おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

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 遥人といられる時間のタイムリミットが近づいてきているのを隆則はなんとなく感じていた。

 近頃は大学が忙しいと食事はすべて先に作って冷蔵庫に入れるようになっているし、帰ってくるのも遅い。しかもあんなに纏わりついていたのに隆則に近づこうともしなくなった。それどころか、目が合っても慌てて反らしては何か言いたげな様子で、でも何も言わない。

「言えないんだろうな」

 仕事のない日に遥人が家にいないため、隆則は何をしていいのかわからないままリビングのソファに腰かけ、テレビを流しながら賑やかな笑い声をBGMにぼんやりと自分がしなければならないことを整理していた。いつもなら必ず隣にある温もりがないのが少しだけ寂しい。

「まずは何といっても住むところだよな」

 遥人が切り出せないのは絶対に生活環境を失ってしまう恐怖からだろう。あの女の子が実家に住んでいるなら転がり込むことはできないだろうし、試験が不合格の可能性もある。それを考えて踏ん切りがつけられないのだろう。

 けれど心の重心が相手に傾いたまま、隆則の相手をするのも誠実な遥人には難しいはずだ。

「言えばいいのに……」

 恋人がいるのに別に好きな人ができたなんて、まじめな彼は言えないだろう。だからといって言い出すのを待つのも辛かった。

 振られれば吹っ切れる。少しだけ心が辛くなって何日か泣けばまた前の生活に戻れる。もう誰とも恋をせず、一人で生きていくんだと、遥人と過ごした時間を思い出に過ごせばいい。

 いつか終わる恋だ。それは初めからわかっていた。

 年上なのにずっと受け身で遥人に流されてばかりだった自分を嫌悪してしまう。何もできない隆則が相手だから突き放すこともできないのだろう。

 むしろ、今日まで続いたことが不思議だ。もっと早くこの関係に疑問を抱いたって不思議じゃないし、突出した何かを持っているわけでもない隆則に飽きるのだって遅すぎるくらいだ。

 どうしたら遥人のためになるんだろう。ソファの上で膝を抱えながらぼんやりと考えた。

 きっと今、遥人は板挟みになって苦しんでいるはずだろう。だから目も合わせないし近づこうともしない。けれど彼の本音を聞くのも怖い。どっちを選べなんて選択肢を出せるほど隆則は自分に自信がなかった。現状のままなら互いに辛いだけで、側にいるのも苦痛になるかもしれない。

 苦しませてまで側にいて欲しいわけではない。

 心が離れてしまうのは織り込み済みなんだから気にしないで欲しいと告げて解放しなければ。

「あ、そうか。俺から言えばいいんだ」

 振られることに慣れ過ぎて、片思いに慣れ過ぎて思いつきもしなかった。

 恋を終わらせるのは相手に限らないということを。

 これ以上辛くならないうちに、自分から終わりにすればいいんだ。そうすれば心の痛みも昔のような辛さはないかもしれない。

 もしかしたら遥人も隆則がそれを言い出すのを待っているのかもしれない。あんなにも毎日のように「好きだ」と言っていた相手に興味をなくしたとは口にできず、だから距離を置こうとしているのだろう。

 それならこの関係を隆則が終わらせればすべて丸く収まる。また以前のように寂しくなればデリヘルボーイに電話をすればいいし、いつ終わるかわからない恋に怯えなくてもいい。

「ウィークリーマンションってどれくらいするんだろう」

 いや、遥人を追い出すのは可哀想だ。

 いくら家賃を払うから出て行けと言われても困ってしまうだろう。生活費は自分で稼いでいたと言っていた彼だ、これから就職活動が始まれば以前のようにバイトをしながらでは大変だろう。もし資格試験に落ちてしまったら余計に再度勉強する時間を奪いかねない。

「……俺が出ていけばいいんだ」

 就職するまでこの部屋にいてもらい、今までのように部屋を管理するためのバイト代を出してやれば問題ないだろう。それだけの貯金はあるし、今以上に仕事を増やせば収入面での心配はいらない。

「そうだ、俺が出ればいいんだ。なんでもっと早く思いつかなかったんだろう」

 隆則はテレビをつけっぱなしのまま早速部屋へと戻り、自分が開発に携わったサイトにアクセスし賃貸物件を探し始めた。

 どうせフリーランスで家から出ない生活だ、念のためクライアントが集中している渋谷へのアクセスがいい場所なら都内にこだわる必要もない。パソコンと服だけあれば生活できるだろう。エアコンが備え付けの物件ならありがたいが、なければ買えばいいことだ。

「へー、これだけ離れてれば家賃四万からあるんだ、これならウィークリーマンションよりも安い」

 生活圏が重ならないほど遠くへ行けば遥人が女の子とデートしている場所に出くわすこともないだろう。一人何も考えず仕事にだけ没頭して彼が卒業するのを待ち、でるのと入れ替わりに戻ればいいだけだ。几帳面な遥人のことだ、部屋を汚すことはしないだろうし無茶な使い方はしないだろうから、安心して管理を任せられる。

「家具は最低限あればいいか……あ、この部屋のをそのまま持ち込めば生活できるか」

 どうせ自炊できないのだからキッチンなんてなくてもいいし、周囲に飲食店があれば助かる。そうなるとなるべく駅に近い方がいいのかもしれないと、どんどんと条件を絞り込んで物件を探していく。

 遥人が卒業するまでの間だ、築年数に拘らなければ安い物件はいくらでもあった。

 仕事の連絡だってメールか携帯があれば、少し遠方に引っ越したからと言って誰にも迷惑が掛からないだろう。

「あ、こことかいいかも。商店街が近くにあるしファミレスもコンビニもある」

 それだけあれば食べるのに困らないだろう。近くにコインランドリーもあれば便利かもしれないと、目を付けた物件の周囲を検索し始めた。

「あ、あるある。ここいいな。へぇ、食堂とかも多いからいいかも」

 ストリートビューで商店街の様子を確認して隆則はすっかりそこを気に入ってしまった。

 なによりも遥人の大学と家を挟んで反対側というのがいい。私鉄しか通ってないが、どうせ引きこもるのだから関係ないだろう。

「明日にでも見に行こう」

 ネットで問い合わせボタンを押し自分の情報を入力する。すぐに不動産の担当営業から電話が入り明日の内覧を希望すれば即答してきた。

「準備万端、後は持っていくものをリストアップして……あ、引っ越し前に終わらせる仕事早めにやっておけばいいか」

 少し直近の締め切りは三件で新規開発は一つしかない。まずはそれから取り掛かろうと仕様書をプリンターに打ち出す。すでに頭に入っている内容だが、重要な部分にラインを引き汎用の利くシステムになるようコマンドを打ち始めた。

「相変わらずサーシングの仕事は細かいな」

 社長が変わってから丁寧な仕様書が出てくるようになったのはいいが細かい指示が多い書類にいちゃもんを付けつつ、早速取り掛かる。あそこは多くのプログラマーを抱えているからベースさえ作り込めば後は優秀な社員たちがやってくれるだろう。コマンドが網羅された本を横に置きながら隆則は少しハイになりながら打ち続けた。

 変なアドレナリンが分泌している間に作業をしてしまおうとするのは、そのあとにやってくる寂しさや心の痛みを味わってしまえば仕事にならなくなるからだ。隆則の状況がどうであれ、締め切りにさえ間に合えば干渉されないのが気楽でいい。そう、どんなに辛くても悲しくても、仕事さえしていればそのうち忘れることができる。

(もうすぐ遥人と一緒にいられなくなるんだな)

 その覚悟はとっくにできているはずなのに、どうしても心が追い付かない。あまりにも優しくされ過ぎて心が溺れてしまっている。隆則の『初めて』を見つけては喜ぶ顔をどれほど見せてくれただろうか。不器用で言葉数が少ない自分が相手なのにいつも甘くかけてくる言葉の数々が心地よくて、こんなテンションでもなければすぐにでも「離れたくない」と思ってしまう。

「ダメだ、このままじゃダメなんだ」

 遥人のためにも、自分のためにも。

 むしろ彼と出会ったからこそ、会社を辞める決意ができたのだ。あのまま居続けていたら確実に毀れていただろう。過労死か自殺かの選択ししかなかったあの瞬間に第三の選択肢を得られたのは幸運だとしか言いようがない。

 今自分が生き、僅かでも幸福な時間を味わうことができたのは全部遥人のおかげなんだ。

 そんな彼をもう苦しめたくはない。

「でもどうやって切り出せばいいんだろう」

 面と向かって「嫌いになった」なんて口にできない。嘘でも彼を嫌う言葉をその耳に届けたくはないし、言いたくもない。

「えっと、別れる時に言う言葉っと」

 ネットで検索してみてもしっくりとくるものはなかった。

「無理むりムリ、言えるわけがない!」

 そんな事が言える人間ならあのバカ営業からくる仕事を最初から断るし死にそうにもならない。できないからこそ現状から逃げ出そうとしているのだ。

「そうだ、逃げればいいんだ。手紙書いて後はよろしくって感じなら遥人も困らない!」

 今日は冴えてるなとどんどんとコマンドを打ちこんでいきながら、これからのことをシミュレーションする。

 まずはなるべく顔を合わせないようにしよう。近頃帰りが遅いから顔を合わせないようにするのは簡単だ。仕事をするか帰ってくる前に寝るかすればいい。

 次に引っ越しだが、持っていく荷物は少ないから仕事部屋の物さえ持ち出せれば気付かれることはない。

「丸ごとお任せで頼めばいいか」

 大事な機械もあるし、梱包からなにから全部プロに任せればいい。

 後はこの仕事が終わったら手紙を書いて出ていけば終了だ。

「うん、完璧」

 とにかく明日物件を見に行くことを先決しよう。住むところが決まらなければ苦しいままなのだから。

 そしてまた一人になればいい。そのほうがずっと気が楽だ。そしてなんとなくだが出ていったならもうここへ戻って来ないような気もしていた。あまりにも遥人との思い出が多すぎて、一人で住むのが辛くなるのが目に見えていた。そして、もういない彼の存在を探しそうで甘やかされたことを思い出して苦しくなりそうだ。

「……遥人が出ていったらここ、売るか」

 一年にも満たない期間だったが、初めての恋に浮かれてしまったこの場所に思い入れが強くなってしまった。またここで一人で暮らすのはつらい。だからと言って新しい恋なんかできるはずもないし、こんな自分を好きになってくれる人もいないだろう。

「うん、それがいいな……」

 一年半後の売却も視野に入れておこう。

 今はただ仕事に集中するだけだと意識をモニターに向けひたすら打ち込んでいく。

(大丈夫、ちゃんとできるはずだ)

 ちゃんと別れる、だから遥人はあの子と幸せになって欲しい。

 次第に画面が歪んでいくのを何度も強く瞼を閉じて堪え、ひたすら続きを打ち続けていった。
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