おじさんの恋

椎名サクラ

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番外編

僕の大好きな不器用な人1

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 仕事終わりに掛けていた眼鏡をケースに収めると、パタンと蓋を閉じ鞄に入れて、いつものように帰り支度をする。いつものパターンであるが、その日に限って出先からの直帰となった。先輩公認会計士についてクライアントを数社回り、会計状況を確認してから軽く雑談をするのも、監査法人として大事な仕事だ。

 公認会計士としての知識だけではなく仕事のノウハウを習得するための大事な時間であるのは分かっている。

 だからこそ自分を落ち着かせ笑顔で担当と話していたのだが、ビルを出た途端に遥人はるとの顔が険しくなった。それを見た先輩が嘆息する。

「もう帰れ。直帰にしたって俺から上長に伝えるから」

 人を殺しかねないと続けられすぐに取り繕ったが、もっと深く嘆息された。

「帰れ帰れ。どーせ飯の時間がどうのとか、恋人がキッチンに立ってるんじゃないかとか思ってんだろ、それで残業させたら呪い殺されそうだから、帰れ!」

「そこまではしませんよ」

「嘘だ、絶対にお前なら呪う」

 当たらずといえども遠からずな意見に素直に頭を下げ、素直に駅へと向かった。なにせ、遥人の年上の恋人は料理下手だ。今まで何度も遥人のために夕食を作ろうとして炭を作成してきている。そのたびにフライパンはダメになり家中焼け焦げた匂いが充満するのだが、何よりも最愛の彼が怪我をするのではないかと恐れている。

 それと何度も火事になりかかった過去がある。

 すでに一度、火事で住処を消失した経験のある遥人はそれを恐れていた。

 先輩の前では冷静にいつもの歩調で歩いたが、ビルを曲がった途端ダッシュした。なにせいつもの退社時刻を優に一時間回っている。

 早くしなければあの人が何をするか分かったもんじゃない。

 地下鉄を乗り継ぎ最寄り駅に着く。

 そこからもダッシュで走り、徒歩で十五分の距離にあるマンションに最速で到着しエレベータの中で呼吸を整えた。

「何事もありませんように」

 すぐに扉を開けられるように鍵を手に持ち、慌てて室内へと飛び込むと、灯りが点いていないことにホッとした。

 良かった、キッチンに立った形跡がない。

 ホッとして、いつものように恋人の仕事部屋の扉をそっと開けた。カタカタカタカタとキーボードを機関銃のように叩く音が鳴り響いている。敢えて声を掛けずに扉を閉め安堵を全身に行き渡らせた。

 良かった、本当に良かった!

 十五も年上の恋人である隆則たかのりの仕事がフリーのプログラマーで、仕事に夢中になると寝食すら忘れて集中することに感謝し、ジャケットを食卓の椅子に投げすぐに料理を開始する。

 秋になったばかりの少し涼しさを感じ始めた今の季節に合わせ、下ごしらえをした鮭を取り出す。グリルで焼き、その間に大葉を刻む。なすに肉を巻いて冷凍庫に放り込んだメインディッシュを炒めている間ににんじんとシメジの甘辛煮とカボチャの煮物を手早く作り、ワカメと豆腐の味噌汁を用意すれば完成だ。最後に鮭を解し大葉と一緒にご飯に混ぜて食卓に乗せる。

 残暑の名残ですっかり食欲を失った隆則に栄養を付けたくて、彼の好きなさっぱり味ではなく少しだけ濃いめの味付けにしたのは少しでも失った脂肪を取り戻すため。だが、こんなにしても、隆則の身体はあばらが浮いたまま太る気配がない。

 少しでも中肉と言われる体重になるよう様々な工夫を凝らすが、いつだって無茶な仕事が携えるタイトな締め切りとデスマーチが悉く邪魔をする。

 そんな仕事を引き受けなくても、二人で生活するだけの稼ぎを遥人だって得られるのだから無理しないでくれと懇願するが、年上の恋人は頷きはしない。

 そろそろ本気で過労死する前に辞めさせねばと真剣に考えてしまう。

 ダイニングテーブルの上に綺麗に料理を並べてから隆則の仕事部屋の扉を叩いた。

「隆則さん、ご飯ですよ」

 声を掛ければ、ハッとしたように顔を上げ、すぐに大きな掛け時計に目をやった。いつもよりも遅い時間に驚く顔が可愛くて、そのままキスをしてしまいたくなる。

「ごめん、気付かなかった」

「俺も今日は帰りが遅くなってこんな時間になってしまいました。切りが良かったら食べませんか?」

 出来たてのご飯の匂いに反応して、隆則の正直な胃袋が勢いよく返事をしてくれた。

「あっ!」

 恥ずかしいのかすぐにお腹を押さえて顔を真っ赤にする。その様は十五も年上に見えず、一層可愛く思ってしまう。僅かな瑕疵でさえ恥ずかしく思うようだ。朝からずっと仕事をして飲まず食わずでいたのだから腹が減って当たり前だと開き直れないところに、恥じらいを含ませるとより愛おしさが増す。

「先にご飯にしましょう、隆則さんのお腹は限界みたいですから」

 笑って扉を閉めてから、味噌汁をよそう。

 湯気が立った料理が冷める前に慌てて席に着いた隆則は、丁寧に両手を合わせて「いただきます」と挨拶してから箸に手を伸ばした。
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