149 / 506
Episode2 修司
55 あの日のままの部屋で
しおりを挟む
廊下の窓から見えるのは、やたらと近い距離にある灰色の壁だ。
照明が消えたままの閉塞感極まりない彼女の部屋は、薄暗く陰湿な空気に包まれていた。ついこの間来たばかりだというのに、別の部屋かと思ってしまうくらいだ。
彼女の正体を知った上で改めてここへ来ると、『アジト』や『隠れ家』という言葉がよく似合うなと思う。
「もう私は退去したことになってるけど、大家さんに事情を話して居させてもらってるの」
「大家さん、って。その人も貴女の仲間なんですか?」
「仲間って程でもないけど、そういう事よ。他の住人は関係ないけどね」
入口でもたつく修司に、律は「早く」と入室を急かした。
修司は言われるまま中へ入り扉を閉める。テーブルの横で膝を突き合わせ、修司は背負ったリュックを横に置いた。
「そんなもの付けてここに来るなんて、どういうつもり?」
律の視線が修司の左手に落ちる。彼女はあの日のままなのに、ほんわかと笑んでいた丸い瞳が鋭く厳しい表情を含ませた。
「どうしてあの三人に俺を迎えに来させたんですか?」
ハンバーガー屋の前で待ち構えていたのが律だったら、自分の運命に迷いが出たかもしれない。あんな映画に出てくる悪役のような男たちだったからこそ、受け入れることができなかったのだ。
けれど律は冷めた表情で「上の命令だからよ」と答える。
「指示されたから向かわせただけよ。私の名前を出せば、貴方は来てくれると思ったんだけど」
律の寂しげな表情に惹かれそうになるが、修司は曖昧な自分を押し殺した。
「律さんはホルスなんですか?」
「そうよ。繋がってるっていうのが正しいのかもしれないけど」
もしもの望みを、彼女の言葉がばっさりと断ち切った。
「何でホルスなんですか。貴女はそこで何がしたいんですか? 『大晦日の白雪』のような暴走はさせちゃいけないって言ったじゃないですか。俺には理解できません。慰霊塔の前で何を思って手を合わせたんですか? 犠牲者をいい気味だとでも思ってるんですか?」
修司が次々と湧いてくる疑問を整理できないまま吐き出すと、律は「そうじゃない」と首を振る。
「違うわ。貴方こそ、分かったつもりで正義ぶらないで。ホルスは悪の組織なんかじゃないのよ。能力者が国の犬に成り下がるこの現況を変えようとしているだけなの」
「俺は律さんに会って、一緒の時間が心地良いって思ったんです。バスクのままでもいいかなって思えたのに。ホルスのやる事が今の能力者の立ち位置を覆せると思っているんですか?」
「思ってるわ。それに、信念を持って立ち上がらなければ、何も変えることはできないのよ。キーダーは平和な現況に甘んじているだけじゃない。いつかきっと身を亡ぼすわ」
右手を斜めに払い、律はキーダーを否定する。
有事が起きたら、キーダーは国民の壁にならねばならない。そして、彼女のようなバスクを取り締まる事も仕事だ。
修司は左手の銀環を掴んで、律を睨む。
「それで俺を仲間にって思ったんですか? それも上の指示なんですか? 貴女はいつもスマホを持ってましたよね。あれはホルスとのやり取りだったんですね。俺にやさしくしてくれたのは、その為のパフォーマンスだったんですか?」
「仲間を増やすのは私の仕事。けど、修司君と一緒に居たいって言ったのは本当よ」
アルガスとホルス。根本的な考え方の相違がこの対立を生み出している。
バスクとして生活していると、確かにホルス寄りの考えになるのは事実だ。修司も最近まではキーダーと国の関係に納得できずにいた。けれど平野が選んだのはキーダーで、実際修司もアルガスでキーダーと過ごし、自分が思い描いていたキーダーよりもずっと人間らしいと思ってしまった。
修司は浮いた腰を床に落とし、腹の前で手を組み合わせる。
「彰人さんは、ここには来てないんですか?」
「山に行った時以来、会ってないわ。勘の良い人だから、全部分かっていたのかもしれないわね」
沈黙が起きて、修司は細く息を吐き出した。
あの人は何だったんだろう。けれど、ホルスを否定していた彼がその事実を知ってしまったのなら、至極納得のいく行動だと思える。
夕方の空に部屋が一段と暗くなり、律は天井からぶら下がる蛍光灯の紐を引いた。電気が一度瞬いて、部屋がオレンジ色の明かりに包まれる。
「元々キーダーを警戒して消してただけだし。修司くんがここに居るなら、もう関係ないわね」
突然記憶のままの部屋が現れる。家具もカーテンも手製の棚に乗ったフォトフレームも、全てがあの日のままだった。テーブルの上には花柄に装飾された彼女のスマートフォンが置かれている。
律はキッチンへ向かい、水を入れたやかんを火にかけた。カップにドリップコーヒーのフィルターをセットすると、くるりと体を回してシンクの淵に腰を預ける。
「十五歳の時に日本に来て、独りぼっちだった私に声を掛けてくれたのが高橋洋よ」
そんな言葉を皮切りに、律はフォトフレームに写る男の話を始めた。
アルガスで聞いた話では、彼女の元恋人でホルスの幹部だったらしい。名前を聞いたのは初めてだ。
「コーヒー淹れるのも久しぶりね」と出来立てのコーヒーをテーブルに並べ、律は反対側に座って話を続ける。
それは、彼女の口から語られた、彼女の過去だった。
照明が消えたままの閉塞感極まりない彼女の部屋は、薄暗く陰湿な空気に包まれていた。ついこの間来たばかりだというのに、別の部屋かと思ってしまうくらいだ。
彼女の正体を知った上で改めてここへ来ると、『アジト』や『隠れ家』という言葉がよく似合うなと思う。
「もう私は退去したことになってるけど、大家さんに事情を話して居させてもらってるの」
「大家さん、って。その人も貴女の仲間なんですか?」
「仲間って程でもないけど、そういう事よ。他の住人は関係ないけどね」
入口でもたつく修司に、律は「早く」と入室を急かした。
修司は言われるまま中へ入り扉を閉める。テーブルの横で膝を突き合わせ、修司は背負ったリュックを横に置いた。
「そんなもの付けてここに来るなんて、どういうつもり?」
律の視線が修司の左手に落ちる。彼女はあの日のままなのに、ほんわかと笑んでいた丸い瞳が鋭く厳しい表情を含ませた。
「どうしてあの三人に俺を迎えに来させたんですか?」
ハンバーガー屋の前で待ち構えていたのが律だったら、自分の運命に迷いが出たかもしれない。あんな映画に出てくる悪役のような男たちだったからこそ、受け入れることができなかったのだ。
けれど律は冷めた表情で「上の命令だからよ」と答える。
「指示されたから向かわせただけよ。私の名前を出せば、貴方は来てくれると思ったんだけど」
律の寂しげな表情に惹かれそうになるが、修司は曖昧な自分を押し殺した。
「律さんはホルスなんですか?」
「そうよ。繋がってるっていうのが正しいのかもしれないけど」
もしもの望みを、彼女の言葉がばっさりと断ち切った。
「何でホルスなんですか。貴女はそこで何がしたいんですか? 『大晦日の白雪』のような暴走はさせちゃいけないって言ったじゃないですか。俺には理解できません。慰霊塔の前で何を思って手を合わせたんですか? 犠牲者をいい気味だとでも思ってるんですか?」
修司が次々と湧いてくる疑問を整理できないまま吐き出すと、律は「そうじゃない」と首を振る。
「違うわ。貴方こそ、分かったつもりで正義ぶらないで。ホルスは悪の組織なんかじゃないのよ。能力者が国の犬に成り下がるこの現況を変えようとしているだけなの」
「俺は律さんに会って、一緒の時間が心地良いって思ったんです。バスクのままでもいいかなって思えたのに。ホルスのやる事が今の能力者の立ち位置を覆せると思っているんですか?」
「思ってるわ。それに、信念を持って立ち上がらなければ、何も変えることはできないのよ。キーダーは平和な現況に甘んじているだけじゃない。いつかきっと身を亡ぼすわ」
右手を斜めに払い、律はキーダーを否定する。
有事が起きたら、キーダーは国民の壁にならねばならない。そして、彼女のようなバスクを取り締まる事も仕事だ。
修司は左手の銀環を掴んで、律を睨む。
「それで俺を仲間にって思ったんですか? それも上の指示なんですか? 貴女はいつもスマホを持ってましたよね。あれはホルスとのやり取りだったんですね。俺にやさしくしてくれたのは、その為のパフォーマンスだったんですか?」
「仲間を増やすのは私の仕事。けど、修司君と一緒に居たいって言ったのは本当よ」
アルガスとホルス。根本的な考え方の相違がこの対立を生み出している。
バスクとして生活していると、確かにホルス寄りの考えになるのは事実だ。修司も最近まではキーダーと国の関係に納得できずにいた。けれど平野が選んだのはキーダーで、実際修司もアルガスでキーダーと過ごし、自分が思い描いていたキーダーよりもずっと人間らしいと思ってしまった。
修司は浮いた腰を床に落とし、腹の前で手を組み合わせる。
「彰人さんは、ここには来てないんですか?」
「山に行った時以来、会ってないわ。勘の良い人だから、全部分かっていたのかもしれないわね」
沈黙が起きて、修司は細く息を吐き出した。
あの人は何だったんだろう。けれど、ホルスを否定していた彼がその事実を知ってしまったのなら、至極納得のいく行動だと思える。
夕方の空に部屋が一段と暗くなり、律は天井からぶら下がる蛍光灯の紐を引いた。電気が一度瞬いて、部屋がオレンジ色の明かりに包まれる。
「元々キーダーを警戒して消してただけだし。修司くんがここに居るなら、もう関係ないわね」
突然記憶のままの部屋が現れる。家具もカーテンも手製の棚に乗ったフォトフレームも、全てがあの日のままだった。テーブルの上には花柄に装飾された彼女のスマートフォンが置かれている。
律はキッチンへ向かい、水を入れたやかんを火にかけた。カップにドリップコーヒーのフィルターをセットすると、くるりと体を回してシンクの淵に腰を預ける。
「十五歳の時に日本に来て、独りぼっちだった私に声を掛けてくれたのが高橋洋よ」
そんな言葉を皮切りに、律はフォトフレームに写る男の話を始めた。
アルガスで聞いた話では、彼女の元恋人でホルスの幹部だったらしい。名前を聞いたのは初めてだ。
「コーヒー淹れるのも久しぶりね」と出来立てのコーヒーをテーブルに並べ、律は反対側に座って話を続ける。
それは、彼女の口から語られた、彼女の過去だった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
3
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる