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【第1章】守られた怪物
第1話 地獄
「あなたを愛してる。」
その声は、ひどく優しかった。
次の瞬間、腹部に鈍い衝撃が走る。
何が起きたのか理解するより早く、体の奥から熱が広がった。
遅れて痛みが来る。
視線を落とすと、包丁の柄を握る細い手が震えていた。
母の手だった。
白いブラウスに赤が滲む。
血の色は、こんなにも鮮やかだったのかと、妙に冷静に思った。
俺はよろめき、背後の棚にぶつかる。
皿が割れる音がやけに遠い。
「ごめんね……ごめんね……」
母は泣いていた。
その顔を見て、ようやく理解する。
刺されたのは俺だ。
守られてきた俺が。
いつも最後には味方だった母が。
口を開こうとしたが、声が出ない。
代わりに鉄の味が広がる。
不思議だった。
怒りが湧かない。
裏切られたはずなのに。
視界が揺れる。
床に崩れ落ちると、天井の照明が滲んだ。
その向こうで、母の顔が歪んでいる。
ああ――
泣いているのか。
最後に見たのは、母の涙だった。
それで終わるはずだった。
意識は闇に沈む。
音も、匂いも、感覚も消えていく。
完全な無。
……。
だが、終わらなかった。
足の裏に、じわりとした熱を感じた。
最初は夢だと思った。
しかし次第に、その熱は鋭くなり、皮膚を焼く。
反射的に目を開けた。
息を呑む。
そこは、灼熱の炎が燃え広がる場所だった。
空は赤黒く濁り、煙が渦を巻いている。
大地は割れ、裂け目から炎が噴き出している。
立っているだけで皮膚が焦げそうだ。
「……は?」
喉が焼ける。
自分の声がひどくかすれていた。
遠くで雷のような轟音が響く。
しかしそれは雷ではない。
炎が爆ぜる音だ。
見上げると、空を走る赤い閃光が裂け目を照らしている。
地平線の向こうには、異様な影が立ち並んでいた。
それは山だった。
だが普通の山ではない。
そびえ立つ峰は、針のように鋭く尖っている。
触れれば肉が裂けると直感できるほどに。
視線を下ろす。
近くに池があった。
水面は赤黒く濁っている。
風に乗って漂ってくる匂い。
鉄の匂いだ。
血の色をしていると理解するまで、数秒かかった。
喉の奥がざらつく。
そのさらに向こう――
河が流れている。
しかし水は見えない。
無数の蛇が絡み合い、うねりながら流れを作っているのだ。
毒々しい鱗。
牙を剥き、互いに噛み合いながら蠢く。
一瞬、目を疑う。
だが幻覚ではない。
蛇の一匹がこちらを向き、赤い舌を覗かせた。
そこで初めて理解する。
ここは、死後の世界だ。
そして――
ここは、まともな場所ではない。
その理解が、遅れて全身を締め付ける。
熱い。
立っているだけで肺が焼ける。
だが不思議と皮膚は焦げ落ちない。
痛みはある。
だが死なない。
地面を見下ろすと、赤黒くひび割れた大地の隙間から炎が噴き上がっている。
その炎は生き物のように揺らめき、俺の足首を舐めた。
思わず後ずさる。
その瞬間、遠くから絶叫が響いた。
人間の声だ。
喉を引き裂くような悲鳴。
一人ではない。
幾重にも重なり、風に乗って運ばれてくる。
その叫びには共通点があった。
「助けてくれ」
そう聞こえる。
だが助けを求める相手がいないことも、同時に理解させられる。
俺は視線を巡らせる。
針山のように尖った峰の斜面を、誰かが這い上がろうとしているのが見えた。
裸だ。
皮膚は裂け、肉が削れ、血が流れている。
それでも登らされている。
頂上に何があるのかは見えない。
だが、頂上へ辿り着いた者がどうなるのかは想像できる。
山の上空には、巨大な黒い影が揺れていた。
人の形をしているが、顔がない。
腕のようなものが伸び、登りきった者を掴む。
そして――
落とす。
針の斜面へ。
何度も。
何度も。
胃の奥がざわつく。
「……なんだよ、これ」
言葉が震えた。
その時、足元がぐらりと揺れた。
地面に亀裂が走る。
炎が噴き上がり、裂け目が広がる。
反射的に飛び退く。
だが避けた先にあったのは、赤い池だった。
鉄の匂いが強くなる。
水面が波打つ。
そこから無数の腕が伸びてきた。
血に塗れた腕。
爪が割れ、骨が覗いている。
「引きずり込め」
そんな囁きが聞こえた気がした。
俺は思わず後退る。
転び、背中を打つ。
その瞬間、空が震えた。
轟音。
雷ではない。
声だ。
「罪状確認を開始します。」
低く、響く声。
どこから聞こえるのか分からない。
だが確実に、俺に向けられている。
空間が歪む。
炎の中に、無数の映像が浮かび上がる。
最初はぼやけていた。
やがて輪郭を持つ。
コンビニ。
棚。
ポケットに滑り込ませた商品。
少年時代の俺。
万引き。
次の映像。
路地裏。
倒れている同級生。
顔面は血まみれ。
俺は笑っている。
さらに。
夜の倉庫。
震える男。
ナイフを持つ俺。
その刃が沈む瞬間。
鮮明に。
息遣いまで再生される。
「やめろ……」
思わず呟く。
だが映像は止まらない。
薬を手渡す場面。
泣き崩れる女。
燃え上がる車。
死体。
死体。
死体。
俺の人生が、炎の中で一つ残らず暴かれていく。
「窃盗。」
声が告げる。
映像が光る。
「強盗。」
「傷害。」
「薬物売買。」
「殺人。」
一つ一つ、言葉が突き刺さる。
それは責め立てる口調ではない。
淡々としている。
機械のように。
だからこそ重い。
「……父が処理した」
思わず言い返す。
自分でも情けない言葉だと思う。
声は止まらない。
「揉み消し。」
その単語が空間を震わせる。
新たな映像が浮かぶ。
父の姿。
警察庁の会議室。
電話。
封筒。
頭を下げる部下。
書類の改ざん。
証拠の破棄。
俺と父が並んでいる。
共犯者のように。
「責任共有。」
声が告げる。
映像の中に、母の姿が現れる。
台所。
洗濯物。
優しい笑顔。
そして――
血。
包丁を握る震える手。
「最期に見たのは母の涙。」
その言葉が響いた瞬間、炎が一段と激しく燃え上がった。
俺は立ち上がる。
「ふざけるな」
怒鳴った。
だが声はかき消される。
「ここは六道最下層――地獄道。」
その宣告と同時に、大地が震えた。
遠くの針山が崩れ、また新たな山が生まれる。
血の池が泡立つ。
蛇の河が逆流する。
逃げ場はない。
「刑罰を開始します。」
その言葉と共に、足首に何かが巻きついた。
蛇だ。
冷たい鱗。
牙が皮膚に食い込む。
焼けるような痛み。
叫びが漏れる。
だが死なない。
噛まれた箇所から炎が広がる。
肉が裂ける。
骨が軋む。
それでも意識は消えない。
「これは始まりに過ぎない。」
声が言う。
俺は歯を食いしばる。
だがその瞬間、脳裏に浮かんだのは母の顔だった。
泣いていた。
あの夜。
包丁を握りながら。
愛してる、と言った。
なぜだ。
なぜあんな顔をした。
なぜ刺した。
疑問が浮かぶ。
初めての感情。
怒りではない。
恐怖でもない。
理解できない何か。
その瞬間、炎が俺を飲み込んだ。
視界が赤く染まる。
絶叫が喉を裂く。
だが意識は消えない。
「罪人、黒崎玲司。」
声が最後に告げる。
「裁きは継続される。」
炎の向こうで、無数の影がこちらを見ていた。
顔のない審判者たち。
その視線に包囲されながら、俺はようやく悟る。
ここは夢ではない。
逃げ場はない。
そして――
これはまだ、始まりに過ぎない。
(第1話 終)
その声は、ひどく優しかった。
次の瞬間、腹部に鈍い衝撃が走る。
何が起きたのか理解するより早く、体の奥から熱が広がった。
遅れて痛みが来る。
視線を落とすと、包丁の柄を握る細い手が震えていた。
母の手だった。
白いブラウスに赤が滲む。
血の色は、こんなにも鮮やかだったのかと、妙に冷静に思った。
俺はよろめき、背後の棚にぶつかる。
皿が割れる音がやけに遠い。
「ごめんね……ごめんね……」
母は泣いていた。
その顔を見て、ようやく理解する。
刺されたのは俺だ。
守られてきた俺が。
いつも最後には味方だった母が。
口を開こうとしたが、声が出ない。
代わりに鉄の味が広がる。
不思議だった。
怒りが湧かない。
裏切られたはずなのに。
視界が揺れる。
床に崩れ落ちると、天井の照明が滲んだ。
その向こうで、母の顔が歪んでいる。
ああ――
泣いているのか。
最後に見たのは、母の涙だった。
それで終わるはずだった。
意識は闇に沈む。
音も、匂いも、感覚も消えていく。
完全な無。
……。
だが、終わらなかった。
足の裏に、じわりとした熱を感じた。
最初は夢だと思った。
しかし次第に、その熱は鋭くなり、皮膚を焼く。
反射的に目を開けた。
息を呑む。
そこは、灼熱の炎が燃え広がる場所だった。
空は赤黒く濁り、煙が渦を巻いている。
大地は割れ、裂け目から炎が噴き出している。
立っているだけで皮膚が焦げそうだ。
「……は?」
喉が焼ける。
自分の声がひどくかすれていた。
遠くで雷のような轟音が響く。
しかしそれは雷ではない。
炎が爆ぜる音だ。
見上げると、空を走る赤い閃光が裂け目を照らしている。
地平線の向こうには、異様な影が立ち並んでいた。
それは山だった。
だが普通の山ではない。
そびえ立つ峰は、針のように鋭く尖っている。
触れれば肉が裂けると直感できるほどに。
視線を下ろす。
近くに池があった。
水面は赤黒く濁っている。
風に乗って漂ってくる匂い。
鉄の匂いだ。
血の色をしていると理解するまで、数秒かかった。
喉の奥がざらつく。
そのさらに向こう――
河が流れている。
しかし水は見えない。
無数の蛇が絡み合い、うねりながら流れを作っているのだ。
毒々しい鱗。
牙を剥き、互いに噛み合いながら蠢く。
一瞬、目を疑う。
だが幻覚ではない。
蛇の一匹がこちらを向き、赤い舌を覗かせた。
そこで初めて理解する。
ここは、死後の世界だ。
そして――
ここは、まともな場所ではない。
その理解が、遅れて全身を締め付ける。
熱い。
立っているだけで肺が焼ける。
だが不思議と皮膚は焦げ落ちない。
痛みはある。
だが死なない。
地面を見下ろすと、赤黒くひび割れた大地の隙間から炎が噴き上がっている。
その炎は生き物のように揺らめき、俺の足首を舐めた。
思わず後ずさる。
その瞬間、遠くから絶叫が響いた。
人間の声だ。
喉を引き裂くような悲鳴。
一人ではない。
幾重にも重なり、風に乗って運ばれてくる。
その叫びには共通点があった。
「助けてくれ」
そう聞こえる。
だが助けを求める相手がいないことも、同時に理解させられる。
俺は視線を巡らせる。
針山のように尖った峰の斜面を、誰かが這い上がろうとしているのが見えた。
裸だ。
皮膚は裂け、肉が削れ、血が流れている。
それでも登らされている。
頂上に何があるのかは見えない。
だが、頂上へ辿り着いた者がどうなるのかは想像できる。
山の上空には、巨大な黒い影が揺れていた。
人の形をしているが、顔がない。
腕のようなものが伸び、登りきった者を掴む。
そして――
落とす。
針の斜面へ。
何度も。
何度も。
胃の奥がざわつく。
「……なんだよ、これ」
言葉が震えた。
その時、足元がぐらりと揺れた。
地面に亀裂が走る。
炎が噴き上がり、裂け目が広がる。
反射的に飛び退く。
だが避けた先にあったのは、赤い池だった。
鉄の匂いが強くなる。
水面が波打つ。
そこから無数の腕が伸びてきた。
血に塗れた腕。
爪が割れ、骨が覗いている。
「引きずり込め」
そんな囁きが聞こえた気がした。
俺は思わず後退る。
転び、背中を打つ。
その瞬間、空が震えた。
轟音。
雷ではない。
声だ。
「罪状確認を開始します。」
低く、響く声。
どこから聞こえるのか分からない。
だが確実に、俺に向けられている。
空間が歪む。
炎の中に、無数の映像が浮かび上がる。
最初はぼやけていた。
やがて輪郭を持つ。
コンビニ。
棚。
ポケットに滑り込ませた商品。
少年時代の俺。
万引き。
次の映像。
路地裏。
倒れている同級生。
顔面は血まみれ。
俺は笑っている。
さらに。
夜の倉庫。
震える男。
ナイフを持つ俺。
その刃が沈む瞬間。
鮮明に。
息遣いまで再生される。
「やめろ……」
思わず呟く。
だが映像は止まらない。
薬を手渡す場面。
泣き崩れる女。
燃え上がる車。
死体。
死体。
死体。
俺の人生が、炎の中で一つ残らず暴かれていく。
「窃盗。」
声が告げる。
映像が光る。
「強盗。」
「傷害。」
「薬物売買。」
「殺人。」
一つ一つ、言葉が突き刺さる。
それは責め立てる口調ではない。
淡々としている。
機械のように。
だからこそ重い。
「……父が処理した」
思わず言い返す。
自分でも情けない言葉だと思う。
声は止まらない。
「揉み消し。」
その単語が空間を震わせる。
新たな映像が浮かぶ。
父の姿。
警察庁の会議室。
電話。
封筒。
頭を下げる部下。
書類の改ざん。
証拠の破棄。
俺と父が並んでいる。
共犯者のように。
「責任共有。」
声が告げる。
映像の中に、母の姿が現れる。
台所。
洗濯物。
優しい笑顔。
そして――
血。
包丁を握る震える手。
「最期に見たのは母の涙。」
その言葉が響いた瞬間、炎が一段と激しく燃え上がった。
俺は立ち上がる。
「ふざけるな」
怒鳴った。
だが声はかき消される。
「ここは六道最下層――地獄道。」
その宣告と同時に、大地が震えた。
遠くの針山が崩れ、また新たな山が生まれる。
血の池が泡立つ。
蛇の河が逆流する。
逃げ場はない。
「刑罰を開始します。」
その言葉と共に、足首に何かが巻きついた。
蛇だ。
冷たい鱗。
牙が皮膚に食い込む。
焼けるような痛み。
叫びが漏れる。
だが死なない。
噛まれた箇所から炎が広がる。
肉が裂ける。
骨が軋む。
それでも意識は消えない。
「これは始まりに過ぎない。」
声が言う。
俺は歯を食いしばる。
だがその瞬間、脳裏に浮かんだのは母の顔だった。
泣いていた。
あの夜。
包丁を握りながら。
愛してる、と言った。
なぜだ。
なぜあんな顔をした。
なぜ刺した。
疑問が浮かぶ。
初めての感情。
怒りではない。
恐怖でもない。
理解できない何か。
その瞬間、炎が俺を飲み込んだ。
視界が赤く染まる。
絶叫が喉を裂く。
だが意識は消えない。
「罪人、黒崎玲司。」
声が最後に告げる。
「裁きは継続される。」
炎の向こうで、無数の影がこちらを見ていた。
顔のない審判者たち。
その視線に包囲されながら、俺はようやく悟る。
ここは夢ではない。
逃げ場はない。
そして――
これはまだ、始まりに過ぎない。
(第1話 終)
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