死ぬ前に君と。

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第5話 夜の海へ

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第5話 夜の海へ

 「また今度」という言葉は、思っていた以上に、すぐ現実になった。

 その週の終わり。
 仕事を終えてロッカーで着替えているとき、ポケットの中でスマホが震えた。

 ──咲良:ねえ“今度”って、今日のことにしない?

 ロッカーの扉にもたれながら、画面を見下ろす。

 “今度”という言葉には、本来もっとぼんやりした未来のイメージがくっついているはずだ。
 少なくとも、三日後を指すものではないように思う。

 ──冬馬:急ですね。
     何かあるんですか。

 送ってすぐに、既読がつく。

 ──咲良:あるよ。
     死ぬ前に君と、夜の海。

 短い文面なのに、やけにはっきりとしたイメージが浮かんだ。

 夜の海。
 潮風。
 暗闇の中で光る波頭。

 ──冬馬:平日の夜にですか。
     終電、間に合います?

 ──咲良:ギリギリで間に合わせるのが楽しいんでしょ。
     怖いなら今度にしてもいいよ?

 怖い、という言葉に、少しだけ眉が動く。

 ──冬馬:怖くはないですよ。
     今日は、たまたま早く上がれましたし。

 ──咲良:お、じゃ決定。
     駅前の改札、二十一時。
     遅れたら置いてくからね、冬馬。

 置いていく、と言いながら、
 本当に一人で行ってしまうタイプではないことは、なんとなく分かっていた。

 それでも、約束の時間にはきっちり着いておくことにする。

 遅れて後悔するのは、嫌いだ。

 * * *

 駅の改札前は、思っていたより人が多かった。
 仕事帰りの人、酔ったサラリーマン、学生らしきグループ。

 その中で、ひとりだけ妙に“場違い”な空気をまとった人間が、壁にもたれかかって立っていた。

 咲良だった。

 黒いパーカーに、膝丈のスカート。
 いつものコートより、少しラフな格好だ。

「おー、時間ぴったり」

 僕を見つけると、咲良は軽く手を上げた。

「本当に来るとは思ってなかった」

「誘っておいて、その感想ですか」

「いやほら、“また今度”ってけっこう便利な逃げ道だからさ」

 そう言って笑う顔には、冗談と本音が半分ずつ混じっているように見えた。

「で、夜の海ってどこに行くんですか」

「ここから三駅先。終点のちょい手前。
 ローカル線のくせに、ちゃんと海まで連れてってくれる優秀な子」

「終電、大丈夫なんでしょうね」

「さっき調べた。
 ぎりぎり一個前には帰ってこられる」

「“ぎりぎり”が不安なんですが」

「大丈夫大丈夫。最悪の場合は、
 “夜の海から歩いて帰った”ってリストが一個増えるだけだから」

「それは、僕のリストには入ってません」

 そう返すと、咲良は楽しそうに目を細めた。

「君、ツッコミの精度上がってきたね」

「自覚はないです」

「そういうところ」

 改札を抜け、ホームへ向かう。

 夜の駅は、昼間よりも音が少ない。
 電車の走る音と、アナウンスと、誰かの足音。

 ベンチに座ると、咲良はノートを取り出した。

 この時間帯に、駅のホームで「死ぬ前にやりたいことリスト」を開く人間は、あまりいないだろう。

「今日はね、これ」

 ページをめくり、指で一行を押さえる。

 ──7.夜の海を見る。

「番号、思ったより奥のほうですね」

「前からやりたかったけど、一人で行ってもつまんないかなって後回しにしてた」

「一人旅も悪くないですよ」

「君はね。
 私は、隣で何か言ってくれる人がいたほうが、たぶん楽しい」

 電車がホームに入ってくる。
 冷たい風が、足元から吹き抜けた。

 車内は思ったより空いていた。
 向かい合う四人掛けの席に、二人並んで座る。

「で、夜の海の何がいいんですか」

 窓の外を眺めながら尋ねる。

「理由は二つ」

 咲良は、指を二本立てた。

「ひとつ目は、単純にきれいだから。
 昼の海より、余計なものが見えないでしょ。
 人も少ないし、空も街もごちゃごちゃしてない」

「それは、分かる気がします」

「ふたつ目はね」

 そこで一度言葉を切り、咲良は窓に映る自分の顔をちらりと見た。

「“ここから飛び込んだらどうなるかな”って、ちょっとだけ考えるにはちょうどいいから」

 その言い方があまりにも軽くて、
 一瞬だけ、返す言葉をなくした。

 視線を横に向けると、咲良は笑っていた。
 本当に冗談を言っているときと、同じ笑い方だった。

「そんな顔しないでよ、冬馬」

「どんな顔をしてました」

「“また踏切かよ”って顔」

「……間違ってはいないですね」

「でも今日は、見に行くだけだから。
 飛び込むとしたら、もうちょっと後」

「“後”がある前提なんですね」

「そりゃあるでしょ。
 リスト、まだこんなに残ってるんだから」

 ノートのページをぱらりとめくって見せる。

 枠だけ書かれてまだ何も埋まっていない行が、いくつも並んでいる。

 電車は街の明かりから少しずつ離れ、
 窓の外に暗闇が増えていく。

 しばらく沈黙が続いたあと、咲良がぽつりと言った。

「君さ、海とか来たことある?」

「ありますよ」

「誰と?」

「家族と。
 あとは、昔の知り合いと少し」

「へぇ。
 “友達”って言わないんだ」

 咲良は、わざとらしくそんなことを言う。

「正確な言葉を選んだだけです」

「ふーん」

 それ以上は、聞いてこなかった。

 それがありがたくて、少しだけ寂しかった。

 * * *

 終点の一つ手前の駅に着くと、海の匂いがした。

 潮の匂いは、街の匂いよりも正直で、苦手ではない。

 駅を出ると、小さな防波堤まで続く道がある。
 街灯は少なく、足元だけがぼんやりと照らされている。

「こっち」

 咲良が先に歩き出す。
 僕は半歩だけ遅れてついていく。

 冬の夜の海は、思っていた以上に静かだった。

 波の音だけが、規則正しく耳に届く。
 暗闇の向こうには何も見えないのに、
 その「何もない」という事実が、逆に重たく感じられる。

「おー、ちゃんと海だ」

 防波堤の上に立ち、咲良が両手を広げる。

「夜の海ってさ、なんか“終わり”って感じしない?」

「終わり、ですか」

「うん。
 全部真っ黒で、先も底も見えない感じ。
 あ、でも」

 咲良は、少しだけ首を傾げた。

「本当に終わりだったら、波の音もしないのかな」

「しないかもしれませんね」

「だよねぇ。
 だから、これくらいがちょうどいいのかも」

 風が強くなり、咲良の髪が揺れる。

 彼女は防波堤の縁に腰を下ろした。

「座ろ。飛ばされたくはないから」

「落ちたらシャレになりませんからね」

 距離をあけて横に座る。
 足元を波がかすめる音が、少しだけ近くなった。

「君さ」

 しばらく、二人で無言のまま海を眺めていたあとで、
 咲良が口を開いた。

「“死ぬ前に”って言われるの、どう思う?」

「どう、とは」

「私がさ、“死ぬ前に君と”って普通に言ってるの。
 君から見たら、どう感じる?」

 視線は海のほうを向いたままだった。

 軽口の延長のようにも見えたし、
 真面目な問いにも聞こえた。

「……正直に言っていいなら」

「うん」

「あまり、気持ちのいい言葉ではありませんね」

「だよね」

 咲良はあっさりと言った。

「でも、私は使いやすいんだよね、これ」

「逃げ道、ですか」

「そう。
 “死ぬ前に”って言っておけば、
 どんなわがままも、ちょっとだけ許される気がするじゃん」

「たしかに」

「でも、君といるときだけ、ちょっと困る」

「僕が、何か言いましたか」

「言ってないけど」

 咲良は、波打ち際を見つめたまま、少しだけ笑った。

「君、なんか“ちゃんと生きろ”って顔するから」

「……してませんよ」

「してる。
 踏切のときも、コンビニのときも、さっきの電車の中も」

 咲良は、ようやく僕のほうを見た。

 暗闇の中でも、その目だけはよく見えた。

「君にだけは、あんまり“死ぬ前に”って言いたくないのにさ。
 気づくと言ってるの、ちょっとムカつく」

「理不尽ですね」

「うん、理不尽。
 でも、そういう理不尽を許してくれる人じゃないと、
 たぶん私は一緒にいられない」

 少しのあいだ、波の音だけが二人のあいだを往復した。

「……面倒くさいですね」

 気づけば、口が勝手にそう言っていた。

 咲良は、嬉しそうに笑った。

「それさ、今日いちばん好き」

「褒め言葉には聞こえませんけど」

「褒めてるって。
 君みたいな人に“面倒くさい”って言われるの、
 なんかちゃんと見られてる感じするから」

 意味はよく分からなかった。

 けれど、その言い方は、なぜか悪い気はしなかった。

 空を見上げると、雲の切れ間から少しだけ星が見えた。

「……終電、そろそろじゃないですか」

「うん。そろそろ帰ろっか」

 立ち上がり、駅へ向かって歩き出す。

 振り返ると、暗い海が背中を押してくるように見えた。

 * * *

 その夜。
 いつものように、咲良のノートには新しい行が増えていた。

 ──7.夜の海を見る。✔

 その下に、細かい文字が並んでいく。

『夜の海は、思ったより静かだった。
 君が隣にいたからかもしれない。

 “死ぬ前に”って言うの、君はあまり好きじゃないらしい。
 たしかに、君の顔を見てると、少しだけ言いづらくなる。

 君はきっと、私が思っているより優しい。
 でもそれを、私に直接見せようとはしない。

 それくらいでいい。
 あんまりはっきり見せられたら、たぶん戻れなくなる。

 波の音を聞きながら、
 “終わり”のことより、“帰りの終電”のことを考えている自分がいた。

 それはきっと、いい兆候なんだろう。
 問題は、それが“いいこと”なのかどうか、私にもまだ分からないってこと。

 ……君には絶対、見せないページ。
 夜の海の分だけ、死ぬのが少し遠くなった話。』

 ペンを置き、咲良はノートを閉じた。

 窓の外は真っ暗で、海は見えない。
 それでも、耳の奥にはまだ、波の音が残っている気がした。

「……まだ、全部は終われないな」

 小さくそう呟いて、
 咲良は電気を消した。

 暗闇の中で、心臓の音だけが、しばらくはっきりと聞こえていた。
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