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 背中の傷も治り、サイシャは仕事に精を出す日々に戻っていた。……そして今、城の裏庭と思われる場所で迷っていた。
 今日は孤児院の使いで城に来ていたのだが、物珍しさでウロウロしているうちに、出口が分からなくなってしまったのだ。
「ど、どうしよう……」
 誰かに聞きたくても、人影が見当たらない。
 時間が来れば見回りの兵士に会えるかもしれないが、その兵士がいつ来るのかは分からない。
 もし、ついさっき見回ったばかりだとしたら、次にここに来るまで、どれほど待たなくてはならないだろうか。
 不安に押し潰されそうになり、サイシャは粗末なスカートをギュッと握り締める。
 その時。
「そこでなにをしているの?」
 女性にしては少しばかり低めの鋭い声が飛んできた。
 ビクリと肩を竦める彼女のもとに、長身の女性が足早に近付いて来る。
 膝下丈の編み上げブーツを履いた足でやや乱暴に歩み寄ってきたのは、戦女神と呼ばれるソニアだった。
 腰まである艶やかな黒髪を後ろで一つに纏め、襟の高い軍服に身を包んだエンゾルド軍副隊長の姿は、女性であるはずなのに威圧感がある。
 まして、無表情で頭一つ半高い位置から見下ろされれば、小柄なサイシャは自然と怯えてしまう。綺麗な顔であるほど、表情がないと恐ろしいものだ。
 オロオロと視線を彷徨わせる彼女の顔を、ソニアがおもむろに両手で包んだ。
 突然のことにサイシャが声も出さずに固まっていれば、グイッと上向きにさせられる。
 女性には似つかわしくない硬くなった指先と手の平が頬に触れ、サイシャはギクリと顔を強張らせる。

――なに、されるの?

 ここに来るまで、門や垣根といった境界らしきものはなかった。つまり、立ち入り禁止ではないということだ。
 それでも、うろついていたというだけで罰せられるのだろうか。
 怖さと泣きたい思いが入り混じり、目の奥が僅かに熱くなった。
 すると、ソニアがフンと鼻を鳴らす。
「何て顔をしているの? そんな変な顔をしていると、幸せが逃げるわよ」
 素っ気ない口調で告げられた内容に、サイシャは唖然となった。

――ソニア様は、なにを言ったの?
 
 身を潜めて生きているサイシャは日頃から感情を抑えこみ、また、ソニア程ではないが表情が動きにくい。
 おかげで、盛大に顔を顰めずに済んだ。しかし、頭の中では「?」が忙しなく飛び交っている。
 無言で全身を固まらせているサイシャに、ソニアは特別、気分を害した様子ではないようだ。
「まぁ、いいわ。あなた、ここでなにをしていたの?」
 相変わらず素っ気ない態度のソニアだが、怒りは伝わってこない。それでもだんまりを続ける訳にはいかないと、サイシャは必死に口を動かした。
「あ、あの、帰り道が分からなくなってしまいまして……」
 すると、ソニアがまたフンと鼻を鳴らす。
「それなら、城壁を左つたいに進んでいくと、詰め所があるわ。そこで門番に話をすれば、出してもらえるから」
 そう言ってから、ソニアがサイシャの頬から手の平を離す。それから、なぜかサイシャの頬を指で摘まんで左右に軽く引っ張った。
 自分になにが起きているのか分からないサイシャは、ただ、ただ、頬を引っ張られている。
 やがておもむろに指を離したソニアが、ズカズカと大股で立ち去っていった。

「ええと、なんだったんだろう」
 ヒリヒリと痛む頬を撫で擦っていると、また声をかけられた。
「お嬢さん、どうかなさいましたか?」
 顔を押さえながら振り返ると、次に現れたのは参謀長官のトニアス。先程のソニアと色違いの軍服を着ている。
 今日はどうしたということだろうか。この国の有名人に、次々と声をかけられるとは。
 ふたたび全身を固まらせていると、トニアスはさらに優しく微笑んできた。
「大丈夫ですか? 痛むようであれば、冷たい水で布を濡らしてきますが」
 どうやら、先ほどの一幕を目にしたようだ。
 申し出は非常にありがたいものの、参謀長官の手を煩わせるなど、平民のサイシャにとっては寿命を縮めるものでしかない。
「い、いえ。大丈夫です。もう、痛みは治まりました」
 心配してくれたことに、ペコリと頭を下げる。
 視線を戻したサイシャは、複雑な表情で微笑んでいるトニアスと目が合った。
「ソニア様のお言葉ですが、あれは『せっかく可愛い顔をしているのだから、楽しそうに笑いなさい』と、言いたかったのですよ」
「……え?」
 どこをどう解釈すれば、そのような物言いになるのだろうか。サイシャの頭の中が、またしても「?」で埋め尽くされる。
 とはいえ、二十年近くの付き合いがあるという戦女神と軍の頭脳なのだから、彼女のことを正しく理解できるのだろう。
「幼い頃からの徹底した教育のせいで、あの方は非常に言葉が不自由なところがあります。なにしろ、迂闊な発言は足元を掬われますからね。軍人にとって、致命傷になる場合もあります」
 彼らが三柱として敬意を向けられているのは、なにも家柄によるものだけではなかった。自身の能力を最大限に引き出すため、血の滲むような訓練を受けてきたという事実による。
 そして、そんな彼らが体を張って国を守ってくれているからこそ、平穏に暮らせるのだ。
 軍人になること。軍人であり続けること。それがどれだけ大変なことなのか、平民のサイシャでも想像がつく。
 トニアスの言葉に、サイシャは黙って頷いた。
 するとトニアスは腰を折り、低い位置にある彼女の目を覗き込む。
「優しさを表現できないからといって、優しさを知らない方ではありません。どうか、そのことを分かっていただけますか?」
 穏やかな口調で言われた言葉は、すんなり理解できた。サイシャはコクコクと頷いてみせる。
 ソニアが優しい人だということは、本当だと思ったからだ。
 自分のようなみすぼらしい格好をした者が城の裏庭にいれば、問答無用で切り捨てられても仕方がない。軍人である彼女には、それを実行に移すことを許される地位がある。
 しかしソニアはこちらへと歩み寄り、事情を説明すれば、ちゃんと帰り道を教えてくれたのだ。頬を抓ってきたのは意味不明だが。
 サイシャが何度も頷きを繰り返せば、トニアスの微笑みがさらに深くなる。
「では、気を付けて帰りなさい」
「はい、失礼します」
 ペコッと大きく頭を下げ、サイシャは詰め所に向かって駆け出した。






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