美味しいだけでは物足りない

のは

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 至れり尽くせり

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 朝食は自分で作ると言っていたのだが、オーレンは結局、ナジュアムがあまり手をかけずに食べられるものを、作り置きしておいてくれるのだった。
 スープは温めるだけだし、冷蔵庫には冷めても美味しいおかずがセットになって入っている。
 
 今日はルッコラとエビのソテーと、エンドウ豆のオムレツ。ピクルスは自分で好きなのを選び取る。
 パンケースを覗けばフォカッチャが入っている。これもオーレンが焼いたもので、パンの種類は日によって変わる。
 そしてテーブルには昼用のジャムの小瓶が乗っているのだ。
 至れり尽くせりだった。
 
 オーレンは、自分が去ったあとのことを考えていないのではなかろうか。
 これでは、なんにもできなくなってしまう。
 ナジュアムはソテーをつつきながらため息をこぼした。

 仕事から帰ってもオーレンの「おかえりなさい」を聞けないことが無性に寂しくてたまらない。玄関の開く音に敏感になって、彼の帰宅を確認してようやく安心して眠りにつく。そんな日々だった。
 時には、耐えきれず部屋から出てしまった日もあった。
「起こしてしまいましたか?」
 オーレンが心配そうな顔をするから、意地でも寝たふりをする。
 彼が帰宅するとき、充分すぎるほど気を使ってくれていることはわかっているのだ。

 仕事に行きたくない。
 料理と、夜中に帰宅する音で存在を感じるものの、ここ一週間オーレンとまともに顔を合わせることが無い。同じ家に住んでいるのに、ここまですれ違うとは思わなかった。彼の顔を見ないだけで自分がこんなに沈んでしまうことも、想定外だった。
 至れり尽くせりされているくせに。

 仕事をさぼって、彼が出かけるまでそばにいたい。など考えてしまっている。
「寂しい……」
 声に出してしまって、ナジュアムは意味もなくキョロキョロした。
 彼が眠る部屋はしんと静まり返っている。ホッと胸を撫でおろした。
 
 それにしても、彼と暮らし始めてすでに一カ月が過ぎていることもあり、もうすっかりあそこはオーレンの部屋という感じだ。すこし前までは視界に入れるのも億劫だったのに、今では――。
 寝顔を見に行ったら怒るだろうか。そりゃ怒るだろうけど、何となく許してくれそうな雰囲気もある。
 そんな変態じみたことを考えて、気づけば扉に視線をやっている。
 
 これではダメだ。さっさと出かけてしまおう。
 朝食をぱくぱくと胃に納め、手早く食器を片付ける。根が生えてしまうまえに行動しようと思いつつ、最後にもう一度だけと未練がましく振り返ったとき、思いがけず彼の部屋の扉が開いた。

「ナジュアムさん? もう出るんですか?」
 眠そうに目をこすりながら、オーレンが隙間から顔を出す。
「そろそろ行こうかと思ってたところ。どうかした?」

 ナジュアムはそっけなく言ったが、内心ではかなり浮かれていた。我知らず彼のそばへ歩み寄っていたくらいには。寝ぼけまなこのオーレンも可愛い。
 それに、いつもの彼なら決して感じさせない、汗のにおいが少しした。
 本気で仕事に行けなくなる。

「そこまで見送ってもいいですか?」
「え? うーん」
 正直に言えば、そりゃ嬉しい。それと同時に、先ほどのつぶやきを聞かれたわけじゃないよなと、気まずくもあった。
「最近話もできないので」
 彼の声に力がなくて、喜びよりも心配が勝った。

「寝てなくていいの?」
「帰ったら寝なおします。そこの角まででもいいから、……迷惑ですか?」
「いや全然」

 小首をかしげて「迷惑ですか?」は反則だと思う。まして、こちらが全力で否定してしまったあと、嬉しそうに口元を緩めるなんて。これはもう絶対に断れない。
 それでも最後の悪あがきとして、着替えて部屋から出てきたオーレンに対し、ナジュアムは釘をさす。
「今日だけだよ」

 こら、しょぼんとしない。撤回したくなるだろうが。
 ナジュアムとしては自分の気持ちを押し殺してでも、彼に無理などさせたくないのだ。
 なんだか不思議な気分だった。オーレンは黙ったままついてくる。
 人と目が合えば、明るく挨拶を交わすくせに。

 ――話があるんじゃなかったのか。
 とはいえナジュアムも、あまり口を開く気にはなれなかった。朝からこうして二人で歩いているだけでも充分満たされる気がした。なんて、それはちょっと言い過ぎか。
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