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《 First Epilogue 》― Marigold+Addicted to U ―
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今、この瞬間、桂は自分の目の前で何が起きているのか、理解できなかった。
「……ぁ……」
思わず、吐息とも喘ぎともつかない声が漏れる。
気持ちの整理はついていない。…いやつけた…つもり…。
違う…つける為に、これから始めようとしている。
グルグルと、自分を苦しめ続けた春から先月までの、7ヶ月余りのことが頭の中を駆け巡っていく。
― 日本語教師の海外ボランティア —
第一次筆記試験の朝。
彼に対する色々な想いに蓋をして、新天地で頑張ろうと、決意した矢先。
リナは自分に魔法をかけてくれた。
新しい自分に生まれ変わっていると・・・。
整理しきれない頭のまま、思わず呟く。
「…どうして……?」
目の前に、いつもと同じように何かを皮肉るような笑みを浮かべたまま男が…たった今、絶対に忘れたりはしない、と決めた男が…立っている。
「…どうして……?」
桂は呆然と亮を見つめて、胸の中でもう一度呟いた。
信じられなかった…目の前に、亮が存在していることが…。
この1ヶ月余り、何度も忘れようとした…亮の事ばかり考えて眠れない夜を過ごし続けた。
恋人ごっこ、という歪な関係の中で、束の間得ることの出来た幸せな思い出…辛いことばかり、泣いたことばかり…だったはずなのに、桂の胸を苦しめるのは、そんな優しい記憶ばかり…。
亮の声が聞きたくて、亮の肌の熱さが恋しくて、亮に抱きしめられたくて…。ずっと手に入らない空虚さに苦しんだ。
「…よう。…」
亮が呟くように言って、すっと一歩前に進み出た。瞳を眇めて、皮肉な微笑を浮かべて、そして桂へ真っ直ぐに手を差し出す。
「…あ…」
その手に眼が釘つけになりながらも、無意識に桂は一歩後ずさる。
何で…今頃…?何もかも忘れて・・・違う、忘れたりしないと決めたけど、でも…落ち着いた今になって…、やっと立ち直れると…新しいスタートを切れると思った矢先に…何で…今頃…いまさら…?
混乱したまま桂は亮を見つめ返した。口の中がからからに渇いて、ゴクリと喉を鳴らした。
怖い……。
…不意に恐怖が…心臓を鷲掴みにされるような恐怖が身体を走りぬける。
…もう…あんな思いは…したくない…。
…もう…マリーゴールドにはならないと…決めたんだ…。
そう思った瞬間、桂はギュッと眼を瞑ると鞄をきつく握り締めたまま、踵を返して走り出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
どんどん自分から離れていく、桂の背中。
亮は苦笑いを浮かべたまま、それを見つめた。
予感はほぼ的中。
実際、こうして顔を見るまでは、どうなるか分からなかったが、昨夜まで亮は3つの予想を立ててはいた。
1:殴られる。←これはリナの常套手段だからと、一応却下していた。
2:無視される。←これはジュリオのお得意だ…。で、これも却下。
3:逃げられる。…これを考えて、99%はこれだな、と亮は踏んでいた。現に今だって逃げられているのだから。
回答は2+3、無視され、逃げられる…。ついでに怯えられる…か、さすがに両方されると…堪えるな。亮はクスリと喉の奥で笑った。
あの、最悪の朝から1ヶ月余り。
何とか顔の傷は治っていた。それこそ、唇が切れて、頬が腫れていた事など伺い知れないくらいに。亮は何度もリナに連絡をしたが、リナはどういう訳か、なかなか亮に桂を逢わせようとはしなかった。
― 一体、どういうつもりだ。―
― もう少し、待ってちょうだい…。―
― なんでだ?!-
― かっちゃん…まだ安定していないの…。―
― 俺に逢えば、落ち着くだろう?―
― そうかしら?―
電話口で繰り返された不毛なやり取り。
いい加減、亮の忍耐が切れかけたところに、やっと今度はリナから連絡が来た。…が、リナの最初の言葉は到底亮には受け入れられないものだった。
― かっちゃん…日本語教師の海外ボランティアの試験、受けるそうよ。―
一瞬で、状況が最悪なのを把握した。
― 外国に行きたいのか…?―
今では、すっかり馴染みになってしまった、ありがたくもない恐怖。
…桂が自分の前からいなくなる…。という怯え。それこそ、桂に何度も味あわされた恐怖…。
― 貴方のせいよ。―
― …だろうな…。―
電話口で黙るしか出来なかった自分…。
― かっちゃん、絶対受かっちゃうから…。―
そう、リナは言ってから、なぜか優しい口調で、今日、この時間、この場所を亮に告げた。
桂が、なぜ海外ボランティアに応募しようと思ったのかなんて、分かりきっている。
恋人ごっこが終わり、自分の役目は終わった…だから、もう一人で生きていこう…か…。
亮は小さくなり始めた桂の背中を見つめて、優しく微笑んだ。桂は普段のおっとりさからは、想像もつかない速さで走っている。
逃げようとしている…自分から離れようとしている桂…。
でも、まだ桂は日本にいて、自分の目の前に一応いる。
逢うことさえ…姿を一目見ることさえ許されなかったこの1ヶ月余り。桂に逢う為だったら、悪魔にさえ魂を売り渡したっていい…そんな普段の自分からは考えられないような事を考え続けて、幾夜も桂を求めて狂いそうになった。
亮は、スーツのジャケットを無造作に脱ぎ捨てた。上質なそれが無残に道路にバサリと落ちる。タイを乱暴に引っ張って緩めると、亮はすぅと深く朝の新鮮な空気を吸い込んだ。
桂が目の前にいて、自分の姿を見て逃げた。そのことが、なぜかやたらに嬉しくて、亮は真っ青な秋の空を見あげて、笑みを零す。
…逃がしたりはしない…。スタートラインに、立つんだ…二人で。
亮は桂の遠ざかる背中に向かって走り出した。
「……ぁ……」
思わず、吐息とも喘ぎともつかない声が漏れる。
気持ちの整理はついていない。…いやつけた…つもり…。
違う…つける為に、これから始めようとしている。
グルグルと、自分を苦しめ続けた春から先月までの、7ヶ月余りのことが頭の中を駆け巡っていく。
― 日本語教師の海外ボランティア —
第一次筆記試験の朝。
彼に対する色々な想いに蓋をして、新天地で頑張ろうと、決意した矢先。
リナは自分に魔法をかけてくれた。
新しい自分に生まれ変わっていると・・・。
整理しきれない頭のまま、思わず呟く。
「…どうして……?」
目の前に、いつもと同じように何かを皮肉るような笑みを浮かべたまま男が…たった今、絶対に忘れたりはしない、と決めた男が…立っている。
「…どうして……?」
桂は呆然と亮を見つめて、胸の中でもう一度呟いた。
信じられなかった…目の前に、亮が存在していることが…。
この1ヶ月余り、何度も忘れようとした…亮の事ばかり考えて眠れない夜を過ごし続けた。
恋人ごっこ、という歪な関係の中で、束の間得ることの出来た幸せな思い出…辛いことばかり、泣いたことばかり…だったはずなのに、桂の胸を苦しめるのは、そんな優しい記憶ばかり…。
亮の声が聞きたくて、亮の肌の熱さが恋しくて、亮に抱きしめられたくて…。ずっと手に入らない空虚さに苦しんだ。
「…よう。…」
亮が呟くように言って、すっと一歩前に進み出た。瞳を眇めて、皮肉な微笑を浮かべて、そして桂へ真っ直ぐに手を差し出す。
「…あ…」
その手に眼が釘つけになりながらも、無意識に桂は一歩後ずさる。
何で…今頃…?何もかも忘れて・・・違う、忘れたりしないと決めたけど、でも…落ち着いた今になって…、やっと立ち直れると…新しいスタートを切れると思った矢先に…何で…今頃…いまさら…?
混乱したまま桂は亮を見つめ返した。口の中がからからに渇いて、ゴクリと喉を鳴らした。
怖い……。
…不意に恐怖が…心臓を鷲掴みにされるような恐怖が身体を走りぬける。
…もう…あんな思いは…したくない…。
…もう…マリーゴールドにはならないと…決めたんだ…。
そう思った瞬間、桂はギュッと眼を瞑ると鞄をきつく握り締めたまま、踵を返して走り出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
どんどん自分から離れていく、桂の背中。
亮は苦笑いを浮かべたまま、それを見つめた。
予感はほぼ的中。
実際、こうして顔を見るまでは、どうなるか分からなかったが、昨夜まで亮は3つの予想を立ててはいた。
1:殴られる。←これはリナの常套手段だからと、一応却下していた。
2:無視される。←これはジュリオのお得意だ…。で、これも却下。
3:逃げられる。…これを考えて、99%はこれだな、と亮は踏んでいた。現に今だって逃げられているのだから。
回答は2+3、無視され、逃げられる…。ついでに怯えられる…か、さすがに両方されると…堪えるな。亮はクスリと喉の奥で笑った。
あの、最悪の朝から1ヶ月余り。
何とか顔の傷は治っていた。それこそ、唇が切れて、頬が腫れていた事など伺い知れないくらいに。亮は何度もリナに連絡をしたが、リナはどういう訳か、なかなか亮に桂を逢わせようとはしなかった。
― 一体、どういうつもりだ。―
― もう少し、待ってちょうだい…。―
― なんでだ?!-
― かっちゃん…まだ安定していないの…。―
― 俺に逢えば、落ち着くだろう?―
― そうかしら?―
電話口で繰り返された不毛なやり取り。
いい加減、亮の忍耐が切れかけたところに、やっと今度はリナから連絡が来た。…が、リナの最初の言葉は到底亮には受け入れられないものだった。
― かっちゃん…日本語教師の海外ボランティアの試験、受けるそうよ。―
一瞬で、状況が最悪なのを把握した。
― 外国に行きたいのか…?―
今では、すっかり馴染みになってしまった、ありがたくもない恐怖。
…桂が自分の前からいなくなる…。という怯え。それこそ、桂に何度も味あわされた恐怖…。
― 貴方のせいよ。―
― …だろうな…。―
電話口で黙るしか出来なかった自分…。
― かっちゃん、絶対受かっちゃうから…。―
そう、リナは言ってから、なぜか優しい口調で、今日、この時間、この場所を亮に告げた。
桂が、なぜ海外ボランティアに応募しようと思ったのかなんて、分かりきっている。
恋人ごっこが終わり、自分の役目は終わった…だから、もう一人で生きていこう…か…。
亮は小さくなり始めた桂の背中を見つめて、優しく微笑んだ。桂は普段のおっとりさからは、想像もつかない速さで走っている。
逃げようとしている…自分から離れようとしている桂…。
でも、まだ桂は日本にいて、自分の目の前に一応いる。
逢うことさえ…姿を一目見ることさえ許されなかったこの1ヶ月余り。桂に逢う為だったら、悪魔にさえ魂を売り渡したっていい…そんな普段の自分からは考えられないような事を考え続けて、幾夜も桂を求めて狂いそうになった。
亮は、スーツのジャケットを無造作に脱ぎ捨てた。上質なそれが無残に道路にバサリと落ちる。タイを乱暴に引っ張って緩めると、亮はすぅと深く朝の新鮮な空気を吸い込んだ。
桂が目の前にいて、自分の姿を見て逃げた。そのことが、なぜかやたらに嬉しくて、亮は真っ青な秋の空を見あげて、笑みを零す。
…逃がしたりはしない…。スタートラインに、立つんだ…二人で。
亮は桂の遠ざかる背中に向かって走り出した。
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