうだ。
「好きだから喧嘩するんだ。好きであればあるほど、深刻なんじゃないのか」
幽霊にしては論理的だし、説得力がある。
凛も何度もうなずきながら先輩の話を聞いていた。
ふと、僕は凛と喧嘩したことがないような気がした。
つかみ合いとか、ちょっとお互いに不機嫌になったことはあるけど、深刻な喧嘩ではなかった。気持ちは分かり合えていたから、すぐ仲直りしたし、誤解は解けた。ポニーテールを引っ張ってしまった時も、すぐに反省したし、ちゃんと受け止めてもらえたと思う。
それはつまり、嫌いになるほど好きでもないということか。凛に嫌われないのは好かれているわけでもないからなのか。また分からなくなってしまった。僕は頭が悪すぎる。
違うな。
僕らの喧嘩は仲直りとセットだった。
凛が僕を受け入れるつもりがなかったら、あのまま終わっていただろう。凛が僕を許してくれていたから、仲直りができたんだ。
お互いに好きだから仲直りもできる。当たり前だけど大事なことだ。
今までそんなことも意識せずにいられたのは、ずいぶんと僕にとって居心地のいい時間だったからなんだろう。それをあたえてくれていたのは凛なんだ。ただそれは好きということとはなんか違うんだ。
凛と高志はどうなんだろう。
高志が誠実になれば凛の気持ちを取り戻すことはできるはずだ。ただ、それはもちろん、高志本人が頑張らなければならないことだ。このままではどうにもならないのは確かだ。
高志がちゃんと向き合えば、凛だって僕と同じように受け入れるだろう。
僕らはずっと一緒に生きてきたんだから。
サラダが運ばれてきた。
「葉っぱだな」
先輩の一言にウェイターさんが微笑みを返す。プロだな。
凛がフォークで食べる様子を見ながら先輩も葉っぱをつつく。
「うん、なるほど、油の香りがおもしろいな」
「オリーブオイルとバルサミコ酢ですよ」と凛。
オリーブオイルくらいはもちろん知ってるけど、バルサミコ酢というのは女子にはふつうなのか。千円のランチがふつうだと思う世界の住人にはふつうの情報なのか。
あっという間に食べ終わってしまった。
「先輩は味が分かるんですか」
僕の質問に不思議そうな表情で返事をした。
「そうだな。なぜ分かるのだろう」
「おいしかったですか?」と凛も尋ねる。
「ああ、あっという間に食べてしまったな」
確かにバルサミコ酢とオリーブオイルのバランスが絶妙でこれならお値段も納得の味だった。
先輩が思いがけないことを言った。
「おまえと一緒に食べていると何でもおいしいんだろう」
直球すぎる言葉を正面からくらって、僕の顔は破裂しそうなほど熱くなった。どう返事をしていいのかも分からないし、先輩の顔を見ることもできなくて、店内を見渡すしかなかった。
凛が僕を見て笑いをこらえている。
先輩がもう一言つぶやいた。
「おまえは最高の調味料だな」
良かったじゃんと、凛が僕の腕をつついて、ついにこらえきれなくなったのか、くすくす笑いだした。
ママ友グループの人たちがちらりとこちらを見ていた。
ウェイターさんが間に立って隠すように絶妙なタイミングで現れてサラダの皿が下げられた。僕たち三人の和やかな雰囲気を受け止めるように、微笑みを振りまいていく。
「おまえは今なぜ顔が赤いのだ」
先輩の質問は遠慮がない。
「こいつ、照れてるんですよ」と凛が横から入る。
「照れるとは何だ」
「恥ずかしい、……ああ、これも説明しにくいね」
凛が腕を組んでうつむく。めずらしく頭を使っているようだ。
「好きな人にほめられてうれしすぎて自分の居場所が分からなくなることです」
凛にしてはすごく筋の通った説明だ。
「照れる、ふむ、そうか。なるほど。おまえは私が好きなのか?」
先輩が僕を見つめる。
僕は返事ができなくてコップの水を一口含んだ。
素直に言いなよ、と凛がささやく。
「好きといえば好きですけど、憧れているというか、素敵だなと思うというか」
「それは好きではないのか」
「好き……ですね」
「ならばそれでいいではないか」
凛は僕と先輩のやりとりを見ながら、微笑んでいた。からかうようなことはなかった。僕と目があって、軽くうなずいていた。正直、どういう意味でうなずいているのか分からなかった。
パスタが運ばれてきた。
凛の前に、なすとほうれん草のパスタ、僕と先輩にはパルメザンチーズが雪山のようにたっぷり振りかけられたボロネーゼ。
先輩がフォークを入れると、凛がスマホを取り出した。
「せっかくだから写真撮っておきましょうよ」
先輩が食べるのを止めて首を傾げる。
「なぜ写真を撮るのだ?」
「後で見て思い出して、楽しかったなって笑えるように」
「じゃあ、笑っている顔の方がいいだろうな」
先輩が凛に笑顔を向ける。
だんだん感情の伝え方が人間らしくなってきている。他のお客さん達はふつうの高校生グループだとしか思わないだろうな。
気持ちや感情という概念がない幽霊先輩の方が素直に気持ちを伝えられるのがうらやましい。分かっている人間の方が、伝えることをためらったり、恥ずかしがったりしてしまう。
塊のようなそのままの感情を渡されることになれていないから、受け取る方も素直になるのは難しいものなのかもしれない。
高志のことを悪くは言えないな。僕も似たようなものだ。
気を取り直してパスタを味わうことにした。
さっきまで白かったパルメザンチーズがトマト色に染まっていた。フォークを入れると糸がからまるようにチーズが溶けていく。
「いっただっきまーす」
凛はパスタを口に入れて手で隠す。
「あ、おいしい。そっちは?」
「おいしいぞ」
先輩がまた微笑みを浮かべる。
チーズと牛肉の脂がパスタに絡んで口に入れるといろいろな味わいが一気に広がる。
僕らは黙々とパスタを口に運んでいた。気がつくと誰もしゃべらなくなっていた。
あっという間になくなってしまった。
「朋樹、食べるの早すぎだよ」
「だっておいしいからさ」
「でしょ。だから、来て良かったじゃん」
「うん、そうだね」
先輩の唇がトマトソースで輝いている。凛が紙ナプキンで口を拭くと、先輩も真似をした。
「ほら、キスマーク」
凛が僕に紙ナプキンを向けると、先輩も真似をした。
「二人とも行儀が悪いよ」
凛が片目をつむる。先輩もそれを真似する。
「良かったじゃん、朋樹。美人二人にウィンクされるなんて、この先の人生で二度とないでしょ」
まあ、その通りだ。反論しないで黙っていた。
パスタのお皿を下げに来たウェイターさんが言った。
「本日のデザートはジェラートでございますが、ピスタチオとフランボワーズどちらになさいますか」
「あたしはピスタチオで」と凛。
「じゃあ、私もそれを」と先輩。
「じゃあ、三人とも同じで」と僕。
ウェイターさんがお皿を持っていくと、凛がいたずらっ子のような目をして言った。
「あのウェイターさんに、先輩のこと幽霊だって紹介したらどうなるかな」
「やめておきなよ。ただでさえ、場違いな高校生なんだからさ」
反論した僕に向かって凛が口を尖らせた。先輩が言った。
「これが喧嘩というものか」
「ああ、まあ、喧嘩というほどではないですけど、喧嘩みたいなものですね」
「うちらの喧嘩も役に立つんだね」
役に立つ喧嘩って何だよとつっこもうとした時、デザートがテーブルに並べられた。
鮮やかな緑というよりは少し茶色が混ざったような色合いのジェラートだった。一口すくって凛が目を細める。
「んー、すごくおいしい。ピスタチオだよ」
うん、これがフランボワーズだったらびっくりだよ。
「先にふわっとピスタチオの香りが広がって、その後にミルク感がくるでしょ。これは本物だよ。当たりだね」
グルメ評論家のご意見を拝聴しながら、僕も一口食べた。確かに凛の言うとおりだった。
「んー、すごくおいしい」
先輩まで凛の真似をする。女子高生っぽい。
「そうですよ、先輩、おいしいですよね」と凛もうれしそうだ。
ジェラートもあっという間になくなってしまった。
凛が灰色がかった白い皿を両手で持ち上げて目の高さで眺めている。
「さっきから、この白っぽいお皿で出されてるけど、おしゃれな器だよね」
言われてみれば手作りの物のようで、一枚一枚微妙に風合いが違っている。色合いは似ているけど、表情は全然違う。表面が白い粉をふいたような色で、メレンゲの焼き菓子のような柔らかな風合いを醸し出している。陶芸のことはよく分からないけど、食べ物がおいしく感じられるお皿だ。
お皿を下げに来たウェイターさんに凛が尋ねた。
「これはなんていうお皿なんですか」
「こちらは唐津焼きで、粉引という種類のお皿ですね。地元の陶芸家の方の作品です。唐津焼きなんですけども、糸原に工房を持っている方なんですよ」
「へえ、そうなんですか」
食後のコーヒーが運ばれてきた。凛はオレンジジュースだ。
コーヒーは粉引のカップに入れられていた。
「この器は手になじむな」
先輩が両手で包むようにしてカップを持っている。僕も同じようにしてみた。
取っ手のない湯呑みの形で、丸い底が手になじむ。チューリップの花のように縁がやや内側に曲がっているので、茶色い泡の立つコーヒーの良い香りを包み込んでいて、口に運ぶたびに香りが立ちのぼってはっとさせられる。
「これがぬくもりというやつだな」
先輩が湯気を見つめている。
「先輩はいろんな感覚とか感情を知りましたね」
凛はそう言うと、ジュースを一口飲んで先輩に尋ねた。
「先輩は朋樹のことをどう思いますか」
いきなり何を聞いているんだよ。
「どう思うとはどういう意味だ?」
「好きとか嫌いとか、楽しいとかつまらないとか」
先輩は僕を見てはっきりと言った。
「私は朋樹が好きだな」
良かったじゃん、と凛が僕に微笑む。
良くないだろ、何を聞いているんだよ。どうしろっていうのさ。
「好きという気持ちがよく分からないが、朋樹といると食べ物の味が分かる。あたたかさを感じる。これは好きということでいいのか?」
凛が笑顔でうなずいた。
それはとてもうれしそうな笑顔だった。僕の知らない凛がここにもいた。
国道を駅の方に向かって歩いて、途中で旧唐津街道に入る。古い街並みが残る商店街で、黒塗板壁の和菓子屋さんやら、煉瓦造りの酒蔵なんかが並んでいる。観光客向けのお土産雑貨屋さんや、ガラス張りのおしゃれカフェには若い女性客が出入りしていて華やかだ。
凛はその中の一つを指さした。
「あのパスタ屋さんにしようよ」
古い商家の蔵を改装したイタリアンレストランだった。
「高そうじゃん」
「ランチセットで千円だってよ」
凛が店頭のボードを指す。
うーん、正直、高校生のお昼には高いと思う。女子にはふつうなのか?
「先輩はお金持ってるんですか?」
「ない。お金とは何だ?」
さすが幽霊だ。だったらお店に入れないよ。他に行こうよ。コンビニのパンで良くないか?
「朋樹が先輩の分をおごりなよ。あたしは自分で払うから」
いや、自分のだけでも高いのに、二千円なんて出せないよ。あるけど、使っちゃったら、終わりだよ。クリスマスとお年玉が出るまで息を止めていなくちゃならなくなる。
先輩が店頭のボードを眺めている。
「この日替わりランチセットでいいぞ」
いいぞって言われても、困るんですけど。
「いいってよ、朋樹。先輩とデートできるなんてうらやましいぞ、コイツ」
何を言ってるんだよ。三人じゃないか。デートじゃないよ。
凛がお店のドアを開けて先輩を先に中に入れてしまった。しかたがない、あきらめよう。
店内は暗く、足下の小さな明かりだけだった。大人の来るお店だろ、これ。
僕ら三人は店の奥の席に案内された。他には地元の年輩奥方達のグループと若い子供連れのママ友ランチ組がいた。
テーブルには天井からの淡い光が円を投射していた。僕と凛が並んで座り、先輩が向かい側に一人で座った。
水が運ばれてきて、凛が日替わりランチを三つ頼んだ。ウェイターさんが日替わりパスタのメニューを光の輪の中に広げた。
凛はなすとほうれん草のパスタにオレンジジュース。先輩は凛のオススメでパルメザンチーズたっぷりのエリンギ入りボロネーゼとコーヒー。僕も同じ物にした。
ウェイターさんが去った後で凛が言った。
「先輩は今暗いところにいるけど、消えたりしませんね」
「夜になると消えるんだろう」
「そうなんですか。暗いからっていうわけじゃないんですね」
僕は思いついたことを言ってみた。
「太陽のセンサーでもあるんですか」
「さあ、私にも分からない」
他のテーブルのお客さんに聞かれたら気味悪がられそうな会話だった。
なんとなく話が途切れたところで凛が話題を変えた。
「先輩は誰かと喧嘩をしたことってありますか?」
「喧嘩とは何だ? 喧嘩というものをしたことがないから分からない」
「人と仲が悪くなることですよ」
「仲が悪くなるとは何だ?」
「その人のことが嫌いになる……、同じか。なんて言ったらいいんだろうね」
凛に話を振られても僕にも分からなかった。
先輩がテーブルに両手のひじをついて手に顎を載せた。
「一緒にいるから喧嘩になるんだろう」
「そうですね」
「幽霊は独りだからな。喧嘩にならない」
なるほど。
「でも、今、うちらと一緒じゃないですか」
「そうだな。じゃあ、喧嘩をするのか」
僕も凛もちょっと笑ってしまった。
「しませんよ。うちら三人仲良いじゃないですか」
先輩が目を細めて凛に尋ねた。
「嫌いの反対は何だ?」
「好き、です」
「好きとは何だ?」
凛の顔が赤くなった。僕はそんな凛をじっと見てしまった。火照った頬が桃のようだ。意外と肌が透き通るように白くて、照れるとこんなに赤くなるんだ。こんなに細かくはっきりと凛の顔を見たのは初めてだった。僕ははっきりと凛のことをかわいいと思った。『好き』について考えている凛はずっと見ていたくなる表情だった。
凛が僕に話を振る。
「ねえ、朋樹、好きってどう説明すればいいの?」
顔が熱くなる。今度は僕が汗をかく番だった。
凛にそんな質問をされて、動揺している自分を自覚するともっと動揺してしまう。
好きって何だよ。
頭の片隅にいやらしいことが浮かびそうになってあわてて消す。
違う、今はそういう話じゃない。
僕たち二人の動揺を見て、先輩が静かにつぶやいた。
「嫌いになるのは好きだからだな。好きでないならば嫌いにはならないからな。好きでないものはどうでもよいものだから嫌いにもならないだろう」
確かに理屈ではそうだ。
「好きだから喧嘩するんだ。好きであればあるほど、深刻なんじゃないのか」
幽霊にしては論理的だし、説得力がある。
凛も何度もうなずきながら先輩の話を聞いていた。
ふと、僕は凛と喧嘩したことがないような気がした。
つかみ合いとか、ちょっとお互いに不機嫌になったことはあるけど、深刻な喧嘩ではなかった。気持ちは分かり合えていたから、すぐ仲直りしたし、誤解は解けた。ポニーテールを引っ張ってしまった時も、すぐに反省したし、ちゃんと受け止めてもらえたと思う。
それはつまり、嫌いになるほど好きでもないということか。凛に嫌われないのは好かれているわけでもないからなのか。また分からなくなってしまった。僕は頭が悪すぎる。
違うな。
僕らの喧嘩は仲直りとセットだった。
凛が僕を受け入れるつもりがなかったら、あのまま終わっていただろう。凛が僕を許してくれていたから、仲直りができたんだ。
お互いに好きだから仲直りもできる。当たり前だけど大事なことだ。
今までそんなことも意識せずにいられたのは、ずいぶんと僕にとって居心地のいい時間だったからなんだろう。それをあたえてくれていたのは凛なんだ。ただそれは好きということとはなんか違うんだ。
凛と高志はどうなんだろう。
高志が誠実になれば凛の気持ちを取り戻すことはできるはずだ。ただ、それはもちろん、高志本人が頑張らなければならないことだ。このままではどうにもならないのは確かだ。
高志がちゃんと向き合えば、凛だって僕と同じように受け入れるだろう。
僕らはずっと一緒に生きてきたんだから。
サラダが運ばれてきた。
「葉っぱだな」
先輩の一言にウェイターさんが微笑みを返す。プロだな。
凛がフォークで食べる様子を見ながら先輩も葉っぱをつつく。
「うん、なるほど、油の香りがおもしろいな」
「オリーブオイルとバルサミコ酢ですよ」と凛。
オリーブオイルくらいはもちろん知ってるけど、バルサミコ酢というのは女子にはふつうなのか。千円のランチがふつうだと思う世界の住人にはふつうの情報なのか。
あっという間に食べ終わってしまった。
「先輩は味が分かるんですか」
僕の質問に不思議そうな表情で返事をした。
「そうだな。なぜ分かるのだろう」
「おいしかったですか?」と凛も尋ねる。
「ああ、あっという間に食べてしまったな」
確かにバルサミコ酢とオリーブオイルのバランスが絶妙でこれならお値段も納得の味だった。
先輩が思いがけないことを言った。
「おまえと一緒に食べていると何でもおいしいんだろう」
直球すぎる言葉を正面からくらって、僕の顔は破裂しそうなほど熱くなった。どう返事をしていいのかも分からないし、先輩の顔を見ることもできなくて、店内を見渡すしかなかった。
凛が僕を見て笑いをこらえている。
先輩がもう一言つぶやいた。
「おまえは最高の調味料だな」
良かったじゃんと、凛が僕の腕をつついて、ついにこらえきれなくなったのか、くすくす笑いだした。
ママ友グループの人たちがちらりとこちらを見ていた。
ウェイターさんが間に立って隠すように絶妙なタイミングで現れてサラダの皿が下げられた。僕たち三人の和やかな雰囲気を受け止めるように、微笑みを振りまいていく。
「おまえは今なぜ顔が赤いのだ」
先輩の質問は遠慮がない。
「こいつ、照れてるんですよ」と凛が横から入る。
「照れるとは何だ」
「恥ずかしい、……ああ、これも説明しにくいね」
凛が腕を組んでうつむく。めずらしく頭を使っているようだ。
「好きな人にほめられてうれしすぎて自分の居場所が分からなくなることです」
凛にしてはすごく筋の通った説明だ。
「照れる、ふむ、そうか。なるほど。おまえは私が好きなのか?」
先輩が僕を見つめる。
僕は返事ができなくてコップの水を一口含んだ。
素直に言いなよ、と凛がささやく。
「好きといえば好きですけど、憧れているというか、素敵だなと思うというか」
「それは好きではないのか」
「好き……ですね」
「ならばそれでいいではないか」
凛は僕と先輩のやりとりを見ながら、微笑んでいた。からかうようなことはなかった。僕と目があって、軽くうなずいていた。正直、どういう意味でうなずいているのか分からなかった。
パスタが運ばれてきた。
凛の前に、なすとほうれん草のパスタ、僕と先輩にはパルメザンチーズが雪山のようにたっぷり振りかけられたボロネーゼ。
先輩がフォークを入れると、凛がスマホを取り出した。
「せっかくだから写真撮っておきましょうよ」
先輩が食べるのを止めて首を傾げる。
「なぜ写真を撮るのだ?」
「後で見て思い出して、楽しかったなって笑えるように」
「じゃあ、笑っている顔の方がいいだろうな」
先輩が凛に笑顔を向ける。
だんだん感情の伝え方が人間らしくなってきている。他のお客さん達はふつうの高校生グループだとしか思わないだろうな。
気持ちや感情という概念がない幽霊先輩の方が素直に気持ちを伝えられるのがうらやましい。分かっている人間の方が、伝えることをためらったり、恥ずかしがったりしてしまう。
塊のようなそのままの感情を渡されることになれていないから、受け取る方も素直になるのは難しいものなのかもしれない。
高志のことを悪くは言えないな。僕も似たようなものだ。
気を取り直してパスタを味わうことにした。
さっきまで白かったパルメザンチーズがトマト色に染まっていた。フォークを入れると糸がからまるようにチーズが溶けていく。
「いっただっきまーす」
凛はパスタを口に入れて手で隠す。
「あ、おいしい。そっちは?」
「おいしいぞ」
先輩がまた微笑みを浮かべる。
チーズと牛肉の脂がパスタに絡んで口に入れるといろいろな味わいが一気に広がる。
僕らは黙々とパスタを口に運んでいた。気がつくと誰もしゃべらなくなっていた。
あっという間になくなってしまった。
「朋樹、食べるの早すぎだよ」
「だっておいしいからさ」
「でしょ。だから、来て良かったじゃん」
「うん、そうだね」
先輩の唇がトマトソースで輝いている。凛が紙ナプキンで口を拭くと、先輩も真似をした。
「ほら、キスマーク」
凛が僕に紙ナプキンを向けると、先輩も真似をした。
「二人とも行儀が悪いよ」
凛が片目をつむる。先輩もそれを真似する。
「良かったじゃん、朋樹。美人二人にウィンクされるなんて、この先の人生で二度とないでしょ」
まあ、その通りだ。反論しないで黙っていた。
パスタのお皿を下げに来たウェイターさんが言った。
「本日のデザートはジェラートでございますが、ピスタチオとフランボワーズどちらになさいますか」
「あたしはピスタチオで」と凛。
「じゃあ、私もそれを」と先輩。
「じゃあ、三人とも同じで」と僕。
ウェイターさんがお皿を持っていくと、凛がいたずらっ子のような目をして言った。
「あのウェイターさんに、先輩のこと幽霊だって紹介したらどうなるかな」
「やめておきなよ。ただでさえ、場違いな高校生なんだからさ」
反論した僕に向かって凛が口を尖らせた。先輩が言った。
「これが喧嘩というものか」
「ああ、まあ、喧嘩というほどではないですけど、喧嘩みたいなものですね」
「うちらの喧嘩も役に立つんだね」
役に立つ喧嘩って何だよとつっこもうとした時、デザートがテーブルに並べられた。
鮮やかな緑というよりは少し茶色が混ざったような色合いのジェラートだった。一口すくって凛が目を細める。
「んー、すごくおいしい。ピスタチオだよ」
うん、これがフランボワーズだったらびっくりだよ。
「先にふわっとピスタチオの香りが広がって、その後にミルク感がくるでしょ。これは本物だよ。当たりだね」
グルメ評論家のご意見を拝聴しながら、僕も一口食べた。確かに凛の言うとおりだった。
「んー、すごくおいしい」
先輩まで凛の真似をする。女子高生っぽい。
「そうですよ、先輩、おいしいですよね」と凛もうれしそうだ。
ジェラートもあっという間になくなってしまった。
凛が灰色がかった白い皿を両手で持ち上げて目の高さで眺めている。
「さっきから、この白っぽいお皿で出されてるけど、おしゃれな器だよね」
言われてみれば手作りの物のようで、一枚一枚微妙に風合いが違っている。色合いは似ているけど、表情は全然違う。表面が白い粉をふいたような色で、メレンゲの焼き菓子のような柔らかな風合いを醸し出している。陶芸のことはよく分からないけど、食べ物がおいしく感じられるお皿だ。
お皿を下げに来たウェイターさんに凛が尋ねた。
「これはなんていうお皿なんですか」
「こちらは唐津焼きで、粉引という種類のお皿ですね。地元の陶芸家の方の作品です。唐津焼きなんですけども、糸原に工房を持っている方なんですよ」
「へえ、そうなんですか」
食後のコーヒーが運ばれてきた。凛はオレンジジュースだ。
コーヒーは粉引のカップに入れられていた。
「この器は手になじむな」
先輩が両手で包むようにしてカップを持っている。僕も同じようにしてみた。
取っ手のない湯呑みの形で、丸い底が手になじむ。チューリップの花のように縁がやや内側に曲がっているので、茶色い泡の立つコーヒーの良い香りを包み込んでいて、口に運ぶたびに香りが立ちのぼってはっとさせられる。
「これがぬくもりというやつだな」
先輩が湯気を見つめている。
「先輩はいろんな感覚とか感情を知りましたね」
凛はそう言うと、ジュースを一口飲んで先輩に尋ねた。
「先輩は朋樹のことをどう思いますか」
いきなり何を聞いているんだよ。
「どう思うとはどういう意味だ?」
「好きとか嫌いとか、楽しいとかつまらないとか」
先輩は僕を見てはっきりと言った。
「私は朋樹が好きだな」
良かったじゃん、と凛が僕に微笑む。
良くないだろ、何を聞いているんだよ。どうしろっていうのさ。
「好きという気持ちがよく分からないが、朋樹といると食べ物の味が分かる。あたたかさを感じる。これは好きということでいいのか?」
凛が笑顔でうなずいた。
それはとてもうれしそうな笑顔だった。僕の知らない凛がここにもいた。
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