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後編

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 颯真が敵、悪の本拠地に赴くことになったのはそれから数日後の日曜日だった。いつもより多めの吐き気止めを服用すると、思わせぶりに藍那の両手をそっと取り「ご両親にご挨拶がしたい」と顔を赤らめながら告げる。
 なお、顔が赤く発汗すらしているのは念のため走り込みをし、さらに念には念を入れて藍那と会う直前まで息を止めていたからだ。

「……重い、かな? 」

 困ったようにわざわざ小首を傾げてやると、藍那は両目を潤ませて「そんなことない、僕嬉しい……! 」と目の前のαに思い切り抱き付いた。
内心「勘弁してくれよ、目からゲロ吐きそう」と思いながらも颯真は「俺も……藍那と俺のこと、きちんと報告したいから」と目の前の糞ビッチ性悪Ω(颯真談)とは全く異なる理由で、その両目を潤ませていたのだった。

藍那の両親に報告したい。彼のその思いだけは嘘偽りがなかった。約束を取り付けた日曜日の朝はとても爽やかで、復讐を行うにはおあつらえ向きなのか全く合っていないのかは颯真にもわからないが、とにかく清々しく気持ちの良い天気ではあった。

「山吹」と表札が付いた重厚そうなドアのインターフォンを藍那が鳴らすと、家の主は「はーい」と軽やかで、けれども誰かに媚るような甘ったるい声で出迎えた。

「……そう、ま? 」

「え? ……とう、さん? どうして」

 目の前のΩは山吹美樹。山吹藍那は、自分と母を裏切った山吹美樹と比呂の子供だった。運命の報いが来たのだと、比呂とそのフェロモンに酔っていた美樹は、事の重大さにようやく顔を青ざめさせた。

「何で、何で! どうして、なんでこんな……!! 」

 颯真と引きはがされる様にして、美樹と比呂の真ん中に座らされた藍那は泣き喚き暴れていた。父親の比呂は黙って藍那を抱きかかえ、されるがままにしており、美樹はがたがたとその身を震わせている。

「俺……藍那さんとは将来を見据えて、真剣にお付き合いしていました。だけどなんで、なんでこんな……あまりにも残酷過ぎる。酷い、藍那さんと俺が……血の繋がった兄弟だなんて!! 」

 知らなかったわけがないだろうと、内心とてもよくない笑みを浮かべながら颯真は非情な現実に打ち震え、最愛の人と結ばれることが叶わない悲劇のαとしての演技をしてみせた。

 バース性も絡み少々ややこしい話ではあるが。
颯真は流伽が母親で父親が美樹であり、藍那は比呂が父親、美樹は藍那の母親ということになる。つまり異母兄弟でもあり異父兄弟でもあるわけだが、いずれにせよ血縁関係のため結婚はできず、番として結ばれることもオメガバース法により不可である。

運命の番という忌々しき呪いが、ここでも活かされた。隆文曰く「血が濃い場合に運命の番が発生しやすくなる」つまりは血縁上異母異父兄弟である藍那は、これまで颯真と血の繋がりがあるとは知らずΩの遺伝子が相性の良い颯真を求め、その所為でより一層「運命の番」に強く惹かれてしまったというわけだ。
山吹家を崩壊させるにはもう一息だろうと、颯真は更に揺さぶりをかける。

「俺、本当はお父さんにも会いたかった……お母さんのことを考えるとそんなことは言えなくて小さい頃からずっと我慢してて。でも、こんな形で会いたくはなかった! 」

「……流伽は、その」

 元気か。美樹の言葉に、颯真の身体に黒い憎悪の炎が駆け巡る。母さんの心を抉り取るような真似をして蹂躙して、元気を奪った元凶が一体何を言っているのか。恥知らずと罵りそうになったが、口元を押さえて何とかそれをやり過ごす。

「藍那、藍那のお父さん……少しだけ、美樹さんと二人で話させてくれませんか。これで最後にします、もうこの家に来ることも藍那さんに近寄ることもしません」

「なんで、颯真どうしてそんなことを言うの! 僕たちは運命の」

「わかった……」

 比呂は藍那を彼の自室に運ぶため、抱きかかえながら去っていった。二人きりになると、ただでさえ広い部屋がより広く感じる。シーンという音が耳に痛いぐらいだ。

「颯真、すまなかった……俺は君から二度も、大切なものを奪ってしまった」

 美樹は、颯真に近づくとその身を抱きしめた。全身に鳥肌が立つのを抑えられなかったが、これも想定内だ。父親としての抱擁ではなく、ゼーゼー息を荒くして息子の首筋の香りを嗅いでいるこのΩは、明らかに颯真に欲情している。

 藍那とこの家に来る数十分、颯真は配送会社の配達員を装い玄関口で出迎えた美樹の身体に、荷物に隠すようにしてあるものを吹き付けた。
 それは、颯真のフェロモンを混在させた非合法のフェロモン誘発剤である。すでに番がいるΩに対しても効く、吸引型の薬にしては遅効性のそれは颯真、つまり対象のαのフェロモンを嗅いだ時に強い欲情を誘う。

「お、お父さん、やめてください、俺、そんな」

 父親とはいえ、ヒートが発生したΩのフェロモンは人を狂わせるほどに強い。ましてや、藍那なんかよりも更に血の濃い「運命の番」という忌まわしき呪いが纏わりついている。颯真は過剰防衛にならぬよう「やめてください」と力なく、けれども少しづつ声を荒げる。

 実の父親に性的に迫られるのは、どんなホラー映画よりもホラーであると言えるし、最早トラウマレベルですらある。だが、颯真にはこれ以上に今後の人生に引きずりそうなぐらいトラウマとなる、非人道的で気持ちが悪く忌まわしき行為を行わなければならない。

「美樹! 」

 異変を感じた比呂が階段から駆け下りて来るところを見つけると、颯真は「いやだ、こんなの、離れてやだぁ! 」と、無垢ながらΩのヒートに中てられた哀れなα役として、ガブリと美樹の項に噛みついてやった。

「何をやっているんだ! 」

 いくらフェロモンの所為とはいえ、それからもう番済みのΩとはいえ。最愛に暴行を働いた颯真を比呂は許さず、馬乗りになり何度も何度も颯真を殴りつけた。

「やめてください、やめて、やめて」

「比呂、やめて! 颯真を殴らないで、俺の所為で……」

 美樹が比呂を止める姿は、別れたとはいえ自分の息子を懸命に庇う父親……などではなく。新しい番を見つめるΩの欲に塗れた、世にも悍ましい姿だった。

「番の、上書き……」

 病院に運ばれた美樹の耳に、医師から信じられない言葉が突き付けられた。酷く悍ましいそれは世界でも数例しかない非常に稀なケースであり、直系血族でしかほぼ起こりえない倫理的に忌み嫌われているものだった。

 「事件性は無い」

不幸な事故が重なった結果と判断された颯真は、罪に問われることはなかった。可哀想なαとして周囲からは同情的な目で見られ、大学に通うことも問題がなかった。

 後ろ指をさされているのは、山吹家の人間たちだ。藍那は自身の母と恋人が番うところを目撃してしまい美樹を責め続け、次第に暴力を振るうようになりそのまま精神に異常をきたした。元々陰であくどいことを繰り返していたようなΩだ、同情などするものはおらず、罰が当たったと誰も彼を庇うものはいなかった。
 
「長篠、可哀想にね」

「あんな奴に引っかかって……」

「藍那、大学戻ってくんの」

「冗談だろ、こなくていいよ」

「そういえばあいつの取り巻きも最近見ないね」

「あ、知らないんだ、あのね……」

周囲からの告発もあり彼は自主退学をし、そのまま遠い病院で入院という名目で隔離された。彼の療養という意味合いもあるが、恨みを買っていた彼を守るという意味でもその処置は適切であったといえるだろう……本来であれば。

「今日も調子が良くないみたいですねぇ」

「ぼ、僕は正気です、お願い早く外して、ここから出して! 」

 この病院の院長には一人娘が居るが、心無いΩのくだらない嫉妬により、ある日突然複数のαに襲われた。身体は疎か、深い心の傷を負った娘の仇を取るべく、院長は主犯のαは勿論、指示役のΩにも報復をした。
 今、当該のαたちと裏で指示をしたリーダー格のΩは「今後まともな日常生活を送るには困難なレベルで、重い精神障害が発生している」と診断され、身体すらも動かすことができないぐらい強い薬を投与され続けている。
今では反抗的な囚人のように拘束衣を着せられたまま、その日その日をただ生かされているだけの状態だ。

 今後、彼らには真っ白い部屋で天井を見つめるだけの生活を、寿命が尽きるまで送る日々が与えられる。唯一の救いは、強すぎる薬の投与による副作用で、寿命が縮められることぐらいだろうか。
 院長だって元は善良な人間だ、彼らが救いを求めたのならば、いつでも安楽を与えてやるつもりでいる。死が救済となるのであれば、彼はとても慈悲深い人だ。

「ごめんなさい、比呂、触らないで……」

 図らずも実の息子と運命の番になってしまった美樹は、あれほど愛していると心身ともに捧げていた目の前のαが、気持ち悪くて仕方がなくなっていた。

「……」

 比呂も、颯真のフェロモンによって牽制されており、敵と見なされて美樹に触れることもできない。思えば、目の前のΩとは本当に心の底から繋がっていた時はあっただろうか。周囲の目も憚らずに愛を囁き合っていたあの頃の記憶が急に色褪せ、酷く滑稽でつまらないものに思えてきた。

 しかし、普通のβ同士の恋愛であれば「冷めた」で済むものの、オメガバース社会でのそれはΩに対して致命傷を与える。αはΩがいなくとも生きてはいけるが、番解除されたΩの身体の負担はあまりにも大きい。

「……不幸な事故だったな。大変だったろう」

 言葉だけは颯真を労わりつつも、隆文の目は冷酷な学者としての好奇心で満ちていた。勿論隆文にはあれが偶然から発生した不幸な事故ではないことを、とっくのとうに理解していた。

「あの後、口を何回洗浄したかわからない。おえ」

 実の父親の項に噛みついたあの気持ちの悪い感触は、生涯忘れることはできないだろう。トラウマと言っても言い過ぎではない。颯真はもうどのΩに対しても嫌悪感は抱くものの、性的興奮を覚えることはなくなってしまった。

「生きているうちに『運命の番による番の上書き』という超レアケースを目撃することができて、俺はとても感動している」

 表面上の取り繕った気の毒さが白々しく思えるぐらい、隆文の目は輝いていた。興奮のあまり颯真の両手を包み込むように握りしめ「これで卒論は完璧だ」と少々気の早すぎる予定を脳内で組み込んでいる最中だ。

「隆文が喜んでくれたなら、俺もやったかいがあったよ……でも二度はない」

 上書きさせてと、項に甘噛みされた隆文は「俺にやっても単なる傷害だ」とくすぐったそうに身を捩った。

「そういえば君、番の解除はするのかい」

 するのであれば卒論が終わるまで待ってほしいところだがと、マッドサイエンティスト丸出しの発言をする隆文に対して「一応あれも父親だからなぁ」と、本当は早く全ての縁を切りたい颯真は、それでも難色を示していた。

 項に噛みついてからは山吹家に一切接触を図っておらず、これからも近寄らないつもりではあるが、番を解除しないのは最後の温情であった。
また、本来起こりえるはずのない番持ちのΩが突発的に発情し、そのフェロモンの所為で父親と番ってしまったことについてはレアケース過ぎて事例がなく、不幸な事故として法律的にも不問にされているが、番の解除を仕向けた場合、こちらによって罪に問われてしまう場合がある。

「俺個人としては、早く本当の意味でも縁を切りたいし、親父は正直どうなってくれても構わないんだけど」

「……君は、優しいな」

 死んでくれても構わない。或いは死んでほしい。そんな言葉を発しない颯真に隆文は口元だけで笑顔を作って見せた。
 彼だって、憎からず思っている隣のαの心に傷を負わせた父親とその家族に対して、穏やかとは言い難い怒りの念を抱いているのだ。

「……もう君が、気持ち悪くて仕方がない」

 最愛の元番にそう突き付けられても、美樹の心は空虚なままだった。何らかの教科書に載ってもおかしくないぐらいの珍しい経験をさせられてしまった山吹家は、学術的な雑誌から始まり、次第に低俗なメディアにも取り上げられて拡散されていった。

 発狂した子供を抱えて生きてゆかねばならないという温情より今の仕事は続けられたが、出世の道からは外れてしまい妻を取られ子供の育成に失敗した、うだつが上がらないαと陰口を叩かれ腫物のように扱われ、親族とも絶縁に近い状態になっていた。
 山吹家はもう、家族としても夫夫としても全てが崩壊していた。比呂のαとしてのプライドと世間体だけが、この一家のちぎれそうな糸のような頼りない絆だった。

「幸せってなんだったっけ」

 広い部屋で一人、美樹はぼんやりと考える。頭をよぎるのは小さい頃に流伽と手を繋いで公園を散歩したことや、少し大きくなって校庭でみんなと鬼ごっこをした記憶。思春期に入る頃、桜並木で薄桃の花びら舞い散る春に流伽に拙い告白をし、受け入れてもらったことを思い出した。

 傷の舐めあい、慰め合いだと馬鹿にされても二人はいつも一緒だった。Ωの番と周囲にからかわれても、二人にとってはこれ以上ない褒め言葉だった。
 流伽の笑顔のためなら何だってしよう。与えられた体温やΩのフェロモンすらも、流伽のものならなんでも心地よかった。確かに美樹は流伽が好きだった。
Ω同士だって番うことができる、この世に生まれてきた颯真がそれを教えてくれた時は、天にも上る気持ちだったというのに。
 
 ズキリと首の裏が痛む。心の中では流伽と颯真の思い出でいっぱいだというのに、Ωの本能は実の息子を別な欲望の眼差しを送り、番え孕めと囁き欲情の熱を与えてくる。

「はははっ……ふぐ、ひっ……」

 美樹は初めて、自身の中のΩという性を呪った。もうあの二人を苦しめたくはなかった。バース性とは無縁の、生涯で心の底から愛したあの人に謝罪し、そして決別すべきだと彼は思った。美樹はスーツを取り出し着替えようとしたが、ふと今の流伽に必要なのは誠心誠意の謝罪ではないと思い直す。彼らが望んでいるのはきっと。

「……美樹ちゃん? 」

美樹は着古した洋服に身を包み、とてもみすぼらしい、落ちぶれたような姿で流伽の前に現れた。

「久しぶり流伽、元気にしているか? ……俺の人生はもう滅茶苦茶だよ。知ってると思うけど颯真……お前の息子と番っちゃってさ」

「……あれは、事故だったんでしょう」

 痛ましい事故のことは颯真から聞いていた。

「俺が恋人の両親と挨拶したいと言い出さなければ、こんなことに……ごめん、母さん本当にごめん。二度と藍那……恋人とも、父さんとも。一生会わない」

 自分も辛かったろうに涙ながらにただ母親に謝り続ける息子を、流伽は「お前のせいじゃない」と、すっかり大きくなった背を撫で続けてやった。
どこまであの人たちは、自分たちの人生に絡みついてくるのだろう。美樹が流伽に一方的に別れを告げたあの時から、もう自身の心の中で彼は死んだことにしていたというのに。

「夫にも離婚を突き付けられてさぁ、もう俺にはなんにもないんだ。ねえ、少しでいいから金貸してくれないか? 」

 気まずそうに、少しだけ目線を右上にやり謝罪どころか金の無心に来た元夫に、当然のことながら流伽は強い怒りを覚えた。けれども、美樹の様子と微かな違和感に流伽の怒りはすうと抑えられる。
 
 美樹は昔から嘘を吐く時、右上を向く癖がある。また、美樹は確かに着古したよれよれの服を来ているが、よく見れば履いているスニーカーは良いものだし、身体も小奇麗にしている。言動が全てがどこかちぐはぐなのだ。
 昔のように、まっすぐこちらを見つめてくる流伽の眼差しに、美樹は心の中を見透かされたような気持になって、いたたまれなくなった。

「美樹ちゃん、行くな」

「なに……何わけわからないこと言ってるんだ」

「美樹ちゃん、まだ間に合うよ。戻ってこい」

「……金がないならもういいや、邪魔したな」

 昔から人のために泣く子だった。大粒の涙を目に溜めてぽろぽろ零れ落ちるのもそのままで、美樹ちゃん駄目だ、戻ってこいと訴えている。
 セックスワーカーだった流伽は、いろんな人間を見てきた。貧富に関係なく性欲ではなく、心が満たされていない荒んだ人間がやってくることも多い。

「最後に一緒に居てくれて、ありがとう」

 客の中には、そんな言葉を告げて去っていくものもいた。そういう奴ほどしぶとく生きていくのだから気にする必要はないと同期は肩を叩いてくれたが、流伽は死の気配と匂いに敏感だった。病人や老人、まだ若い健常者であっても、この世から旅立とうとする者たちの匂いは、いつも同じだ。

「相変わらず、優しくて勘が鋭い」

 美樹は足早に流伽の元から去ると、夜になるのを待って薬を煽った。皮肉にもそれは颯真に使われたものと同等の種類で、非合法のヒート誘発剤、番を持っていても他者にわかるようにフェロモンを強く引き出すタイプの薬だ。

 非情に治安のよくない繁華街で、フェロモンをまき散らすΩは格好の餌食だ。美樹はわざと寄ってきたαたちに口汚く罵り人気のない場所へ連れて行かれる。普通の人間にとっては最悪なことに、そのαたちはΩに対して加虐趣味があった。

 自殺は駄目だ、流伽が気を病むかもしれないから。事故もだめだ。相手の同情を引くような方法はだめだ。何かの間違いで二人の心に罪悪感が生まれてしまうといけないから。
上手くやらないといけない。失敗は許されない、これが「吉田流伽」の夫「吉田颯真」の父親としてできる最後の償いなのだから。
美樹はαたちを「彼にとっては」上手く焚き付け、加虐の火を燃え上がらせた。

 時に性犯罪者たちを罵り、時にみっともなく泣き喚き、拷問でしかないレイプを一身に受けた。奴らの手が止まらないように、痛みと快楽に耐えながら憎たらしさと可逆性を誘う泣き顔のさじ加減に細心の注意を払った。
玩具と呼ぶには凶悪過ぎる機器で身体に電流を流されて、後孔に鉄の棒を差し込まれ人としての尊厳を蹂躙するような行為を、美樹は文字通り死ぬまで受け続けた。

 声を上げられないように異物を口に詰め込まれたおかげか、窒息死で逝けたのは彼にとってわずかばかりの救いだったのかもしれない。
 美樹の遺体の損傷は激しく、死んでもなお蹂躙されたその身体はどこもかしこもズタズタになっていた。

「(うまく、できただろうか……)」

 美樹が死ねば、颯真が罪悪感に駆られることなく、死亡による自動的な番解除を行うことができる。けれどもそれすらを悟られてはいけない。
 違法ドラッグを使い、欲求不満で番が居るのにαを誘ったΩの自業自得の死。美樹が望むのはそんな、救いようのない死に方だった。

「……この度は」

「……うん、わざわざ来てくれてありがとう」

 美樹の葬儀に、隆文も駆けつけてくれた。喪主である比呂は魂が抜け落ちたかのように呆然としており、颯真たちに気付くこともないがそちらの方が好都合であった。

 美樹の訃報を聞く前に、颯真の身体に異変が起こった。自分の中の何かを削り取られるような感覚は、恐らく颯真が最初で最後に経験する番の解除というものだった。
何が起こったのか理解はできなかったが、美樹が死んだのだということだけは瞬時に悟る。数時間後に知らせが入っても、颯真の心は不思議と穏やかだった。

「あなた、美樹を幸せにするって言いましたよね! 何で、なんでっ……」

 流伽は比呂の胸倉に掴みかからんばかりの勢いで怒鳴りつけているが、最後は嗚咽によってしぼんでしまっている。比呂は格下のΩに詰め寄られているというのに、今はαの威嚇フェロモンを発することもなく、ただされるがままに身を任せていた。

「……すまなかった」

「何に対してのすまないなんだよ! 僕じゃなくて美樹に謝れ! アンタは美樹と身体の繋がりがなくなっただけで、簡単に美樹を手離そうとしただろう! 愛してもいない他のα……それも、それも事故で実の息子と番になってしまった美樹に……たとえ触れられなくても傍に寄り添って、彼の気持ちを考えたことが一度でもあるのか? 」

 美樹の死を心の底から悲しんでいるのが、美樹に捨てられた元妻だけというのが、この家族の人望の無さを表していた。

「母さん、帰ろう」

「颯真は先に帰ってなさい」

「母さん」

 「もういいよ」困ったようにこちらを見つめる息子の姿に、流伽は口を噤むと喪主に頭を下げてその場を去る。続けてその場を去ろうとした颯真は、一瞬その歩みを止めて比呂の方を向く。

「……っ! 」

 颯真は比呂に、歪んだ笑みを浮かべていた。人間はここまで悍ましく憎しみが籠った表情を作れるものだろうか。一つの家庭を自分の本能と性欲で潰してしまった重み以上に、自分よりも遥かに格上のαからの報復がこれほどまでに恐ろしいものなのだと、比呂は畏怖した。

「ただいま」

「お帰り、どうだった復讐は」

「いいものではないね、犬の糞を踏んだ程度には不快な気持ち」

「じゃあ二度とやらなきゃいい」

「……それは俺たちの今後の人生次第かな」

「? 」

「もし隆文の身に何かがあったら、こんなもんじゃ済まないけど」

「何かが無いように細心の注意をはらって生きるから、安心してくれ」

 親父が死んだのは想定外だったという颯真の言葉に、隆文は一つの仮説を立てた。美樹の身体からは強制的にフェロモンを誘発する多量の薬が見つかったというのは、メディアにも公開されている情報だ。
けれどもある程度歳をとってもΩなのだから性欲処理、遊び相手のαぐらいはそれこそ薬を使わなくても見つけることなどたやすいだろう。

 彼は、それをせずわざわざ治安の悪い街中で無防備に身体を晒した。まるで誰かに襲われるのを待っていたかのように。そんなもの、わざと殺されに行くようなものじゃないか。

「……」

 ここで隆文はいったん思考を停止させる。自殺ではなく人に「不幸」「気の毒」と思われるような事故も装わず、誰が聞いても同情すらしてくれなさそうな惨めな最期を迎えることが、美樹の最終目標だったのではないか。
 美樹の目標は「息子の颯真との番を解消すること」と「元妻と息子を本当の意味で決別すること」二つの条件を満たすために、彼はみっともない死を選んだ。

けれども、隆文はそれを口に出すのはやめておいた。きっと彼も彼の母親も、それから父親の美樹もそれを望んでいないのだろうから。
 悪役を演じたのなら最後まで悪役のままでいたい、隆文は美樹の気持ちを尊重することにした。

「……母さんをまた泣かせちゃったことだけは、本当に反省している」

「そうだな。もう悲しませるな」

 これから存分に親孝行してあげたらいい。下手な気休めも耳に心地の良い適当な言葉も言わないところが、颯真にとって救いになった。

「ところで君、この後の顛末に興味はあるか? 」

「何のこと? 」

「知人が院長をしている精神病棟に山吹藍那が入院していたんだが……彼は今、妊娠しているらしい」

「へえ、退院したんだ」

 あまり興味がなさそうに聞いている颯真の前で、隆文は悪人のような不敵な笑みを作ってやる。

「子供の父親は、山吹比呂だそうだ」

 美樹が死んだ後、比呂は息子の藍那を強制的に退院させ自宅に監禁した。最初の頃は院長も退院に反対をしたが、父親の尋常ではない様子を医師として冷静な目で観察すると「こちらのほうが復讐になる」とでも思ったのだろうか、あっさり許可を出したらしい。

「お、父さん、やめて、何するのねえ、やだ、いやだ」

「美樹……美樹」

 息子はどちらかといえば父親の方に似ており、そこに母親の面影はあまりない。それでもΩのフェロモンは似ているのだろうか。比呂の目はもう何も見えていないようだった。息子が嫌がるのも構わずに近親相姦を続けいつしかヒートがやってきて、二人の間に祝福されない子ができた。

「美樹、俺たちの子だ……次はもう間違えない、愛してる」

 間違い。人の物を略奪し奪い取ったαとΩの間に生まれた、見目だけは麗しい子。ちゃんと愛せなかった妻を、今度は間違いなく愛してやろうと比呂は思った。
間違い。実の息子を間違い、失敗作呼ばわりし挙句の果てに亡き母の代わりにしているαの父親が、藍那には得体のしれない化け物のように見えた。

藍那は、最愛だと思っていた恋人を母親に掠め取られた。いや、そもそも生まれた時から既に彼のものですらなかった。
そんな目の前の亡霊に囚われている父親の姿に、藍那はこれまでにないどす黒い殺意という感情が芽生えた。生まれて来るな、二度とこの世に出てくるな。藍那は腹の中の子供を握りつぶしたい気持ちで胸が一杯になり、そして。

「俺は、彼を愛していました。真剣でした……身を引いてからも、彼の幸せを願っていました。まさかこんなことになるなんて……どうして」

 涙ながらにインタビューに答える元恋人Sは、山吹藍那の死を「信じられない」という様子で事実を受け止め切れておらず、憔悴しきっていた。あくまでも表向きは。

 ○○市男性α殺害事件。被害者、と呼ぶべきだろうか。包丁で実の息子に腹部をめった刺しにされた山吹比呂は、失血多量で死亡した。事件の変質的な部分として、山吹比呂の男性器は切り落とされ、原形をとどめないほどに切り刻まれていたという。
 父親の傍らで息子の藍那は亡くなっていた。父親にしてやったように、自ら同じように腹部を幾度も刺した結果だが、彼のお腹に宿していた子は、父親比呂のものだったという。

「あと何回、同じことを言わなきゃいけないんだろう」

 何度人前で涙を流さなければならないのだろうか。目には目薬を、胸にはチューブのワサビまで仕込んで偽りの涙を捻り流す颯真を尻目に、隆文は場違いに穏やかな笑みを浮かべている。

「君の復讐の代償だ、それぐらいは応えてあげたまえ」

 亡くなった人たちは、もう笑うことも泣くことすらもできないのだから。如何にも人間らしく、感情に訴えかけるように諭す隆文の目には、情欲と熱の籠ったαの姿が映し出されていた。
隆文の鼻にはするはずのない、βが感じ取れるはずのない颯真の匂いを、ふわりと確かに感じていた。
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みんなの感想(1件)

こここ
2023.06.05 こここ

面白かったです!
読ませて頂きありがとうございました。

雷尾
2023.06.06 雷尾

こちらこそ読んでくださってありがとうございます!

解除
1 / 5

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