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後編
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Ωの臭腺除去手術は、徐々に希望者が増え僅か1年後には保険が適用されるようになっていった。何せ、番うという行為やフェロモンによる発情期が無くなるものの、Ωの子を成す機能はそのまま残るからだ。
定期的にやってくる行き過ぎた発情と快楽は、彼らにとっても苦痛でしかないのだろう。国としても性犯罪を激減させる手段として、臭腺除去手術を推し進める方針なのだろうと有森は考える。
「世界が変わった」
「空気が清々しい。身体が楽だ」
発情期によって自身に負担がかかるだけではなく、周囲からも迫害されていたΩ達は皆「幸せ」だと口々に感謝の意を述べる。Ωが知能的に劣っていると言われていたのも、フェロモンによる意識が混濁することと身体の負担によるものではないだろうか、と今更になって教育の内容が差し替えられるようになった。
やがて、第二の性がわかった時点でΩやαには臭腺除去手術を無償で受けられる権利が授けられた。有森が世に出した頃よりも技術力が向上し、ほぼ日帰りで終わるような簡単な手術となったため大半のΩはそれを望んだが、一部のΩはそれを拒んだ。
αに至っては殆どが手術を望まなかった。そのプライドの高さもあるが、自身が優性種であることを本能で理解しているαが、他者の威圧にも使えるフェロモンを取り除くメリットなどほぼ無いためだ。
「けれども、不必要なΩが目の前から消えてくれるのはありがたい」
「望まぬフェロモンに中てられるのは気分が悪いからな」
αはαで、臭腺除去手術自体は否定しておらず、Ωが手術を受けるという点においてはメリットがあると考えているようであった。
手術を受けたΩはネオΩ、αはネオαと区分されることになった。ネオΩはその数を増やし、やがて従来のフェロモンを放ち、それから感知する旧Ωは自然の摂理で遠い未来この世からいなくなるのかもしれない。
しかし、どこにでも自然原理主義は存在するものだ。Ωに関しては種の生存本能が働いているのかもしれない。何せ今は旧Ω滅亡の危機とも呼べる状況だ。
手術を拒むΩは皆、口をそろえて「運命の番」を探していると妄信的運命にしがみ付き、フェロモンが無くなることを何よりも異様なまでに恐れていた。
一部の旧Ωの過激派は、ヒートがやってきてもわざと抑制剤を飲まずにα、運命の番を探すようになり、それは社会問題に発展していった。
「運命の番、探しています」
「真実の愛に生きます」
街中で抑制剤も飲まずに路上に座り込むΩ達を、優しい人々はその身を案じ、常識的な者たちは内心呆れ、悪いことを考えている者たちは躊躇なく利用しようとした。
皮肉なことに、臭腺除去手術のおかげでΩ達に乱暴を働いても最悪な事態にはならないと判断されたからだ。彼ら彼女らを取り締まる者たちはいつも命がけだった。
ヒートを発動させた旧Ωは、αは勿論のことβにとっても脅威であった。暴力的なフェロモンによって強制的に望まぬ性行為を強いられるというのに、行為の特性上いつだってΩは被害者でフェロモンに中てられたαやβは望まぬ加害者、犯罪者となった。
「頼むからやめてくれ、近寄らないでくれ、気が狂いそうになる! 」
「貴方と僕は運命だよね。ずっと一緒にいて、愛して」
「俺には恋人がいるんだ、君なんか知らない」
「恋人なんて、運命の番の前では無力だよ」
心が結びついていないどころか、憎悪の念すら抱く様な相手にも欲情してしまう。衝動的に項を噛ませてしまえば、もう旧Ωの勝ちだ。弱者は己の弱さを力に変換させて強者を思うがまま操ろうと試みる。これは恋や愛ではなく、旧Ωの生存戦略だ。
一部の旧Ωに対して意図せず行われてしまうαやβからの性行為は、Ωにとって都合の良いように情報操作されたうえで、メディアにも取り上げられるようになっていった。
「ふうん……」
「どうしたの、有森」
「ミハイル、そうだな。どちらが勝つかなと思って」
有森は学者として興味深そうに、旧Ωの反乱を見守っていた。従来のΩは強い発情期があり、華奢でか弱く性格は健気、αの気を引くため容姿端麗で可憐な姿をしたものが多い。
重いハンデである発情期のせいで、自分の力だけでは生きることが難しいという弱さすらも、αを引き入れ寄生するための生存方法だ。
αに気に入られるために身体を変え性格を変えるその姿は、まるで品種改良された花たちのようだと有森は思う。
人間たちに気に入られるため、自然界では生きて行けなくなった美しく歪な花たちはグロテスクで、どこかΩに似ている。
「有森、ちょっと違う。それでも花は綺麗だけど」
アイツらの本質は醜い。ミハイルの言葉に有森はぱちりと目を大きく瞬かせた。少し前の事、ミハイルに言い寄ってきた可憐で美しく、誰もが庇護したくなるようなΩがいた。この頃のミハイルは既に臭腺除去手術を受けていたというのに、彼はミハイルに冷たくされても健気に尽くそう諦めずにやって来る。
もう匂いすら感知しないはずなのに、ミハイルの容姿や能力だけでαと決めつけやってくる目の前のΩが、不快でたまらなかった。
それを鬱陶しく思ったミハイルは、すでに臭腺除去手術済みでさっぱりした性格の、ある意味Ωらしくない同級生に「アイツを巻きたい、今だけ一緒に行動してよいか」と頼んだことがある。
同級生は「アンタも大変だな」と肩をすくめて笑うと、彼の友人や恋人が来るまでの間、当該のΩから壁になるようにして、ミハイルを守ってくれていた。
「……その後、どうなったと思う?」
ミハイルに執着していたΩは、同級生を苛めるようになった。最初は軽度な嫌がらせで済んでいたが、直接自身で手は下さず、周囲のΩや彼のフェロモンに心酔しているαを使って苛めようとしていた。
幸いなことに、加害者は過激派なΩとして問題児扱いされており、同級生は素行も真面目で人望が厚かったためほとんどの嫌がらせは周囲によってやんわり阻止されたし、彼自身も反撃している。
このままでは埒が明かないと悟ったのだろう。件のΩが同級生に対して、人としての尊厳を失わせるようなことを計画していたという話がミハイルの耳に入り、結果それも未遂に終わった。
「彼には申し訳ないことをした」
以前から素行の悪さも目立っていたのだろう、今回の犯罪手前の行動に主犯のΩやその取り巻きは停学、自主退学になったがミハイルは自責の念に駆られ、同級生に謝罪をしに行った。心優しくも強いネオΩの同級生は「気にするなよ、そっちも災難だったな」αも大変だなぁと憐憫の念さえ浮かべてくれていた。
「つまり、Ωも自分より下と判断したΩを見下し、邪魔な者は排除しようとする。ということか」
実に人間的じゃないかと笑う有森に、ミハイルは「きっとあれは、人間じゃない」と答える。
「Ωもそうだけど、Ωとαはβと何か違う気がする。俺はそれが怖い」
15歳の時に、母の仇とも言える父親の浮気相手を躊躇なく殺したミハイルは、自身を含めてΩとαはどこか、普通の人間とは違うとうっすら自覚していた。
「有森、さっきの話。どっちが勝つってどういうこと」
「うん? ああ旧Ωとαの話か。このまま旧Ωが押し切って昔のようにαを寄生先として侵略してゆくのか、それともαが諦めて臭腺除去手術を受け、次の時代に順応するのか。どちらかなと思っただけさ。とある種、つまりΩとαの進化の分岐に立ち会えているようで面白く思う。」
「……俺としては、どっちも滅んでほしいけどね」
「であれば、全てのαが手術を受け入れる必要があるだろうな」
『……もう、限界でした』
とある大企業の代表取締役社長が、涙ながらに訴えかけるニュースが瞬く間に全世界に広まった。彼は優秀なαであることから、一部のΩから執着されフェロモンに何度も中てられ、あわや性犯罪者になりかけたこともあるという。彼は既婚者で自分には大切な家族がいると断っても、Ω達は彼のパートナーがβ女性だということを知ると「自分は貴方の運命だ」とアプローチという名の猛攻を止めることはなかった。
そのΩたちは、自分のか弱さを武器に彼の妻をまるで悪女のように仕立て上げる。運命の番なのに結ばれることがない悲恋を、涙ながらにメディアに訴えかけた。
「あなたのことが大好きで、今もそれは変わらないけど。少し、疲れちゃった」
Ωたちの真綿で首を締めるような嫌がらせに遭い続け、力なく笑うパートナーの姿に、彼はαのプライドもかなぐり捨てて、許しを請うように妻と子供を抱きしめた。
法よりもモラルよりも運命の番というものは、それほどまでに大切なものなのだろうか。見せかけの哀れなΩたちによって周囲からありもしない誹謗中傷を受ける妻と子供たちに、彼は激しい憎悪と怒りを覚える。
これは奴らのインベーダーゲームだ。じわじわと侵略し彼が気づき上げたものを奪い取ろうとしている。大切な家族になり替わろうとしている。
「自分も家族も参ってしまい、もうこれしかないと」
彼は、家族のためにαを捨てる決心をする。彼はこれまで自身のαに引きずられてしまい、結果としていざという時に頼りになれず愛する家族を辛い目に遭わせてしまったことを詫びて、臭腺除去手術(今はネオαorΩ転換手術と呼ばれている)を受けた。
「……人生が変わりました。視界がクリアになり空がとても青く空気が清らかに感じられました。呼吸が楽になりました。解放された気がします」
元々はトップまで上り詰めた男だ。ネオαになってフェロモンの威圧などなくても彼は優秀で業務に何の支障もなかった。それどころかフェロモンの感知が外れた今、昔以上に人間関係もやりやすくなったという。
「それに、手術の副産物と呼べる利点もありました」
それは、ネオαやネオΩは旧αのフェロモンによる威圧を感知しないこと。威圧を受けることがなくなったネオバースたちは、もうαを恐れはしない。その点においてはβより優れていると言えるかもしれない。
「もちろん、ネオたちも従来通りαやΩは子を成すことができます。αやフェロモンに中てられることもなくなり、意図しない威圧で周囲の人を傷つけることも無くなります。Ωにとっては命を削られるほど負担となる発情期や番解除が無くなります。これは素晴らしいことです」
ネオ転換という技術を、外科手術の術式を開発してくれた医師にはどれだけ感謝の意を伝えても伝えきれないと締めて、社長は溢れ出る涙をぬぐいもせず深々と頭を下げた。
「よかったね、有森。凄く感謝されてる」
「医師ではないんだけどな」
興味がなさそうにそっぽを向く有森の耳が赤くなっていることを見つけると、ミハイルは「照れてる、可愛い」と囁いて後ろから抱き付く。
その後、次々と著名人からネオ転換手術を受けたという報告と、皆それぞれ如何に旧バース性が苦痛であったか、ネオバースが快適であるかと世間に向かって訴えかける。
バースに関わらず一部の人間は、手術なんかで生まれた身体と性を変えるなんてと批判的だったが、大半の人間は第二の性が確定した時点で、β以外はネオ転換手術を受けるのが常識となっていった。
「愛の力は偉大です、新バースなんて言葉に惑わされないで。あれは人類管理だ」
某日、新興宗教団体が設立された。
オメガバース教という名の団体は某国の資産家、キリル・コズロフが教祖である。オメガバース教に入信した信者は、7日後に「運命の契り」と呼ばれる会に参加し、そこで既に国では利用規制が入った良くない薬によって偶発的にヒートを発動させられ、αであるキリルに項を噛まれて番契約が結ばれる。
運命の契りは1回につき多いときは数十人、数百人の参加者が集うこともあり今やオメガバース教の入信者、つまりキリルの番は数万人にも上るという。
「臭腺除去手術なんてものを受けず、真実の愛、運命の番を探し続けた甲斐がありました。今は番であるキリル様に見初められて幸せです」
「私の心はずっと、美しいキリル様と共にあります」
オメガバース教の教えの一つなのだろうか、一夫多妻制に近い複数の番に対して嫉妬することもなく、皆キリルに心酔し尽くしているようだ。
邪教、カルト宗教、危ない集団として問題視され、下世話な週刊誌やネットニュースでも面白おかしく取り上げられている。
「旧Ωの反乱か、こういうこともあると思ったよ……うん、コズロフ? 」
有森は隣にいる最愛と、キリルの名字が同じことに気付くとチラリとミハイルの方を見やる。
「……親父だ」
ミハイルはガタガタと身を震わせ、食い入るようにテレビ画面を見つめていた。父親であるキリル・コズロフは彼の母を捨て番解除を行い、その後は「運命の番」を見つける度に新しい妻を娶り番を結び、また別の運命を見つけると解除をして別のΩと番うといったことを繰り返していた。
「どういうことだ。君の親父さんは潔癖症というか……同時に複数の番を持つことは無かったと聞いたが」
有森は言葉を選んだが、キリルは新しい番を作るごとに前の番を解除しつづけるという非道な行為を繰り返していたはずだ。
「……あの人の息子であることを、忌まわしく思う」
「君はどうしたい」
有森は、ミハイルの目をまっすぐに見つめる。説得か、絶縁か。距離を置くのか。或いは共存か、それとも。
「俺は、数少ない宝物を手離してでも、あの人を止めなくちゃいけない。けれど、あの人の考えがなんとなくわかるし、きっと止めることは叶わない。それどころか、俺はきっと心のどこかで、それを望んでいる」
絶縁して十数年が経過し、ミハイルは初めて父親、キリル・コズロフに手紙と古びて表紙が日焼けした日記帳を同梱し送った。何度繰り返し読みしたかわからない、きっと墓まで持って行きたかったであろう母の日記帳は、ミハイルの大切な宝物だった。
「キリル様宛に配送物が届いています」
「おや、どなたからだろう」
「差出人にM,コズロフとあります」
キリルはすぐさま開封すると、中にある日記を取り出した。日記はミハイルの母、そしてキリルの一番最初の妻、奏のものだった。彼はしばらくの間、表紙を大事そうにごく軽く撫で摩ると、震える指でページを開き始めた。
奏は日本人で、幼馴染の女性Ωと恋人同士だった。二人は周期的にやってくる辛いフェロモンをもろともせず、将来を誓い合った仲だった。
キリルが21歳の頃、街中を歩いている奏に目を奪われた。βやαに比べたら線は薄く華奢ではあるものの、しっかり男性的な身体つきだった奏に何故ここまで惹かれるのだろう。頭がそれを考える前に、ふわりと香る形容しがたい心地よく、そして理性を吹き飛ばすようなフェロモンに中てられ、キリルは奏に襲い掛かりそのまま項に噛みついた。
番防止のため奏が身に着けていた首輪はあっけなく引きちぎられて、首筋に当たる牙とその後の意識を飛ばすような強い快楽に、奏は絶望した。
「君は私の運命だ、君だって僕に出会えて幸せだろう? 」
番えばどんなことをしても、運命の一言で済むのだろうか。
欲情した顔で自身を襲ったαに乱暴に抱きしめられた奏の心には、恐怖しかなかった。
■○月○日
俺に子ができた。俺を襲ったαは責任を取るために結婚すると言っている。冗談じゃない。何故あんな犯罪者と結ばれなくてはならないんだ。だけどあのαは有数の資産家で周囲は賛成こそするものの、誰も止めてはくれない。
それがΩの幸せなのだからと。Ωなんてなりたくてなったものじゃないというのに。
○○(Ωの恋人のようだ)は「奏ちゃんが結婚しても、私は誰とも番わず、ずっと一人でいる」と涙ながらに俺を見送った。
それは酷なことだ。俺だけ番が結ばれてしまい忌まわしい発情期はなくなってしまった。彼女だけ苦しむのは違う、嫌だ。
■○月○日
この忌々しいフェロモンに中てられ欲情し、それに勘違いして、Ωとαという生き物は永遠の愛などを誓うのだろうか。○○に会いたい。そばに居たい。不快なフェロモンだって彼女のものなら心地よく感じる。○○の傍にいたい。
■○月○日
生まれた子は可愛い。αは嫌いだが、この子は俺の子だ。この子を連れてどこかに行けないだろうか。できれば○○の元へ。
■○月○日
あのαは俺に毎日愛を囁く。俺のことが好きだ、俺の為ならなんでもすると。それなのに俺を一日中広い屋敷に閉じ込めて、外に出ることもままならない。あいつが家に帰って来る時、俺はいつも絶望を感じる。
鳥かごの鳥はいつもこんな気持ちなのだろうか。閉塞感とαの匂いで脳がやられてしまいそうだ。いっそ気が狂ってしまえば楽だろうか。
俺のことが好きなら、開放してくれないだろうか。獣のようにフェロモンに欲情しレイプして、いともたやすく俺から何もかも奪った男を好きになれというのは酷ではないだろうか。愛することなど、とてもできない。
毎日のように身体を暴かれながら、俺はぼんやり死ぬことを考えてみる。
心の伴わない行為は、それこそヒートでも来てくれない限り苦痛でしかない。
■○月○日
最近、空が何色だったか思い出せない。視界が薄っすら白く、レースのカーテンに遮られたかのようにものがボンヤリ見える所為だ。耳に綿でも詰められたかのように自分が体の奥に引っ込んでしまった気がする。
時折正気に戻るのは、ミハイルが俺を呼ぶときだ。この子の手はぷっくり小さいクリームパンのような形で、温かい色合いをしている。
■○月○日
「君は、俺が嫌いなのだろう」
あのαが俺にそう言った。問いかけではなく諦めのような悲しい表情を浮かべて。
「貴方の中の、αを憎んでいます」
「俺は、君を愛している」
「……もしフェロモン何てものがなければ、貴方は俺のことなど見向きもしなかっただろうと思います。それだけは気の毒なことです。動物みたいに繁殖行動に惑わされて」
αが、Ωなんてものがこの世にいなければきっと、こいつも俺も彼女も真っ当に生きることができただろうに。
「αが憎い。だが、それ以上に自分の中のΩが憎い」
男は、何かが抜け落ちたような様子でこちらを見つめていた。
■○月○日
「運命の番を見つけた」
あのα、キリルはそう告げると、俺とミハイルを残して去っていった。ずきりと首筋に走る痛みと衝撃から、番が解除されたのだろうと悟る。
喪失感と半身を引き裂かれたような全身の痛みにのたうち回りそうになるが、心はどこか安堵していた。キリルが去る前に「ありがとう」と伝えると、一瞬振り向いたキリルは追い縋るような、今にも泣き出しそうな目で俺を見ていた。
俺の心には無いもの、きっと自惚れではなく彼の心には確かに好意だとか愛と言った感情があったのだろう。或いは今もあるのかもしれないが、もう俺の心には届かない。
もしフェロモンに中てられなければ、運命で無ければ。あんな出会い方をしていなければ、俺の心に○○がいなければ。ここまで彼を嫌悪し憎むことはなかったかもしれない。
俺は「運命の番」を生涯憎む。俺は、その運命から解放してくれた彼に感謝する。
キリル、ありがとう。愛する者から離れる辛さだけは、俺も良くわかっているから。貴方がしたことを許すことはできないけれど、その感情が愛などではなく単なる執着だったとしても、手離す決断をしてくれてありがとう。
レイプ犯に対して我ながら優しすぎる考えだとは思うが、多少は一緒に暮らしてきた情もある。彼には本当に心より愛する人と結ばれて欲しい。どうか運命なんかに惑わされないで。
■○月○日
俺は○○に会いに行った。彼女は気立ての良いΩだからもしかしたら良い伴侶に恵まれて新しい家庭を築いているかもしれない。
「奏ちゃん! 」
彼女は、彼女のままだった。彼女もフェロモンやαに抗い必死に戦って、俺を待ってくれていた。○○ただいま。俺は、俺たちは運命に打ち勝ったぞ。
君とまたこうして会えるのをずっと待っていた。俺はもう傷物のΩで、君とそう長い人生を共に歩むことはできないかもしれない。子連れになっちゃった俺なんかいらないかもしれない。
「奏ちゃん」
「俺と、残りの人生一緒に生きてくれますか」
どんな形でも、貴方を愛している。彼女は、俺とミハイルを力強く抱きしめた。
日記の内容は自分への答え合わせのようなものだと、キリルは思う。彼のただ一人の最愛は、少しも彼を好いてはいなかった。けれどもほんの少しの憐憫と隣人愛は会ったのだろうと思う。愛というものは、相手を憎んでも嫌っていても抱ける感情だ。
けれどもキリルにとって奏は初恋で、最愛でありこの世で最も好きになった人だった。
執着の結果、キリルの心の底にあった人としての良心が訴えかけていたのは、彼を開放してやることだった。最愛を手離す番の解除という辛く痛ましい行為は、奏への最後の贈り物だった。
残酷な目にあわせたというのに、皮肉にも奏はキリルの思いを汲み取ってくれていた。感謝すらしてくれた。自分の幸せすら祈ってくれた。
「運命なんて、どこにもなかった」
キリルは復讐を誓う。それは奏でもミハイルでもなく、全てのΩに対して破滅を望んだ。鬼畜の所業に大義名分などいらないが、例えΩだろうがこれ以上罪無きものを犠牲にするわけにはいかない。キリルは様々な人の幸せを略奪してきた心根の腐ったΩばかりを「運命の番」だと口説き、番っては解除を繰り返してきた。
「これでは効率が悪い」
自分ひとりの力では限度がある。もっと沢山の憎きΩを滅ぼすためにはどうすればよいか。行きついたのがオメガバース教だった。
「そろそろ潮時か」
この宗教は元々永年継続させるつもりなどなく、破滅のプログラムが組み込まれている。彼がこれからしようとしていることは、カルト宗教の狂った事件として少しは世間に騒がれるだろう。
……君にとっては、俺の言葉なんて性衝動を抑えきれなかった野蛮人の、性犯罪者のくだらない戯言にしか聞こえないだろう。けれども思うだけは許してほしい。
思えば、君と俺の子にも辛い目にあわせてしまった。自分の復讐のためにあの子の手を汚させてしまったことは、私の罪だ。地獄で償おうと思う。
愛している。番が解除されても憎悪されても、いつまでも愛している。キリルは固く目を閉ざした。
「……さようなら」
「さようなら」
「幸せです、ありがとう」
「今までありがとう、さようなら」
「さよなら」
オメガバース教の信者たちは笑顔で信者たちと挨拶を交わすと、一人また一人その場に倒れて行った。密閉された空間にはガスが充満している。信者たちは皆抵抗もせず人生の最後を待っていた。
バタバタと倒れ比較的少ない苦しみの中で命を落とす信者たちの真ん中には、こめかみをどす黒い血で濡らしたキリルが横たわっていた。彼の右手には拳銃が握られている。
「ああ、愛していますキリル様」
恍惚の表情を浮かべ死にゆくオメガバース教の信者たちは、不自然な程安らかで美しい死に顔だった。
某日、オメガバース教の信者たちは集団自殺を決行した。死者は数万人にも上り、直接的な死因はガスだが、その引き金になったのは教祖であるキリル・コズロフの拳銃自殺であることは明白であった。
運命の番は片方が亡くなった場合、もう片方も後を追うようにして儚くなると言われている。
キリルは信者たちのことなど毛の先ほども愛してはいなかったが、自分が死ねば信者たちも後を追うように教えを説いていた。これが、彼にできる最大のΩに対する復讐だった。
「これから、世間はΩに対してどんな目を向けるだろう」
有森の言葉からは、衝撃的な事件からしばらくの間は社会から奇異の目で見られてしまうだろうΩに対する哀れみが含まれている。
「一部の真面目なΩや、ネオΩたちが気の毒だね」
反面ミハイルは、口先だけは同情した風だが心の中ではΩに対する黒い感情がジワジワ滲んでゆき、本人も意図せず口角が上がっている。
今だけは父を父と思おう。彼は同士だった。Ωを憎みαを憎み、いつしかオメガバースという性そのものに憎悪の念を抱いた者たち。短絡的ではあったが、彼は彼なりにΩを絶やそうとした。
「母にも、父にも転換手術を受けさせてやりたかった。君にもっと早く出会えていたらよかったのにね」
君こそが、僕の神だ。ミハイルは有森の肩にそっと頭を乗せて目を閉じる。さらりと光る金糸のような髪を指で梳いてやりながら、有森はΩとαというものについて思慮する。
彼が出会ってきたαたちは皆プライドが高く、βやΩを同じ人間として見ていないように感じられた。学者という生き方はとても狭き門で、時に他者を蹴落とす行為も辞さない構えでいなくてはならない。
「いくら優秀とはいえ、βだものな」
これまで自分の事をバース性のみで有森を見下してきた研究職のαたちにとって、彼が発見したネオ性への転換手術は脅威だった。
出る杭は打たれる、優秀ではあるがプライドが高く独裁者気質のαは、大衆ともいえるβたちにとって畏怖とともに、倒すべき敵となっていった。
件の、大企業の代表取締役社長のように次を見越した生存戦略を見つけた者たちは、ネオαとなりネオΩとなり、柔軟に新時代へとその身を適用させてゆく。
けれども、運命の番に囚われ無作為にフェロモンをまき散らすΩや自尊心が高くαに固着した者たちにとって、この先の未来は地獄でありゆっくりと着実に淘汰されてゆくことになる。
キリル以外にも、Ωを娶っては新しいΩを迎え入れ、そして解除と番うことを繰り返すαがいた。これは新オメガバース保護法というものが成立された後に、犯罪とされた。
先進国と発展途上国では刑罰の在り方が異なり、前者は懲役とネオαへの転換手術がおこなわれるが、後者のαは見せしめに牙を抜かれた。
これまで人間の頂点に君臨してきたαたちが、蟻のようなちっぽけな、けれども圧倒的な数存在するβ達の手によってゆっくり追い詰められて滅ぼされようとしている。
これまでαに追い縋ることで生き永らえてきたΩたちが、自分の力で生きようとする時代がきた。
有森は未だに、一部の旧Ωやαに憎まれている。脅迫状まがいの手紙が届くこともあった。けれども有森はそんな手紙の1枚1枚に目を通し、まるでファンレターのように大切に保管している。
「ねえ、義孝」
「……どうした、ミハイル」
月日は流れ、すっかり髪の毛に白いものが混じるようになった二人は皮張りのソファに身を預けている。
「ネオ転換手術は今や常識となったけれど、これからもαやΩは産まれ続けるのかな」
αやΩという性は、親がα×Ωという場合に生まれることがほとんどで、β×β、α×β、α×αで生まれることはほぼない。
また、転換手術を行ったαやΩはフェロモンの呪縛から解き放たれたせいだろうか、αはβや同じα、Ωはβや同じΩとパートナーや婚姻関係を結ぶ者も多くなり、ますます純粋なαとβは数を減らしていった。
「ミハイル」
「ん?」
「今行われている最新の転換手術は、もう臭腺除去手術だけではないんだ」
現在のネオ転換手術にはαやΩが産まれぬように、遺伝子治療も組み込まれていた。
種の在り方としてできるだけ自然の成り行きを見守りたかった有森としては、人工的な自然淘汰であるそれを望んでいなかったが、国のトップとなったβたちがαを鎮静化させるために秘密裏に行われている行為で、このことは一部の人間しか知らないトップシークレット扱いだ。
「どうして」
優秀なαなら、有効活用できるだろうとミハイルは考える。
「優秀過ぎるのも困りものみたいでな。それに」
優秀がゆえにプライドが高くフェロモンの威圧を行う、従わせるにはとても扱いにくいαは、βたちにとって目の上のたん瘤のようなものだったらしい。
「優秀でも上を目指す人間は、少数でいいらしい」
最初の頃は、有森は苦しむΩを救うために臭腺除去を見つけ出した。その結果、副産物として、α性に苦しむ自身のパートナーを救い出すことができた。
最初はそれだけでよかったのに。
社会的にデメリットでしかないオメガバースのフェロモンを消し、人類にとってより都合の良い新しい種へ切り替える強い技術は、権力が欲しい者たちにとって宝石のように輝いて見えたのだろう。
そして、学者としての有森は種が滅びゆく歴史的な瞬間に立ち会え、そのトリガーになれたことに、高揚を抑えることはできなかった。
「義孝」
「ん」
「悪い顔してる」
「ミハイル、君も」
互いに顔を寄せ合い、額をこつんと軽くぶつけ合う。ミハイルにとってはオメガバースの滅亡と復讐が叶いそうなことに、有森にとっては知的好奇心が満たされていることにニヤリと口元を歪ませている。
「Ωとαがいなくなったその先の世界を見届けることができないのが、唯一の心残りだ」
全てを見届けるには、あまりにも寿命が足りなさすぎるから。
けれども、その先の未来はきっとフェロモンなどに惑わされず、自身の心のままに人を愛することができる世界になっているのだろう。
有森は人が抱ける最後の良心として、それを願った。
定期的にやってくる行き過ぎた発情と快楽は、彼らにとっても苦痛でしかないのだろう。国としても性犯罪を激減させる手段として、臭腺除去手術を推し進める方針なのだろうと有森は考える。
「世界が変わった」
「空気が清々しい。身体が楽だ」
発情期によって自身に負担がかかるだけではなく、周囲からも迫害されていたΩ達は皆「幸せ」だと口々に感謝の意を述べる。Ωが知能的に劣っていると言われていたのも、フェロモンによる意識が混濁することと身体の負担によるものではないだろうか、と今更になって教育の内容が差し替えられるようになった。
やがて、第二の性がわかった時点でΩやαには臭腺除去手術を無償で受けられる権利が授けられた。有森が世に出した頃よりも技術力が向上し、ほぼ日帰りで終わるような簡単な手術となったため大半のΩはそれを望んだが、一部のΩはそれを拒んだ。
αに至っては殆どが手術を望まなかった。そのプライドの高さもあるが、自身が優性種であることを本能で理解しているαが、他者の威圧にも使えるフェロモンを取り除くメリットなどほぼ無いためだ。
「けれども、不必要なΩが目の前から消えてくれるのはありがたい」
「望まぬフェロモンに中てられるのは気分が悪いからな」
αはαで、臭腺除去手術自体は否定しておらず、Ωが手術を受けるという点においてはメリットがあると考えているようであった。
手術を受けたΩはネオΩ、αはネオαと区分されることになった。ネオΩはその数を増やし、やがて従来のフェロモンを放ち、それから感知する旧Ωは自然の摂理で遠い未来この世からいなくなるのかもしれない。
しかし、どこにでも自然原理主義は存在するものだ。Ωに関しては種の生存本能が働いているのかもしれない。何せ今は旧Ω滅亡の危機とも呼べる状況だ。
手術を拒むΩは皆、口をそろえて「運命の番」を探していると妄信的運命にしがみ付き、フェロモンが無くなることを何よりも異様なまでに恐れていた。
一部の旧Ωの過激派は、ヒートがやってきてもわざと抑制剤を飲まずにα、運命の番を探すようになり、それは社会問題に発展していった。
「運命の番、探しています」
「真実の愛に生きます」
街中で抑制剤も飲まずに路上に座り込むΩ達を、優しい人々はその身を案じ、常識的な者たちは内心呆れ、悪いことを考えている者たちは躊躇なく利用しようとした。
皮肉なことに、臭腺除去手術のおかげでΩ達に乱暴を働いても最悪な事態にはならないと判断されたからだ。彼ら彼女らを取り締まる者たちはいつも命がけだった。
ヒートを発動させた旧Ωは、αは勿論のことβにとっても脅威であった。暴力的なフェロモンによって強制的に望まぬ性行為を強いられるというのに、行為の特性上いつだってΩは被害者でフェロモンに中てられたαやβは望まぬ加害者、犯罪者となった。
「頼むからやめてくれ、近寄らないでくれ、気が狂いそうになる! 」
「貴方と僕は運命だよね。ずっと一緒にいて、愛して」
「俺には恋人がいるんだ、君なんか知らない」
「恋人なんて、運命の番の前では無力だよ」
心が結びついていないどころか、憎悪の念すら抱く様な相手にも欲情してしまう。衝動的に項を噛ませてしまえば、もう旧Ωの勝ちだ。弱者は己の弱さを力に変換させて強者を思うがまま操ろうと試みる。これは恋や愛ではなく、旧Ωの生存戦略だ。
一部の旧Ωに対して意図せず行われてしまうαやβからの性行為は、Ωにとって都合の良いように情報操作されたうえで、メディアにも取り上げられるようになっていった。
「ふうん……」
「どうしたの、有森」
「ミハイル、そうだな。どちらが勝つかなと思って」
有森は学者として興味深そうに、旧Ωの反乱を見守っていた。従来のΩは強い発情期があり、華奢でか弱く性格は健気、αの気を引くため容姿端麗で可憐な姿をしたものが多い。
重いハンデである発情期のせいで、自分の力だけでは生きることが難しいという弱さすらも、αを引き入れ寄生するための生存方法だ。
αに気に入られるために身体を変え性格を変えるその姿は、まるで品種改良された花たちのようだと有森は思う。
人間たちに気に入られるため、自然界では生きて行けなくなった美しく歪な花たちはグロテスクで、どこかΩに似ている。
「有森、ちょっと違う。それでも花は綺麗だけど」
アイツらの本質は醜い。ミハイルの言葉に有森はぱちりと目を大きく瞬かせた。少し前の事、ミハイルに言い寄ってきた可憐で美しく、誰もが庇護したくなるようなΩがいた。この頃のミハイルは既に臭腺除去手術を受けていたというのに、彼はミハイルに冷たくされても健気に尽くそう諦めずにやって来る。
もう匂いすら感知しないはずなのに、ミハイルの容姿や能力だけでαと決めつけやってくる目の前のΩが、不快でたまらなかった。
それを鬱陶しく思ったミハイルは、すでに臭腺除去手術済みでさっぱりした性格の、ある意味Ωらしくない同級生に「アイツを巻きたい、今だけ一緒に行動してよいか」と頼んだことがある。
同級生は「アンタも大変だな」と肩をすくめて笑うと、彼の友人や恋人が来るまでの間、当該のΩから壁になるようにして、ミハイルを守ってくれていた。
「……その後、どうなったと思う?」
ミハイルに執着していたΩは、同級生を苛めるようになった。最初は軽度な嫌がらせで済んでいたが、直接自身で手は下さず、周囲のΩや彼のフェロモンに心酔しているαを使って苛めようとしていた。
幸いなことに、加害者は過激派なΩとして問題児扱いされており、同級生は素行も真面目で人望が厚かったためほとんどの嫌がらせは周囲によってやんわり阻止されたし、彼自身も反撃している。
このままでは埒が明かないと悟ったのだろう。件のΩが同級生に対して、人としての尊厳を失わせるようなことを計画していたという話がミハイルの耳に入り、結果それも未遂に終わった。
「彼には申し訳ないことをした」
以前から素行の悪さも目立っていたのだろう、今回の犯罪手前の行動に主犯のΩやその取り巻きは停学、自主退学になったがミハイルは自責の念に駆られ、同級生に謝罪をしに行った。心優しくも強いネオΩの同級生は「気にするなよ、そっちも災難だったな」αも大変だなぁと憐憫の念さえ浮かべてくれていた。
「つまり、Ωも自分より下と判断したΩを見下し、邪魔な者は排除しようとする。ということか」
実に人間的じゃないかと笑う有森に、ミハイルは「きっとあれは、人間じゃない」と答える。
「Ωもそうだけど、Ωとαはβと何か違う気がする。俺はそれが怖い」
15歳の時に、母の仇とも言える父親の浮気相手を躊躇なく殺したミハイルは、自身を含めてΩとαはどこか、普通の人間とは違うとうっすら自覚していた。
「有森、さっきの話。どっちが勝つってどういうこと」
「うん? ああ旧Ωとαの話か。このまま旧Ωが押し切って昔のようにαを寄生先として侵略してゆくのか、それともαが諦めて臭腺除去手術を受け、次の時代に順応するのか。どちらかなと思っただけさ。とある種、つまりΩとαの進化の分岐に立ち会えているようで面白く思う。」
「……俺としては、どっちも滅んでほしいけどね」
「であれば、全てのαが手術を受け入れる必要があるだろうな」
『……もう、限界でした』
とある大企業の代表取締役社長が、涙ながらに訴えかけるニュースが瞬く間に全世界に広まった。彼は優秀なαであることから、一部のΩから執着されフェロモンに何度も中てられ、あわや性犯罪者になりかけたこともあるという。彼は既婚者で自分には大切な家族がいると断っても、Ω達は彼のパートナーがβ女性だということを知ると「自分は貴方の運命だ」とアプローチという名の猛攻を止めることはなかった。
そのΩたちは、自分のか弱さを武器に彼の妻をまるで悪女のように仕立て上げる。運命の番なのに結ばれることがない悲恋を、涙ながらにメディアに訴えかけた。
「あなたのことが大好きで、今もそれは変わらないけど。少し、疲れちゃった」
Ωたちの真綿で首を締めるような嫌がらせに遭い続け、力なく笑うパートナーの姿に、彼はαのプライドもかなぐり捨てて、許しを請うように妻と子供を抱きしめた。
法よりもモラルよりも運命の番というものは、それほどまでに大切なものなのだろうか。見せかけの哀れなΩたちによって周囲からありもしない誹謗中傷を受ける妻と子供たちに、彼は激しい憎悪と怒りを覚える。
これは奴らのインベーダーゲームだ。じわじわと侵略し彼が気づき上げたものを奪い取ろうとしている。大切な家族になり替わろうとしている。
「自分も家族も参ってしまい、もうこれしかないと」
彼は、家族のためにαを捨てる決心をする。彼はこれまで自身のαに引きずられてしまい、結果としていざという時に頼りになれず愛する家族を辛い目に遭わせてしまったことを詫びて、臭腺除去手術(今はネオαorΩ転換手術と呼ばれている)を受けた。
「……人生が変わりました。視界がクリアになり空がとても青く空気が清らかに感じられました。呼吸が楽になりました。解放された気がします」
元々はトップまで上り詰めた男だ。ネオαになってフェロモンの威圧などなくても彼は優秀で業務に何の支障もなかった。それどころかフェロモンの感知が外れた今、昔以上に人間関係もやりやすくなったという。
「それに、手術の副産物と呼べる利点もありました」
それは、ネオαやネオΩは旧αのフェロモンによる威圧を感知しないこと。威圧を受けることがなくなったネオバースたちは、もうαを恐れはしない。その点においてはβより優れていると言えるかもしれない。
「もちろん、ネオたちも従来通りαやΩは子を成すことができます。αやフェロモンに中てられることもなくなり、意図しない威圧で周囲の人を傷つけることも無くなります。Ωにとっては命を削られるほど負担となる発情期や番解除が無くなります。これは素晴らしいことです」
ネオ転換という技術を、外科手術の術式を開発してくれた医師にはどれだけ感謝の意を伝えても伝えきれないと締めて、社長は溢れ出る涙をぬぐいもせず深々と頭を下げた。
「よかったね、有森。凄く感謝されてる」
「医師ではないんだけどな」
興味がなさそうにそっぽを向く有森の耳が赤くなっていることを見つけると、ミハイルは「照れてる、可愛い」と囁いて後ろから抱き付く。
その後、次々と著名人からネオ転換手術を受けたという報告と、皆それぞれ如何に旧バース性が苦痛であったか、ネオバースが快適であるかと世間に向かって訴えかける。
バースに関わらず一部の人間は、手術なんかで生まれた身体と性を変えるなんてと批判的だったが、大半の人間は第二の性が確定した時点で、β以外はネオ転換手術を受けるのが常識となっていった。
「愛の力は偉大です、新バースなんて言葉に惑わされないで。あれは人類管理だ」
某日、新興宗教団体が設立された。
オメガバース教という名の団体は某国の資産家、キリル・コズロフが教祖である。オメガバース教に入信した信者は、7日後に「運命の契り」と呼ばれる会に参加し、そこで既に国では利用規制が入った良くない薬によって偶発的にヒートを発動させられ、αであるキリルに項を噛まれて番契約が結ばれる。
運命の契りは1回につき多いときは数十人、数百人の参加者が集うこともあり今やオメガバース教の入信者、つまりキリルの番は数万人にも上るという。
「臭腺除去手術なんてものを受けず、真実の愛、運命の番を探し続けた甲斐がありました。今は番であるキリル様に見初められて幸せです」
「私の心はずっと、美しいキリル様と共にあります」
オメガバース教の教えの一つなのだろうか、一夫多妻制に近い複数の番に対して嫉妬することもなく、皆キリルに心酔し尽くしているようだ。
邪教、カルト宗教、危ない集団として問題視され、下世話な週刊誌やネットニュースでも面白おかしく取り上げられている。
「旧Ωの反乱か、こういうこともあると思ったよ……うん、コズロフ? 」
有森は隣にいる最愛と、キリルの名字が同じことに気付くとチラリとミハイルの方を見やる。
「……親父だ」
ミハイルはガタガタと身を震わせ、食い入るようにテレビ画面を見つめていた。父親であるキリル・コズロフは彼の母を捨て番解除を行い、その後は「運命の番」を見つける度に新しい妻を娶り番を結び、また別の運命を見つけると解除をして別のΩと番うといったことを繰り返していた。
「どういうことだ。君の親父さんは潔癖症というか……同時に複数の番を持つことは無かったと聞いたが」
有森は言葉を選んだが、キリルは新しい番を作るごとに前の番を解除しつづけるという非道な行為を繰り返していたはずだ。
「……あの人の息子であることを、忌まわしく思う」
「君はどうしたい」
有森は、ミハイルの目をまっすぐに見つめる。説得か、絶縁か。距離を置くのか。或いは共存か、それとも。
「俺は、数少ない宝物を手離してでも、あの人を止めなくちゃいけない。けれど、あの人の考えがなんとなくわかるし、きっと止めることは叶わない。それどころか、俺はきっと心のどこかで、それを望んでいる」
絶縁して十数年が経過し、ミハイルは初めて父親、キリル・コズロフに手紙と古びて表紙が日焼けした日記帳を同梱し送った。何度繰り返し読みしたかわからない、きっと墓まで持って行きたかったであろう母の日記帳は、ミハイルの大切な宝物だった。
「キリル様宛に配送物が届いています」
「おや、どなたからだろう」
「差出人にM,コズロフとあります」
キリルはすぐさま開封すると、中にある日記を取り出した。日記はミハイルの母、そしてキリルの一番最初の妻、奏のものだった。彼はしばらくの間、表紙を大事そうにごく軽く撫で摩ると、震える指でページを開き始めた。
奏は日本人で、幼馴染の女性Ωと恋人同士だった。二人は周期的にやってくる辛いフェロモンをもろともせず、将来を誓い合った仲だった。
キリルが21歳の頃、街中を歩いている奏に目を奪われた。βやαに比べたら線は薄く華奢ではあるものの、しっかり男性的な身体つきだった奏に何故ここまで惹かれるのだろう。頭がそれを考える前に、ふわりと香る形容しがたい心地よく、そして理性を吹き飛ばすようなフェロモンに中てられ、キリルは奏に襲い掛かりそのまま項に噛みついた。
番防止のため奏が身に着けていた首輪はあっけなく引きちぎられて、首筋に当たる牙とその後の意識を飛ばすような強い快楽に、奏は絶望した。
「君は私の運命だ、君だって僕に出会えて幸せだろう? 」
番えばどんなことをしても、運命の一言で済むのだろうか。
欲情した顔で自身を襲ったαに乱暴に抱きしめられた奏の心には、恐怖しかなかった。
■○月○日
俺に子ができた。俺を襲ったαは責任を取るために結婚すると言っている。冗談じゃない。何故あんな犯罪者と結ばれなくてはならないんだ。だけどあのαは有数の資産家で周囲は賛成こそするものの、誰も止めてはくれない。
それがΩの幸せなのだからと。Ωなんてなりたくてなったものじゃないというのに。
○○(Ωの恋人のようだ)は「奏ちゃんが結婚しても、私は誰とも番わず、ずっと一人でいる」と涙ながらに俺を見送った。
それは酷なことだ。俺だけ番が結ばれてしまい忌まわしい発情期はなくなってしまった。彼女だけ苦しむのは違う、嫌だ。
■○月○日
この忌々しいフェロモンに中てられ欲情し、それに勘違いして、Ωとαという生き物は永遠の愛などを誓うのだろうか。○○に会いたい。そばに居たい。不快なフェロモンだって彼女のものなら心地よく感じる。○○の傍にいたい。
■○月○日
生まれた子は可愛い。αは嫌いだが、この子は俺の子だ。この子を連れてどこかに行けないだろうか。できれば○○の元へ。
■○月○日
あのαは俺に毎日愛を囁く。俺のことが好きだ、俺の為ならなんでもすると。それなのに俺を一日中広い屋敷に閉じ込めて、外に出ることもままならない。あいつが家に帰って来る時、俺はいつも絶望を感じる。
鳥かごの鳥はいつもこんな気持ちなのだろうか。閉塞感とαの匂いで脳がやられてしまいそうだ。いっそ気が狂ってしまえば楽だろうか。
俺のことが好きなら、開放してくれないだろうか。獣のようにフェロモンに欲情しレイプして、いともたやすく俺から何もかも奪った男を好きになれというのは酷ではないだろうか。愛することなど、とてもできない。
毎日のように身体を暴かれながら、俺はぼんやり死ぬことを考えてみる。
心の伴わない行為は、それこそヒートでも来てくれない限り苦痛でしかない。
■○月○日
最近、空が何色だったか思い出せない。視界が薄っすら白く、レースのカーテンに遮られたかのようにものがボンヤリ見える所為だ。耳に綿でも詰められたかのように自分が体の奥に引っ込んでしまった気がする。
時折正気に戻るのは、ミハイルが俺を呼ぶときだ。この子の手はぷっくり小さいクリームパンのような形で、温かい色合いをしている。
■○月○日
「君は、俺が嫌いなのだろう」
あのαが俺にそう言った。問いかけではなく諦めのような悲しい表情を浮かべて。
「貴方の中の、αを憎んでいます」
「俺は、君を愛している」
「……もしフェロモン何てものがなければ、貴方は俺のことなど見向きもしなかっただろうと思います。それだけは気の毒なことです。動物みたいに繁殖行動に惑わされて」
αが、Ωなんてものがこの世にいなければきっと、こいつも俺も彼女も真っ当に生きることができただろうに。
「αが憎い。だが、それ以上に自分の中のΩが憎い」
男は、何かが抜け落ちたような様子でこちらを見つめていた。
■○月○日
「運命の番を見つけた」
あのα、キリルはそう告げると、俺とミハイルを残して去っていった。ずきりと首筋に走る痛みと衝撃から、番が解除されたのだろうと悟る。
喪失感と半身を引き裂かれたような全身の痛みにのたうち回りそうになるが、心はどこか安堵していた。キリルが去る前に「ありがとう」と伝えると、一瞬振り向いたキリルは追い縋るような、今にも泣き出しそうな目で俺を見ていた。
俺の心には無いもの、きっと自惚れではなく彼の心には確かに好意だとか愛と言った感情があったのだろう。或いは今もあるのかもしれないが、もう俺の心には届かない。
もしフェロモンに中てられなければ、運命で無ければ。あんな出会い方をしていなければ、俺の心に○○がいなければ。ここまで彼を嫌悪し憎むことはなかったかもしれない。
俺は「運命の番」を生涯憎む。俺は、その運命から解放してくれた彼に感謝する。
キリル、ありがとう。愛する者から離れる辛さだけは、俺も良くわかっているから。貴方がしたことを許すことはできないけれど、その感情が愛などではなく単なる執着だったとしても、手離す決断をしてくれてありがとう。
レイプ犯に対して我ながら優しすぎる考えだとは思うが、多少は一緒に暮らしてきた情もある。彼には本当に心より愛する人と結ばれて欲しい。どうか運命なんかに惑わされないで。
■○月○日
俺は○○に会いに行った。彼女は気立ての良いΩだからもしかしたら良い伴侶に恵まれて新しい家庭を築いているかもしれない。
「奏ちゃん! 」
彼女は、彼女のままだった。彼女もフェロモンやαに抗い必死に戦って、俺を待ってくれていた。○○ただいま。俺は、俺たちは運命に打ち勝ったぞ。
君とまたこうして会えるのをずっと待っていた。俺はもう傷物のΩで、君とそう長い人生を共に歩むことはできないかもしれない。子連れになっちゃった俺なんかいらないかもしれない。
「奏ちゃん」
「俺と、残りの人生一緒に生きてくれますか」
どんな形でも、貴方を愛している。彼女は、俺とミハイルを力強く抱きしめた。
日記の内容は自分への答え合わせのようなものだと、キリルは思う。彼のただ一人の最愛は、少しも彼を好いてはいなかった。けれどもほんの少しの憐憫と隣人愛は会ったのだろうと思う。愛というものは、相手を憎んでも嫌っていても抱ける感情だ。
けれどもキリルにとって奏は初恋で、最愛でありこの世で最も好きになった人だった。
執着の結果、キリルの心の底にあった人としての良心が訴えかけていたのは、彼を開放してやることだった。最愛を手離す番の解除という辛く痛ましい行為は、奏への最後の贈り物だった。
残酷な目にあわせたというのに、皮肉にも奏はキリルの思いを汲み取ってくれていた。感謝すらしてくれた。自分の幸せすら祈ってくれた。
「運命なんて、どこにもなかった」
キリルは復讐を誓う。それは奏でもミハイルでもなく、全てのΩに対して破滅を望んだ。鬼畜の所業に大義名分などいらないが、例えΩだろうがこれ以上罪無きものを犠牲にするわけにはいかない。キリルは様々な人の幸せを略奪してきた心根の腐ったΩばかりを「運命の番」だと口説き、番っては解除を繰り返してきた。
「これでは効率が悪い」
自分ひとりの力では限度がある。もっと沢山の憎きΩを滅ぼすためにはどうすればよいか。行きついたのがオメガバース教だった。
「そろそろ潮時か」
この宗教は元々永年継続させるつもりなどなく、破滅のプログラムが組み込まれている。彼がこれからしようとしていることは、カルト宗教の狂った事件として少しは世間に騒がれるだろう。
……君にとっては、俺の言葉なんて性衝動を抑えきれなかった野蛮人の、性犯罪者のくだらない戯言にしか聞こえないだろう。けれども思うだけは許してほしい。
思えば、君と俺の子にも辛い目にあわせてしまった。自分の復讐のためにあの子の手を汚させてしまったことは、私の罪だ。地獄で償おうと思う。
愛している。番が解除されても憎悪されても、いつまでも愛している。キリルは固く目を閉ざした。
「……さようなら」
「さようなら」
「幸せです、ありがとう」
「今までありがとう、さようなら」
「さよなら」
オメガバース教の信者たちは笑顔で信者たちと挨拶を交わすと、一人また一人その場に倒れて行った。密閉された空間にはガスが充満している。信者たちは皆抵抗もせず人生の最後を待っていた。
バタバタと倒れ比較的少ない苦しみの中で命を落とす信者たちの真ん中には、こめかみをどす黒い血で濡らしたキリルが横たわっていた。彼の右手には拳銃が握られている。
「ああ、愛していますキリル様」
恍惚の表情を浮かべ死にゆくオメガバース教の信者たちは、不自然な程安らかで美しい死に顔だった。
某日、オメガバース教の信者たちは集団自殺を決行した。死者は数万人にも上り、直接的な死因はガスだが、その引き金になったのは教祖であるキリル・コズロフの拳銃自殺であることは明白であった。
運命の番は片方が亡くなった場合、もう片方も後を追うようにして儚くなると言われている。
キリルは信者たちのことなど毛の先ほども愛してはいなかったが、自分が死ねば信者たちも後を追うように教えを説いていた。これが、彼にできる最大のΩに対する復讐だった。
「これから、世間はΩに対してどんな目を向けるだろう」
有森の言葉からは、衝撃的な事件からしばらくの間は社会から奇異の目で見られてしまうだろうΩに対する哀れみが含まれている。
「一部の真面目なΩや、ネオΩたちが気の毒だね」
反面ミハイルは、口先だけは同情した風だが心の中ではΩに対する黒い感情がジワジワ滲んでゆき、本人も意図せず口角が上がっている。
今だけは父を父と思おう。彼は同士だった。Ωを憎みαを憎み、いつしかオメガバースという性そのものに憎悪の念を抱いた者たち。短絡的ではあったが、彼は彼なりにΩを絶やそうとした。
「母にも、父にも転換手術を受けさせてやりたかった。君にもっと早く出会えていたらよかったのにね」
君こそが、僕の神だ。ミハイルは有森の肩にそっと頭を乗せて目を閉じる。さらりと光る金糸のような髪を指で梳いてやりながら、有森はΩとαというものについて思慮する。
彼が出会ってきたαたちは皆プライドが高く、βやΩを同じ人間として見ていないように感じられた。学者という生き方はとても狭き門で、時に他者を蹴落とす行為も辞さない構えでいなくてはならない。
「いくら優秀とはいえ、βだものな」
これまで自分の事をバース性のみで有森を見下してきた研究職のαたちにとって、彼が発見したネオ性への転換手術は脅威だった。
出る杭は打たれる、優秀ではあるがプライドが高く独裁者気質のαは、大衆ともいえるβたちにとって畏怖とともに、倒すべき敵となっていった。
件の、大企業の代表取締役社長のように次を見越した生存戦略を見つけた者たちは、ネオαとなりネオΩとなり、柔軟に新時代へとその身を適用させてゆく。
けれども、運命の番に囚われ無作為にフェロモンをまき散らすΩや自尊心が高くαに固着した者たちにとって、この先の未来は地獄でありゆっくりと着実に淘汰されてゆくことになる。
キリル以外にも、Ωを娶っては新しいΩを迎え入れ、そして解除と番うことを繰り返すαがいた。これは新オメガバース保護法というものが成立された後に、犯罪とされた。
先進国と発展途上国では刑罰の在り方が異なり、前者は懲役とネオαへの転換手術がおこなわれるが、後者のαは見せしめに牙を抜かれた。
これまで人間の頂点に君臨してきたαたちが、蟻のようなちっぽけな、けれども圧倒的な数存在するβ達の手によってゆっくり追い詰められて滅ぼされようとしている。
これまでαに追い縋ることで生き永らえてきたΩたちが、自分の力で生きようとする時代がきた。
有森は未だに、一部の旧Ωやαに憎まれている。脅迫状まがいの手紙が届くこともあった。けれども有森はそんな手紙の1枚1枚に目を通し、まるでファンレターのように大切に保管している。
「ねえ、義孝」
「……どうした、ミハイル」
月日は流れ、すっかり髪の毛に白いものが混じるようになった二人は皮張りのソファに身を預けている。
「ネオ転換手術は今や常識となったけれど、これからもαやΩは産まれ続けるのかな」
αやΩという性は、親がα×Ωという場合に生まれることがほとんどで、β×β、α×β、α×αで生まれることはほぼない。
また、転換手術を行ったαやΩはフェロモンの呪縛から解き放たれたせいだろうか、αはβや同じα、Ωはβや同じΩとパートナーや婚姻関係を結ぶ者も多くなり、ますます純粋なαとβは数を減らしていった。
「ミハイル」
「ん?」
「今行われている最新の転換手術は、もう臭腺除去手術だけではないんだ」
現在のネオ転換手術にはαやΩが産まれぬように、遺伝子治療も組み込まれていた。
種の在り方としてできるだけ自然の成り行きを見守りたかった有森としては、人工的な自然淘汰であるそれを望んでいなかったが、国のトップとなったβたちがαを鎮静化させるために秘密裏に行われている行為で、このことは一部の人間しか知らないトップシークレット扱いだ。
「どうして」
優秀なαなら、有効活用できるだろうとミハイルは考える。
「優秀過ぎるのも困りものみたいでな。それに」
優秀がゆえにプライドが高くフェロモンの威圧を行う、従わせるにはとても扱いにくいαは、βたちにとって目の上のたん瘤のようなものだったらしい。
「優秀でも上を目指す人間は、少数でいいらしい」
最初の頃は、有森は苦しむΩを救うために臭腺除去を見つけ出した。その結果、副産物として、α性に苦しむ自身のパートナーを救い出すことができた。
最初はそれだけでよかったのに。
社会的にデメリットでしかないオメガバースのフェロモンを消し、人類にとってより都合の良い新しい種へ切り替える強い技術は、権力が欲しい者たちにとって宝石のように輝いて見えたのだろう。
そして、学者としての有森は種が滅びゆく歴史的な瞬間に立ち会え、そのトリガーになれたことに、高揚を抑えることはできなかった。
「義孝」
「ん」
「悪い顔してる」
「ミハイル、君も」
互いに顔を寄せ合い、額をこつんと軽くぶつけ合う。ミハイルにとってはオメガバースの滅亡と復讐が叶いそうなことに、有森にとっては知的好奇心が満たされていることにニヤリと口元を歪ませている。
「Ωとαがいなくなったその先の世界を見届けることができないのが、唯一の心残りだ」
全てを見届けるには、あまりにも寿命が足りなさすぎるから。
けれども、その先の未来はきっとフェロモンなどに惑わされず、自身の心のままに人を愛することができる世界になっているのだろう。
有森は人が抱ける最後の良心として、それを願った。
応援ありがとうございます!
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