死ぬ前に君と。

maru1002

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第4話 連絡先と「また今度」

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第4話 連絡先と「また今度」

 仕事中に、誰かの顔を思い浮かべることなんて、これまでほとんどなかった。

 目の前の数字と書類とメール。
 それを淡々と処理していれば、一日は勝手に終わる。
 僕の社会人生活は、ずっとそういうものだった。

 なのに、その日は少し違った。

 ふとした瞬間に、コンビニの前のベンチと、
 そこで「冬馬」と呼んだ彼女の声が、何度も頭をよぎった。

 名前で呼ばれることが、こんなにも意識に残るとは思っていなかった。

「冬馬くん、これ確認お願い」

「あ、はい。……いえ、分かった。見ておきます」

 同僚に返事をしながら、自分の言葉に少し違和感を覚える。

 「はい」と言いかけて、「分かった」に言い直した。
 昨夜の会話の余韻が、まだどこかに残っているのかもしれない。

 仕事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 帰り道。
 足は自然と、あのコンビニへ向かっていた。

 誰かに会えると期待していたわけではない。
 ただ、いつもの店でいつものコーヒーを買うだけ──のつもりだった。

 自動ドアが開く。

 チャイムの音。
 蛍光灯の白い光。

 視線を右に向けると、コピー機の前に人影があった。

 フードもパーカーもない、薄いコート。
 髪をひとつに結んだ横顔。

 やはり、咲良だった。

「あ、来た」

 彼女は、まるで僕が来るのが分かっていたかのように、軽く手を振った。

「……待っていたんですか」

「うん。
 君、同じ時間に同じ道通りそうだな~って思って」

「発想が少し怖いですね」

「褒め言葉として受け取っとく」

 コピー機の上には、昨日のような写真ではなく、
 手書きのメモや印刷した紙片が並んでいる。

「今日は遺影選びじゃないんですか」

「もうあれは仮決定したよ。
 あとは“生きてる顔”を、もう少し増やしてから本決定」

 さらりと口にされる“生きてる顔”という言い方に、
 言葉を返すタイミングを少しだけ失う。

「でね、今日は二つ目いこうかなって」

「二つ目、ですか」

「“死ぬ前に君と”リスト、第二弾」

 咲良はノートを取り出し、表紙をぱたんと開く。

 手書きのタイトル──
 『死ぬ前にやりたいことリスト』。

 その文字を見るたび、胸のどこかがわずかにざわつく。

「元々はさ、“誰かと連絡先交換する”ってだけだったんだけど」

 咲良は新しいページを開き、ペンを走らせた。

「こうしよ」

 ノートをこちらに傾ける。

 ──2.君と連絡先を交換する。
 ──3.誰かに“また今度”って普通に言う。

「……一つ増えましたよね」

「セットだから。
 連絡先だけ交換しても、使わなかったら意味ないでしょ?
 だから、“また今度”ってちゃんと言える相手がほしかったの」

 “また今度”。

 よく聞く言葉のはずなのに、
 自分の口から出したことは、あまりない。

 約束を曖昧に先延ばしにするような、
 そんな印象があって、あまり使いたくなかった。

「それを、僕にやらせるつもりですか」

「うん。
 君、そういうの守りそうだし。
 “また今度”って言ったら、本当にまた今度くれそう」

「信用の仕方が少しおかしい気がします」

「いいの。私が得する方向に使うから」

 咲良はスマホを取り出した。

「じゃ、交換しよ。
 LINEでもなんでもいいけど」

「……分かりました」

 QRコードを出し合い、読み込む。
 操作は簡単なのに、指先が少しだけ汗ばむ。

 友人が全くいないわけではない。
 それでも、“自分から”誰かと連絡先を交換することは、多くなかった。

「冬馬、アイコンそれ?」

 画面に表示された僕のアカウントを見て、咲良が笑う。

「何か問題ありますか」

「問題っていうか……なんか、履歴書の証明写真みたい」

「本人確認ができれば十分でしょう」

「いやいや、“死ぬ前に君と”付き合ってくれる人のアイコンがそれって、ちょっと渋すぎない?」

「遺影を選んだ人に言われたくはないですね」

「それもそうかも」

 咲良はくすっと笑って、今度は自分の画面をこちらに向ける。

 咲良のアイコンは、逆光気味の空の写真だった。
 そこに、小さく人の後ろ姿が映っている。

「これ、咲良なんですか」

「うん。
 自撮りアイコンって、なんか照れるじゃん。
 後ろ姿くらいがちょうどいい」

「らしい気はしますね」

「でしょ?」

 交換が完了したことを示す通知が、画面に表示される。

 ──“咲良”が友だちに追加されました。

 それだけの文言なのに、
 自分の生活のどこかに、小さな異物が混じったような気がした。

「はい、これで二つ目達成」

「ずいぶんあっさりしてますね」

「連絡先交換なんてそんなもんでしょ。
 本番は三つ目、“また今度”のほうだから」

 咲良はノートの「3」の行を指でとんとんと叩く。

「今日のところは、ここまで。
 次会う約束を、ちゃんと言ってほしいの」

「次……ですか」

 言葉が少しだけ喉につかえる。

 “また今度”。

 軽く使えば便利な社交辞令にもなるし、
 重く使えば、それなりの覚悟を含んだ言葉にもなりうる。

「冬馬から言って」

「僕から、ですか」

「うん。
 私から“また今度ね”って言うのは簡単だから。
 君の口から聞きたい」

 彼女はいつもの調子でふざけたように見せながら、
 目だけは、真っ直ぐだった。

 少しだけ考え、息をひとつ吐く。

「……じゃあ、その。
 また今度、どこかでコーヒーでも飲みましょう」

 言ってから、少しだけ可笑しくなる。

 やっていることは、いつもとほとんど変わらないのに、
 わざわざ言葉にするのは、妙にこそばゆかった。

「うん、それいいね」

 咲良は、満足そうに目を細める。

「“また今度、どこかでコーヒーでも”。
 ちゃんと覚えとく」

「忘れてもらって構いませんよ」

「忘れないよ。
 忘れたくても忘れられないほうのやつだから」

 ノートの三つ目に、小さくチェックがつけられる。

 ──3.誰かに“また今度”って普通に言う。✔

「これで、二つ進んだ」

「カウントの仕方が雑ですね」

「いいの。
 大事なのは、“君と進んだ”ってことだから」

 あまりにも何でもないように言うので、
 その重さを測ることができない。

「じゃ、今日は解散」

 咲良はノートを閉じ、スマホをポケットにしまった。

「帰ったら、ちゃんと“着いた”ってメッセージして」

「……子ども扱いしないでください」

「しないしない。
 でも“死ぬ前にやりたいこと”やってる身としては、
 途中で君に死なれるのは困るから」

「気をつけて帰りますよ」

「うん、それでよし」

 そう言って、咲良は先に店を出た。

 自動ドアが開き、夜の空気が流れ込む。
 彼女の後ろ姿が、街灯の下に少しだけ滲んだ。

 僕も会計を済ませ、コンビニを出る。

 すでに咲良の姿は見えない。
 さっきまで同じ店内にいたことさえ、夢のように感じられる。

 手の中のスマホを見下ろす。

 ──咲良。

 新しく増えた名前を指先でなぞりながら、
 小さく呟いた。

「……また今度、か」

 口の中で繰り返してみる。

 簡単な言葉のはずなのに、
 どこか重さを含んでいるように感じられた。

 * * *

 その夜。
 風呂から上がり、布団に入る前。

 机の上に置いていたスマホが震えた。

 ──咲良:ちゃんと家、着いた?

 “二つ目”の確認が、思ったより早く来た。

 しばらく画面を見つめてから、指を動かす。

 ──冬馬:着いた。
     そっちは。

 送信ボタンを押したあとで、少しだけ迷う。

 “そっちは”という言い方すら、
 自分にしては十分にくだけている気がした。

 すぐに、返事が来る。

 ──咲良:ちゃんと生きてるよ。
     君に“また今度”って言われたからね。

 画面の文字列を見ながら、
 胸の奥で何かが静かに動いた気がした。

 返信は、短く。

 ──冬馬:それなら、よかった。

 たったそれだけの文でも、
 送信ボタンを押すまでに、想像以上の時間がかかった。

 * * *

 同じ頃、咲良の部屋。

 机の上には、開かれたノートが置かれている。

 ──2.君と連絡先を交換する。✔
 ──3.誰かに“また今度”って普通に言う。✔

 その下に、今日の日付を書き、
 ゆっくりと言葉を綴っていく。

『コンビニで、君と連絡先を交換した。
 通知に“咲良が友だちに追加されました”って出たのを見て、
 少し笑いそうになった。

 君のスマホの中に、自分の名前が増えただけ。
 それだけのことなのに。

 “また今度”って言葉は、ずっと嫌いだった。
 期待させて、結局何も起きないときのための、便利な逃げ道みたいで。

 でも、君が言った“また今度”は、
 なぜかちゃんと来る気がした。

 そう思ってしまう自分が、一番危ない。

 だってそんなふうに思い始めたら、
 “死ぬ前に”って言い訳が、だんだん使えなくなっていく。

 ……でも今日は、とりあえずそれでいいことにする。
 これは、私だけの問題だから。』

 少しだけ迷ってから、もう一行足す。

『君には絶対、見せないページ。
 “また今度”って言わせてしまった私の、勝手な後始末。』

 ペンを置き、ノートを閉じる。

 枕元に置いたスマホの画面には、
 さっきまでやりとりしていたメッセージが残っている。

 ──冬馬:それなら、よかった。

「……よかった、ね」

 小さくつぶやき、
 咲良は目を閉じた。

 明日が本当に来る保証なんてどこにもない。
 それでも、「また今度」という言葉は、思った以上に甘かった。
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