おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

21

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――三年後――

「お先に失礼します」

 定時を迎え遥人はデスクの上を片付けると早々と挨拶をする。

 就職した一年目は習得科目が多く『業務補習所』に頻繁に通う関係で定時上がりする者も多いが、さすがに資格取得が目前の今は仕事の忙しさに比例して定時すぐに上がるのは上司だけとなっているが、全く気にせず遥人は帰ろうとした。

「なんだ、恋人の飯づくりまだ続けてるのか?」

 丁度戻ってきた同僚が感心したように遥人に声をかける。当然仕事を終わらせているからどこからもクレームは出てこない。社内では遥人が男の恋人と同棲し、彼氏に甲斐甲斐しく尽くしているのは有名だ。

「当然。俺が作ったもの以外食べさせたくないから」

「……お前の独占欲、きっついな相変わらず」

「そう言いながらお前だって嫁さんの飯が上手いって自慢してるじゃないか、共働きなのに。それと一緒だ」

「……違いない」

 外資系企業に勤めて良かったことがあるとすれば、マイノリティにも理解があり、それによって昇進の妨げにならない部分だ。恋人が同性ぐらいでは上司も誰も驚きはしないし、受け入れて当然という風土がある。

 きっと教授のことだからそのあたりも考慮してくれたのだろうと感謝しながら、そろそろ歳暮の時期だなと思い至る。毎年何かしら送るようにしているが、未だ感謝が尽きない。なにせもう一度隆則と一緒に過ごせるようになったのは教授のアドバイスのおかげなのだから。

(去年は高級カニ缶だったから、今年は生ガニにしようかな)

 いいものを教授宅に届けるために今晩はネットショッピングだ。資格取得者となる来年はもっとグレードの高いものにしよう。

 そんなことを考えながら家路へと急ぐ。

 乗り換え時間を含め一時間以内で帰れる距離だが、それでも毎日もっと短くなれと念を送ってしまう。

 一分でも一秒でも早く隆則に会いたくて、駅の改札を出ると速足になってしまう。毎日一緒にいるのにそれでもこんなにも会いたくなるのは未だ隆則に心を奪われているからだ。

「うちもそろそろリモートワーク開始したらいいのに」

 そんな愚痴が口を突くくらい離れていたくない。けれどこんな気持ちを悟られたくなくて、エレベータに乗る頃には汗を拭き息を整え、まるで急いていなかった風を装うのは、男としてのプライドが強くなってきたせいだ。

(隆則さんもきっとこんな気持ちなんだろうな)

 むしろもう一度関係を始めてからその様子は顕著だ。年下の遥人に甘えてはいけないと急に色々やり始めては失敗している。今まで料理なんかしたことがないのに、遥人の帰る時間に合わせて料理をしようとして火事を起こしかけたこともあった。当然ながら料理禁止令を出し、掃除機を壊すからと掃除禁止令も発動して家事は遥人の担当に戻したが、それでも年上のプライドだろう、生活費は一切受け取ってもらえていない。自分が遥人を支えているのだという矜持を傷つけないようにしながら、ゆっくりゆっくりと互いに妥協点を模索している段階だ。

 本音を言えば甘えて欲しいのだが、不器用な隆則は一度こうだと決めるとなかなか頑固な面がある。

(だから本音が知りたくて無茶なセックスをするんだと、いい加減気付いてくれないかな)

 性欲が以前に比べて落ちているとはいえ、感じてる隆則の顔を見れば何度でも抱きたくなるのは変わらない。

(今日あたり仕事終わるかな)

 週末だ、もし終わっていたなら今夜は久しぶりに隆則をたっぷり味わおう。なんせまたしてもデスマッチだと変な仕事を引き受けては部屋に篭ってる。

 情に篤い隆則はサラリーマン時代の知己からの仕事を断れないようで、無茶なスケジュールと分かっていても引き受けてしまい平気で遥人を放置する。何日もまともに寝食をしないその後ろ姿にこちらがどう思うか少しは理解して欲しいところだ。

 心を落ち着かせながらドアを開けキッチンへと向かう。

 相変わらず部屋から出てきた気配がない隆則のために身体が温まる食事を作ろうと、着替えるのももどかしくコートとスーツをソファに投げ早速調理にかかる。週末に作り置きしていた常備菜をアレンジしながら手早く三品作り、家を出る前に予約したご飯が炊きあがっているのを確認する。

「隆則さんはおじやが大好きっと」

 本当は粥のように柔らかいものを用意したいが、隆則は粥よりもおじやの味付けの方が好きなようで、とにかく肉を付けることを目標としている今、好きなものを最優先に準備している。以前に比べて食が進むようになったが、それでもふくよかとは程遠い身体がまた痩せているのを想像して、どうにか精の付くものをと彼の箸の進みを優先させる。

 ご飯を洗って煮立った汁の中に入れていく。溶き卵を投入して混ぜてから小口ねぎをまぶして完成だ。

「これで良しっと」

 完成させてから隆則の部屋のドアの前に立つ。

 この扉には軽いトラウマがある。開けてまた何もない空間だったらといつも手が震えるのだが、未だあの日の出来事を恐怖に思っているなど隆則に知られたくなくてノブを強く掴んでから自分を落ち着かせるために何度も深い呼吸を繰り返す。

(大丈夫、もういなくなるなんてないから)

 思いながらも、扉を開く瞬間はいつも怯えてしまうのを止められない。隆則がいなくなった間、毎日のように開いてはあれが現実なのか夢なのかを確かめて絶望に襲われた。二度と会えなくなるのではとも考えた。心配で不安で何度も胸が締め付けられた。

(あの人は自分から戻ってきたから大丈夫だ)

 戻ってきてから三年、一度も彼がいなくなったことはないし、これからもない。そうならないために気持ちを繋げてきたのだ。

(だから、大丈夫)

 ノブを回して音を立てないように開き、薄暗い部屋の中でぼんやりと浮き上がる画面の前の椅子に座る小さな頭を確かめて込めていた力を抜いた。

 一度閉じてからノックしてもう一度開く。

「……隆則さん、ご飯できましたよ」

「あっもうそんな時間?」

 慌てて顔を上げた隆則は変わらず目の下にクマがくっきりと住みつき今にも死にそうな顔をしている。

「仕事、終わりそうですか?」

「うん……あとちょっとで終わる。……いつもありがとう」

 小さな謝辞に勝手に口角が上がる。

「どういたしまして。おじやが冷める前に来てくださいね」

「おじやっ! 分かった、すぐに終わらせる」

 こんな当たり前なやり取りすら幸せに感じる。二人でいられる時間がずっと続きますようにと祈りながら、隆則が仕事をしている間にと投げた服を片付け部屋着に替える。そして仕事部屋から出てきた隆則と一緒に食事だ。どうやら早く仕事を終わらせて遥人のためにご飯を作ろうと思っていたようで恨み言を並べているが、遥人は笑顔で聞きながら「その前に帰って来られて良かった」とこっそり安堵する。どうしても遥人に何かしたいらしいが、帰ってきたら家が火事になってるなんてシャレにならない。火事で家を追われるのは一度で充分だ。

「もうすぐ年末年始だけど、今年はどうするんだ」

 猫舌の隆則がフーフーと掬ったおじやに息を吹きかけながらすぐに口に含んで「あちっ」と匙を戻した。食べるのまで不器用で、つい「あーん」とさせたくなる。やったら確実に拒否されるだろうが。

 ここに住むようになってから一度も正月に実家に戻っていない。実家へのあいさつよりも隆則との姫はじめを重視してしまい、疎かにしてあっという間に五年だ。

「そうですね……今年は帰ろうと思ってます」

「ぁ……そうか……。うん、そうだな」

 肯定しながら泣きそうな顔になっているのを自覚しているのだろうか。

(無理して平気なふりしちゃって……本当に可愛いな)

 今年はあることを計画している。それを伝えたら今にも涙を滲ませようとしているこの人はどんな表情になるだろう。

(喜んでくれればいいんだけど、まぁ無理だな)

「新年のあいさつと一緒に、隆則さんのことを話してこようと思って。……なので、一緒に行きませんか?」

「…………へ?」

 言葉が頭に届いたのだろう、泣きそうに歪んだ顔が惚け、次第に真っ赤になっていく。

「おっおまっ……え? 何言いだすんだ?」

「だからね、まもなく公認会計士になる報告と一緒に、今まで支えてくれたのは隆則さんだって、恋人だって紹介しようと思って。だから一緒に行きましょう」

「むりっ! 絶対無理だから!」

「いいじゃないですか。うちの親どうせ気にしませんよ、息子六人もいるんですから一人ぐらいホモになったからと言って文句は出ませんから安心してください」

「いや……そういう話じゃなくて……君のご両親に怒られたら……」

「怒りませんって」

 色々と考え始めたタイミングを狙って、自分のおじやを乗せた匙を口元に運んだ。

「あーん」

 集中してしまった脳みそに現状の映像は映されていないのか、ぼんやりしたまま口を開ける隆則におじやを流し込む。

(これは楽しいかも)

 いかにも甲斐甲斐しく世話をしているさまが気に入ってこれから隆則の仕事明けの楽しみにしてしまいそうだ。

「これから先も一緒にいたいっていう俺なりのけじめです。親公認なら隆則さん、もう不安にならないでしょう」

 隆則が、ではない。本当は自分が不安にならないための手段だ。二人だけで完結してしまう関係に家族を巻き込むことで、まじめな隆則を逃さないという姑息な方法である。認められることによって彼に少しでも愛されているという実感を与えたいという気持ちも多大に含まれている。いつも遥人のためと家族に気を回して一人で張っていた肩の力を抜いてもらいたいのだ。家事だって慣れている方がやればいいと思って欲しい。

 実はすでに家族への根回しは終わっており、反対されるどころか両親は今までずっと支えてくれたことや仕送りできるよう今も助けてくれていることに感謝しているし、弟たちは『兄貴に束縛されて可哀そう……絶対口やかましくあーだこーだ言われてるに違いない』と意味不明な心配までしている。反抗期真っ盛りの末の弟に至っては『出かける場所だけじゃなくて、誰に会っていつ帰ってくるかまで管理されてそうで可哀そう』と生意気なことを口にしていて、当たらずしも遠からずな感想にへこんでいる。

「隆則さんとこれからも一緒にいたい意思表明です。まぁ気持ちとしてはプロポーズなんですけどね」

 軽く言った言葉を果たして疲労しきった隆則の頭は処理してくれるだろうか。

「あぁ、プロポーズか……そうか…………え?」

 男同士で結婚はできないが、三年も恋人として一緒に住んでいたら妥当な年数だろう。保証は何もないからこそ、周囲に認めてもらうしかない。

「でもっあの……遥人の立場が……」

「会社ではとっくに公表してますし、マイノリティだからって言いがかりをつけられる職場じゃありません。そんなことしたら本社から人権問題でどやされます」

 遥人が勤めているのが外資系の企業だということを思い出したのか、肩から力を抜いた隆則はそれでも不安を隠せないようだ。

「ねぇ隆則さん。恋人でも夫婦でも、年がどれだけ離れてても立場は対等なんですよ。自分の方が年上だからって何でもかんでも背負い込まないでください」

 セックスの時くらいどこが感じるとか言ったっておかしくはないのだ。その延長で、どうして欲しいのか何をしたいのか、気軽に口にしていいのだと必死に伝える。

「……分かってる、そんなこと。でも……」

「でも、何ですか?」

 隆則が自分の言葉を紡ぐまでひたすら待つ。

「……俺の方が年上だし……遥人に何かしてやりたいし……」

「昔、ゼミの教授が言われたんです。恋愛はバランスシートと同じだって」

「バランスシートって貸借対照表か?」

「はい。右と左が同じじゃなきゃ成立しないって。恋愛も同じで『する』ばかりじゃなくてちゃんと『される』が同じくらいじゃないと成立しないそうです。俺は隆則さんにたくさんしてもらいました。お金の面でもそうですけど、勉強できる環境をずっと維持してもらって、まだその恩を返していない。だからこそ返させて欲しいです」

 今まで言葉少なに愛された分、愛したいと思ってつい自分の欲望を押し付けてしまいがちだが、昔に比べて僅かなりでも隆則の気持ちを優先したいと思っている。

 彼が不安ならそれを拭ってあげたい。

 少しでも二人の関係に心配があるなら取り払ってあげたい。

 その第一段階として家族に紹介したいのだ。

 顔を真っ赤にする隆則は今何を考えているのだろうか。

 思っていることを素直に伝えてくれるようになるまで、急がないで付き合うつもりだ。

 それだけの時間はたっぷりあると遥人は思っている。

 返事は急がない。

「挨拶だけです。終わったらすぐ帰るので小一時間もいないと思うから、行きましょう。それで帰ったら毎年恒例の……ね。あ、それともしちゃってからの方が緊張しないかも」

 猶予を与えるために、ほんの少しだけ話題を反らす。そうしても隆則のことだ、この件に真剣に向き合ってくれるだろう。その間の時間はすべて自分に使ってくれるのだと思うと胸が熱くなる。

「? ……だめっ、絶対ダメ!」

 同じことを頭に浮かべているのがまるわかりの真っ赤な顔をすぐにでも食べつくしたくなる。今日は幸いに金曜日だ。隆則の納品も週明けでも間に合うはずだから、このまま食事を済ませたらすぐにでも風呂場に引きずり込もう。相変わらず勝手に隆則のスケジュールを把握している遥人である。

「隆則さん、可愛い顔して煽らないでくださいね。そんなに姫はじめ楽しみなら、予行練習します?」

「しないっ!」

「嘘、大好きなくせに」

「ちがうっ!」

「ご飯食べたらお風呂行きましょうね。その前にいっぱい食べてください。お正月までに少しは太りましょう」

 他愛ない話を普通にできる今がとてつもなく幸せなのだと隆則は感じているだろうか。一緒に食事を摂りながら話すだけで胸が温かくなって、可愛い反応を返されるだけで鼓動が高鳴ってしまう。些細な日常が愛おしくて、こんな毎日がこれから先も続くことをひたすら神に祈る。

 未だ真っ赤になっている愛おしい人の頬を撫でて笑った。

「早く食べてください。そのあとの時間、俺にください」

 昨日よりも今日、今日よりも明日、愛おしさが増すのを感じながら一日一日を手をつないで生きていきたいと願う。
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